――― 前号よりの続き ―――
戦争末期であった当時、私の記憶に残る戦意高揚のための軍歌のひとつは前述の学年名のもととなっていた『防人の歌』でした。
☆防人の歌(詞:杉江健司、曲:大村能章)
♪今日よりは 顧みなくて大君の
醜の御楯といでたつ我は
ああ防人の昔より
御民我等の雄心は
皇国の護り 富士が嶺の
千古の雪と 輝けり
もう一つが『比島決戦の歌』でした。この二つの軍歌は学校で教わったのか、周囲の年長者や大人から教わったのか、今では定かに記憶していませんが、よく歌っていました。
☆比島決戦の歌(詞:西条八十、曲:古関裕而)
♪決戦かがやく亜細亜の曙
命惜しまぬ若櫻
いま咲き競ふフィリッピン
いざ来いニミッツ マッカーサー
出てくりゃ地獄へ 逆落とし
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日本が負けて戦争が終わったことは母親や周囲の大人から聞かされたはずですが、明確な記憶にありません。私の記憶に残っているのは数日後、夏休みの最中にもかかわらず生徒全員が登校を命じられ、クラスで担任の中島先生が「日本はいま続けている戦争をしばらくお休みすることになりました」という説明でした。私は“戦争にも夏休みがあるんだ”と思ったことを覚えています。
しかし、それから先がたいへんでした。休みが終わって学校が始まると教わることがこれまでと正反対になってしまったのです。習字の時間でもないのに墨をすらされ、先生の指示通り教科書を黒く塗りつぶし、中には教科書をそっくり取り上げられたりしました。流行だった軍歌を歌うことも禁じられ、子供心にも、これほど惑ったことはありませんでした。
無意識ながら子供心にも『自分たちは日本という国家に騙されていたんだ。国を信じてはいけないんだ』と実感せざるを得ませんでした。そしてGHQ(日本占領軍最高司令部)
による戦後の民主化教育が始まったのでした。
今にして思えば、民主化教育とは、いかに日本という国が侵略国であり、悪い国であり、この国がけがれた歴史の中で周辺の国々に対し迷惑をかけてきたのか、という自虐史観の植え付けだったのです。
戦後すぐ、天皇・皇后両陛下による国内視察ご巡幸があり、私の疎開先の滋賀県の草津線をお召列車が通過しましたが、正直のところ当時の私にはあまり興味はなく、目の前の駅を通過したお召列車をお迎えすることもしませんでした。
これほどまでに私たちの心を襲ったショックは大きかったといえそうです。日本人がこれまで育んできた麗しい優れた文化や心の誇りを無理やり奪い取られた教育であったのでした。
疎開から戻った東京では、私も早速、ラジオから流れる“カムカム英語”を学び、ジープに乗ったG.I.(米兵)が近くを通ると“ギブミー・チョコレート”と叫びながら後を追ったりしました。
さらに、ララ物資(アジア救済連盟による民間の食料・衣料・薬品など生活必需物資)による食料などで飢えをしのぐなど、特に私の親の世代の苦労は並大抵ではなかったはずです。
日本は敗戦という歴史の大転換を経験し、私たちもその大きな波に飲み込まれたのです。あれから71年、私はわが家や学校や街を焼かれ、当時のクラスメイトはじめ多くの同胞を無差別に殺戮された相手国で現在、恩讐を乗りこえて生活しています。
過去の歴史は直視し、事実は事実として後生に正しく伝えると同時に、未来をどのように切り開くかを歴史から学ぶ必要があると痛感します。
河合 将介( skawai@earthlink.net ) |