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NO.640                Ryo Onishi              8/17/2008  

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雑貨屋のひとり言

今週は北京オリンピックの一週間でした。なんだかんだといっても日本選手は結構メダルを獲得できていますよね。テレビで中国がいろんな角度で紹介されますが、中国が大きく変わってきたんだと思います。私がトロントにいたころ(1987年−1993年)、中国ではアマチュア無線局はごく限られた人しか運用できず、中国との交信はとても難しかったのですが、1989年と1992年の2回、Nanjing(南京市)のアマチュア無線局との交信に成功しています。そのとき交信の記念に交換したQSLカードを取り出して思い出しています。(R.O.)

北島選手の活躍

 北京オリンピックも全日程の半分が過ぎようとしています。アメリカのメジャー・テレビ・ネットワークではチャンネル4(NBC)から開会式や競技の様子が全米に放映されており、私たち夫婦も連日画面に釘付けです。北京と当地ロサンゼルスとは時差15時間、生で中継を観たければ真夜中過ぎの場合が多く、連日寝不足気味です。

アジアで開催の夏季オリンピックは、過去に東京(1964年)、ソウル(1988年)があり、今回の2008年北京が3度目です。

オリンピックは都市が開催するもので、国家の行事ではありません。とはいうものの、実質的には国を挙げての一大イベントです。過去の東京、ソウルも単にその都市だけでなく国全体が大きく変わるきっかけとなりました。

先週開催された友人の若尾さんが主催する月例会(JACAL)では、今回のオリンピックをテーマとして取り上げました。

このオリンピックが中国にどのような影響を与えるのか、中国はオリンピックを機にどのように変わってゆくのか、周辺国に与える影響は・・・、と興味が尽きないからです。主催者の若尾さんから『オリンピックが中国に与える影響』として、次のような例示が提出され、項目別に語り合い、有意義な会でした。(例示の詳細は省略)

(1)国内の民主化、(2)北京の市街地整備、(3)少数民族の自治(独立)促進、(4)科学技術の進歩、(5)文化の発信、(6)国内・海外の中国人に与えた誇りと自信、(7)国内の中国人のマナーの向上、(8)国際的なスタンダードへの適合。

 同時に、このミーティングで今回のオリンピックでの日本人および各国選手の活躍度、メダル獲得数の予想などについて、私が『予想クイズ』表を作成し、各出席メンバーに記入してもらいました。次回(来月)の会で、予想がどれ的中したかを評価し、表彰式を行なうことにしており楽しみです。

 ところで、8月11日の競泳男子100メートル平泳ぎ決勝で北島康介選手が世界新記録で優勝した瞬間は私たちも思わずテレビの前で歓声をあげました。NBCテレビはその後の表彰式も中継しました。全米向けのメジャー・テレビで日本国旗(日の丸)掲揚、国家(君が代)演奏の
場面が流れる様子に私たち夫婦も感激でした。『今、この瞬間を全米のテレビ視聴者が画面を観ているのか!』と、思うと全身を熱いものが駆け巡るようでした。

北島選手は続く14日の200m平泳ぎでも2大会連続の金メダルを獲得、私たちに感激と自信を与えてくれました。

 インターネットのニュースによると、彼は中国では「蛙王」と呼ばれているとのこと、優勝の瞬間、満員に埋まった現地オリンピック会場の観客席は日本人応援団だけでなく、中国の水泳ファンからも「好!(ハオ)」という賛美の声が聞かれたとありました。中国メディアも北島選手の金メダルを、「不振の続く日本を蛙王が奮い立たせた」、「蛙王の名にふさわしく、北島世界新で金」などと速報されたそうです。

 日本政府は偉業を達成した北島康介選手への国民栄誉賞授与の検討に入ったというニュースが流れています。同賞の授与の基準は、〈1〉国民の幅広い敬愛〈2〉国民に親しみのある分野〈3〉前人未到の業績〈4〉国民的盛り上がり――なのだそうで、この基準からすれば、北島選手は充分に資格ありといえると思います。
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

 

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )

四季の花咲かせてビルの奥の路地

チャリンコをベンツと呼んではばからず

夢詰めたポケット継ぎが当ててある

情報の海で焦りのマイペース

知恵の輪が解けて肯くことばかり

( ニュースやぶにらみ )

「おまじない」
コースケ コースケ コースケ  −日本選手

「番組」
オリンピックと高校野球とコマーシャル −テレビ

「オリンピック番外編」
砲弾投げ −ロシア、グルジア

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

森田さんから

                                                  

龍翁余話

龍翁余話(44)「戦場にかける橋“最後の巡礼”」

『余話』で何回かご登場いただいている友人のCさんこと中條さんと、過日、食事をした時“二つの戦中・戦後史”を聞いた。一つは、大東亜戦争(太平洋戦争または第2次世界大戦とも言う)の真っ只中、タイとビルマ(現ミャンマー)の国境付近にあった捕虜収容所を舞台に、『泰麺(たいめん)鉄道』建設のため、捕虜の連合軍兵士と周辺諸国からかき集めた民間人を馬車馬の如くこき使い、多くの犠牲者を出した。その時の日本軍が行なった残虐非道な行為を目の当たりにした(当時)通訳が、戦後、(日本人としての)罪の意識にさいなまれ、私財を投じて巡礼の旅を続けている、という話。もう一つは、これも大東亜戦争時、日本軍の捕虜となり日本各地の捕虜収容所に強制連行された英(イギリス)連邦および連合軍兵士が過酷な労働を強いられ、千数百人が亡くなった、その兵士たちを慰霊する『英連邦戦没者墓地での追悼礼拝』の話。実はこの二つの話は、中條さんの母校・青山学院大学が関わるので、本当はこの号で一挙にご紹介したいのだが、紙面の都合上、『英連邦捕虜戦没者の追悼礼拝』は次号にして、今号は『泰麺鉄道』について・・・

泰麺鉄道の悲話は、米英合作映画『戦場にかける橋』(1957年)で世界中に知れ渡った。主題曲『クワイ河マーチ』も有名だ。原作は、実際に泰麺鉄道建設で捕虜として過重労働をさせられた旧フランス軍兵士、ピエール・ブールの小説『クワイ河の橋』。物語の内容は割愛するが、この鉄道建設に従事した作業員は日本軍1万2000人、イギリス、オランダ、オーストラリア、アメリカの連合軍捕虜約6万2000人(うち約1万3000人が死亡)、募集に応募したタイ、ビルマなど周辺諸国の労働者約20万人(うち約8万人が死亡)と記録されている。「全長415km、完成までに5年はかかる」と言われたこの工事、1942年10月に始まって1年後に完成させたのだから、従事者たちはどれほど過酷な労働を強いられたことか。劣悪な現場環境、雨期(悪天候)での強行作業、食料不足からくる栄養失調、コレラやマラリアの罹災、そして日本軍による懲罰(拷問)などで「時として地獄絵図を見た」と語るのは(中條さんの大学のOB)永瀬 隆さん(90歳)。当時、陸軍通訳として現地に赴任していた彼は、「こんな拷問を、天皇陛下の軍隊がなぜやるのか」と、目を覆いたくなるような惨劇を見、そして心を痛めた永瀬さんは復員後、(自分は全く手を下していないが)日本軍が犯した罪を忘れることが出来ず、1964年にタイへの巡礼の旅を開始した。その回数今年の6月で何と134回を数えるという。翁「永瀬さんのドキュメンタリー番組を創りたい」と呟いたら、中條さん「実は8月12日の早朝『テレメンタリー2008(テレビ朝日系)』という番組で、永瀬さんのドキュメンタリー番組が放映されます」とのこと、翁、さっそくその番組を視た。瀬戸内海放送製作の『最後の巡礼』・・・

(以下、番組『最後の巡礼』から―――――)
戦後間もなく、連合軍による戦没者の遺骨収集が行なわれた。その時、永瀬さんも立ち会わされた。3週間で200箇所、1万余柱の遺骨が発掘された。収集団員たちの(永瀬さんを見る)冷ややかな目、永瀬さんは顔が上げられない、恥ずかしさ、悲しさ、そして怒り、そんな辛い思いに潰されまいと彼は、私費を投じて1964年から贖罪(しょくざい)と慰霊の旅を開始した。「この巡礼は、日本人としての道義と己れを救うためだった」と彼は言う。初めは、彼のお詫び行脚(あんぎゃ)に理解、歓迎を示す人は少なかった。しかし、年数(回数)が重なるにつれ、タイ国内は勿論、旧国連軍捕虜たちの間からも“ナガセこそが本当の日本人”と評価されるようになった。彼は1975年に“クワイ河で和解の再会”計画を日本の外務省に出したが拒否され、やむをえず独力で世界に呼びかけた。地元タイの新聞社も協力してくれた。翌年(1976年)泰麺鉄道建設に従事した旧日本軍人51人、旧連合軍捕虜23人がクワイ河の橋に集まった。あれから30年、ようやく和解の握手が交わされたのだ。
1998年に天皇・皇后両陛下が英国を訪問された際、パレードの沿道で(両陛下のお車に)背を向け、日の丸を燃やす一団があった。旧捕虜の人たちである。しかし、2002年、英国政府は、永瀬さんの長年にわたる謝罪活動に対し“特別感謝状”を授与した。日の丸を焼いた旧英国軍捕虜の一人は「我々は、日本の政府に抗議している(謝罪を求めている)が、日本国民は友人だ。とりわけ、ナガセは(我々の間では)伝説の人だ」と称賛している。
永瀬さんは、1986年に『タイ国財団法人クワイ河平和基金』を設立、これまでに1000人を超える若者に奨学金を支給、また現地に医療施設、学校を建設、平和寺院も建立した。さらに1996年から日本にタイ留学生を受け入れた。永瀬さんが(贖罪と慰霊の旅のほかに)それほどまでにタイ国へ思い入れをする理由は何だったのか。永瀬さんは語る「終戦後、タイから日本へ復員する際、タイ政府は、13万人の日本兵士ひとりひとりに飯盒(はんごう)一杯の米とザラメ(砂糖)を支給してくれた。あの時のタイ政府への恩義に報いたいのだ」と。
そして、番組のラストシーン・・・今年90歳、これが最後の巡礼になるだろうと寂しげに、しかし、充実感に満ちた表情でクワイ河の橋に立つ永瀬さんの頭上(実際はクワイ河の彼方)に虹がかかった。「あの当時も、過去133回の巡礼時も、一度も見たことのない虹、これは、私の“天国への橋”だ」、と嬉しそうに呟く永瀬さん。それは、長い間、たった一人で戦後処理を続けてきた男の輝かしいゴールにふさわしい感動的な情景であった。

素晴らしい番組だった。永瀬さんのような日本人がいてくれることに、翁、大きな喜びと誇りを覚える。生還した旧日本兵士の中には、長い間“戦争”を語ることを拒み続けた人も多い。が、彼らも歳を重ねるごとに“あの忌まわしい戦争の実態を若い人に知って貰わなければ”と思い立ち、近年、ようやく重い口を(テレビカメラの前で)開くようになった。是非とも語って貰いたい、史実を語り継ぐことが、亡くなった戦友たちへの供養となり、明日への日本の平和に繋がるのだから、っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズの魅力−今週のお奨めジャズ

Kenny Dorhamの最大のヒット作である”Quiet Kenny”をご紹介します。
このアルバムの中では2曲目のMy Idealが好きです。落ち着いて聴けるトランペットが魅力です。
Tommy Flanaganのピアノもこのアルバムをさらに素晴らしいものにしています。
1974年に47歳という若さでこの世を去っていますが、ブルーノートから数々の名アルバムを発表しています。

Kenny Dorham "Quite Kenny"

1 Lotus Blossom (04:39)
2 My Ideal (05:06)
3 Blue Friday (08:46)
4 Alone Together (03:11)
5 Blue Spring Shuffle (07:38)
6 I Had the Craziest Dream (04:40)
7 Old Folks (05:11)
8 Mack the Knife (03:02)

<R.O.>

編集後記

長い夏休みが終わりました。やはり予想通り、昼間は暑さとの闘いの日々でした。
暑いですが、店頭にはもう秋物の服が並んでいます。
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Zakkaya Weekly No.640

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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