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NO.603                Ryo Onishi              12/2/2007  

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雑貨屋のひとり言

ちょっと時期がずれたのですが息子から誕生日プレゼントをもらいました。新しいウォークマンです。音楽を聴くだけのウォークマンではなく、番組録画機能つきワンセグテレビ、ビデオ、周りの騒音やノイズを軽減してくれるノイズキャンセラーなどがついたものです。メモリーはハードディスクではなくフラッシュメモリータイプなので軽く、バッテリーの持ちもよさそうです。また楽しみが増えました。(R.O.)

カリフォルニア禁煙事情(1)

喫煙が私達の健康に有害であることは今や世界中の常識とされています。喫煙者本人だけでなく、喫煙者の吐く煙(副流煙、受動喫煙)も二次的に健康に悪影響を及ぼすとされ、副流煙による健康被害防止も含め、禁煙運動は世の中の大きな流れです。

私が見たある新聞記事によると、世界では毎年300万人を超える人が喫煙が原因で死亡しているとありました。また、全米での受動喫煙による非喫煙者の死亡数は年間52,000人以上にのぼり、そのうち3,000人は肺ガンにより死亡しているともありました。

毎年5月31日は世界禁煙デーなのだそうで、これは国連のWHO(世界保健機関)により定められ、1989年から始められ、この頃から禁煙運動が活発になり今につながっているようです。

私も若かりし頃(45年も前のことです)、就職し親元から離れた一時期、興味本位でほゞ一年間タバコを吸ったことがありました。でもある時、独身寮の部屋で偶然見かけたテレビ番組で、喫煙による肺がんの恐ろしさを知り、優柔不断な私にしては珍しく即座に所持していたタバコを廃棄したのでした。

吸い始めて一年後の当時、私の喫煙量はすでに一日20本ほどにまで増えていましたが、まだニコチン中毒に冒されるほどではなかったようで、禁煙は成功しました。でもタバコは捨てたものゝ、当時、婚約中だった今の妻から贈られた誕生日祝いのライターと私の気に入りだったクリスタル・グラス製の大きな灰皿は、捨てる気にならず保存し続けたところをみると、そのときの禁煙は私にとって決して簡単な決断ではなかったのでした。でも、今になって振り返り、あの時禁煙していてよかったと思っています。

今の世の中、喫煙者はまるで犯罪人扱いで気の毒です。特に禁煙運動の先進国といわれるここ米国は、早くから喫煙による害が叫ばれ禁煙運動は徹底しており、喫煙者がタバコ・メーカーを訴え多額の賠償を請求したりするの当然の権利と心得、それに草の根市民運動によるタバコ排斥はまるで魔女狩りを思わせるすさまじさです。

喫煙は本人だけでなく周囲にまで悪影響を及ぼすことが証明されている以上、大いに禁煙思想の普及をはかるべきことに私も異議はありませんが、これまで認められていた喫煙者があるとき突然“極悪人扱い”では、タバコに縁のない私ですら、喫煙者に若干の同情を禁じえません。

米国の禁煙は日本よりもかなり徹底していて、街中にはタバコの自販機も広告もありません。政府機関施設内、公共の場所や施設、学校などすべて禁煙と定められています。州によって差がありますが一般に公園やビーチなども禁煙となっているところが多いようです。米国旅客機国内・国際線ともに、さらに空港内の多くの場所が禁煙となっています。喫煙者にとつてはつらい旅行を強いられることになっています。

その米国内でも一段と禁煙に関する先進地域であるのが私達の住んでいるここカリフォルニア州です。以下、カリフォルニア州の禁煙事情について当地のメディア他から引用しながら記します。
――― 以下、次号へ続く ―――
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言報せ

テレビやラジオで取り上げられる最近の話題が、事件や事故の方向や結果を大きく左右する場合が多いことに気づく。時には、警察の捜査以前に報道された疑惑が事実だったということも少なくない。報道機関が、政府捜査機関の役割や職務を超えた活動を行っている証拠だ。また、テレビやラジオ関係者による、事件・事故の当事者、加害者や被害者の取材には、報道の自由という権利悪用・乱用とも思えるような、悪質もしくは失礼極まるものも少なくない。テレビやラジオの報道番組を批判・非難するつもりはさらさらないが、疑問が多いということだ。道に報いると書いて報道、報せの道について色々なことを感じたり、考えたりすることが多い今日この頃・・・。

電話が一般家庭に普及したとはいえ、その昔、電話機はダイヤル式、プッシュ式ではなくハンドル式、つまり、交換手を介しての通話、それが私の保育園時代だった。人口3万あまりの漁村市だった私の田舎では、その町や区(当時は同和問題に関係なく“部落”と呼んだ地域)ごとに、スピーカーによる「お報せ」放送等があり、その役割は殆どが町長さんのお宅だった。未だ電話の無い家庭は、その町長さん宅の電話にかけ、スピーカーで呼び出してもらう方法が取られていた。また、台風情報、大雨情報はもちろん、地域住民に必要不可欠な「情報」提供であり、ツールであり、そしてなによりも地域住民にとっては貴重なコミュニケーションのひとつでもあった。今ではそれが市役所のスピーカーに変わり、緊急時連絡や午後5時の「夕焼け小焼け」が定番だという。

ところで、“おしらせ”や“スピーカーによる放送”は、今でも日本の地方では残っているらしい。つい先日、千葉の台所で料理をしていたら、市役所から地域放送が流れた。慣れないこともあり、驚きと興味で窓をあけて聞き入ってみると、なんと、「迷子」のおしらせだった。迷子といっても、74歳の老婦人が、この地域の某信号機付近で行方不明になったというものだが。市民40万人が住むその空に響きわたったアナウンス概容は、老婦人の名前、年齢、服装や容姿、いなくなった交差点名、そして連絡先(市役所と警察署)だった。後で知らされたことだが、これは事件や事故ではなく、老人性特有の「迷子」、同様に子供や犬の迷子についても同じ対応がなされる。加えて、この市内の各地域広場によって催される行事関係や天候など、特別・突然の注意警告等もアナウンスされるという。そして、このアナウンスを、年齢問わず、注聴しているというからなかなかのものだと思う。こんなお報せに耳を傾ける生活に、なんだか人間味を感じ、“報せる道”というものの基本や原点・現場を垣間見た気がした。

さて、幼い頃の“おしらせ”の記憶のいくつかに、地域の回覧板があった。夕食が終る時間になると、隣のおばさんが回覧板を持ってきて、ちょっとした挨拶と立ち話をしていた。そのまた回覧板を一通り読んだ父か母は、私に自分の家の印鑑を押させ、隣のおうちへ持って行かせていた。幼い私は、そのまた隣のおばさんちへ行き、ちょっとした暮れのご挨拶をして回覧板を手渡し、学校のお話を立ち話して、“お使い”がよくできたとお褒めの言葉を頂戴し、ランランとスキップをして帰宅したものだ。これがあの当時の、隣組コミュニケーション、鍵も雨戸も防犯セキュリティシステムも要らない時代のものがたり・・・報いる道、なんであれ忘れないでいたいもの・・・っとつぶやく、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )

親と子の常識 こんなにも違い

偏差値に常識入れてもらえない

常識の枠にはまって伸び切れず

常識を見直せという国際化

ドンブリの皆ユニークな顔で寄り


( ニュースやぶにらみ )

「小菅荘」
守屋氏の奥さんも呼んだ −宮崎元専務

「謝罪会見」
以後、協会も球も蹴っとばしません −朝青龍

「魁皇勝ち越し」
ノコッタ、ノコッタ −大相撲

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

 

森田さんから

ふるさと
               森田のりえ

 幹事のススム君から、小学校の同期会開催の通知がEメールで届いた。
時は九月二十五日、会場は、広島市郊外にある標高約七百メートルの山頂にある極楽寺温泉。思い出深い山である。想いは一挙に「ちゃん」「くん」のころにタイムスリップした。なにはおいても帰らなくちゃ。私はスーツケーツを引っ張り出し、必要だと思われる物を気がついたときに放り込んでいった。
 瀬戸内海沿線にある広島市と日本三景の一つ安芸の宮島との中間辺りに私のふるさとがある。いまは合併されて広島市になっているが、もとは観音村という極楽寺を山頂にいただく南方の山裾にひらけた田舎であった。
小学校のころ、極楽寺の旧正月の縁日には学校から生徒全員で山登りをした。低学年は登山口まで、高学年は山頂までと決まっていた。山頂に着くと本堂に安置してある千手観音を拝み、蛇の池へ行って下山する。家に戻ると、晴れ着を着せてもらい頭にリボンをつけ、お小遣いの十円を握って近所の同級生ヨシエちゃんと近くのお寺のまわりに出た屋台へ行く。親戚が集まりご馳走を食べる。娯楽のない時代の楽しみいっぱいの縁日であった。
 極楽寺は真言宗の由緒ある古刹である。
伽藍は一五〇〇年に落雷による火災で焼失。六〇年後に石見銀山を手に入れた毛利元就によって本堂が再興された。今では、県の重要文化財に指定されている。
寺に伝わる「略縁起巻物」によれば、奈良の大仏造営のために諸国を巡歴していた僧、行基が山の頂きから光がでているのを見た。霊光に導かれて山に登ってみると頂上に杉の大木があり、行基は霊験あらたかなその杉の木で十二面千手観音菩薩坐像を彫った。天平三年というから西暦七三一年のことである。行基が開山し、聖武天皇が伽藍を建立。後に弘法大師が開眼したと伝えられている。山の名を阿弥陀ケ峰と古文書にあるが、私たちは「観音山」と呼び、親しんできた。
観音村という村名の由来は行基の彫った観音菩薩像からきている。実家の近くにある山頂に続く道を観音道という。子供のころ、近所の古老がこんな話をしてくれた。
「昔はのう、刀を差した侍がぞろぞろ観音山へ登っていったもんじゃてぇ」
 あたかも江戸時代に生きていたかのような話し振りに、私の胸はふくらんだ。
  
 同期会当日、広島駅から五つ目の駅で待ち合わせ、午前十時半発の極楽寺温泉行き専用バスに乗ることになっていた。ところが広島駅でぼんやりしていて汽車に乗りそこねてしまった。会場までタクシーで行くしかないと覚悟して遅い汽車で行くと、駅前に温泉行き専用バスが待っていた。
間に合った。ほっとしてバスに飛び乗ると、
「ようきちゃったね、ノリちゃん」
 見ると、仲良しだったヨシエちゃんだった。幼いころの面影がある。
「みんなに会いたかったけぇ、どうしても帰ってきたかったんよ」
 不思議なもので、パソコンの変換キーを押す如く口から広島弁が出た。
 山頂までは舗装道路ができていた。途中までくると、イギリス紳士の風貌をほうふつとさせるススム君が、はやり広島弁でいった。
「極楽寺まで十五分ばかり歩かなゃいけんのんじゃけど、行きたい人はおるねぇ?」
女性は「はーい」と勢いよく手を挙げた。
「ほう、女性は元気がええのう、たまげた」
 極楽寺の裏にあるオロチ伝説のある「蛇の池」でバスから下りる。子どものころは大蛇が住むといわれ薄気味悪い大きな池だと思っていたが、意外に小さい。周りは整備され池には蓮の花が咲いていた。キャンプ場があり、桜並木があり、湯気がでそうな真新しいお地蔵さんまで並んでいた。毛利元就によって再興された唐様式の本堂は補修され凛とした佇まいで建っていた。
山頂から眺める瀬戸内海はすばらしかった。「安芸小富士」と呼ばれている似島、手前に小さな弁天島、後方には旧海軍兵学校があった江田島が見える。左方には、島の稜線が女神の寝姿に似ているといわれる宮島が横たわる。しかし、潮干狩りをした海は埋め立てられ、山は切り崩されて高層建築や住宅などがびっしりと建ち、美しかった田園風景はもうどこにもない。
 故郷をはなれた者は、年々、自分の生まれ育った風土や友だち、血の絆が恋しくなる。そこがどんなに変ろうとも、そこだけは清浄な空気が流れ、父や母、きょうだい、友人の面影を忍ばせてくれる場所として心のなかに刻みこまれているのである。
ふるさとは遠くにいて思うのではなく、時々帰るものではないだろうか。
                   つづく                   

龍翁余話

龍翁余話(12)「柿談義、再び」

「柿談義、再び」という題名にしたのは、実は、昨年の今頃、もう一つのエッセー『龍翁の独り言』(第42号)で「柿」を書いたからだ。まずは、その冒頭を抜粋する。
 

翁の柿好きは(親戚や友人の間では)かなり有名だ。毎年この時期、我が家は柿を絶やしたことがない。朝は生柿1個、夜は干し柿を2個食べる。硬い生柿は当然新鮮で、まさに秋の味覚、軟らかく熟せばスプーンで食べる。これがまた実に甘く、美味い。柿にはビタミンCやカロチン、ミネラルなどが多く含まれているから翁の冬の栄養源にもなっている。「柿が赤くなれば医者が青くなる」と言われるほど、柿の栄養価は高いそうだ。

翁が(ほぼ毎週土曜日に)行く千葉・成田のゴルフ場近くに農家が軒を並べている。11月半ば頃から今にかけて、そのほとんどの農家の垣根から、赤く色づいた鈴なりの柿の実が、道端にまではみ出している。その風情を楽しみながらゴルフ場に向かうのだが、時折“あの柿をちぎりたい”衝動に駆られる。“ちぎる”とは、翁の郷土(大分県)の方言で、柿、梨、ザクロ、桃、など木にぶら下がる果実をもぐことを“ちぎる”という。長年、東京に住み、長年、仕事(映像製作)の関係で、役者やナレーター、アナウンサーに発声、発音(アクセント)など正しい声の演技を求めて来たことで、翁の言葉は、りっぱな標準語になっている(?)と思い込んでいるのだが、この“ちぎる”だけは、譲らない。実は大辞林(辞書)で調べた。「ちぎる」は「千切る」・・・“手先で細かく切ってバラバラにする“、さらに”無理にねじって切り取る“、この辺りの解説から“ちぎる“が単なる大分方言でないことが何となく明かされる。そして、嬉しいではないか、最後の解説に“柿の実を、ちぎる”と出ているのだ。それを知ってか知らずか「“ちぎる”の方が、“もぐ”より、体感的意味合いがありますね」と妥協してくれる友人もいる。「体感的意味合い」まさに、それだよ、と、翁、ほくそ笑む。

先日、北信州の友人(以前、『龍翁の独り言』にご登場いただいた“ホテル・パノラマランド木島平”の滝澤社長夫妻)から、枝に4つの実がぶら下がっている柿(枝つきの柿)を頂戴した。これは感激!さっそくリビングルームの、ある植木鉢の土の中に差し込んで、毎日眺め楽しんでいる。「俺が、ちぎりたい時に、自由にちぎれる」その独占感が、何ともたまらない。もう、成田の(農家の)柿をちぎりたがる必要はない。

さて、再び『龍翁の独り言』{第42号)「柿」から抜粋する。
世界一美味しい柿は、日本中沢山ある。甘柿では、岐阜県巣南町が原産といわれる「富有」(1857年)、それより古く静岡県那智で生まれた「次郎」(1844年)、比較的新しいものでは滋賀県大津市の「西村早生」(1953年)。ここで故郷自慢を一つ・・・大分県日田市に隣接する地に福岡県うきは市杷木という町がある。11月初旬から12月初旬にかけて大分自動車道を走ると、両側に延々と、真っ赤に鈴なりに実った「富有柿」を見ることが出来る。それはもう“柿の王国”そのものだ。それもそのはず、「富有柿」の生産は全国一を誇っている。宮本武蔵と巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎が、播磨(兵庫県)姫路から持って来て植えたのが始まり、と言い伝えられているが、それはともかく、その柿が毎年、翁宅に届けられる。原産地・岐阜には申し訳ないが「杷木の富有柿」は味もまた日本一、と翁は思う。

今年は、「杷木の富有柿」の到着が(10日も)遅い。待ちきれず、ゴルフの帰り道にある農協の販売所で「千葉の富有柿」を買った。それなりに美味い。そして、待ちに待った「杷木の富有柿」が、遂に昨夜、故郷の姉から送られて来た。さっそく味見、ひとかぶりした直後の一声「うわー、柿だあ!」。姉にお礼の電話を入れた。柿好きの弟思いの姉「遅くなってごめんね。でも、私のせいじゃないよ、天候の具合で農家の出荷が遅れたのよ」との言い訳。翁は、そんなことは構わない。ひたすら感謝の気持ちを伝えたかっただけだから。ともあれ、信州の枝つき柿、千葉の富有柿、そして、杷木の富有柿に囲まれた今、翁の心は秋満喫。“晩秋の、全ての味わい、柿に在り”・・・っと、ここで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズの魅力−今週のお奨めジャズ

今週はトロンボーン奏者Curtis FullerのBlues Etteをご紹介します。
やわらかく軽やか、でも力強い音が素晴らしいと思います。
Five Spot After Darkはきっと気に入ると思います。
Love Your Spell Is Everyoneもいいですね。

Curtis Fuller Blues Ette
1 Five Spot After Dark
2 Undecied
3 Blues-ette
4 Minor Vamp
5 Love Your Spell Is Everywhere
6 Twelve-inch

CURTIS FULLER tb
BENNY GOLSON ts
TOMMY FLANAGAN p
JIMMY GARRISON b
AL HAREWOOD ds
Recorded in May 1959

Curtis Fuller  (1934.12.14.〜)
<R.O.>

編集後記

12月になりましたね。またまたあっという間に今年が終わってしまいそうです。
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

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Zakkaya Weekly No.603

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com