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NO.841             Ryo Onishi              6/24/2012  

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LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
 
雑貨屋のひとり言

4年ぶりにハワイオアフ島に行ってきました。ハワイは四年ぶりでしたが、前回とは違った面白さがありました。ツアーではなくレンタカーで自由に移動できたので、楽しさが倍増しました。ドライブ途中、絶滅危惧種のハワイのアオウミガメが日光浴のために砂浜に上がってきているのが観れてラッキーでした。
それと為替レートが1ドル79円という円高で、何もかもが安く感じました。気楽にお土産が買えたのは事実です。私がロスに赴任した1982年は1ドル280円?だったので 、ずいぶん円高になったものです。
オアフ島は天気がぐずつき気味で時々、雨に降られることがありました。でも日本は台風の影響で雨による被害が大きいところがあったようですね。最近 野日本は、自然災害が頻繁に発生します。これはもう異常ではなく、これからも普通に起こることにならなければいいのですが。≪R.O≫

 

大 卒 失 業 者

景気の先行きが不安定で、失業率が高いアメリカでは、大卒の就職もままならないのが現実です。親から借金をしたり(日本と違い、親が子どもの大学費用を丸抱えという形式は比較的少ないといわれています)、多額の学生ローンを組んで、卒業後就職してから返済しようと考える学生たちの人生設計は第一歩からつまづき、厳しい現実に直面しているのです。

オバマ大統領も、彼がハーバード大法科大学院を卒業してミシェルさんと結婚した際、大きな借金を抱え、完済したのは8年前だったと述べています。奨学金制度も充実はしていますが、しかし、大半の学生は学生ローンを組んで授業料をまかなっています。その学生ローンも7月から利率が2倍(3.4%から6.8%へ)になる予定であり、学生たちの悲鳴が聞こえます。

新聞報道によると、AP通信が行った調査結果で、大学を最近卒業した25歳以下の学位取得者のうち53.6%(約150万人)が目下失業中であることがわかったとのこと。要するに25歳以下の大卒の2人に1人が失業していることになります。

それでも看護、教育、会計、コンピューター・サイエンス学科の学位を取得した人は、まだ比較的容易に就職先が見つけやすいようですが、動物学や人類学、人文科学などの場合はたいへんなようです。

地域別では、アラバマ州、ケンタッキー州、ミシシッピー州、テネシー州などの南西部や、カリフォルニア州、アラスカ州、オレゴン州、ワシントン州、ハワイ州などの太平洋沿岸部で失業が目立ち、ネバダ州が最も高い大卒者の失業率なのだとのこと。

アメリカでは、弁護士や会計士など、それなりの資格を持った人がその資格にふさわしい職業につけず、不本意ながら資格と関係ない仕事をしている場合がかなりいるといわれます。同じように学位を取得した大卒者が会社などの受付係や経理部などオフィス勤務の仕事に就いた人はまだ良いほうで、中にはガソリン・スタンドやファストフード・レストランなどで、時給10ドルで雇われたり、スーパー・マーケットのレジ係や販売員、ウェイター、ウェイトレス、バーテンダーなどの職を得た人も多く、この場合、職についているわけだから失業者扱いにはなりません。「隠れ失業者」といえるでしょう。これら「隠れ失業者」を含めれば、アメリカの失業率はさらに高くなるのではないでしょうか。

自分が予定していた給料よりはるかに低い額でも就職できればラッキーのほうで、就職できずインターンシップという薄給で我慢したり、借金を重ねて大学院に逃げ込んだりと、学生たちもいろいろ苦労することになります。

大学の学費は法外に高いアメリカですから、学生たちの抱えるローンの額もかなりなものです。先日、当地の新聞に「UCとCSU、授業料を大幅アップ:度重なる引き上げに学生ら悲鳴」というタイトルの記事がありました。UC(カリフォルニア大学機構)とCSU(カリフォルニア州立大学機構)が今年も授業料の大幅値上げを決めたという記事でした。アメリカの大学生が卒業するとき、一人平均約2万5千ドル(約200万円)の借金を抱えている計算になるそうです。

財政難に悩むカリフォルニア州では、州立大学の運営にも支障をきたしています。そこでUC機構の場合、2012年秋学期からの授業料を9・6%引き上げ、これにより同大学機構に通うカリフォルニア州民の大学生と大学院生の年間授業料は、1万2千ドル、州外からの学生や留学生の年間授業料はおよそ3万6千ドルになるのだそうです。これには寮費やおよそ1,000ドルの大学施設利用料は含まれていません。

UC機構によると、今回の引き上げ後でも、この金額は私立大学のスタンフォード大学や南カリフォルニア大学などと比較するとまだ約三分の一程度なのだそうです。

アメリカの大学に授業料がどれほど高いかよくわかります。もっとも大学にも授業料の免除適用制度があるのですが、この制度で全額免除を受けられるのは、家族の総年収が8万ドル以下の学生に限られており、圧倒的に多くの中産階級の学生たちには不適用となります。こんな高額な授業料を工面して、ようやく卒業してもふさわしい仕事にありつけないようでは、アメリカの前途が少々心配になります。

アメリカの大学生も卒業後に厳しい現実が待っていることは日本と変わりないようです。
河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

さくらの独り 言 「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

金相場グラムがでかい顔をする

剣よりもペン ペンよりもツイッター

義務の字は書けず権利の字は書ける

灰色無罪政界を闊歩する

日の丸を元気にさせる金メダル


( ニュースやぶにらみ )

「新グループ」
OZAWA 49? −AKB48

「目標はメジャー3千本安打」
一郎さんは新党を幾つ? −イチロー選手

「井岡、八重樫戦」
激闘の後の握手に感動した −野田首相


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

会場(千駄木)周辺散歩 (61)
*長谷川町子、宝井馬琴
 句会場から行って団子坂上交差点を左折、宮本百合子が少女期と晩年を過ごした実家跡前を右折すると大給坂があります。坂上に大給子爵邸があったのでそう名付けられました。
戦後福岡の疎開地から帰ってきた長谷川町子一家がその坂の途中に住み『サザエさん』を描き、町子三姉妹で作った姉妹社という出版社を作り『サザエさん』を出版しています。この姉妹をモデルにした、昭和52年のNHKの朝の連続ドラマ「マー姉ちゃん」をご記憶の方もい らっしゃるかと思います。
 後、町子と姉、姉妹社は世田谷区の桜新町に引越し、そのあとに移り住んだのが講談師五代目宝井馬琴です。戦後第一回目の参議院選挙に立候補し、惜しい所で落選しましたが、私の父が、講釈師も貴族院の選挙に出る時代になったんだと言っていたのを覚えています。
宝井琴調『講釈師一代 血涙修業伝』より 
「私が門を叩いた五代目馬琴の家は、文京区千駄木にありました。近くに鴎外、漱石の旧宅。坂を下りれば下町谷中、という閑静な住宅地でした。前もって約束をしてありましたが、不安に震えながら呼び鈴を押すと若い女性が出てきました。
師匠宅のお嫁さんで、後々この方にどれだけ助けれたことか」 
次いで六代目馬琴です。
谷根千94号より「六代目馬琴さんが琴鶴を名乗っていた頃、(略)千駄木の谷根千工房に見えた時〈講談師もこういう木造の家に住みたいもんですな〉と引き戸をがらりと開けるところを何度も繰り返しやっていらしたのが印象深い」

龍翁余話

龍翁余話(236)「七里ガ浜哀歌2題」

先週の『余話』(235)で、旧友A・Mさんのお仲間たちに同行しての「鎌倉・紫陽花巡り」を書いた。その終章に“実は翁、かねてより鎌倉幕府滅亡の引き金となった新田義貞の幕府攻めの拠点、稲村ケ崎の歴史に触れたくて、この機会にと、Mさんや皆さんのご了解をいただき、1人で稲村ケ崎へ行った。そのことは次号に紹介する予定・・・”と結んだ。Mさんたちとお別れしたのは成就院の紫陽花観賞を終えた後の江ノ電・極楽寺駅。稲村ケ崎駅はその一駅先。(そこには、もう1つの哀歌があった。逗子開成中学校ボート部員の遭難事故で12人が海に沈んだ悲話)。
江ノ電「稲村ケ崎駅」    

♪七里ケ浜の磯伝い 稲村ケ崎名将の 剣投ぜし古戦場

相模湾(七里ケ浜)の潮鳴りを耳にしながら人影もまばらな砂浜を歩いていると、子どもの頃に覚えた小学唱歌『鎌倉』(明治43年、芳賀矢一作詞、作曲者不詳)の歌が自然と口をつく。七里ケ浜とか稲村ケ崎って、何処にあるのだろう?名将って、誰のことだろう?何故、剣を投げたのだろう?子どもの頃は地理も歴史も解らないまま歌ったものだ。8番まである歌の内容は“鎌倉幕府の興亡史”を謳ったものだが、メロディが何とも物哀しいので翁、あえて“哀歌”と言う。

後年『太平記』を読むに至って、ようやく『鎌倉』の歌詞の意味と歴史を理解することが出来た。『太平記』とは、南北朝時代を舞台に後醍醐天皇(第96代天皇)の即位(1318年)から鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇崩御(1339年)、足利将軍家の台頭(室町幕府初期)までの約50年間を描いた戦記物。『稲村ケ崎の戦い』はその間、後醍醐天皇の下命で上野国(群馬県)新田庄の武将・新田義貞が挙兵して鎌倉までの道中処々で幕府軍(北条軍)を破り、いよいよ鎌倉へ。時は1333年5月21日、義貞自ら稲村ケ崎の海岸を渡ろうとしたが切り立った断崖と相模湾の高波に阻まれ岬越えは至難、そこで義貞は引き潮を念じて剣を海に投げた。すると龍神が呼応して瞬く間に潮を引かせ騎馬団(騎馬数は不明)はやっと岬の南側を渡ることが出来、鎌倉を攻略した。驕り、油断の幕府軍は総崩れ、時の執権・北条高時ら一族は東勝寺において自刃(と、『太平記』にある)。源為朝が1192年に征夷大将軍に任ぜられて始まった鎌倉幕府も141年で滅びたことになる。なお、為朝死後、為朝の正室(尼将軍と呼ばれた)北条政子が北条家を代々の鎌倉幕府最高権力の座に築き上げた話は有名。鎌倉幕府倒幕の立役者ながら不器用だった新田義貞は、その後(同時期、後醍醐天皇の信頼が厚かった)足利尊氏の陰謀によって次第に不遇の道を辿る。『鎌倉攻め』から5年後の1338年、越前国(福井県)『藤島城の戦い』で戦死、義貞ファンの歴史家は“後醍醐天皇に利用された不運の武将”と評している。稲村ケ崎(鎌倉海浜公園)の広場には『新田義貞徒渉伝説碑』と明治天皇の【投げ入れし 剣の光 あらわれて 千尋(広い)の海も くが(陸)となりぬる】の『御製碑』が建っている。 
新田義貞徒渉伝説地碑 右:明治天皇御製碑 ボート遭難の鎮魂碑(インターネットより)

♪真白き富士の根 緑の江ノ島 仰ぎ見るも 今は涙・・・
偶然にも、前述の『鎌倉』の歌が発表された明治43年(1910年)の1月、逗子開成中学ボート部の遭難事故が起き、12人の部員全員が海に沈んだ。彼らが江ノ島を出る時「悪天候だから」と漁師に止められたが、少年たちはその忠告を無視してボートを漕ぎ出し、七里ヶ浜(稲村ケ崎の沖)で転覆沈没、この事故を目撃した江ノ島や七里ヶ浜の漁師たちはいっせいに半鐘を鳴り響かせ、悪天候をついて漁船で救出に向かったが発見出来ず、翌日、横須賀海軍掃海艇によって12人の遺体が収容された、と記録にある。《真白き富士の根》の歌詞は当時の鎌倉女学校・三角錫子教諭によって(同明治43年に)作られた。実は翁、子どもの頃(小学校4年頃)にギターを習い、初めて独奏したのがこの歌。今でも楽譜無しで弾ける(と思う)くらい馴染んでいる。しばし鎮魂像に合掌。

江ノ島から七里ヶ浜、稲村ケ崎、由比ヶ浜、鎌倉への道は、これまでに何十回ドライブしたか知れないが、七里ヶ浜(稲村ケ崎)に立ったのは初めてだ。日暮れまで“不運の武将・新田義貞”と“哀しき12の御霊”の<七里ヶ浜哀歌2題>に思いを馳せ、翁呟く≪潮風に 昔の音を尋ぬれば そは遠き世々の跡≫・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

紫陽花の花の咲く頃

紫陽花の花が咲く頃、祖母はあの世に旅だった。紫色が好きだった祖母は紫陽花の花が大好きだった。祖母が危篤と聞いてアメリカから八王子の病院に直行したのは4年前の6月だった。日が暮れかけた頃に病院の受付にたどり着くと後ろから ″お姉さん ″と声を掛けられびっくりした。振り向くとそこには弟のお嫁さんが立っていた。弟も出張先から急遽戻り車で家族と駆けつけてほぼ同時に病院で鉢合わせになったのだ。弟の携帯から電話を受けた母はちょうどその時、弟夫婦の家族を迎えに上の階から受け付けに降りてきたところだった。母は私たちを見て″あなたたち一緒に来たの?″と尋ねたくらいタイミング良く偶然一緒になった。
すぐに祖母の病室に入り祖母に挨拶をした。″おばあちゃん、長い事待たせてごめんね。今帰りましたよ ″そう言って彼女の手を握り締めた。薬で朦朧としていたのだろうか、殆ど反応が無かったが、かすかに開いている目の表情が変わったような気がした。もうすでに意識の無い状態になってしまったのだろうかと母に尋ねると″大丈夫、おばあちゃんは、貴方が帰ってきた事をちゃんとわかっているから ″そう母は言った。

長い間、父方の祖母をまるで実の娘のように介護してきた母は祖母の事は良くわかっていた。
介護の限界まで母は良く祖母の面倒を見た。そのうち自分の体が壊れて自分で介護が出来なくなって祖母をホームに預けてからも母は毎日毎日雨の日も風の日も雪の日も八王子の祖母がいるホームまで片道1時間半かけて通った。祖母が寝ていて起きない時もたとえ10分でもその寝顔だけ見ては帰ってきたそうだ。着替えも毎日母が洗濯して届けた。祖母が外出する事が出来なくなってからはおしゃれも出来ないので、せめてパジャマだけでもと母がたくさん祖母の好きそうなものを買い揃えたのだ。その数は大きなゴミ袋に2袋になるほどでその中には、まだ新品のものもいくつかあった。

明治生まれの気丈な祖母は両足を骨折して車椅子になった頃はそんな自分の姿を見られるのが嫌で時々母と出かける時には帽子を目深にかぶりサングラスをして時々はマスクまでしていたらしい。祖母が亡くなる数年前にもう一度アメリカに遊びに来たらと祖母に薦めるとパスポートを取りに行くのが面倒くさいと言った。化粧もしなくちゃいけないし、もうこんなシワクチャな顔を写真に撮られるのが嫌だと言った。それを聞いて ″見合い写真じゃあるまいし、化粧してもしなくても大差ないし、それに誰も何も気にしちゃいないわよ ″とストレートに私は言った。それでも祖母は笑いながら″ずいぶん、ひどい事を言うじゃないの。そういうお前さんはどうなんだい ? ″とやりかえしてきた。
祖母は私がアメリカから電話をすると第一声が ″まだ生きてんのよ〜 ″だった。本当に仲の良かった祖父が亡くなって祖母は早くおじいちゃんの所に行きたいと嘆き悲しんでいたがなかなかお迎えが来なくて祖父が亡くなって20年生きた。後半入院退院を繰り返しその都度 ″おじいちゃんが迎えに来たんだけど今度も帰っちゃったのよ ″と聞かされた。″おばあちゃん、本当はまだまだって、おじいちゃんを追い返してしまったんじゃないの?″と祖母をからかったものだ。

祖母は政治や社会情勢にも興味がある人でお世辞が大嫌いでストレートにポンポンものを言うはっきりした性格の人だったので男友達も多かった。でも長生きしているとだんだん遊び友達もマージャン仲間もいなくなり長生きしていても役にたたないとか、散々長生きしたから飽き飽きしたとぼやくようになっていった。それでも祖母は胃腸が丈夫で家にいた頃は自分の歯で何でも良く食べていたので車椅子になってからも体力も気力もあった。歯も丈夫で固焼き煎餅やフランスパンなども好きでバリバリ食べていた。美味しいものを食べるのが好きで快活だった祖母の目から力が無くなっていったのは96歳の時に7本の歯を一遍に抜かれて入れ歯になった頃からだった。
食べるという漢字は人を良くすると書くと誰かが言っていたが正しく食べると心も体もシャンとする。食べたものをちゃんと咀嚼するとこめかみが動く。こめかみが動くと脳に刺激が行く。慣れない入れ歯と突然7本も歯を抜かれたショックで祖母は母にあたり ″こんなもの!″と入れ歯を投げつけたそうだ。だんだん食べる意欲もなくなってくると痩せてきて体力が無くなり抵抗力が無くなる。それから段々ユーモアやジョークも言わなくなっていったらしい。

祖母の最後の入院先で私と母は一週間病院で寝泊りが始まった。祖母と同じ病室でもう1人娘さんがお母さんを見ていた。ちょうどその娘さんは恵比寿にあるブティックのオープニングの時で忙しく店と病院を行ったり来たりしていた。その頃時を同じくして彼女も病院のリハビリ室の隅っこに用意された簡易ベッドで寝泊りが始まった。私たちはホワイトボードの仕切り越しに夜遅くまで四方山話をし昼間は待合室で延々といろいろ話しをした。
瀕死の身内が要るというのに何を話したか覚えていないがよく2人で笑ったりもした。顰蹙ものかもしれないけれど、暗く沈んでいても仕方がない。待合室でいつ呼ばれるかわからない時を待つ間どうせだったら少しでも明るくなるような話題を選んだ方がいい、、、とお互いに思ったかどうかはわからないけれど話が弾んだ。
そんな私たちを時々母に″もう少し静かにしゃべりなさい ″とたしなめられた事も度々あった。

私は病院にいてもやる事がないので夜が明けるとすぐに早朝散歩に出かけた。日本の夜明けは早い。白々空が明るくなると目が覚めてもう朝かと思ったらまだ4時半だったりする。いくらなんでも早朝のカフェもまだ空いていない。仕方が無いのでカフェが開くまで高尾山が見える高台まであちこち朝の散歩をした。その時に紫陽花の花が街のあちこちに鮮やかに咲いていたのが印象的だった。紫陽花の季節に祖母は逝ってしまうのかな〜、そんな思いで毎朝散歩をした。

散歩が終わって病院に戻る頃、病院は朝の忙しい時を迎えていた。患者さんの世話で殆どの看護婦さんや看護士の人たちは廊下を走っていた。一週間も病院で過ごしているとそのローテンションがわかってくる。ある日のランチ時、病院の食事を興味深く観察していたら後ろから看護士の人が声をかけてきた。″一見するとわからないけれど同じメニューでも1人1人の患者さんの食事は皆違うんですよ。例えば同じリンゴでも元気な人はリンゴが生のままだけど胃腸や歯の無い人はマッシュしてあります。飲み込む事が困難な人はリンゴジュースにしてあります " と説明された時には驚きと感動だった。良く見ると一人ひとりのプレートに名前が書いてあり減塩の人もいれば減糖の人もいるのでその内容成分までが詳しく書いてある。アメリカでの病院食ではあり得ない話だ。手術後の病院食の酷さに涙したと友達から聞いたことがあるが日本の食に対するきめ細かさと心使いはすごい。
ただカロリーや栄養を計算して出されたものと違って見た目の飾りつけや香りも大事にしないと食の楽しみは無くなってしまう。美味しいと思った時に食事は脳みそにも満足を与え体に吸収され栄養となるのだろう。

この病院に一週間寝泊りして数え切れないほど毎日たくさんの感動と発見があった。
祖母と相部屋だった方は祖母より一日違いであの世に旅立っていった。その翌日祖母も98歳であの世に旅立った。

激動の明治、大正、昭和、平成と生き抜いてきた祖母の波乱万丈の生き様をいつかゆっくり聞いてみたいと思っていたが ″時すでに遅し″祖母は数冊の日記を残して祖父のもとに旅立っていった。

先週の金曜日は祖母と同じ病室にいた方の娘さんがお母様の命日の一日前にお墓参りに八王子に出かけ、その足で我が家に立ち寄ってくれた。ちょうど梅雨の合間の穏やかな晴れ日に恵まれたと嬉しそうに話してくれた。お墓参りの帰りに高尾の近くのお蕎麦屋さんで1人ビールを飲みながら心地よい風に吹かれて本当に気持ちが良かったと…私の母に高尾山のおみやげまで買ってきてくれた。ビールの好きな彼女とその日はゆっくりと楽しい時間を過ごした。″もうあれから4年も経つのね ″と彼女が言った。

彼女の母親は父親が亡くなってから女手ひとつで3人の子供を育てたという。母親の後姿を見ながら育った彼女はそんな母親を誇りに思い尊敬しその母親から自分が生まれた事を今でも感謝しているという。母親の思い出話や世間話をしながら5本目のビールを飲み終えると彼女は帰っていった。

雨の多いこのシーズン、紫陽花の花が街のあちこちに彩りを添えている。また来年も紫陽花の花の咲く頃、彼女とビールを飲みながら四方山話をしよう…そんな事を思った。


茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

今週はスカッとさわやかな印象のAndy Snitzerのサックスをご紹介しましょう。 ジャケットは3人でサックスを演奏しているように見えますがAndy Snitzer一人だけです。


"Sugar" Andy Snitzer
1. Sugar
2. T. Time
3. You Don't Know What Love Is
4. Moritat
5. Blue Train
6. A Song For You
7. Mr. Groove
8. Blue Seven
9. Wild Horses

Andy Snitzer (Tenor SAX)
Alan Mallet (Piano and Organ)
James Genus (Bass)
Clarence Penn(Drums)

 
ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

先週の雑貨屋ウィークリーはホノルルからの発行でした。19時間の時差がありますので、アップが遅くなってしまいました。 PDFファイルも都合でアップできませんでした。ホテルの部屋のWiFi(無料)でウルトラブックを使い編集とファイルのアップを行いましたが、いつもとちょっと勝手が違い 手間取りました。

iPad
私の宿泊したホテルのすぐ近くにアップルストアがあり、いつもたくさんの人で賑わっていました。街中やホテルでiPadを持っている人をよく見かけました。 やはりアメリカですね。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.841

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com