weekly

NO.677                Ryo Onishi              5/3/2009  

 weekly

 

LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
 .
雑貨屋のひとり言

さわやかで気持ちの良い連休です。朝夕は肌寒いくらいで、ロスのような気候です。休日の高速道路は大変混雑しているようですが、馬場さんご夫婦が萩から来られました。お会いするのは結婚式以来になります。といっても2ヶ月ちょっとですが。娘夫婦と6人で、大阪福島にある"THE DIM SUM BAR"という飲茶のお店にいきました。入るとまるで香港のお店にいるような錯覚に陥ります。久しぶりに食べた飲茶はとてもおいしくみんな大ファンになってしまいました。JR環状線福島駅から徒歩6分くらいのところにあります。≪R.O≫

 F.D.R メモ(10)

――― 前号よりの続き。以下の覚え(メモ)はすべて下記からの引用(または参照)であり、私自身がフランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、以後の記述では「F.D.R.」とします)を知るためのメモであることをお断りしておきます。―――

「ルーズベルト、ニューディールと第二次世界大戦」(新川健三郎著、清水新書)
「パクス・アメリカーナの光と影」(上杉 忍著、講談社現代新書)
「ルート66、アメリカ・マザーロードの歴史と旅」(東 理夫著、丸善ライブラリー)
「フランクリン・ルーズベルト」(T.V.番組、知ってるつもり)、その他、インターネットからの情報

〔]〕1937年恐慌とニューディールの終焉
(1)1937年恐慌
 1937年、F.D.R.大統領はこれまで実行したニューディール政策(第1次、第2次)の結果による景気回復、インフレ開始を踏まえて、今度は大幅予算削減による均衡予算の実現を目指した。WPAの失業対策雇用や救済資金が大幅にカッとされた。また、銀行に対しては引締め政策がとられた。しかし、その結果、景気は一挙に後退し、失業率が再び急上昇した。

 そのため、F.D.R.政府は、予算均衡主義を放棄せざるを得ず、再び大幅な赤字財政に転じた。それでも景気は、はかばかしくなく、経済が 1937年水準までに回復したのは、1939年、アメリカの軍拡が開始されてからであった。

(2)1938年選挙とニューディールの終焉
  恐慌の再発に伴ない、保守派は勢いを盛り返し、民主党保守派が共和党との連合の動きを示したり、また、国際情勢の緊迫化によって、大統領も保守派の協力が必要になるなど、ニューディールにとって時代は厳しくなっていった。

  1938年の中間選挙はこれらを反映し、民主党は予備選挙でも保守派に主役を奪われ、さらに本選挙でも、共和党が上院で7議席、下院では80議席増やし、民主党は敗北した。そこで、F.D.R.は、これ以上の社会改革をあきらめざるをえなかった。 1939年年頭教書で、彼は「社会改革に関する我々の計画に着手して、内部紛争を行っている時期は過ぎ去った」と述べたのだった。

(3)大統領はこう思う
  F.D.R.は、かってこの国が経験したことのない未曾有の危機に直面して、従来の枠組にとらわれず、あらゆる可能性を積極的に取り入れて実験する態度をとった。「何か、ある方法を考えたら先ず試してみることだ。それが失敗したら、別の方法を試してみたまえ。とにかく何かをやってみることだ」と彼はいつも言った。その柔軟な態度は、豊かなアイデアをもった若い明敏な学者、大学教授や法律家、社会改良家に期待を抱かせ、彼等の多くがホワイトハウスにやってきた。F.D.R.大統領は、これらのブレインのアイデアに積極的に耳を傾け、大いに議論した。―― しかし、彼は最後には、「大統領はこう思う」で議論を打ち切り、強力な指導力を発揮した。

 また、彼はとりわけ国民との対話を重視した。大統領は、ほとんど毎日のように記者を自分の部屋に招き入れ、複雑な問題をわかりやすく説明し、国民を教育した。ラジオを通じて、家庭でくつろぐ数千万のアメリカ国民に、緊急の政治問題を、だれにでも理解できる言葉と比喩を使って説明する「炉辺談話(Fireside Chats)」を発明したのも彼だった。

国民は、彼に対してごく親しい隣人のような親しみを感じ、気軽に手紙を書いた。その数は毎日 8,000通にも達し、彼はそのすべてに返事を出すために多数のスタッフを雇った。

(4)ニューディールの結果、アメリカはどうなったか
(a)、連邦政府、あるいは大統領府の役割が、一挙に肥大化した。それまで国民の大部分にとって「政府」とは、州あるいは地方政府のことだった。しかし、ニューディール以降は「政府」とは、むしろ連邦政府のことを指すようになった。連邦政府は、国民の保護と産業の振興をも、その中心的な仕事とするようになり、国民の前に直接現れることが多くなった。
  
(b)、利潤追求と私有財産制度を基礎とする資本主義制度に、なんら変更はなかったし、大資本の優越が覆されたわけでもない。そして、大金持ちは大部分、相変わらず大金持ちで、貧乏人は相変わらず貧乏人だった。だが、1930年代の所得配分は、最上層部分が占める比重が減り、中間層の占める比重が増えている。ニューディールは、中間層に恩恵をもたらす結果となった。

( c)、ニューディールは、アメリカ史上初めて本格的な自然保護政策を開始した。それまで、1890年代に西部の自然資源の乱開発に警鐘が打ち鳴らし、ヨセミテ公園などの国立公園が設定されたが、それはあくまでも残された自然の保護に力点がおかれていた。
  しかし、ニューディールが取り組んだのは、自然に働きかけ、それを回復させ生かす事業だった。植林やダム建設、遺棄農地にクロ−バやクズを植えて砂漠化を防ぐ土壌保全政策が政府の援助のもとに行われた。

(d)、失業問題を解決する政策として取り組まれたニューディールは、結局はその解決に失敗した。失業問題が、ともかくも解決したのは、ニューディールが終わり、第二次世界大戦が始まって軍事支出が飛躍的に膨張した、1941年のことだった。

 1929年に始まる大恐慌の10年間は、20世紀のアメリカ人にとって最もつらかった時代の一つだった。だが、1920年代が物質的富と立身出世の時代だったとすれば、1930年代は、アメリカ人が、この国はどうあるべきかを真剣に考えた、血沸き肉踊る社会改革の時代だったと言えるだろう。

――― 以下次号に続く ――― 
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

四日目はもう引出しの万歩計

ジョギングを励ますお堀端の四季

国賓のジョギング警備息が切れ

一筋の道コツコツと靴の音

我が道を頑固な父の七五調

( ニュースやぶにらみ )

「4から5に」
これが通知表ならなあ −豚児

「支持率上昇」
フエーズ4から3に −麻生内閣

「心配」
マスクをしています −鯉のぼり

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(24)*
* 夏目漱石旧居跡                      
川端康成の筆による旧居跡の石碑の碑文より
『夏目漱石は明治卅六年一月英国から帰り 三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構へた。前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが, 卅八年一月「我輩は猫である」「倫敦塔」等を発表して忽ち天下の注目を浴び, 更に「猫」の続稿と並行, 卅九年初から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした。 歳末廿七日西片町に移り, 翌四十年四月朝日新聞に入社し, 以後創作に専念した。千駄木町は漱石文学発祥の地である。
 森鴎外も前に(自明治廿三年十月 至同廿五年一月)その家に住んでゐた。 家は近年保存のため移築され, 現在犬山市明治村にある。』
「吾輩は猫である」にこの旧居周辺が書かれています
『「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。』の主人公の猫が苦手とした黒猫のいた車屋は向かって左側。 『新道の二絃琴の御師匠さんのとこの三毛子でも訪問しようと台所から裏へ出た。三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。』の三毛子の女師匠の家は向かって右側の路地に。旧居の西側の裏は 落雲館と称する私立の中学校のモデルになった郁文館中学(現郁文館中・高校)があります。    
 また漱石の熊本時代の教え子である寺田寅彦が三日にあけず遊びに行ったとされ、「我輩は〜」の寒月君は寅彦がモデルではないかといわれています。
お断り
毎回お付き合いをいただきありがとうございます。
この駄文は、毎月第三土曜日に千駄木で行われていて、私も参加している川柳研究社の句会案内のチラシの裏に書いていたものを、毎週載せさせてもらっていました。今回でその書き溜めていた分がなくなりましたので、次回から「ぶらり散歩」は毎月第三土曜日だけにさせていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

森田さんから

今週はお休みです。              

龍翁余話

龍翁余話(79)「昭和の日、代々木公園へ」

会社(東京・代々木)の往き帰りに、いつも車で通る原宿の、代々木公園脇の街路樹の葉っぱ群が緑を濃くして道幅を狭く感じさせる。爽やかな五月晴れと新緑に誘われて、『昭和の日』(4月29日)、何十年かぶりで代々木公園を散策した。実はこの日、来日中のアメリカの友人が「29日の朝9時から1時間しか面会時間がないが、是非、会いたい」というので、彼が宿泊している日本橋のRホテルに出かけた、その帰り道、急に思い立って地下鉄千代田線「明治神宮前」(原宿)で降り、公園に足を向けたのだから、正確には“爽やかな五月晴れと新緑に誘われて”というのではなかったのだが・・・

5月の季節の挨拶に「新緑の候」、「薫風の候」、「立夏の候」などがあるが、何と美しい日本語だろう、園内を歩いていると「新緑・薫風・立夏」の全てを体感する、ここは、まさに大都会のオアシスだ、と思ったのは後刻のこと。地下鉄から地上に出た途端、ボリュームいっぱいのスピーカーが耳をつんざく。右翼の街宣車ではない、野党各党の宣伝合戦だ。もともとこの日(4月29日)は昭和天皇のお誕生日だ、静かに昭和の時代を偲ぶ日だというのに、無神経な奴らめ、と、ムカつきながら公園へと歩を進める。党名入りの襷を掛けた党員たちが、大勢の通行人にビラを配る。路上には捨てられたビラが散乱。公園入り口(原宿門)付近で、襷掛けの若者が翁にビラを突きつけた。拒否しようと思ったが「お願いします」の若者の真剣な眼差しに負けて受け取った。「ありがとうございます」と若者が頭を下げた。翁、咄嗟に「頑張れよ」と声を掛けた。若者が再び「ありがとうございます」・・・それまでの翁のムカつきは、やっと治まった。“単純だな”、とニガ笑い。

“入園券売り場は?”と、辺りを見廻したが、どこにも見当たらない。“ああ、そうか、ここは都立公園だ”。左脇の売店でお茶のペットボトルを買い、公園案内(掲示板)を頭に入れて、しばらく歩いた先の木陰のベンチに腰を下ろし、まずは一服。連休スタートの祝日だし、晴天だから、さぞかし人出は多かろうと思っていたが、意外に少ない、というより少なく感じるくらい園内は広いのだ(東京ドーム10個分以上の面積)。家族連れ、若者同士、ジョギングする人たち、外国人もけっこういる。そんな中で、タバコの吸殻、紙くず、空き缶や空きボトルなどを黙々と拾って廻る何組かのボランティア・グループを見かける。子供たちもいる。公徳心のない大人の行為に、その子たちは何を感じるだろうか?“ご苦労さん”と心の中でねぎらいながら、翁、途中でタバコを吸うのを止め、携帯吸殻入れに収めた。ほどなくスピーカーの宣伝合戦は止み、園内はようやく静かなオアシスの雰囲気に包まれる。意外に花類は少ない。バラ園やハーブ園の花はまだ咲いていない。でも、クスノキ、クロマツ、ケヤキ、ソメイヨシノ(今は葉桜)、サルスベリなど、高木1万本余、低木数万本のオゾンの空間に心身の癒しを実感する。

この公園は、江戸時代は彦根藩主・井伊家の下屋敷、明治42年(1909年)に陸軍が買収して代々木練兵場に。ここで徳川好敏(徳川将軍家の血筋、陸軍航空分野の先駆者、後の陸軍中将)と、日野熊蔵(航空界黎明期のパイロット、“日野式飛行機”の設計者、後の陸軍中佐)の両大尉(当時)による日本最初の飛行が成功した(写真左:「日本初飛行の碑」)。戦後、米軍の宿舎(ワシントンハイツ)が置かれたが、東京オリンピック(1964年)を機に返還され選手村となる。その後“水と緑の公園”として都民の憩いの広場に生まれ変わった。

公園の中央部に高さ30mも吹き上げる噴水の池(写真中)、その近くに奇妙な石の彫刻がある(写真右)。説明板には「この彫刻は、1990年に日本国とメキシコ合衆国の友好親善のシンボルとしてメキシコから東京都に贈られたもの。古代メキシコ神話の文化神ケツアルコアトウルの化身“羽毛のある蛇”を表している」と記されている。こういう贈り物は大いに歓迎だが、メキシコ発“豚インフルエンザ”には困ったものだ。

歩き廻っていると、あちこちで楽器の練習風景を見かける。フルート、クラリネット、トランペット、バイオリン、ウクレレ、マンドリン、中に三味線を弾いている若者もいた。音楽にはほど遠い“音苦”だが、小鳥たちの囀りが、それぞれの“音苦”を補ってくれているから、けっして耳障りではない。2時間を超える散歩で、いささか足の重みを感じる。
“音苦”から離れた所のベンチに腰を下ろし、ペットボトルのお茶で喉を潤す。本来ならここで一服するのだが、環境に制されてか、タバコに手が行かない。

老夫婦の静かなオニギリランチが微笑ましい。家族連れや若者同士のランチパーティは賑やかだ。笑い声が絶えない。ギター伴奏で歌っているグループもある。ここでは不景気も“豚インフルエンザ”も無い。浮世の憂さを忘れて、皆が平和に浸っている。ベンチに座って遠くからそんな情景を眺めている翁の心境も穏やかだ。しばらくして、ふと、空腹を覚え、ベンチを離れる。が、自分の居場所が分からない。近くの若者に出口を訊ねる。「原宿方面なら、あちらの方向です。10分ぐらいで行けます」・・・「ありがとう!」・・・

来た時、政党の襷を掛けた若者に礼を言われ、帰る時、親切な若者に礼を言う。瞬時の出会いだったが、嬉しいではないか。日本にはまだこんな若者が沢山いるのだ。『昭和の日』急な思い立ちであったが、気分も五月晴れの代々木公園散策であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

最近、ヒットしている女性シンガーソングライター"JuJu"のアルバムをご紹介します。彼女のセカンドアルバムです。聴かせる歌です。

JUJU "What's Love?"

1. What’s Love?
2. 素直になれたら
3. U Got Me
4. Missin’U
5. My Life
6. I can be free [album version]
7. sakura
8. 空
9. LOVE TOGETHER
10. 君がいるから -My Best Friends-
11. 世界が終わる前に
12. やさしさで溢れるように
13. 愛しい
14. どんなに遠くても...

《R.O.》

編集後記

コンピュータ周辺を片付け、ついでにPCのホコリをきれいにしていました。夢中でやっていたので今日が日曜日だということをすっかり忘れていました。あわてて編集したところです。
雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.677

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com