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1057号

 

NO.1057     Ryo Onishi              8/14/2016

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雑貨屋のひとり言

連日、猛暑が続いています。夜も熱帯夜です。みなさんはこの暑さとどう付き合っておられますでしょうか?お盆休みでショッピングセンターは家族連れでにぎわっています。レストランはどこも行列ができています。リニューアルされてから一番活気があります。これも猛暑のせいでしょうか?
リオオリンピックで日本選手が健闘し、連日メダルのニュースが入るので盛り上がっています。リオとはちょうど12時間の時差があり夜中に中継されるので寝不足になっている人が多いのではないでしょうか?≪R.O≫

 

 八月の記憶 (2)

――― 前号よりの続き ―――
戦争末期であった当時、私の記憶に残る戦意高揚のための軍歌のひとつは前述の学年名のもととなっていた『防人の歌』でした。

☆防人の歌(詞:杉江健司、曲:大村能章)

♪今日よりは 顧みなくて大君の
醜の御楯といでたつ我は
ああ防人の昔より
御民我等の雄心は
皇国の護り 富士が嶺の
千古の雪と 輝けり

もう一つが『比島決戦の歌』でした。この二つの軍歌は学校で教わったのか、周囲の年長者や大人から教わったのか、今では定かに記憶していませんが、よく歌っていました。

☆比島決戦の歌(詞:西条八十、曲:古関裕而)
♪決戦かがやく亜細亜の曙
 命惜しまぬ若櫻
いま咲き競ふフィリッピン
いざ来いニミッツ マッカーサー
出てくりゃ地獄へ  逆落とし

********************

日本が負けて戦争が終わったことは母親や周囲の大人から聞かされたはずですが、明確な記憶にありません。私の記憶に残っているのは数日後、夏休みの最中にもかかわらず生徒全員が登校を命じられ、クラスで担任の中島先生が「日本はいま続けている戦争をしばらくお休みすることになりました」という説明でした。私は“戦争にも夏休みがあるんだ”と思ったことを覚えています。

しかし、それから先がたいへんでした。休みが終わって学校が始まると教わることがこれまでと正反対になってしまったのです。習字の時間でもないのに墨をすらされ、先生の指示通り教科書を黒く塗りつぶし、中には教科書をそっくり取り上げられたりしました。流行だった軍歌を歌うことも禁じられ、子供心にも、これほど惑ったことはありませんでした。

無意識ながら子供心にも『自分たちは日本という国家に騙されていたんだ。国を信じてはいけないんだ』と実感せざるを得ませんでした。そしてGHQ(日本占領軍最高司令部) による戦後の民主化教育が始まったのでした。

今にして思えば、民主化教育とは、いかに日本という国が侵略国であり、悪い国であり、この国がけがれた歴史の中で周辺の国々に対し迷惑をかけてきたのか、という自虐史観の植え付けだったのです。

戦後すぐ、天皇・皇后両陛下による国内視察ご巡幸があり、私の疎開先の滋賀県の草津線をお召列車が通過しましたが、正直のところ当時の私にはあまり興味はなく、目の前の駅を通過したお召列車をお迎えすることもしませんでした。

これほどまでに私たちの心を襲ったショックは大きかったといえそうです。日本人がこれまで育んできた麗しい優れた文化や心の誇りを無理やり奪い取られた教育であったのでした。

疎開から戻った東京では、私も早速、ラジオから流れる“カムカム英語”を学び、ジープに乗ったG.I.(米兵)が近くを通ると“ギブミー・チョコレート”と叫びながら後を追ったりしました。

さらに、ララ物資(アジア救済連盟による民間の食料・衣料・薬品など生活必需物資)による食料などで飢えをしのぐなど、特に私の親の世代の苦労は並大抵ではなかったはずです。

日本は敗戦という歴史の大転換を経験し、私たちもその大きな波に飲み込まれたのです。あれから71年、私はわが家や学校や街を焼かれ、当時のクラスメイトはじめ多くの同胞を無差別に殺戮された相手国で現在、恩讐を乗りこえて生活しています。

過去の歴史は直視し、事実は事実として後生に正しく伝えると同時に、未来をどのように切り開くかを歴史から学ぶ必要があると痛感します。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


七十余年今日も猛暑の敗戦忌

永久欠番俺に昭和の八・一五

コシヒカリ昭和の飢えを知らぬ味

昭和生き抜いた顔寄るクラス会

昭和残照 老眼の視野に映え


( ニュースやぶにらみ )


「鉄棒の新技」

大逆転 −内村選手

「金」

カネと読むのが政治

キンと読むのが五輪

「3000本安打達成」

イチロー君はまだまだ続けてくださいよ −天皇陛下

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(437)「鎮魂と祈り」(その3)<玉音放送>

それは、遠い遠い昔(71年前)の話、ミンミンゼミが喧しく鳴き競う暑夏(8月15日)の朝9時ごろ、龍少年が近所の悪ガキどもと一緒に川遊びに出かけようとしたら、母親から
「昼までに帰って来なさい、とても大事な放送があるそうじゃから・・・」と言われた。
“とても大事な放送?もしかしたら大本営発表か?”小学3年生とはいえ、そこは“軍国少年”、ラジオから流れる大本営発表は毎日のように耳にしていた。ご年配の読者はご存じだろうが、“大本営”とは日清戦争から大東亜戦争(太平洋戦争)までの戦時中に設置された日本陸海軍の最高統帥機関であり、“大本営発表”とは大本営から発表される戦況報告のこと。最初は正確な情報だったが戦況が悪化して来ると次第に損害矮小化、戦果過大化が目立ち始め、国民に嘘の情報を流した、とされる放送である。しかし少年は(その当時は当然)そんなことは知らなかった。広島と長崎にピカドン(原子爆弾)が投下されたニュースは少年の耳にも入っていたので“また、どこかにピカドンが落とされたのかな?”というようなことを思い巡らせて(母親の言いつけ通り、と言うより本当は腹を空かして)昼前に家に戻った。

少年の家の居間には近所の人たち10数人が集まっていた。皆、ラジオの前に神妙に正座している。あとで知ったことだが当日は朝早くからラジオ(NHKラジオ第1放送)で「畏き辺り(天皇)におかせられましては、本日正午から重大発表を行なうので必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされていたそうだ。まだ、ちゃんとした事情がつかめなかった少年は(泳ぎ疲れた体を)母親にもたれかかるようにして足を放り出して座ったら、母親から足をキツくつねられたので、慌てて座り直した(正座のふりをした)のを覚えている。

正午の時報に続いて「ただ今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様、ご起立願います」ラジオの前の大人たちは全員が立ち上がり直立不動の姿勢をとった。少年もそれにならった。「天皇陛下におかせられましては、畏くも御自(おんみず)から大詔(たいしょう)を宣らせ給うことになりました。これより謹みて、玉音(ぎょくおん)をお送り申します」のアナウンスのあと『君が代』が流され、おもむろに『玉音放送』が始まった。大詔とは、天皇が広く国民に告げるお言葉。『玉音』とは、天皇の肉声のこと。お断りしておくが、少年が上記のアナウンスや『玉音放送』の流れを記憶していたり、以下に述べる『玉音放送』の内容(口語訳)などを知っていたはずはない、この原稿を書くに当たり急ぎ調べたものである。

恥ずかしながら、あれから71年も経つのに、翁は『玉音放送』の全文(原文)を知らなかった。知っていたのは「・・・朕ハ時運ノ趨ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス・・・」のくだりだけだった。その後のニュース映像や記録映像などで、このお言葉の背景映像に皇居前広場や靖国神社境内で砂利に額をこすりつけて泣き伏す市民たちの姿がよく見られる。先日、某テレビ局で放送した(昭和42年の)映画『日本のいちばん長い日』(大宅壮一原作、岡本喜八監督、三船敏郎ほか豪華俳優出演による大作)にも『玉音放送』のシーンでは皇居前広場で泣き崩れる市民の姿があった。 この映画は『玉音放送』の前夜、1部の陸軍将校と近衛師団参謀が中心となって『玉音放送』の録音盤を奪取し、降伏(大詔)を阻止するため、皇居や宮内省、首相官邸・私邸、NHKを襲撃するなどのクーデターを起こした。クーデターは未遂に終わり、首謀者たちは自殺・逮捕、予定通り15日正午の『玉音放送』までを描いたノンフィクション映画である。

さて、『玉音放送』の口語訳の(後半の)1部を抜粋しよう「・・・、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。これ以上、戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対しポツダム宣言(無条件降伏)を受託するよう下命するに至った理由なのである・・・前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたく、また忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである・・・誇るべき自国の不滅を確信し、復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ」――

我が家で『玉音放送』を聴いた大人たちの誰かが叫んだ「戦争は終わった!日本は負けたのだ!」そして皆、泣き崩れた。少年は、その光景を未だ鮮明に記憶している。今思うに、堪え難きを堪え忍び難きを忍んでこられたのは昭和天皇ご自身が一番だったのではあるまいか。昭和天皇のお苦しみはいかばかりだったか。そして昭和天皇は、不滅の日本国と誇るべき日本国民を信じて”ポツダム宣言“を受理、大詔のご英断を下された。それが日本再建の礎となったことは言うまでもない。8月15日の『終戦の日』に際し、戦没者の慰霊と感謝の誠を捧げると同時に、昭和天皇の在りし日を偲び、併せて今上天皇のご健勝と、皇室の弥栄(いやさか)を祈念申し上げたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

日本の伝統祭り

サウスベイに住んで長くなるのにGardenaの仏教会主催で行われる盆踊りのお祭りが盛大に行われている事など、最近まで知らなかった。
ダウンタウンのリトル東京あたりでは毎年、日系二世のお祭りやパレードが行われ七夕祭りや盆踊り大会にも、たくさんの人が集まってきて賑わう。
私も以前1度だけ行った事があるが、あまりに人が多くて駐車場も大変だったのを記憶している。日系人の人に聞くとベニス地域やオレンジカウンティ地域でもこういった日本のお祭りが仏教会を中心に行われているのだそうだ。
遠く日本を離れ日本の伝統文化を懐かしむ人が今より多かったのだろう。今は初めて日本から米国に移り住んだ一世(パイオニア)は、殆どいない。2世(2代目の日系人)も高齢になってきて日本の伝統文化を伝えていってくれる3世はどのくらい、いるのだろうか…
こちらの日系新聞を見ると詳しいイベントの情報が出ていた。パラパラめくって見ていたらこの新聞の草創期の頃の白黒の写真が載っていた。この新聞が創設されて何と113年。米国で1番長く続いてきた新聞だ。現在の写真と見比べると新聞を読む人が減ってきているからなのだろう、スタッフの数も少なくなっている。そして今は日の丸の旗も飾られていないのだな〜と…

左上:祭り  

右上:草創期の羅府新報

右下:日系新聞羅府新報


茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言「新しい朝」

夏、夏、夏、夏、夏真っ盛り。夏は暑いに決まっているが、夏って、こんなに暑いものでしたか、っと、問い掛けたい程、酷暑続きの日本列島。同じ“あつい”ならオリンピック観戦で“熱い”は最高なのに。九州では、体温を越す記録的暑さ。地域によっては児童生徒の外出が制限され、地震被害でプールも閉鎖、夏を満喫できないという。こんな夏が終わる頃の“夏休みの思い出”には、いったい何が残るのだろう?、ならばこどもたちに、夏の朝の、清々しい思い出をつくってもらいたいと願い、胸を熱くしている、さくら。

夏の思い出と言えば、ラジオ体操がある。このラジオ体操は、昭和3年11月に昭和天皇即位の大礼を記念し、『国民保健体操』という名称でNHKの電波に乗ったのが始まり。戦後は昭和21年4月、『新ラジオ体操』が制定され、放送が再開された。現行のラジオ体操(ラジオ体操第一)になったのは、昭和26年5月からだそうだ。以来、ラジオ体操は、日本人の健康づくり、そして、こどもたちにとってはひとつの“夏休みの思い出”づくりになっているといえる。現在我が家には、夏休みを利用して熊本からやってきた孫3人が同居、この夏の彼らの楽しみは、私達夫婦(じぃじ・ばぁば)と一緒にラジオ体操に出かけることだという。朝6時20分に佃島小学校グラウンドへ行き、簡単な準備体操に続いて、ラジオから流れる曲に合わせ『ラジオ体操の歌』を空に向かって大声で歌い、そして第一と第二ラジオ体操をする。大人もこどもも、カードに参加印のスタンプを押してもらう事も忘れずに。帰宅するや否や、椅子に座る暇もないほど忙しい孫相手の一日がスタートする。このラジオ体操に参加し、共に“新しい朝”を迎える今年の夏は、きっと孫たち3人の“夏休みの良き思い出”になると願いながら・・・

ところで、ラジオ体操を始める前に歌う『ラジオ体操の歌』(藤浦洸作詞・藤山一郎作曲)、とてもシンプルだが、“新しい朝”への羅針盤のようなものだと私は思う。♪〜新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空仰げ ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に 開けよ それ いち、にぃ、さん。新しい朝のもと 輝く緑 さわやかに手足を伸ばせ 土踏みしめよ ラジオとともに 健やかな手足 この広い土に伸ばせよ それ いち、にぃ、さん〜♪この歌を、私なりに解釈してみた。朝早く起きること、希望と喜びを感じること、空を見上げること、丈夫で元気な心を持ちその心を自然の中に解き放つこと。日々新しい気持ちで目覚めること、木々の輝きに目を向けること、軽やかに無理なく手足を伸ばすこと、大地に足をしっかりつけて立つこと、リズムを大切にすること、心と身体全体が健やかであること、そして掛け声に合わせてみんなでやること――新しい朝のために。これらのひとつでもいい、新しい朝を迎える第一歩、私にも、そして誰にでもできることが歌われていると思う。

さて、リオデジャネイロ・オリンピック(日本時間8月6日〜22日)も、いよいよ中盤に入った。これまでに水泳・体操・柔道・卓球・カヌー・ウエイトリフティングなど日本選手のメダル奪取が続く日本は勿論、リオ五輪参加国(206の国や地域)全てが熱く沸いているだろう。メダルを取れた選手も取れなかった選手も、入賞できた選手もそうでない選手も、地球の裏側で最高の幸せと落胆を味わい、眠れぬ夜を過ごしているに違いない。そしてまた“新しい朝”を迎える。きっと彼らは前述の“新しい朝”の歌そのものを、その強靭な心と身体で受け止め、4年後の東京オリンピックを目指すことだろう。私は“新しい朝”を歌いながら、ラジオ体操のスタンプが貯まったら、金か、銀か、銅か、メダルをあげようと思う、頑張った孫3人に、そして自分にも・・・っと呟く、さくらの独り言。

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

Bill Evansは生涯にどのくらいのアルバムを残したのだろうと思うくらい多くのアルバムがあります。私のデータベースにあるBill Evansのアルバムを数えただけで26枚ありました。これらを全部聴いていくだけでも相当楽しめます。Bill Evansのアルバムはこれまでに7枚紹介しています。今回ご紹介するアルバムはBill EvansがRiversideというレコード会社からVerveに移籍した後のベストアルバムです。どちらかというとRiverside時代の方が有名で人気の高いものが多いのですがVerveのベストアルバムだけあっていい曲が収録されています。

"The Best of Verve" Bill Evans

01 Spartacus Love Theme
02 Santa Claus Is Coming to Town
03 Grandfather's Waltz
04 How Deep Is the Ocean_
05 Who Can I Turn To (When Nobody Ne
06 Beautiful Love
07 My Man's Gone Now
08 Only Child
09 On Green Dolphin Street
10 Someday My Prince Will Come
11 A Time for Love
12 Autumn Leaves


ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

 

編集後記

お盆でお寺さんに来ていただきました。孫といっしょに出迎え、口の達者な孫が「こんにちは」とあいさつしてから「あなたは誰ですか」と言ったのでみんな大爆笑でした。
昨日は家の前の道路が歩行者天国になり、ステージが設置され、屋台が並んでイベント会場になりました。炎天下の会場も夕方は日陰になり、風も少し出てきて涼しくなったので、孫たちといっしょに出かけ楽しい時間を過ごすことができました。孫は初めての経験だったのでとても楽しかったようです。
《R.O.》


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1057

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com