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NO.981         Ryo Onishi              3/1/2015

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雑貨屋のひとり言

残忍な事件が続き、いやな気分になっています。ほとんどの場合、事件が起こる前には何らかの兆候があるはずです。家族や学校の人たちはその変化や異常に気が付かないわけがありません。でも何も手を打てないままにむごい事件が起きてしまうことに腹立たしく思っているのは私だけでしょうか?≪R.O≫

 

70年前の生き証人として

昔から「一月(いちげつ)往(い)ぬる、二月(にげつ)逃げる」といわれていますが、まさに2月逃げ去り、3月を迎えました。

今年の日本は戦後70年という節目の年であり、都市部を標的に焼夷弾を用いた無差別爆撃によって民間人に大きな被害を受けた「東京大空襲」から70年です。これは空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされています。

連日続いた空襲の中でも特に大きかったのが3月9日夜から10日未明にかけてのものであり、市民百万人以上が被害を受け、十万人が惨殺されたといわれています。私はその70年前の米軍による東京大空襲を東京下町で体験した生き証人の一人です。

当時、私は6歳、小学校(当時は国民学校といった)1年生でした。東京の下町(向島区、今の墨田区)で生まれ育った私にとってそれはまさに悪夢の一夜でした。

夜空を覆う不気味なB-29の編隊と、それらから頭上に撒き散らされる無数の焼夷弾の束。母とまだ女学生の姉の手に必死にしがみつき、燃えさかる炎と舞い散る火の粉の中を夢中で逃げまどった幼さない私 ―― 今でも時々夢でうなされる光景です。

人は火炎に追われると水辺へ向い、最後はその水に飛び込んで溺死するケースが多いといわれます。私たちも小さな池のほとりにたどり着き、飛び込む準備をしていた時、突然風向きが変わり、その一帯だけが焼け残り、生き残りました。大火災のとき、風向きが熱風により突然変化することがあるのです。

 九死どころか千死に一生を得、路上に横たわる黒こげの人々をひたすら跨ぎながら我が家の焼け跡に戻った時、そこに防空団の父も待っていてくれ、一家の無事を確認し合い不幸中の幸いを喜び合いました。

 数日後、学校の焼け跡に集合した私たちは、つい数日前まで一緒に勉強し、遊んだ同級生の半数以上がこの空襲で死んでしまったことを知らされました。でもその時、自分の感情がどうであったか今となっては思い出せません。もしかしたら当時の私には「悲しい」などという感傷は麻痺してしまっていたのかも知れません。広大な焼け野原から初めて見えた富士山が印象的だったことは覚えています。

 両親の故郷に一時身を寄せ、戦後再び東京に戻り、焼け残った家を借りて東京生活を再開させた我が家でしたが、食料難で親の苦労は大変だったはずです。当時、私達の救いは「ララ物資」と呼ばれるアメリカからの救援物資で、この時ばかりはバケツ程もある大きなコンビーフの缶詰や、チョコレート塊が配給され、飢えをしのいだものでした。

また時々ジープに乗った G I(米兵)がやってきて、ジープから面白半分にばら撒いてくれるチュウインガムやチョコレートに私達飢えたガキ共が群がったものでした。

敗戦後、私たちは“堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ”焼け野原から立ち上がったのです。

時代は変り、あれから七十年、私は当時焼夷弾を浴びせられた、そして生き残った後は救援物資で助けてもらった相手国アメリカに滞在し生活をしています。運命の不思議を感じざるを得ません。

原爆投下や沖縄戦での民間人への被害などとともに、東京大空襲も無辜の民間人を大量に殺戮したという点で、米軍の犯罪行為を訴えたいと思いますが、これらは戦後の講和条約などにより一応解決済みであり、別途論じたいと思います。

ただ、生き証人が存在しているうちに、歴史の事実を次世代へ残す意味で、戦後70年を生きぬいた私たちの過去の体験・想いを生きているうちに整理し、次世代への教訓として残す義務が私たちにはあると思います。   
河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


お土産のワインにパリを喋らせる

絶妙な角度でピサの塔が立ち

香港を今浦島の目で眺め

すぐ銃を自由の女神持ちたがり

敦煌に時の止まっていた仏


( ニュースやぶにらみ )


「農相 即後任決定」

手際がいいなあ −日本サッカー協会

「変わり雛」

―そっぽを向いたままだね

―安倍 パク雛だって

「東京マラソン」

疲れた −警備陣


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(364)「南房総の思い出」

先日『南房総の海鮮浜焼き・イチゴ食べ放題日帰りバスツアー』に行った。“南房総”とは、いったい、どこからどこまでなのか知らないが、翁の感覚では御宿町(夷隅郡)から勝浦市、鴨川市、館山市、南房総市、富津市、君津市あたりまでを言うのではないか、と思ってバスツアーのガイドさんに訊ねたら「はっきりした線引きは出来ませんので、観光面では個人の主観で判断されてもいいのではないでしょうか?」との返事。いろいろ調べたが、このガイドさんの見解が“正解”のようだ。

年に2,3回、翁を“旅”や“催し”に誘ってくれるグループ(『スケッチの会』)のことについては、これまでに数回『余話』で紹介したのでご記憶の読者も多いと思う。今回もまた、上記バスツアーに誘っていただき“ポピーを愛で、海鮮浜焼きとイチゴの食べ放題”を満喫したのだが、それ以上に翁にとって今回の南房総は(胸がいっぱいになるほどの)今は亡き親友との“思い出の旅“となったのだ。

2002年の春、翁は親友D君夫妻と南房総へドライブに出かけた。翁の後輩で元新聞記者、翁の良き相談相手だったD君、2000年の夏に肺がんの根治手術を行なうも1年後に再発、胸水貯留(胸腔内に異常に多量の液体が貯留した状態)が発生、全身抗がん剤治療も効果がなく、医師から「これ以上の治療は困難、引き続き緩和ケア治療に切り替える」との説明を受けた(ことを翁は後日知らされた)。2002年始めの某日、D夫人から突然「主人を南房総へドライブに連れて行っていただけませんか?私も同行させていただきますが」との丁重な申し出があった。当時、翁はまだ現役だったが勿論快諾、しかし「何で南房総なの?」「多分、主人の初恋の人との思い出の場所ではないでしょうか?」電話の向こうで答える奥さんの小声が、心なしか寂しげに聞こえた。

最初の行先は鴨川市太海(ふとみ)と言う漁村から50m先に浮かぶ『仁右衛門島(にえもんじま)』(写真左)。漁港から渡し船で島へ渡るのだが、この漁村には駐車場がないと聞いていたので(昼食をとった)100mほど手前のホテル・レストランの駐車場に車を置き、歩いて村へ。なるほど狭い路地が入り組み、石段や急坂を挟んで小さな家屋がひしめき合い、まるで時代から取り残されたような景観が広がる。突然、D君が(奥さんに持たせていた)“とらや”の紙袋を受け取って、と、ある民家へ。「初恋の人との思い出の場所、ではなく、実は主人が若い頃、当地の取材で大変お世話になり、長年交流のあった今は亡き漁師さんの仏前にお礼のご焼香をしたい、とのことでした」表で待っている間のD夫人の話。電話の時の声と違って晴れ晴れとした口調に、何故か翁もホッとした。“挨拶”を済ませて表に出てきたD君も晴れやかな表情をしていた――周囲約4km、源頼朝や日蓮の伝説で知られる『仁右衛門島』(個人所有)については、いずれかの機会に――次なるリクエストは館山市の『萬徳寺』。ここも翁は初めてだった。体調16m、高さ3.75m、重さ30tの釈迦涅槃仏は(ガンダーラ様式としては)世界最大級だとか(写真右)。釈迦涅槃仏に合掌するD君夫妻の後ろ姿を見て翁は胸を詰まらせたものだった。それから半年後、D君は逝く(享年62)。なおD夫人とは長年お会いしていないが、ご長男家族と一緒に暮らしていると聞く。
(註:今回のバスツアーには、『仁右衛門島』も『萬徳寺』も含まれていない。)

(胸がいっぱいになるほどの)D君との思い出に浸りながらも、ポピー摘み(南房総市)、海鮮浜焼き(館山市)、イチゴ狩り(君津市)は翁にとってはいずれも初めての経験であり、楽しかった。ポピー花園の景色を見回して、何故か、懐かしさを感じた。再びガイドさんに訊く「この辺りに『シェイクスピア・カントリー・パーク』があったはずだが」「あっ、よくご存知ですね。この場所がそうです。1997年にオープン、数年間は観光客も多かったのですが2006年あたりから客足が遠のき、2011年に閉園しました」「わざわざイギリスから建材を運んで来て建てた“シェイクスピアの家”は?」「今は、事務所として使われています」――翁が、何故、ここを懐かしく思ったのか、それは2001年の夏、ここのパーク内にあった“シェイクスピア劇場”で狂言師・和泉元彌の公演があり、その取材(撮影)で来たことがあるから・・・ああ、これも『南房総の思い出』の1つか――

今回のバスツアーは、ポピーも浜焼きもイチゴも満足したが、それ以上に『スケッチの会』(主宰者のA・Mさんをはじめ今回の参加者7人)の皆さんに感謝したいのは、しばらく忘れていた(今は亡き親友)D君との思い出を甦らせてくれたことだった。この『余話』を通して心からお礼を申し上げたい。南房総市の花園でお土産に貰ったポピーの蕾(白・赤・黄色、計5本)は、2日後には満開になって我が家のリビングにひと足早い春をもたらしてくれた。母・兄・叔母の遺影の前に満開のポピーを飾り、焼香して(併せて)D君のご冥福を祈った・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

Bon Voyage (良い旅を)

“ 僕の夢はね、リタイアしたらギリシャに行って、そこで本を読んで、ゆっくり思索にふけって時間を過ごしたいんだよ。 そこで半年ぐらい住んで年に1冊のペースで本を書いて出版出来たらいいと思っているんだ “ そう言ってH氏は少年のように目を輝かせた。
多忙なH氏は米国と日本を半々で往来しながら本業の他にも日本の大学で講師としてクラスを持っていた。ちょうど私が日本に来ていた時にH氏のクラスを飛び入りで受講させてもらう機会に恵まれた時の事である。講義が終わるとH氏は “ 君たちの中で時間がある人は僕のオフィスに来て珈琲でも飲まないか? ”そう言って数人の学生たちを誘って私もH氏のオフィスにお邪魔させていただいた。彼の個室である大学のオフィスには彼の尊敬するエジソンの発明品がいくつかディスプレイされていた。そのうちのコーヒー湯沸し器で美味しいコーヒーを皆に作ってくれた。その時の光景を今でも良く覚えている。そして部屋のライトを消すとエジソンが最初に発明した白熱電球の光を灯して見せてくれた。それは何とも優しい暖かい光だった。エジソンが研究を重ねた末にたどり着いたのは京都の竹を使ったフィラメントの素材だったと言う。エジソンも日本とは深い関わり合いのあった人だったのだ。
忙しいH氏は生徒たちと和やかな談話の時間が終わると次のミーティングに向かった。駅に向かう途中、H氏は、またギリシャの話題に戻った。
“ ギリシャからは偉大な天才たちが短い期間にたくさん生み出されているんだよ。あれは奇跡だよ。哲学者のソクラテスやプラトンだけでなく医学も芸術も科学も文学も数学も天文学も現代人の基礎になるものを全部その時代に作りあげているんだよね。皆、ルーツは、あそこからなんだよ。” そう熱っぽくH氏は語っていた。医学の父、ヒポクラテスも薬草の大家、ディオスコリデスもギリシャからだったのだな〜と改めてギリシャの存在を意識させられた。時代は変わって現在のギリシャは衰退の一途をたどり、大変な局面を迎えているのだが…
享年71歳、昨年、日本でH氏は突然旅立って行ってしまった。今週こちらでもメモリアルギャザリングが行われる。天才的な発明化が好きなH氏に昨年アインシュタインのそっくりさんと一緒に記念撮影をした写真でも送ろうかと思っていた。どこかのサイトでH氏があかんべーをしている写真を見て直ぐに、ああこれはアインシュタインをまねたのだな〜とわかった。何だか、いたずらっぽそうな笑顔でポーズをとっているH氏を見て思わず微笑んでしまった。
きっと、今頃、H氏はあちらの世界でエジソンや晩年研究していたレオナルドダビンチやアインシュタインにも会っているに違いない。そして笑いながら “ 僕は偽物なんかじゃなくて本物の偉人達に会っているよ ” と笑いながら言うに違いない。
Bon Voyage (良い旅を)

茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズライフ−今週のお奨 めアルバム

今週はポップな感覚で楽しめる女性ジャズボーカリストShanti Snyderのアルバムを紹介します。1981年神奈川県生まれの彼女はゴダイゴでドラマーをやっていたトミー・スナイダーの娘です。Cloud 9は欧州向けにオランダで録音されたアルバムで音にこだわって作られています。すっきりでさわやかな彼女の歌声とバックのバランスの取れた素晴らしいアルバムに仕上がっています。日本盤にはボーナストラックとして"見上げてごらん夜の星を"が収録されています。
 
"Cloud 9" Shanti Snyder  

01-Our Song 04:28
02-How Insensitive 04:07
03-Lost Without You 04:18
04-Who Are You 04:49
05-Closing Time 04:42
06-Yuyake 04:45
07-They Can’t Take That Away From Me 03:24
08-Aqua’s Lullaby 02:46
09-Romance With Me! 03:18
10-This Happy Madness 03:58
11-Killing Me Softly 04:07
12-From This Moment On 02:13
13-見上げてごらん夜の星を (日本盤ボーナス・トラック)

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

ヨガクラスではもうほとんどの人が顔見知りです。できるだけ皆さんに挨拶をするようにしています。少し前から見かけなくなったご夫婦が何組かいます。どうしたのかなあと思っていました。そのうちの一組のご夫婦は昨年末にヨガクラスにはじめて参加されたのですが最近見かけなくなり、ヨガが合わなかったのかなあと思っていたら昨日、久しぶりに来られました。「久しぶりですねえ」というと、70歳になる旦那さんが昨年末、軽い脳梗塞で入院していたそうで、回復したのでまた参加したとのことでした。安心しました。そんな話をしていたら前にいた女性が「私も脳梗塞になったことがあって・・・」と話し始めました。話をしたい方は結構たくさんいるのだと思います。《R.O.》
 


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.981

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com