――― 前号(666号)よりの続き。以下の覚え(メモ)はすべて下記からの引用(または参照)であり、私自身がフランクリン・ルーズベルト(Franklin
Delano Roosevelt、以後の記述では「F.D.R.」とします)を知るためのメモであることをお断りしておきます。―――
「ルーズベルト、ニューディールと第二次世界大戦」(新川健三郎著、清水新書)
「パクス・アメリカーナの光と影」(上杉 忍著、講談社現代新書)
「ルート66、アメリカ・マザーロードの歴史と旅」(東 理夫著、丸善ライブラリー)
「フランクリン・ルーズベルト」(T.V.番組、知ってるつもり)、その他、インターネットからの情報 |
〔W〕エレノアとの結婚、政界へ
(1) エレノアとの結婚、弁護士へ
1903年、ハーバード在学中に、彼は遠い“いとこ”にあたる エレノア・ルーズベルトと婚約した。エレノアは
1884年ニューヨーク生まれ。(F.D.R.より2歳年下)父は第26代合衆国大統領のセオドア・ルーズベルトの弟にあたる由緒ある名門の出であったが、10歳でまったくの孤児になり、F.D.R.とは対照的に幼少時から不遇な環境だった。そのためもあって、早くから社会意識に目覚め、イギリスからの留学から帰国した後、社会事業に飛びこんだ。
F.D.R.とエレノアとは親戚であったと同時に、幼なじみでもあった。エレノアの帰国後二人の交際は深いものとなり、1905年3月、前年秋の選挙で大統領に再選されたセオドア・ルーズベルトの仲立ちで華やかな結婚式をあげた。(結婚式では、セオドア・ルーズベルト大統領が花嫁の父の役を務めた)
エレノアはF.D.R.の母セイラと同様、意志の強い夫人であり、後年、夫が政界に出た後、自ら夫人活動家として社会事業に活躍するとともに、夫を支える強いいしずえともなった。
F.D.R.は
1904年ハーバード大学を卒業、弁護士を志し、法律を学ぶためコロンビア大学に入学した。1907年ニューヨーク州の弁護士試験に合格、法律事務所で働くことになった。
(2) 政治家への転進
こうした平凡だが血統の良い貴公子の人生に、突然ひとつの転機が訪れた。それは
1910年のニューヨーク州上院議員選挙戦であった。19世紀以来、北部の民主党の勢力は沈滞しており、党本部は民衆に受けの良い人材を探し出すのに躍起になっていた。そしてF.D.R.に白羽の矢がたてられた。
彼自身はまだ、ほとんど無名に近かったが、3年前に政界から退いた“共和党”の元大統領セオドア・ルーズベルトの人気は依然として強く、彼を通して、“ルーズベルト”という名前は政治的に非常に魅力のあるものとなっていた。民主党の幹部はそこに目をつけ、“民主党のルーズベルト”のキャッチフレーズで票を集める作戦にでたのだった。その上、彼らはルーズベルトが富裕なので、選挙費用から党への資金も提供してもらう算段だった。
そして彼は、元大統領の威光に加えて、精力的、かつ斬新な選挙運動により、僅少の差ながら、長年にわたる共和党の支配を破って勝利を収め、ニューヨーク州の上院議員となり、その後アメリカのみならず、世界に重大な影響を及ぼす長い政治生活の第一歩を踏み出した。
F.D.R.がニューヨーク州上院議員に当選し、政治家として第一歩を踏み出し、数々の実績を積み重ね、1912年、州上院議員に再選、1913年、ウイルソン大統領の下で海軍次官補を務め、第一次世界大戦のもとでは海軍力増強のために活躍し、1920年には民主党の副大統領候補(大統領候補は
J. M. コックス)に指名されるが敗退。
――― 以下次号に続く ――― 河合将介(skawai@earthlink.net) |