weekly

1056号

 

NO.1056      Ryo Onishi              8/7/2016

 weekly
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雑貨屋のひとり言

全国には「開かずの踏切」と呼ばれる踏切があります。私たちの街にもピーク時には1時間のうち58分も閉まっていた踏み切りがありました。山陽本線、福知山線が並走し、駅に近いので列車の通過本数が多く、車が数台渡るだけですぐに警報機が鳴り出し、イライラしたり危ない目に遭った人が多かったと思います。
この問題を解消するために平成13年から始まった地下道の工事がようやく終わり、先日開通しました。これで反対側にあるスーパーマーケットにも行きやすくなりました。それにしてもなんで完成まで15年もかかったのかとても不思議に思っています。≪R.O≫

 

 八月の記憶 (1)

今年も八月を迎えました。子供のころの八月といえば、学校の夏休みが頭に浮かびます。小・中学生の頃の夏は私にとって、今思いかえしても懐かしい気持ちになります。

とりわけ私のような70歳半ばを過ぎたシニアにとって、どうしても心に強烈に残っている“ひと夏”があります。それは1945年(昭和20年)終戦の年の夏です。この年の夏を境に“鬼畜米英”“一億玉砕”“撃ちてし止まん”と叫び、軍国主義一色だった大日本帝国が、突然GHQ占領下の“民主主義”の国へと変貌したのでした。

東京下町で生まれ育っていた私は、その年の3月9日の夜に来襲したアメリカB-29 の大編隊による空襲のため、家も学校も周囲のすべてを焼き尽くされ、阿鼻叫喚の中を母と姉に手を引かれて逃げ回り、我が家族は奇跡的に生き残れたものの、級友の大半がその時、命を落としました。

その年の夏、私たち家族は一時的に東京を離れて両親の故郷である滋賀県へ身を寄せることになりました。両親の実家は滋賀県南部で、甲賀郡というところです。現在は甲賀流忍術の里とか信楽焼きで有名ですが、当時は何もないまさに田舎の風情そのものだっだと記憶しています。

国民学校(今でいう小学校)2年生の春からその年の年末までの疎開暮らしは、東京下町しか知らなかった私にとっては、すべてが新鮮で珍しく、一見、平和でした。そこには小川が流れ、田畑があり、カエルやイナゴが飛び跳ね、ホタルが舞っているなど、すべてが初めての経験でした。周囲の人々も学校の友達たちも皆、疎開者である私を同胞として迎い入れてくれ、学用品を持っていない私に自分の持ち物をわけてくれる級友もいたし、いじめに遭遇した記憶も全くないことは幸せでした。

そんな平和な田舎での疎開暮らしにも、戦争とは無縁ではいられず、私の身の回りにも変化が起きていたことは確かでした。学校も当然ながら戦時体制で、すでに当時は国民学校のクラス名は軍隊式になっていて、学年ごとに1年生、2年生・・ではなく、〇〇隊と呼ばれていました。2年生は“みたて隊”で統一され、これは防人の歌である『今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは』の中から使われ、さらに“〇〇小隊”と担任名が加えられていました。私たちの学級の担任は“中島よね先生”という女性でしたので、“みたて隊、中島小隊”が正式な名称でした。

疎開先では敵機による空襲などのおそれはなかったものの、子供心にも戦争の影は日常生活にひしひしと迫ってきていたのを覚えています。夏休みのはじめのころ、学級ごとに裏山の松林まで行進し、“松やに”を採る作業に従事しました。戦争末期、航空機の燃料であるガソリンが不足したため、日本帝国は“松やに”からガソリンを作ろうと試みた時期があり、それに私たちが協力させられたのでした。私たちが苦労して採取した“松やに”はその後どうなったのでしょうか。

そして私たちの生活が一変する日がやってきました。8月15日、朝から暑い日差しの一日だったことを覚えています。夏休みを満喫しながら日々を過ごしていた当時の私は、毎日のように友達と近くの川へ行き川遊びに興じていました。この日も川へ遊びに出かけようとしていたら母親から「今日はラジオで大切な放送があるそうだから、早く帰ってくるのですよ」といわれたのを覚えています。でも遊び盛りの子どもにとってそんな母親の言葉など眼中になく、夕方になって帰宅し、ひどく叱られたのが終戦の日の思い出です。――― 次号へ続く ―――

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


国境の海に横槍積んだ船

机上では停戦現地では砲火

紛争地ここもここもと世界地図

戦争を何でするのと子に聞かれ

何祈る無骨な指の千羽鶴


( ニュースやぶにらみ )


「丸川、小池、森…」

上手く繋がるのかなあ −五輪

「小池氏が圧勝」

崖から突き落とされた −自民党都連幹部

「61歳」

悔しい、ガンに負けた −元横綱千代の富士

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(436)「鎮魂と祈り」(その2)<哀れ!九人の乙女たち>

翁が北海道の最東端・根室の納沙布(ノサップ)岬に立ったのは32歳の時だった。それは総理府(現・内閣府)の仕事(番組取材)で、テーマは「操業中にソ連(現・ロシア)艦船に不当拿捕(だほ)され樺太(サハリン)の刑務所に拘留されている根室漁民家族の怒りと悲しみ」と「ソ連が(国際法を無視して)占拠している北方4島は日本固有の領土」であった。「日本固有の領土・北方4島」とは、(これまでに数回『余話』で取り上げたが)根室半島の目と鼻の先にある歯舞(ハボマイ)群島、色丹(シコタン)島、国後(クナシリ)島、択捉(エトロフ)島のことである。北方4島には、ソ連が不法占拠するまで約17,000人の日本人が住んでいた。翁が“北方領土の歴史”を学んだのは、この時(根室取材の時)だった。それ以来、翁はソ連(ロシア)政府を“ロスケの泥棒猫”と蔑み、これまで機会あるごとに『北方領土返還キャンペーン』を張って来た。

1945年(昭和20年)8月8日、ソ連は『日ソ中立条約』(日ソ不可侵条約)を一方的に破棄し日本に対し宣戦を布告、翌9日早々に軍事行動を開始した。その頃(当時、日本が統治していた)満州・朝鮮・樺太などの現地日本軍は、すでに武器・兵士ともに不足して戦闘能力は皆無に等しかった。ひきかえ、ソ連軍は160万人の兵、火砲・砲撃砲26,000門、戦車・自走砲5,600両、航空機3,500機という圧倒的な軍事力を持って満州・朝鮮・樺太の日本統治領を侵攻。8月15日に日本が世界に向けて“玉音放送”(天皇のお言葉による敗戦宣告)を行なった後も、ソ連軍の猛攻は止むことがなかった。「北海道を占領せよ」とのスターリンの命令でソ連軍は、日本固有の領土である北方4島までも攻略した。米国からの「日本はポツダム宣言を受諾した。直ちに戦闘を中止せよ」との勧告も聞かずに・・・

ソ連兵が(第2次世界大戦で)ドイツとの交戦時にしでかした(一般市民への)残虐行為(強盗・強姦・殺戮)は、世界中から「戦史上、最悪の鬼畜行為だ」と非難を浴びせられたが、満州・朝鮮・樺太、それに北方4島でも同じような極非道・残忍行為が行なわれたことはウイリアム・ニンモ(米国の戦史研究者)著『検証・シベリアの抑留』(加藤隆訳、時事通信社、1991年発行)に詳しく記述されている。15日の“玉音放送”以後、武装解除し戦闘能力を失った各地の日本兵は殺されたり自決したり捕虜になったり。また鬼畜ソ連兵に蹂躙(じゅうりん)された民間人(特に婦女子)の多くは自決した。その数(日本兵・民間人死者の合計)は10万人を超えると言われている。

さて“根室取材”のあと、翁たち取材班は日本最北端・宗谷岬に向かった。晴れた日には樺太の南端が見える。まず稚内市役所の広報マンに案内されたのが稚内公園“氷雪の門“の脇に建立されている『九人の乙女の像』だった。15日の“玉音放送“後(8月20日)にソ連軍の攻撃を受け集団自決した樺太・真岡(まおか)郵便電信局・九人の電話交換手たちの慰霊碑である。その慰霊碑の前で広報マンは静かに事件の概要を語ってくれた。そのことは、2008年8月10日配信の『龍翁余話』(43)「哀し!九人の乙女」に詳しく書いた。その1部を抜粋する。

――南樺太の西海岸に位置する真岡町に“真岡郵便電信局”があった。そこでの電話交換手は全員が乙女。戦時下における電話交換業務は国防上、極めて重要な任務。ソ連の不法侵攻という非常事態に(日本政府は)老人、子ども、女性、病人を優先して本土帰還や疎開などの緊急命令を出したが、重要な業務への使命感に燃えていた真岡の電話交換手たちは健気(けなげ)にも職場に踏みとどまり業務を遂行した。8月20日、濃霧の中、銃器を構えた無数のソ連兵が電信局に迫り来るのを交換手たちは確認した。その瞬間、電信局の建物に雨あられの砲弾が浴びせられた。“もはや、これまで“・・・かねてより覚悟していた九人の乙女たちは互いに目と目で最後の挨拶を交わし、用意していた青酸カリを飲んだ。そして息絶え絶えに「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と発信した。九人の乙女たち全員が白い上着にモンペ姿、いささかの乱れもなく交換台の前にうつ伏せになっていたという。「崇高なる使命感のもとに職務を全うし、鬼畜ソ連兵の魔手を逃れるため彼女たちは自ら短い花の命を散らしたのです」・・・そう語る広報マンの目に涙、翁もスタッフも皆、泣いた。そして(慰霊碑に)深々と頭を下げ、彼女たちに慰霊と感謝の誠を捧げた「御霊よ、安らかなれ」と――(写真はインターネットより。碑には「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と刻まれている)

1968年(昭和43年)9月昭和天皇・皇后両陛下が稚内市を行幸された時『九人の乙女像』の前で深く頭(こうべ)を垂れ、乙女たちの冥福を祈られたそうだ。後日、両陛下は、その時のご感銘を歌に託された。
  天皇陛下御製「樺太に 命を捨てしたをやめの 心を思へば胸せまりくる」
  皇后陛下御歌「樺太に 露と消えたる乙女らの みやま安らかなれと ただ祈りぬる」

終戦直後、旧ソ連軍の残虐行為によって人間の尊厳を傷つけられた邦人女性の集団自決事件は、ほかにも『敦化(とんか)事件』『葛根廟(かっこんびょう)事件』など沢山ある。これらの悲話は、歳月の流れと共に次第に歴史の隅に追いやられている。翁、旧ソ連軍の蛮行を世界に知らしめたいのだが、その残忍ぶりは筆舌に尽くし難く、いかな翁でも記述する勇気が持てない。故にせめて『鎮魂と祈り』の月は、非業の最期を遂げられた方々の御霊に哀悼の誠を捧げ、世の平安を祈りたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

日の丸そして国歌

米国に来たばかりの頃、初めてアメリカ建国記念日に打ちあげられる花火を見に行った時の事。ステージにはプロの歌手が登場しアナウンスが流れると人々は全員起立し胸に手を当てた。その瞬間、あたりは、一遍して厳かな空気に変わった。そこにいた私達もちろん、その中の一員に加わっていた。誰ひとりとして座っている姿は見かけなかった。厳かに音楽が流れ歌手の人と一緒に一般の人は誇らしげに国歌を歌った。少し戸惑いながらも見よう見まねで一緒にアメリカの国歌を歌った。誰もが誇らしげな顔をして歌っていた。ドジャーズスタジアムに野球を見に行った時の開会式の時もそうだった。今までビールを飲んでジョークを言い合い笑っていた人もホットドックを食べていた子供も国歌を歌う時にはピシッと背筋を立てて国歌を歌う。自分たちはこの国の一員なのだという誇りを持ったその姿が美しく眩しかった。そして正直に羨ましいと思った。
振り返って見ると自分が国歌を歌った記憶は卒業式や入学式の頃だったとは思うけれどあまり記憶に無い。歌詞の内容も把握していなかったと思う。そのくらい私も無関心だったし戦後は国を誇りに思えるような教育はされてこなかったと思う。今週から始まったリオのオリンピック。日本の国旗と国歌を意識するのはオリンピックの時にメダルをとった日本人選手の活躍を見る時ぐらいだ。
今では日の丸の旗は日本の建国記念日とお正月にチラホラとたまに見かける程度だ。その数は毎年少なくなっているような気がする。日本の季節の行事もお祭りも縮小していいっている気がする。当然、子供の数も少なくなってきているから仕方が無いのだろうけれど何だか寂しい。もう一つ、このLAに住むようになって不思議だな〜と思う事があった。日本人でありながらこの米国に住んで徹底的に日本の悪口ばかり言っていた人に何人か会った。ちょっと日本の事を誉めたりでもしたら攻撃された。後からその人が日本で帰化した人だと言う事を知った。もう数十年前の事だ。きっと日本では暮らしにくかったのだろう。彼や彼女らが受けた教育も一方的に日本が悪かったと教えられてきたのだろう。そういう人たちは早々とアメリカ市民権を取得していた。そう先日、カリフォルニアの弁護士で日本でも活躍中のケントギルバートがTVで話していた。彼曰く戦後、GHQは日本人を教育、洗脳する為にNHKや新聞一般に公開されてますよ。調べれば誰でも見れますから“と。アメリカは何年か経つと、その当時には極秘情報であっても公開してしまう。そういう所は懐が大きいなと思う。今日土曜日8月6日は原爆記念日、来週は日本の終戦記念日。
ネットが発達した今、今後もあっと驚くような情報が世の中に公開されていくだろうと思う。

茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言

今週はお休みです。

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

今年初めに大量にレンタルしたのでしばらく楽天のCDレンタルを利用していなかったのですが、メールで楽天レンタルが9月末で終わりになるというお知らせがありました。とても残念に思っています。
まだしばらく時間があるので急いでレンタルしようと思います。
久々にArt Farmerのアルバムを選びました。Art Farmerのフリューゲルフォーン、Jim Hallのギター、Mike Mainieriのビヴラフォーン、ゆったりと聴けるのがいいですね。

"Big Blues" Art Farmer And Jim Hall

01-Whisper Not
02-A Child Is Born
03-Big Blues
04-Pavane For A Dead Princess

Art Farmer - flugelhorn
Jim Hall - guitar
Michael Moore - bass
Steve Gadd - drums
Mike Mainieri - vibraphone
David Matthews - arranger


ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

土曜日の朝、久しぶりに大阪中央卸売市場に行きました。鱧、マグロ、モズクを仕入れました。前回行ったのは5月中旬だったので気にならなかったのですが、朝から猛暑の昨日は歩いて汗びっしょりでした。真夏は売る人も買う人もつらいですね。《R.O.》


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1056

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com