Zakkaya Weekly No.419
Ryo Onishi                                      5/23/2004

雑貨屋のひとり言 さくらの独り言 川 柳 & コント バックナンバー
成岡流お酒の楽しみ方  河合さんの・・・ 森田さんの・・・ 健康のお話 雑貨屋ホーム

先週は仕事で横浜に行きました。台風2号の影響で、雨の中、横浜の中華街に行き、飲茶と紹興酒を楽しみました。ロスアンゼルスやトロントで食べた、飲茶の味を思い出しました。このことをワイフに話したので、とても羨ましがりました。今度、神戸の中華街?にいっしょに行こうと思います。(R.O.) but_up.gif (232 バイト)

150年前の日本開国

(その2)ペリーは浦賀に突然出現したのか?(後編) 
――― 前回からの続き ―――
☆ 米 使 ビ ッ ド ル の 来 航
ペリーに先立つこと7年前の弘化三(1846)年、アメリカのビッドル提督が、黒船(軍艦)二隻を引きつれて突然浦賀にやって来る出来事がありました。黒船二隻のうちの一隻はコロンバス号といい、大砲18門を装備した当時としては最大級の軍艦でした。

 ビッドルの来航目的は、アメリカ合衆国大統領・ポークの親書を幕府に渡すことと、日本との通商交渉だったのです。ということは、7年後のペリー提督の来航目的とそっくり全じだったのです。

この時は幕府の拒絶と退去要求に対し、ビッドルは9日程滞在した後、おとなしく引き下がって行ったのでした。

この時、ビッドルはペリーの時と違い、 “脅しの砲艦外交” を採らなかったようで、幕府側としてはことなきを得たようです。

尤も、米国にとってこの時期はまだ本当に、なにがなんでも日本と通商関係を持たねばならぬ必要性はなかったからかも知れません。(7年後のペリーですら、合衆国大統領の親書は持参したものゝ、これは議会の承認のないものでした。米国議会は日本との通商開始には、ペリーの時ですら消極的だったようです) 

このように、ペリー艦隊の来航より7年も前に、同じ目的で黒船が日本へやってきている事実があったのです。

☆ そ の 他 の 開 国 圧 力
記録によると幕末近くにはビッドル以外にも多くの外国船が日本へ食料・燃料、さらには通商を求めやって来ています。

私は手許の日本史年表(「大学への解説日本史年表」研文書院刊)を開き、19世紀に入ってから日本にやってきた外国船(オランダ、中国を除く)の記載がどのくらいあるか調べてみました。するとペリー来航以前の1801年から1852年までの約半世紀だけで19回の記載がありました。

日本の大学受験用参考書(年表)ですら19回も外国船来航が載っているのですから、実際は相当多数の船が日本を訪れていたことが想像されます。(これらの外国船の中には有名なイギリス船フェートン号、アメリカ船モリソン号などが含まれます)そして幕府はこれら外国からの来航に対し、海防の強化ほか対応に迫られています。

☆ ペ リ ー 艦 隊 の 来 航
そして1853年7月にやって来たのがペリー艦隊。しかも前回記した通り、この来航に関しては、一年も前にオランダを通じ幕府へ情報が届いていたのです。 

しかも艦の名前・司令官の名前・装備・そして日本への旅程まで、実に細かく報告されています。つまりペリー提督一行は突然浦賀にやってきたわけではなく、幕府は充分予測していたわけです。

黒船が来てからも浦賀や江戸その他の人々はそれほどパニックにはなっていないようです。結果として黒船からは一発の砲弾も発射されなかったし、(ペリーはフィルモア大統領から自衛以外の攻撃を厳禁されていたようです)「脅しのジェスチャー」を装いながらも平和裏の交渉をペリー提督も望んだからではないでしょうか。

当時の様子を吉田松陰は日記に、「土人甚だ憂うるの色あり。しかれども絶えて騒擾の態なし」と記しているそうです。「土地の人は心配な様子であるが、特別に騒いだりはしていない」と言う意味だと理解できます。 
(参考資料:加藤祐三著「黒船異変」岩波新書、加来耕三監修「90分でわかる幕末・維新の読み方」かんき出版、「大学への解説日本史年表」研文書院刊、その他)
河合将介(skawai@earthlink.netbut_up.gif (232 バイト)

 

さくらの独り言「夢を形に

ノーブルで、華麗な胡蝶蘭の白い花は、「お嫁さんになって幸せな家庭を築きたい」と潔く芸能界を引退した山口百恵の花嫁姿を連想させる。花嫁姿の彼女は、真っ白いドレスと胡蝶蘭で夢の実現に包まれていた。そんなイメージのある胡蝶蘭の鉢を貰ったのが2年前。あれから花が落ちて葉だけになったその鉢だが、我家では唯一の緑だった。先月、それに異変が起きた。2本の新芽が伸びて6つの蕾をつけだしたのだ。緑が育んできた夢が膨らみをつけ、形になろうとしている。2年ぶりの開花となる。何かいいことありそうだと、私は興奮を抑え切れない。そこで思いついた、夢を形に挑戦してみるかと。そしてとうとおう買ってしまった、私ともあろうことが・・・宝くじ。「夢を形に」と胡蝶蘭の呪文をとなえながら。

この宝くじは、ジャンボ宝くじの一つ、ドリームジャンボといい今月17日から発売が開始された。『1等賞金が2億円、前後賞が各5,000万円で、仮に連番で買って1等に当せんした場合、1等・前後賞合わせて3億円があたる超大型賞金が魅力』(全国自治宝くじ)の宝くじである。発売当日、私も買った。生まれて2度目の購入だ。一度目は宝くじ狂の友人K子につられて、今回は自分の深い欲とジャンボな夢につられて、買った。宝くじを買うという姿勢は真面目に働き生きていくことから堕落への誘惑なる悪だと根っから軽蔑し、無視し続けた私だった。道徳的・倫理的に受け入れられなかった。また、「タラ・レバ」が無価値のビジネス社会でもまれていると、「もし宝くじが当たったら〜」なんていう仮定の空想論は春霞を食って生きる浮浪者の様で、惨めに思えていた。理想と現実のギャップ&フィットを笑いの世界と化すことができない頑なな自分だった。しかし今回は、「夢を形」にできる遊びを愉しんでみようと、そんな軽さや自由も自動車のハンドルの遊びと同じで大切だよなと、皐月の風に呟いてみるのだった。

ところでこの宝くじ、その歴史や資料・データなどを調べてみると、なかなか興味深い。特に、世論調査(宝くじ人口、購入経験者とその職業、購入パターン、購入理由、購入場所とその選択理由)や資料・データ(宝くじ単価と物価の変動、商品・景品の変遷、宝くじ売上実績年度推移、宝くじ収益金使途)等は、夢と現実の見えない糸を見せられる様で、頷きと驚きの世界へひきつけてくれる。まず、世界の“くじ”の歴史は、約2,000年も昔、ローマ時代にまで遡るが、現代型“近代的富くじ”系となると、約560年前のオランダで、町の建設や要塞構築などの資金調達のため“富くじ”を発行した記録が最も古い。一方、日本の“富くじ”の起源は、約380年前の江戸時代初期、瀧安寺(大阪)で、正月の元旦から7日までに参詣した善男善女が、自分の名前を書いた木札を唐びつの中に入れ、7日の日に寺僧がキリで3回突き、3人の“当せん者”を選びだし、福運の“お守り”を授けたのが起こりとされている。瀧安寺の富会(とみえ)は、単に当選者にお守りを授けるけのものが次第に金銭と結びつき“富くじ”として町に氾濫するようになったため、徳川幕府は、元禄5年(1692年)禁令を出した。しかしその後も寺社にだけは、修復費用調達の一方法として“富くじ”の発売を許したので、これを天下御免の富くじ“御免富”と呼ばれた。特に、“江戸の三富”として有名だったのは、谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺、それに湯島天神の御免富で、幕府公認の御免富も、その後天保13年(1842年)の「天保の改革」によって禁止されてしまい、さらに明治元年(1868年)の「太政官布告」によって厳しく禁じられ、天保の禁令以来103年もの長い間、日本では“富くじ”は発売されなかった。昭和20年7月、政府は浮動購買力を吸収して軍事費の調達をはかるため、1枚10円で1等10万円が当たる富くじ“勝札”を発売した。しかし、抽せん日を待たず終戦となったため、皮肉にも“負札”と呼ばれ、戦後の激しいインフレ防止のため浮動購買力吸収の必要性が大きくなったので、政府は20年10月、“宝くじ”という名前で「政府第l回宝籤」を発売することになり、さらに戦災によって荒廃した地方自治体の復興資金調達をはかるため、各都道府県が独自で宝くじを発売できることにもなって、21年12月に地方くじ第1号「福井県復興宝籤」(別名ふくふく籤)が登場した。政府くじは昭和29年に廃止され、その後は地方自治体が独自又は共同で発売する“地方くじ”のみになり、より大きな規模でより魅力ある賞金条件の宝くじを発売するために統廃合が行われ、昭和34年4月までに現在のような5つの宝くじブロック、全国自治、東京都、関東・中部東北、近畿、そして西日本の原型ができたという(日本宝くじ協会資料より)。平成13年4月に行われた世論調査によると、宝くじファン(過去1年間で1度以上の宝くじ購入経験者)は1,000万人を超えている。その購入者の属性別分析(性別、年齢層別、職業別の数値)から総括すると、働き盛りのサラリーマンの購入経験率が高くなっており、その購入者の3割がジャンボ宝くじ一筋、つまり“一発ドン!”目当てである。さて、最後に、宝くじの購入理由にははどんなものがあるのかというと、「賞金目当て」、「大きな夢があるから」のトップ2についで「遊びのつもりで」、「当たっても当たらなくても楽しめるから」、「友人が買っているのでつきあって」、「ストレス解消」、「収益金が公共施設に貢献しているから」の順で挙げられている。ちなみに購入しない理由は、「当たると思わないから」と「全く興味がないから」である。

こうやって、遊び心で買った宝くじを手にしてみると、「たかが宝くじ、されど宝くじ」と笑ってしまう。これも、たまたま陽当たりのいい窓辺においた蘭の鉢が、たまたま花のつぼみをつけたことで思いついた夢物語の一コマだ。私の宝くじ購入の理由、それは「夢を形に」なのだ。さて、当たるも八卦当たらぬも八卦・・・当たったらお口はチャックしていられるかしらぁ〜・・・っと呟くさくらの独り言。
kukimi@ff.iij4u.or.jpbut_up.gif (232 バイト)

 

川 柳 & コント(東京・成近)

( 川 柳 )

しがらみに初期化のキーを押せぬまま

諦める筈に微熱がまだ続き

若い気に悔しい膝の油切れ

なあこけしお前泣きたい時ないか

ストレスを溶かすいい汗かいている


( ニュースやぶにらみ )

「ガンジー総裁 首相辞退」
年金未納かな  −半可通

「車のマーク」
×印に間違えられそう −スリーダイヤ

「ブルーリボン賞」
小泉さんにあげられず残念です −拉致被害者家族会

(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jpbut_up.gif (232 バイト)
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載短編小説  花惑い(1)
 かれこれ半年になるから、去年の暮からだった。
 夫の浩二は仕事が終わると、大学の先輩にあたる高木徹の事務所に寄っては連れ
立って飲みに行くようになった。帰宅はいつも十二時過ぎだ。浩二はもともと隠し事
のできない性分で、会社を出る前には必ず妻の道代に電話をかけ、行く先を告げてか
ら出る。
 だが、その日はちがっていた。
「今夜は帰れないぞ」
 いきなり浩二がいった。
 意表をつかれた道代は「えっ?」といったまま、問い返せずにいると電話が切れて
しまった。折り返し電話したが、コールサインが鳴りつづけるばかりであった。
「冗談だ。外泊だなんてーー」
 道代は聞き流すことにした。
 一つ歳上の姉さん女房の道代は、女遊びをするような浩二ではなし、家庭が円満な
らべつだん事を荒立てる必要はないのではないかと自分自身を納得させた。しかも高
木と一緒なら間違いはない。
 高木は、浩二が二十年前に留学目的で渡米したころからの知り合いで、道代と形式
だけの結婚式を教会で挙げた時、新郎側の証人として、ただ一人出席してくれた友人
である。
「結婚祝いにテレビを贈る」
 といわれて十五年経つが、高木からは何も届いていない。根は人の良い性格の高木
から、当時、定職がなかった浩二は、アメリカ製ヘリコプターを扱う日本の会社へ部
品を送るビジネスを始めるきっかけを作ってもらった。いわば恩人でもある。
 四十二の厄年なのに浩二はついていた。
 従業員五人の小さな会社だがビジネスは手堅く、順調だ。十一になる娘のジュンも
中の上どころの成績でがんばっている。パルロス・バラデス半島の小高い丘の中腹に
家を買って十年になる。去年の夏は親子三人でヨーロッパ旅行をしてきた。生活にゆ
とりができたのは四、五年前からである。浩二はこのごろ腹に肉がつきはじめたのを
気にして、休みの日にはジョギングをし独身のころ一時やっていたガーディナーを運
動だといって庭の芝生刈りをする。付き合いゴルフはたまにしか行かない。
 夕食を終えた道代は裏庭にでた。
 南カリフォルニヤの初夏は夕方の八時を過ぎても空はまだ明るいが、庭の茂みはか
げりはじめている。赤いゴムマリのような花が咲いたゼラニウムの鉢植えに水をやり
ながら、道代は自分に言い聞かせるように何度も心の中で呟いていた。
「嘘だ。嘘に決まっている」
 なんだって浩二は「帰らない」といったのだろう。
 しかし、太平洋の彼方に陽が沈み、海から吹き上げる潮風に煽られたユーカリの梢
がすれあう葉音が鳴ると、道代は急に不安が募ってきた。
 浩二は本気でいったのかもしれない。
「あの女?」 
 そんなはずはない。
 でも、もしかしてーー。
 春先だった。高木の事務所で働いている二十七歳になる木村由香が「離婚して一人
暮しをしている社長の高木に結婚をほのめかされているが、どうお思いでしょうか」
と、浩二の意見を聞かせてほしいと、うちに訪ねてきた。男好きのするポッチャリ型
の由香が浩二によりかからんばかりにして話すのを見て、娼婦みたいだと、道代は眉
をひそめたのを思い出した。
 海沿いのパルロス・バラデス・ドライブ・サウスを行き交う車にライトが点いた。
南の水平線上に浮かぶカタリナ島の紺色の細長い稜線が、しだいに薄墨色に溶けていく。星が一つ、また一つと瞬きはじめていた。
「マミー、どうしたの?」
 いつの間にか、ジュンがそばにきていた。
 道代は黙ってジュンの背に手をまわした。娘の背丈は後十センチ高くなれば、小柄
な道代の背に追いつくだろう。    つづく

森田のりえ(moritacn@earthlink.net)
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阪神・巨人戦、なかなか面白い戦いをやっています。でも両監督のパフォーマンスは昨年の星野、原の方が、面白かったですね。
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Zakkaya Weekly No.419

雑貨屋 店主 大西良衛  but_up.gif (232 バイト) zakkaya@news.email.ne.jp