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NO.979         Ryo Onishi              2/15/2015

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雑貨屋のひとり言

寒い日が続いています。冬のほうが屋外と家の中の気温の差が夏より大きく、身体には厳しいそうです。みなさんお変わりなくお過ごしでしょうか。今日は西日本は寒さが和らいだ気候ですが北日本は冬型の気候が続いています。大雪が降る地域は過疎化が進んでいるところが多く、高齢者が多くなってきているので雪かきなどが大変だと思います。高齢者問題はこの先もさらに深刻化していくでしょうからあと10年も経ったら過疎地域は壊滅状態になってしまうのではないか気掛かりです。≪R.O≫

 

難  聴

 最近、気がついたのですが、私には若いころから難聴の気があるようです。特に最近少々目立つようになったのですが、誰かと会話をしても、2、3度聞き返して相手の意味するところを理解している始末です。家庭内でも突然妻が想定外の話題について話しかけてきたとき、その声は充分大きく、よく聞こえるのに内容が理解できず、「エッ、ナニ?」と聞き返しています。

これは高齢による体力減退に伴う難聴現象もあるでしょうが、私の場合は自分でも気がつかなかっただけで、若いころから兆候があったといえるかもしれません。私がまだ30代、40代のサラリーマンの頃、社内業務報告で上司役員や社長に呼ばれてゆくと、「河合君、きみの声は少し大きすぎる。もう少し声を落として話してくれないか」と苦い顔で注意を受けたことが幾度もあったのを覚えています。

どうも当時から自分が難聴気味であったゆえに、他人に対してつい大きな声で話しかける癖があったようです。加えて、私の声がどちらかというと甲高い部類に属するので、聞くほうにとっては耳障りだったのでしょう。でも、私は無意識のうちに自身の欠点を理解し、話し言葉は歯切れよく、明瞭な話し方をしたつもりで、「声がよく通る」ことには自信がありました。今にして思えば、これも単なる難聴対策の大声によってもたらされた成果なのでした。当時、私は自己紹介のとき、自嘲気味に「声は通るが、意見が通らぬ河合です」を連発していました。

ひとは高齢になると加齢が原因の聴覚障害を引き起こすそうです。加齢性(老人性)難聴ともいわれ、一般的には「耳が遠い」といういい方をされます。私の場合は、もともとからあった難聴に加えて最近はこの加齢性難聴が加わったようです。

加齢性難聴は通常、50歳を超えると聴力が急激に低下し、60歳以上になると会話の面で不便になり始めるようです。しかし、進行状況は個人差があり、中には80代を超えてもほとんど聴力が低下しない人もいるのだそうです。

加齢性難聴は、音域により聞こえる程度が異なり、特に高音域の聴力低下が顕著となるのだそうです。そのため子音を含む人間の言葉のうち、特に「あ」行や「さ」行が正しく聞き取れないことが多いとか。また雑踏の中などのように、複数の音が錯乱している中での会話などが聞きづらくなったり、ぼやけて聞こえるなどの現象も自覚するようになるようです。

最近の私が人と会話しているとき、音は充分聞こえるのに内容が理解できないことがあるのは。相手の言葉の音域のうち、例えば高音域の部分が聞きづらいので、折角、相手が正しく発音してくれても、発音どおりには聞こえなくなっているのだと思います。これがさらに進行すれば、補聴器のお世話にならなければならないようです。

テレビのバライティなどを観ていると、司会者はよどみのない見事なトークをして視聴者を厭きさせません。舌の回りが速くとどまるところがありません。事前にどれほどの準備をしているのか知りませんが、クイズ番組などのバライティの場合、綿密な台本があっても、本番が台本どおりに進行しないのが普通です。

 このような司会者は持って生まれた才能、これまでの経験、努力などに支えられ、臨機応変にその場面にふさわしい言葉を発します。こういうのを「滑舌が良い」というようです。ビジネス引退前の私は「滑舌」には少しは自信がありました。調子に乗ると「立て板に水」のごとく、「よどみなく」会話が出来ました。しかしビジネスやコミにティから遠のいた今は「滑舌」にもすっかり自信がなくなりました。最近は「見ざる、聞かざる、云わざる」の心境に近付いたようです。    
河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


春を待つ身に義理チョコがほろ苦い

本命のチョコと信じていた喜劇

イントロはまだ北風の早春賦

サクラ咲け咲いてくれよと絵馬の誤字

風邪 花粉 指名手配もいるマスク


( ニュースやぶにらみ )


「懲役一年の実刑」

刑務所にもVIP室を −チョ・ヒョナ被告

「戦後以来の大改革」

二月馬鹿になりませんように −四月馬鹿

「岩盤に風穴」

抜け穴もあるさ −JA全中


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺散歩(92)
*観潮楼歌会に集った人々

鴎外の自宅観潮楼はさながら文人のサロンの様相を呈し、多くの文人が寄りました。
与謝野鉄幹の「新詩社(明星)」系と正岡子規の「根岸」派との歌壇内対立の融和を目指し毎月第一土曜日に開かれた観潮楼歌会(明治四十年〜同四十三年)もその一つです。
当時十九歳前後だった、鴎外の長男である於菟の著書『観潮楼始末記』に記されている歌会の出席者の人物評が興味深いです。
「明治四十三年の春某日の夕、観潮楼階上で月例の歌会(父は短詩会と呼んでいた)が催されていた。父のほかには竹柏園主人佐佐木信綱、いつも紋附羽織袴お公卿様のような端麗な風采で悠然と柱に背を寄せておられる。わざと縁側に座蒲団を持って来て、あぐらをかき腕を組む肥大漢は根岸派の伊藤左千夫。新詩社のおん大与謝野寛はすべてに滑らかなとりなしで起居も丁寧である。(略)若い人たちはもとの「明星」派が圧倒的に多い。伯爵の若殿吉井勇は大柄な立派な体躯でゆったりと控える。おでこの石川啄木は故郷の山河に別れて間のないころであったろう、頭に浮かんだ歌を特有のキンキン声で口ずさむと父が大声で笑う。北原白秋は既にキリシタンの詩で知られており、平井修は幸徳秋水を弁護することで父に相談にきた弁護士である。木下杢太郎は東大医科の学生太田正雄で私より数年の先輩。(略)平野万里は工学士で私の幼なじみ、私が里子に行った大学前森川町の煙草店の長男で当時私が兄ちゃんとよんだ人」
『石川啄木日記 明治四十一年五月二日』 
当日の出席者は八人とあります。「鴎外氏 は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍医総監とうなづかれる人であつた。信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。左千夫は所謂根岸派の歌人で(略)風采はマルデ田舎の村長様みたいで、随分ソソツカし い男だ」。「角、逃ぐ、とる、壁、鳴、の五字を結んで一人五首の運座。(略)御馳走は立派な洋食。八時頃作り上げて採点の結果、 鴎外十五点、万里十四点、僕と与謝野氏と吉井君が各々十二点、白秋七点、信綱五点、左千夫四点、親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた」
子規門下同士ながら、左千夫は観潮楼に出席するようになって、客観写生歌から主観的傾向の歌に変わっていきますが、長塚節は歌会のサロン的性格を嫌い「我々は、野人だよ、何もインテリに迎合することはない」と左千夫に言って出席は一度きりでした。
 右記の他に、上田敏、斎藤茂吉、小泉千樫、与謝野晶子、吉井勇、高村光太郎等も折々出席しています。

龍翁余話

龍翁余話(362)「“精神鑑定”を考える」

久しぶりに骨のあるドラマを視た。2月7日(土)夜9時から放送された(テレビ朝日系)『復讐法廷』がそれである。今まで、犯人を捕まえる役(刑事役)が多かった田村正和が、何と(このドラマでは)殺人犯として裁きを受ける被告人の役を演じた。あの美男子だった田村も、70歳を超えればそれなりに老けてきたし、若い頃からのかすれ声も、いよいよひどくなって時々、セリフ(音声)が部分的にダウンすることもあったが、それらが逆に迫力感をもたせ重厚なドラマに仕上げた。

元大学教授・中原誠司(田村)の愛娘・由紀子(柳生みゆ)が、凶悪犯・岩崎健二(中尾明慶)にレイプされ殺害されたが“法の抜け穴”によって岩崎は無罪放免される。当然、
岩崎に対して極刑を望んでいた中原と妻・明子(市毛良枝)は絶望の淵に立たされ、明子は間もなく(娘の後を追うように)逝く。愛する者を次々と失った中原は“法が裁かなければ自分が裁く”と復讐を決意、執拗に岩崎の所在を突き止め、ある夜、遂に岩崎を猟銃で射殺、直ぐに警察に出頭した中原は「弁護士は不要、自分は殺人者だ。減刑は望まない、死刑を望む」と主張。そこえ若い女性弁護士・緒方信子(竹内結子)が強引に弁護を買って出る・・・拘留されていた間、常に“有罪”を主張していた中原が、第1回公判の罪状認否で突然、「起訴状に異論あり」と言い出し、検察側、弁護側、裁判官、裁判員たちを驚かせた。要するに中原が(岩崎を)殺害した動機は、岩崎への憎しみもさることながら、凶悪犯を罰することが出来なかった検察や裁判官への怒りの炎だった。つまり中原は自らの裁判を通して”法の不備“を世間に問いかけたのだ。”日本の司法の在り方“、“人間が人間を裁くことの意味”、“正義とは何か”を考えさせられた骨太のヒューマン・サスペンス(ドラマ)であった。

先日、友人たち(いずれも高齢者たち)4人とお茶をしながら『復讐法廷』のドラマと最近(相次ぐ)子ども殺傷事件について語り合った。「子どもの命を奪うことは人間として最低最悪の犯罪だ」に全員が賛成、「自分の孫が殺され、納得のいく裁判が行なわれなかったら『復讐裁判』と同じように、どんな方法を用いても俺は仇討をする。俺の余生は長くないから孫の為に命を賭ける」という物騒な意見も出た。これには4人が同調、孫を持ったことがない翁は賛否の反応は示さなかったが気持ちは充分に理解出来た。こんな歌がある。
♪何でこんなに可愛いのかよ、孫と言う名の宝物・・・(歌謡曲『孫』)それほどに“孫”は可愛いらしい。近年、翁のマンションにも子どもが増え、エレベーターや階段で出会うと、小さい子どもたちが翁に「おはようございます」「こんにちは」と(たどたどしい言葉で)挨拶してくれる、それがとても可愛い。他人の子どもでも可愛いのだから、自分の孫なら、それこそ“目の中に入れても”ということだろう。そこで翁の意見「「子どもの誘拐・傷害・悪戯・殺人等は、問答無用で厳罰に処すべきだ」に全員が賛成した。話は更に“殺人犯の『精神鑑定』による罪逃れ”に及ぶ。

『精神鑑定』とは@被告人が犯罪を行なった当時、責任能力があったかどうかA被告人に訴訟を続行し裁判を受ける能力(訴訟能力)があるか否かを判断するために、裁判所が精神科医などの鑑定人に命じて行なう鑑定の1つである。裁判所は鑑定人の鑑定意見に拘束されず、自由に判断をなし得るが、鑑定結果を充分に尊重しなければならない、とされている。犯罪者(被告人)の人権を尊重する精神で定められたものであろうが、翁は、この『精神鑑定』制度には(基本的には)反対である。確かに殺人者にも人権はあるだろうが、被害者及び被害者家族の人権が最優先されなければならない、というのが翁の(基本的な)考え方である。(プロの殺人者でない限り)“普通の人”が殺人を犯す時は“その時点”で“精神異常”をきたしているのだから、その後の鑑定に何の意味があるのか。司法の専門家だけでは判断できない責任能力・訴訟能力・証言能力などを精神医学・心理学の専門家の助けにより審査するのは、いかにも“民主国家の公平なる裁判”を謳っているように見えるが、翁は(司法の無能、とは言わないが)司法の責任逃れの感がしてならない。刑法39条1項に「心神喪失者の行為は罰しない」と定められているが故に、これまでに”殺人犯“が無罪になった事例もかなりある。そんな”異常者“を、まさか野放しにはしておかないだろうが、再犯は無い、と誰が保証するのだろうか?

我が国で初めて被告人の『精神鑑定』が採用されたのは1988年(昭和63年)から翌年にかけて(子を持つ親を恐怖のどん底に陥れ、世間を震撼させた)“東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件”の犯人・宮崎勤に対してであった。4歳から7歳の女児を誘拐・殺人、犯行声明を新聞社に送り付ける、野焼きした被害者の遺骨を遺族に送り付けるなど猟奇極まりない犯罪者(宮崎)に対して戦後日本犯罪史上初めてのプロファイリング(犯罪捜査において犯罪の性質・特徴などを科学的に分析)が導入された。その時、翁は「被害者遺族の嘆きを思え、精神鑑定不要、早期に死刑を」と(いろいろな機会・場所で)吼えた。大方の人たちが賛同した。9年も経って1997年4月、東京地裁で死刑判決、弁護側は宮崎の精神異常を訴え上告したが2006年1月、最高裁で死刑確定、2008年6月、東京拘置所にて死刑が執行された(当時の法務大臣・鳩山邦夫)。結局、宮崎の口から被害者や遺族への謝罪、事件の反省の声は、最後まで聞けなかったと言う。

殺人事件にも、その動機(犯行理由)はいろいろある。情状酌量の余地が充分に認められる殺人もある。つまり「人を殺せば即死刑」とは一概に片づけられない複雑な要因が存在する。「しかし、だ、『精神鑑定』が法制化されている以上は(その導入は)仕方がないが、量刑の軽重はあっても殺人犯が“無罪”ということは絶対にあってはならない。特に(前述の通り)子どもの殺人は極刑に処すべし」の翁の主張に友人たち全員が賛同、“健全なり我が友たちよ”と独り悦に浸ったお茶会であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

加齢(華麗)なる転職

こんなタイトルのグループメールがM氏から届いたのは2011年の12月の年末頃だった。あまりにも愉快なメールだったので彼のメールの1部を勝手に抜粋させていただいた。

私メ、やくざなライター稼業から足を洗い、背中の刺青を消しゴムで消し堅気のサラリーマンとなりました。加齢(華麗)なる転職です。
思い起こせば37年間のフリーライター生活でした。
高校や大学の同級生が定年というときに、新入社員ですわ。けっこう笑えるでしょう?

M氏と初めてお会いしたのは私がスパイスコーディネイターの資格試験を受けるためにちょうど日本に帰って受講している頃の2009年の春だった。スパイスの先生にインタビューする為にクラスを訪れたのがM氏だった。受講後、先生やM氏を交え皆で食事に行った。その時、M氏に自分は、もうじき会社を辞めてニューメキシコ経由でコロラドにいる友人を訪ねてそこで2−3か月滞在するつもりだと話をした。世界中を旅しているM氏はコロラドにも友人がいて、砂漠の写真を撮り続けている人がいるからそこで彼と会ってみたらいいと紹介してくれた。それが縁でその写真家の個展が東京で開かれる前夜祭にも呼んでもらった。

M氏の仲間たちは実にユニークで気立ての良い人ばかりで彼の人柄がわかるようだった。その中でM氏に紹介された女性のTさんはM氏が講師として文章講座をやっていた時の生徒さんだった。私とは対照的に背が高くモデルさんのようなスラリとした美人だった。美人と言ってもナチュラルビューティー、素の美しさのある素敵な女性だった。Tさんとは前夜際に初めて会い後日、彼女の家にも遊びに行った。何か他の人とは違った生き方に興味を持ったのだ。今回はキューバに行く前にLAに立ち寄ってくれる事になった。Tさんにとっては約30年ぶりのLAだったらしい。限られた週末だけの時間になるので私の住まいサウスベイを中心に案内させてもらう事にした。ファーマーズマーケットから始まって自然食レストランやナチュラルフーズのお店、私のお気に入りの山や海の散歩コースからアウトドアー専門のお店など駆け足で回った。どこもTさんは感動し喜んでくれた。歩きながら、食べながら、または車の中でお互いに、いろいろな事を語り合った。TさんがLAに来る少し前にM氏が昨年、あちらの世界に旅立った事をメールで知り本当に驚いた。旅好きのTさんは同じく旅好きのM氏と共感出来る部分がたくさんあったと思う。

M氏がフリーのトラベルライターとして活躍した時代はバブルの絶頂期、もちろんM氏の才能もあってたくさんの本も出しラジオにも出演していた。それでもバブルの波が終わると徐々に仕事が減っていき彼自身は変わらないのに世の中が変わっていった。
誰にでも人生、浮き沈みは、あるし運がある時も無い時もあるがM氏にとって辛い時期が続いた。そしてM氏にとってどん底状態の時にM氏はTさんに会った。そんなTさんの存在はM氏にとって、まさに女神様だった。一旦は海の底に沈んでいたM氏に命を吹き込んで再び輝かせたのもその女神様だった。彼の最後の仕事になった旅のコンシェルジュも女神様が作った小さな切っ掛けで大きな結果を生んでM氏の人生の歯車が再び回り始めたのだ。来る仕事はどんなに忙しくても、どんどん引き受けた。今までの空白を一挙に埋めるように…
日本では新しい試みで作られた大きな書店はカフェやくつろぎの空間がデザインされ大人の為のしゃれた書店として一躍ブームになり話題になった。そこの旅の本のコーナーでM氏は旅先案内人として大活躍していたのだ。
その頃、LAと日本を忙しく往復している時に機内で見る旅の雑誌にM氏のインタビュー記事を見かけたこともあった。その後、TVやラジオでもM氏は度々登場していた。
ようやく、これからだという時にM氏は突然、旅立って逝ってしまったのだ。先週末、Tさんから彼の遺作となる “本は旅をつれて” というタイトルの本を頂いた。 その本にM氏と共に生きた最後の5年間をTさんが感謝の手紙として書いた文章が本の最後の方に書かれてあった。

“ 私ね、M氏が亡くなってから死ぬのが怖くなくなったわ。今頃、あっちの世界で彼は、また、あちこち旅をしているんじゃないかしら、、、 ” そう言ってM氏の女神様は微笑んだ。そしてキューバへ風のように旅立って行った。

茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズライフ−今週のお奨 めアルバム

今月もTSUTAYAから半額キャンペーンのお知らせメールが届きました。先月に行ったばかりですが、誘惑には勝てずまた出かけてしまいました。毎月通っても面白いアルバムが見つかるのでやめられません。今回は紙ジャケットのアルバムをたくさん選びました。紙ジャケットは棚にぎっしり並べられると保存環境が厳しくだいぶ痛んでいるものもあるのですが、CD盤そのものは意外ときれいなものが多いようです。つまりあまり聴かれていないのです。こういうアルバムを聴く人は限られるのだと思います。ですからこういうアルバムに出会うととてもうれしくなります。今週はその中の一つ、1958年にリリースされたアルバム"Portrait Of Cannonball"を紹介します。雑貨屋ウィークリー968号でご紹介したCannonball Adderleyのアルバム、"Something Eles"を録音する2か月前にBill Evansを迎えて製作したアルバムです。Adderley Cannonballの迫力あるサックスは管楽器ジャズの素晴らしさを再認識させてくれます。もちろんBill Evansのピアノ、Blue Mitchellのトランペット、Sam Jonesのベース、Philly Joe Jonesのドラムもいい感じで大変魅力あるアルバムになっています。
 
"Portrait of Cannonball Adderley" Julian Adderley Quintet  

01-Minority
02-Straight Life
03-Blue Funk
04-A Little Taste
05-People Will Say We're in Love
06-Nardis
07-Minority [alternate take 2]
08-Minority [alternate take 3]
09-Nardis [alternate take 4]

Personnel
Cannonball Adderley - alto saxophone
Blue Mitchell - trumpet
Bill Evans - piano
Sam Jones - bass
Philly Joe Jones - drums

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

長尾さんの精神鑑定についてのご考察、大変興味深く読ませていただきました。長尾さん基本的な考えに同感です。

また花粉の季節がやって来ました。眼が痒くなるのと、温度変化で起こるクシャミと鼻水に悩まされます。でも薬は最小限に抑えようと思います。《R.O.》


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.979

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com