Zakkaya Weekly No.428
Ryo Onishi                                      7/25/2004

雑貨屋のひとり言 さくらの独り言 川 柳 & コント バックナンバー
成岡流お酒の楽しみ方  河合さんの・・・ 森田さんの・・・ 健康のお話 雑貨屋ホーム

朝から30度を超す猛暑が続いています。みなさんいかがお過ごしでしょうか?こんな時期は外へ出かけたくないものです。そんな猛暑の中、昨日はゴルフを楽しみ?ました。前半は冷たいビールを楽しみに、後半はお風呂を楽しみにプレーしていました。前回は雨の中、今回は猛暑の中のプレーでつい言い訳になってしまいますが、月一ゴルファーなりに楽しんでいます。 (R.O.) but_up.gif (232 バイト)

私の日本ひとくち印象記

7年前に日本企業の海外(米国・ロサンゼルス)駐在員のまま企業定年を迎えた私ですが、ビジネスの世界から引退した後も日本へは戻らず、引き続きロサンゼルス郊外で妻と二人で暮しています。

ビジネス引退後は地域のボランティア活動などで現役時代よりも忙しい思いをしながら セカンドライフを存分に楽しんでいます。

 そんな私ですが毎年一回、時期を決めて(5月から6月にかけて)日本を訪問することにしています。

(1)ビジネス現役時代と引退後の日本行きの違い
結果論ですが、私は学校を卒業してのち勤めたサラリーマン生活36年間のうち、国内16年、海外20年ということになり(シンガポール8年、米国12年)、海外勤務の方が長期となりました。

私が学校卒業後メーカーを希望して就職したのは、商社などと違い“海外へ行かなくて済む”というのもひとつの要因だったはずなのに、振りかえってみれば人生とは皮肉なものと言えましょう。

海外駐在員時代は、年に平均3〜4回は日本への出張がありました。ビジネス引退後の年一度の日本行きとの違は“その目的”が異なることでしょう。

ビジネス出張と引退後の日本行きではその目的が異なるのは“あたりまえだ”と言われればそれまでですが、改めて考えてみるに、ビジネス出張の場合、出張前から日本行きの目的が決まっている(例えば、親会社に対する定例業務報告、ビジネス交渉・契約など・・)のに対し、引退後の私の日本行きは無目的なのです。

もちろん、日本の兄弟、友人、知人に一年ぶりに再会し語り合う、また、E-メールを通じて知り合った日本のM.L.グループの仲間とのオフ会、依頼された講演会など、毎回、私のスケジュールは事前に隙間なく埋まってしまいます。

それでも現役時代の出張の目的が“社命という目的達成の絶対義務”であったのに対し、今の日本行きは“行きたい、会いたい、話をしたい”から行くというだけの私の希望からスタートしています。

自分以外からの強制のない旅が出来るのは幸せなことであり、それは“無目的の旅”と言えるのではないでしょうか。

業務出張では、与えられた絶対目的の達成の成否が出張に対する評価となります。使命達成度が低ければ、評価はマイナスです。それに対して現在の私の日本行きは“ゼロでもともと”、日本で何か得たものがあればすべて私にとってプラスになる仕組みです。ありがたいことです。

(2)引退後の日本行きで得たもの
ビジネス引退後の日本行きで私が得た成果は、“日本の自然と人の心の美しさ、素晴らしさ”、“語らいの楽しさ”といえましょう。

業務出張時代には日本の風景や友情・人情の機微に触れる余裕などほとんどありませんでした。

引退後の私の日本行きは旧職場仲間の多い長野県諏訪市と、私の生まれ育った東京の二ヶ所が中心となっています。  

諏訪へ向う J.R.特急「あずさ」の車窓に展開する甲州と信州の景色は新緑一色で見事です。春を迎え、木々の枝から水々しく涌き出る新葉群は新鮮であり、はつらつとして何物にも代えがたい生命の息吹を感じさせてくれ、感動さえ与えてくれます。

“新緑と自然の日本”との再会こそ、私が毎年この季節に日本へ行くことにしている理由の一つなのです。

業務出張時代にも毎回通ったはずなのに、日本の自然の素晴らしさに感動することを忘れていました。

引退後は一年に一度の日本行きなので、毎回、祖国の変化を実感します。

私は毎回ロサンゼルスに戻った後“今年の日本の印象”として「一口メモ」風に箇条書きにしています。

ここ数年についての私の“狭く拙い”印象は次の通りでした。私の「一口メモ(印象)」が年を追ってどのように変化しているかご覧ください。

☆1999年:
(1)企業職場の徹底した合理性の追及進む ―― 在宅勤務やフレックス・タイム(時差出勤)制度など徹底した合理化導入企業の増加が目立つ。

(2)30年後、職場における人間関係一体感の希薄化のおそれが心配。

(3)盛り場には若い人々が溢れ、厚底(つま先部分でさえ約10cm、踵にいたっては15cm近い)のサンダルやブーツを履いて颯爽と闊歩するお嬢さん達であふれていた。

(4)東京・浅草恒例の「ほおずき市」を覗きに行く。たいへんな人出の上、小さな一鉢で2,500円もする「ほおずき」が飛ぶように売れていた。恒例行事での縁起物とは言え、こんな光景からはとても不景気だなんて発想出来ない。

(5)歩行中に携帯電話をかけている人が目立つ。何をそんなに話す用事があるの!―― と言いたほどだ。

☆2000年:
(1)盛り場は相変わらずの人出。携帯電話ラッシュには慣れた。

(2)日本の総務庁発表による4月の日本の完全失業率は4.8%と非常に悪い水準という。そこで、今回は日本滞在中に東京・新宿の「ハローワーク」を訪ね、そこで実際に求職活動の体験をしてみた。中高年齢者を多く含む求職者であふれていた。派手な盛り場からは知り得ない日本の厳しい一端を見せつけられ、日本の不況の現実を知った。 

☆2001年:
(1)「海外ロングステイ・シンポジューム」という集まりでパネリストを務めた。ここ数年、日本各地に「海外ロングステイ同好会」が誕生しており、「海外ロングステイ」という発想が一種の社会現象化していることを実感した。
【注】米国に対する日本人の「ロングステイ」に対する関心は、直後の「ニューヨーク同時多発テロ(911事件)のため、一時的に減少しました。

(2)新宿ハローワーク訪問。日本の不況は相変わらずが実感。

☆2002年:
(1)東京の鉄道駅ホームとホーム下線路上のタバコの吸殻が目立って減少し、清潔感を感じた。―― 日本でも禁煙化が進んでいるようだ。

(2)信州で自然環境と共存する工場を2ヶ所友人にドライブで案内してもらい見学。日本といえば経済のみが優先され、環境を無視し、乱開発を行い世界からエコノミック・アニマルとまで揶揄されてきたが、今回訪問した企業では「工場は単なる生産の場所ではなく、美しい街づくりにも積極的に参加すべき」が企業作りのコンセプトとのこと、日本にもこんな事業所が出来つつもあることを知った。

(3)日韓共催のワールド・サッカーの盛り上がりは異常なほどすごかった。テレビは朝から晩まで、どのチャンネルもワールド・サッカー関連番組だけと言っても過言でなかった。緊迫するインド・パキスタン関係も中東問題も、また国内で審議中の、国家と国民の命運を左右する法律である「有事立法」とか「個人情報保護法案」とかの重要法案への関心などすべて一時棚上げといった感じ。たった1ヶ月前に発生した中国瀋陽での日本国総領事館での難民連れ去り事件など、すっかり過去の出来事扱い。――あれほど日本中が騒いだ「日本の主権の問題」もどこかへ消し飛んだ感じで、日本という国はほんとうに平和で結構な国のようだ。

(4)諏訪市で一晩、友人と立ち寄ったスナック・バーのママさんが歌ってくれたカラオケ曲が坂本冬美の「凛として」で、そのママさん曰く、「今の日本に必要なのはこの“凛とした”精神です。日本人は、もっと“凛としろ”と私は言いたいね!」―― この一言が印象深かった。

☆2003年:
(1)I.T.(情報技術)の普及による、本格的 M.L.(メーリング・リスト)時代を実感。藤沢(神奈川県)、仙台(宮城県)他のM.L.グループとのオフ・ミーティングに参加する。
 
(2)携帯電話は携帯メール付きに大きく変身。街中、電車内で親指を忙しく動かす人が多い。奇妙な感じだ。I.T.時代の変革を痛感せざるを得ない。

(3)気のせいか日本の女性は元気が良い。男性には覇気が乏しい。

(4)ペリー艦隊来航150年にあたり、神奈川宿を訪ね、往時に想いをはせてきた。

☆2004年:
(1)日本の不況感は若干緩和の方向と見えた。ハローワーク(今年は池袋のサンシャイン・ビル)訪問でも、気のせいか求職者の数も前年までより減少気味でゆとりを感じた。

(2)携帯電話機はメール機能からカメラ機能付きまで普及し、更なる多機能化が進んでいるという。私にはついてゆけない感じだ。

(3)地方都市(今回は諏訪市、岡谷市、松本市、とその周辺、及び下田市、藤沢市だけで少ないが)の活性化にまで至っていない感じ。地方都市はもっと独自性を発揮し、市の活性化、街おこし策を考えたらどうだろうか。

(4)ただし、藤沢市は日本でも先進的にI.T.(情報技術)への取り組みは早く、電子情報の活用による新たな街づくりに取り組んでいる先進的な市として知られている。ここには既に各種テーマごとに百以上の電子会議室(分野)があり、E-メールを利用して誰でも気軽に参加できるようになっている。そんな電子会議室のひとつであり、シニアたちにオンライン上での議論や交流を通じて、新たな出会いや情報交換の場を提供している「トラの穴」のメンバーとのオフ会は有意義だった。
 
(5)ボランティア活動に熱心な日本の友人の一人からもらった名刺に「キャリア・コンサルタント(NPO生涯学習認定)」、「ヘルスケア・カウンセラー(PHRF認定)」という肩書きみつけた。在来型の学校及び企業内教育では追いつけない社会環境に対応し、また過度のストレスにさらされる現代人の不安や悩みに対しカウンセリングをするのが役割のようで、今の時代、生きることの複雑さと難しさを感じざるを得ない。また、定職につかずフリーターとして日々を過ごす若者の中には、自分がほんとうに生涯をかけたい仕事がわからない人が多いとのことで、そんな若者の相談相手ともなるのだそうだ。ここまで面倒を見なければ生きられない現代人は少々過保護に過ぎるとは言えないだろうか。

(6)日米和親条約締結150年にあたり下田市を訪問し、了泉寺、玉泉寺、宝福寺などゆかりの場所を訪ね認識をあらたにした。                               河合将介(skawai@earthlink.netbut_up.gif (232 バイト)

 

さくらの独り言「自然劇場(その1)」

都会の騒音を逃れて、というより、異常酷暑の東京を逃れ、友人3人で北信州2泊3日の旅をした。行き先は、スキーやパラグライダー(発祥の地)として知られる「木島平」。自然の採光に包まれた空間、四季折々に繰り広げられる大自然のパノラマを味わう安らぎの地だ。なるほど、この村に一歩を踏み入れた瞬間、豊かな自然の息吹、そして今も生きる古代日本文明の息遣いが私の五感を走った。日本の原風景に身を置く思いで期待を膨らませた。「自然劇場・癒しと感動の旅」その1回目・・・。

「とにかく最初にリフトに乗って高社山(こうしゃさん)に登りませんか?この村が一望できますよ」・・・ホテル(パノラマランド木島平)に到着するや否や、なんと当ホテルの滝沢社長じきじきのお出迎えとお誘いを受けた。この旅は、この滝沢氏とは親友の間柄である私のゴルフの師匠こと、N氏の紹介で実現した。滝沢社長の案内で、一行は早速高社山へと向かう。山の裾野にパラグライダーのスクール(小屋)、そして中腹のリフト乗り場の傍には中級者用の飛行台があった。インストラクターに、2〜3のアドバイスを受けた一人のライダーが、今、飛び立とうとしている。私たちが初めて目にする緊張の一瞬だ。「よしっ! Go!」のインストラクターの掛け声と同時に、中級ライダーは勢いよく台地を蹴った。乗った! 風に乗ってゆったりと空中を舞うライダーを見届けたインストラクターの満足げな頷き。私たちも思わず「ホッ」。

高社山(標高1351m)の中腹から、かなりの急斜面をリフトが上る。約10分で山頂に到着、スキーシーズンはここが大滑降の出発点という。春、夏、秋は、県内外からやって来るパラグライダー愛好家(上級者)たちで賑わう。なるほど、頂上(標高1200m)からの眺めは、まさに“パノラマランド木島平”だ。「あっ、山がきれい!」、「大きな川が流れている!」っと、私たちは、すっかり女学生の気分。高標山、毛無山、八剣山、鳥甲山、鍋倉山、黒岩山、そして斑尾山など1500m〜2000m級の奥信濃連山に囲まれた盆地の木島平村と隣の飯山市の間を千曲川が流れる。「赤い屋根の家々が、スイスの田園風景を連想させるねぇ」と誰かがポツリ。雪落しの赤いトタン屋根までが、ハイジ気分にさせてくれる。もはや、私たちの気分は、パラグダイダーと同じように、木島平の上空を飛び、感動と期待に胸を膨らませているのである。

さて、赤松林やケヤキの森の散策、鬼島太鼓や葵の紋にまつわるお寺巡り、古代ロマンを秘めた根塚古墳、映画『阿弥陀堂だより』の撮影現場、厳しい修験者道場の神社、古代蓮の池、鱒養殖場や内山手すき和紙工房の見学、弘法大師の湧き清水、幽玄・北竜湖、自然農法体験農場、唱歌「朧月夜」が生まれた菜の花公園、そしてグルメと温泉・・・「癒しと感動の旅」の詳細は次号だが、その一週が待ち遠しいほど感動の余韻を反芻させている私。あの澄み切った空気ときらめく星、美しい高山の木花の香りが忘れられない。「パラグライダーに乗って、今すぐにでも飛んで行き、自然のドラマをもういちど堪能したい」っと呟く、さくらの独り言。

kukimi@ff.iij4u.or.jpbut_up.gif (232 バイト)

 

川 柳 & コント(東京・成近)

( 川 柳 )

髪型を変えた女房に気がつかず

母娘から浮いてる父の石頭

縦のもの横に 夫の下心

聴診器 頭以外は褒められる

柱不在 うちはツーバイフォー家族


( ニュースやぶにらみ )

「43.4」
気温でしょ −内閣支持率

「改造内閣に<郵政>の踏み絵」
跨いだのも入れます −小泉弱体内閣

「コマーシャル」
白骨温泉ご推奨 ー入浴着色材

(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jpbut_up.gif (232 バイト)
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

連載短編小説  花惑い(10)                          

 由香が颯爽とした足取りで我が家に向かってくる。ドア、チャイムが鳴った。道代は訝りながら玄関ドアを開けた。
「奥さま、酷いじゃありませんか!」
いきなり、由香に噛みつかれた。
 筋違いだ、と道代は思った。道代の前で立派な啖呵をきったではないか。
「浩二の愛人でいい。離婚してとはいわないから、本当に愛した人の子供が欲しい。絶対に迷惑はかけないから、お願い産ませてくれ」と。
 その浩二を由香にあげるというのだから、喜ばれても憎まれることはないのだ。それとも、裸一貫で妻に放り出された男に魅力はないとでも。こんな女にのめり込んだ浩二がバカだ。こんな女に家庭をぶち壊されのが道代には悔しかった。道代が由香の立場だったら、同じことをするのだろうか。
「当座の生活費に千ドル下さい」
 いきりたつように由香がいった。道代は、一瞬、言葉がみつからなかった。
「浩二さんが貰ってこいといいました」
「失礼な! あなたにそんなことを云われる筋合いはありません」
「浩二さんにあんなことをしておいて、まぁ、なんて怖い」
 だから、浩二さんは私の所へ逃げこんできたんだわとでも、言い出しそうに由香の顔は勝ち誇り、高飛車な態度に出た。
「アイドント・ウオント・ツウ・トーク・ツウ・ユー」
 道代は、由香とこれ以上話したくなかった。
「スピーク・ジャバニーズ」
 喧嘩ごしに由香がいった。カッとなった道代はドアをガチャンと強く閉めた。道代の心臓の鼓動が激しく波打っていた。

 それから三日後の夜だった。いつものように道代は会社の書類を家に持ち帰って整理をしていた。その時、ビバリー・ヒルスに住んでいる浩二の友人から電話がきた。
「浩二さんは離婚したくないといっていますよ。奥さんの気持ちはどうなんですか。ともかく、ふたりで話し合ってくださいよ」
 浩二が電話口にでた。
 道代に、ふっといい考えがひらめいた。
「あなた、本当に由香さんと別れる気持ちがあるのなら、とうぶん日本へ帰っていてください。明日、ファースト・クラスの切符を手配します」
「よーし、わかった」
 浩二は約束通り、翌日の午後の日航便で日本へ飛んだのである。
 道代は、浩二の言葉を鵜呑みにしてはいなかった。離婚しようと思えばいつでもできる。
あんな小娘に家のなかを引っ掻き回されたのでは、道代のプライドが許さない。ここは取り敢えず、浩二を信じるふりをして様子をみようと決めたのだ。
 ハローウィーン祭りがきた。
 浩二が1ヶ月半ぶりに日本から戻ってくる。道代はどのような顔をして出迎えたらよいのか迷っていた。まず、目が合ったらにこっと笑おう。だが、道代の頬は鏡の前で練習しても引きつったようになり口は笑いの形だが、目は冷めていた。当然、巧くいく筈がない。
 娘のジュンには、すでに話していた。
 ジュンは眼を輝かせてこういったのだ。年端もいかぬジュンが……。
「マミー、ワン・モウ・チャンス、ダディにあげようよ。ね、そうしょうよ」
 道代は引きつりそうになる頬を軽く叩きながら、空港への道を急いだのである。空気まで薄紫色に染まったように咲き誇っていたジャカランダの花はすっかり青葉になり、くねくねとした枝を道路に伸ばし、緑のトンネルをつくっていた。
「すまん。わるかった」
 と、あの浩二がいうだろうか。
 その一言ですべてを許してしまいそうな道代は「女は弱い」という言葉が浮かんできた。されど、許すことは「強さ」であり「愛」だと思った。 
                                   おわり

森田のりえ (noriem@JoiMail.com)
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