Zakkaya Weekly No.417
Ryo Onishi                                      5/9/2004

雑貨屋のひとり言 さくらの独り言 川 柳 & コント バックナンバー
成岡流お酒の楽しみ方  河合さんの・・・ 森田さんの・・・ 健康のお話 雑貨屋ホーム

毎朝の通勤電車、みなさん同じ車両に乗る傾向にあるようで、車内を見渡すとだいたい同じ顔ぶれです。席にもたれ、本を読んでいる人がいます。やがて、こっくりこっくりを始め、持っている本を床に落とします。いつみても同じパターンで思わず笑ってしまいます。その人は、大阪より東の方から乗車しているようですが、座らずに立っているのは、眠って乗り越さないようにしているのかなあと想像しています。(R.O.) but_up.gif (232 バイト)

大野勝彦さん講演会

【前書き】:私(河合)は今年も例年通り5月から6月に日本へ行きます。日程は次の通りです。 
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 *5月10日(月):ロサンゼルス発 
 *5月12日(水)〜13日(木):東京滞在 
 *5月15日(土)〜19日(水):長野県・諏訪滞在 
 *5月21日(金)〜6月6日(日)東京ほか滞在 
 *6月 7日(月):成田発、ロサンゼルス着 
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上記期間の東京、諏訪での連絡先は次の通りです。
*東京:ホテル・サンルート東京(新宿)Tel.03- 3375- 3211
*諏訪:上諏訪ステーションホテル Tel.0266- 57- 0001

「あまり 知られていないL.A. 観光スポット(173)」
Viejas Outlet Center & Casino
ロサンゼルスとその周辺にはアウトレット(Factory Outlet)と称するショッピング・センターが数多くありますが、今回ご紹介するところはサンディゴ郊外のアメリカ先住民族居留区にあるカジノ・センターと併設されたショッピング・センターです。

サンディエゴの市街地から東へドライブで約30分、Alpine 市にあり、フリーウエイ#8に沿ったところです。

ここはViejas 先住民族居留区(Indian Reservation)内であり、ショッピング、カジノ両センターともに建物、雰囲気がまさに砂漠とアメリカ先住民の町といった趣で、一風変わっています。

ショッピング・センター敷地内には、到るところに先住民の生活様式を模したランドスケープ、彫刻、デザイン等が施され、私達を珍しい世界にまぎれ込んだ気持ちにさせてくれます。 

センターの中央正面には大きなテント張りの噴水広場と憩いの場所があり、一日数回、音楽に合わせて見事な水の芸術ショウを披露してくれます。

ショッピング・センター内には約60の店や屋台が揃っています。これらの中には地元の装飾品を販売する店から、Gap、Levi’s、Van Heusen、Nike、Samsonite 等の大手店、また各種レストラン、ビジター案内所まであり、店舗を廻って歩くだけでも見ごたえがあります。定期的に有名歌手を招いた野外コンサートも催されたりしています。

カジノ・センターはショッピング・センターから道路一つ隔てたところにあります。

ここには 1,000台を超える最新式スロット・マシンを中心にカード・ゲーム、キノ・ゲームその他各種ゲーム施設が整っており、客を飽きさせないように工夫された館内はさすがといえましょう。

この種のカジノ・センターは南カリフォルニアには、パームスプリングス、テメキュラ始め10ヶ所以上が、いわゆる先住民族居留地内に設立許可されており、最近ではホテル併設のところまで出現していますが、この Viejas Cashinoは規模としては一流と言えるでしょう。

買い物、またはギャンブルをするかどうかは別として、珍しい風物の見学という意味だけでも、観光スポットとして訪れる価値があるとか思います。

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●住   所 :5000 Willow Road, Alpine, CA 91901
●オープン日 :毎 日
●時   間 :Outlet Center:10:00am - 9:00pm(日曜日は7:00まで)
Casinoは24時間オープン
●電   話 :Outlet Center:(619) 659- 2070
Casino:(619) 445- 5400
●Web Site :http://www.viejas.com/
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行き方は次の通り(Torrance方面よりの場合)
(1) FWY#405(南)→ Orange County, Irvineで FWY#405 は FWY# 5と合流、FWY# 5 となる。
(2) FWY# 5 になってからさらに南下、San Diego Countyへ入り、FWY#805(南)を経由し、FWY#8(東)へ入る。(Torranceから約115マイル)
(3) FWY# 8(東)へ入って約30マイル進み、Willow Rd./ Alpine Blvd.出口でFWYを降りる。
(4) FWYを降りたらWillow Rd.を左折(北、東へ)、約2.5マイル進むと道路の右側にOutlet Center、左側に Casinoの建物がある。
(5) ここまでの行程 ;(Torrance方面からの場合)約145マイル、ドライブ約2時間30分。
河合将介(skawai@earthlink.netbut_up.gif (232 バイト)

 

さくらの独り言「カーネーション」

一雨ごとに、大地の生(命)を感じる。人間の身体の五感というものが、母なる大地の躍動を自分の命ある心と身体と霊に響かせてくれる。大地に育まれた命の種が具現化される春の真っ只中、今日は母の日だ。古い歴史を持つこの母の日の始まりは、大地の豊かさを象徴する女性の神である地母神を讃えた春のお祭りだったという。大地の命と祈りを想いながら、薄桃色のカーネーションを愛でている。

地母神の祭りだった春のお祭りは、それぞれの国々や地域で同様に発展した。ギリシャでは神々の母といわれる神、ルアを讃える祭りであり、ローマでは母なる神のキュベレを讃える祭りなどである。今日我々が祝すところのものは、米国ウエストバージニア州在住のアンナ・ジャービスさんの母親が1907年5月第2日曜日になくなったことが始まりという。夫と早くに死別したジャービスさんの母親は、幼い子どものジャービスさんとその妹(盲目)を苦労して育て、過労死したと伝えられている。ジャービスさんはその母親への恩を忘れず母親の徳を偲ぶ為に追悼式を開き、参列者には母親が愛した白いカーネーションを手渡した。同時に他の人々も同様に「生前に母親を敬う時」があればと提言・活動した。それが「母の日」設定の運動として全米で広がり、1913年アメリカ議会の満場一致で制定された。アメリカでこの「母の日」が公式行事となったのは翌年1914年、「父の日」の制定は1972年だった。日本では、1915年頃からキリスト教会で祝され始め、1937年に某製菓会社のコマーシャルの影響で宗教に関係なくより広く定着し、1947年には公式に「母の日」が制定された。

ところで、何故、カーネーションは母の日の象徴かと素朴な疑問が沸いた。まず、前述したジェービスさんが参列者に手渡したカーネーションが、「母の日」制定運動の賛同者によって広まった。1908年、それはシアトルの実業家ジョン・ワナメーカー氏が催したイベントにおいて、母親の存命する人は赤いカーネーションを、母親を亡くしたものは白いカーネーションを胸に付けたことが定着化のきっかけと言われている。今から2000年もの昔、十字架にかけられるキリストを見送った聖母マリアが落とした涙の跡に生まれた一輪の花、それがカーネーションだったという言い伝えがあり、キリスト教徒においてカーネーションは「母と子」を象徴するものとなったらしい。白いカーネーションは十字架にかけられる前のイエスとマリアを、赤いカーネーションは復活したイエスキリストを象徴するともいい、神聖なる花とされた。カーネーションの花言葉は「婦人の愛」、赤いカーネーションは「愛を信じる」、白いカーネーションは「私の愛は生きている」、ピンクのカーネーションは「熱愛」、黄色いカーネーションは「侮蔑」などと各色によって違う花言葉を持つ。このカーネーションは旧ソビエト連邦のコーカサス地方で最初に誕生し、その後19世紀、ヨーロッパを中心に栽培が進められ今日のカーネーションが生まれた。日本上陸は徳川時代、オランダ船に揺られて入国し、日本初のカーネーション誕生は明治35年、新宿御苑だという。ちなみに、このカーネーションを国花と指定している国は、スペイン、モナコ、ホンジェラスなどである。

井上揚水の歌に『白いカーネーション』がある。『カーネーション、お花の中ではカーネーション、一番好きな花。子供の頃には何も感じてなかったけれど、今では不思議なくらいきれいだな。どんなに綺麗な花もいつかはしおれてしまう、それでも私の胸にいつまでも』という歌詞がある。カーネーションは私の一番好きな花ではないが、この季節になると何故か、ピンクのカーネーションを飾り、この歌を口ずさんでいる自分が居る。そして、遠い昔、小学校で「おかあさんありがとう」と書かれた短冊のついた赤いカーネーションを買わされ、胸につけていたことを懐かしく想い出す。今日も健全な母に感謝して、私はカーネーションのついていない胸を張り、「私の母は世界一!」っとつぶやくさくらの独り言。

kukimi@ff.iij4u.or.jpbut_up.gif (232 バイト)

 

川 柳 & コント(東京・成近)

( 川 柳 )

思惑が三顧の礼に秘めてある

美辞麗句 語るに落ちた言葉尻

頼まれた祝辞 ジョークの一夜漬け

ライバルに貰った嘘のない祝辞

祝杯を中の一人が苦く飲み


( ニュースやぶにらみ )

「菅代表も苦境」
お気の毒 −辻元清美

「三党合意」
年金未納問題はこの辺で〜 −自民、公明、民主

「年金納付キャンペーン」
納めておくといいことがありますよ −細田新官房長官

(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jpbut_up.gif (232 バイト)
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

妻を亡くした友の話
 こんな夢をみた。
 自宅だか事務所なのか分らない。ひょいと部屋を覗くと、長机に寄りかかるようにして夫が若い女と肩を寄せ合って話をしていた。あの女だ! 夫の浮気相手だったあの魔性のような。思わず、私は聞き耳をたてた。
「あなた、奥さんと別れられないのね。意気地なし!」
すねた声で女がいう。
 カッとなった私は、二人の間にさっと分け入り引き離していた。と、女が私を突き飛ばした。夫は何もいわない。
 もういい、離婚しょう。
 と、思ったところで目が覚めた。あまりにもリアルな夢だったので、なかなか寝むれなかった。どうして、こんな夢を見たのだろう。もう二十年も前の出来事なのに。
 そうだ、あの話がいけなかったのだ。

 夫の親友だった奥さんが亡くなった。
 学生時代からの付き合いで、私たちが日本へ行くと必ず夫婦で会いにきた。奥さんは胃癌を患い、胃を切りとっていたにもかかわらず意外に元気で、みんなで温泉旅行などをしていた。奥さんの訃報がきたのは、それから間もなくである。ロサンゼルスに住んでいる私たちは弔問にも行けず、一年過ぎたころにやっと日本へ行く機会ができた。
 親友宅を訪れ、位牌と写真に手を合わせた後、友人がおもむろに口を開いた。
「自分では精一杯したつもりやったが、ああしてやればよかった、こうもと悔まれてなぁ。真っ暗い家に帰り電気を点けるときの侘しさ、気持ちがめいってどうしようもないから遅くまで酒を飲んで帰るんや。だが、寂しさに追い討ちをかけるだけやった」
 家事は苦にならないが、家中に女房の面影が沁みついているのがやりきれなかった。日常品はむろん、丹精して咲かせた庭の花まですべてが思い出につながる。その度に胸がキリッといたんだ。寝たままでいいから生きて欲しかったと。友人は三ヶ月間、両目から盛大な涙を流しつづけたそうである。が、ある日のこと、はっと気がついた。
 嘆き悲しんでも逝った人間は帰ってはこない。これから先の人生を考えよう。
 結婚相談所へ行き五十歳過ぎの女性と出会った。気性も合いそうだ。友人は真剣だったが、相手がいまいち乗ってこない。いい返事を聞きたい友人は一歩踏み込んでみた。すると、わたしだって遊びではありませんという。今夜誘ったらどうすると尋ねると、彼女は承知した。しかし、四、五年なにもなしの暮らしで自信がない。友人はこっそりバイアグラを半分だけ飲んだ。ところがである。一週間後に彼女は妊娠したみたいだといってきた。そんなバカな。もしかして威勢のいいお兄さんが現れるのではないかと、ビビッた。
 友人は、覚悟した。
「この歳で子供がもてるとはめでたいことや、ぜひ産んでくれ、頼む」
 だが違っていた。勘違いか、男の本心を探る方便だったのか、定かではない。

 ここまで聞いて私たちはロサンゼルスに戻ってきた。
 友人は、その逐一彼女との経過を報せてきた。とんとん拍子に話がすすみ再婚旅行はラスベガスにくるというところまでになったそうだ。
 その話が出たとき、つい私は、夫にイヤミなことを言ってしまったのである。
「私が先に逝ったら、アナタどうする? あの浮気した女と一緒になるかもね」
 だからといって、夢の中とはいえ、あの女が出てくることはないのに――。

森田のりえ(moritacn@earthlink.net)
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成岡流お酒の楽しみ方

 変貌著しい上海と、戦場にかける橋に行く! 
     15年の友情と1年の友情?! 
                              吟醸酒蔵みゅーじあむ 成岡 卓翁 
 以前北京・上海・紹興へ一緒に行った寺内さんが、ビジネスで4月に上海に行くことが決まり、「上海に来られませんか、良い所案内しますよ」という話が持ち上がった。 
 急性肺炎でその時「ドタキャン」を余儀なくされた松本さんは、リベンジをかけてすぐさま参加を表明。また休暇が簡単に取れる山田女史も「周荘に行くんだったら」と同行を表明。 
 松本さんが「館長が行かな面白ないがな!」と「タイかぶれ」している私に上海行きを勧める。折衷案で上海経由バンコク行きの方法をインターネットで模索するも、JALにしてもその他の航空会社にしても、最短・低価格のルートチケットは発券していないようだ。 
 こんな時の頼みの綱の矢追さんに「関空〜上海〜バンコク〜関空」の格安券を調べてもらう。半分あきらめていたら、数日後に、「4月から中国東方航空がディスカウントチケットを出すようになりました」と、他社の10万円ほど安い値段の見積もりをファックスしてくれた。 
 こうなると、行かねばならないと腹をくくっていたら、1年半前の中国旅行で、後発として毎日飛行機に乗って参加した岡女史も、「どうにか金曜日出発、月曜日帰国で休みが取れそう」と参加を決意。そうなったら、松本さんが「旅費援助するがな」と言ってくださったのでついに、メンバーが確定。先発の我々3名は4月21日午前関空に向かった。 
  
初めて降り立った浦東空港 
  
 しかし、松本さんと私は中国東方航空(MU)、方や寺内さんは中国国際航空(CA)。彼の話によると「CAの方が1万円安いのが理由で会社が手配した」らしい。出発時刻はCAが13:15と25分早い。 
 いつもは3階のセルフの食堂に入るが、今回は「KYK」でカツを食べることにし、支払いは「たま絵」さんの餞別を使わせてもらった。 
 一足早く出発する寺内さんと「上海での再会」を誓ってデューティーフリーショップ前で分かれ、我々はもうしばらくは上海への土産物を物色。 
 予定時刻をやや遅れて出発したMU-516便だが、上海浦東国際空港には定刻の14:50に到着、入国審査を終えて階下に降りると、手荷物コンベアーの回っている所に寺内さんがいる。CA-922便は遅れていたようである。 
 到着ホールで、我々を迎えに来てくれたのは、松本さんが15年来親交を重ねている邵征薇さんと、そのお兄さん。私もお兄さんが初めて日本に来られた時に、お会いし一緒に食事をとって盃を酌み交わしているので、懐かしさがこみ上げてくる。寺内さんは、会社関係者の出迎えがあったようで、到着ホールからあっという間に出ていった。 
 以前上海に来た時は、もう一つの虹橋国際空港を利用したため初めての空港だが、開港してまなしということもあるが、広々とした空港で、2010年の上海万博を視野に入れた、今の中国の勢いが感じられる。 
  
上海家庭料理に大満足! 
  
 勢いは空港だけではない。出迎えの征薇さんのお兄さんの車は、新車のBUICK(中国での生産車)と高級車。ご本人も来たばっかしなので、車内のスイッチ類の操作も不慣れで、私に聞く始末だったが、モニター液晶テレビは3台も付いてるハイテク車。 
 まずは、本日からお世話になる征薇さんのマンションに向かう。高速道路をひた走るが、その横をリニアモーターの列車が走り抜けていく。周囲を走っている車も、一段と良くなっているように感じる。 
 平武路にあるマンションには1時間ほどで到着。以前は今流行の最先端を行く新天地界隈に住んでおられたが、国策としての都市開発で立ち退かされたとか。ここは分譲マンションで、21階フロアー4室の内3室をお兄さんが購入して、征薇さんやお母さん、お姉さんに使わせておられるらしい。 
 100uほどの部屋を案内してもらい、くつろがせてもらった後、夕食はお兄さんの部屋で、奥さんの手料理をごちそうになる。奥さんは、一時頭の切開手術までして大変な目に遭われたようだが、今はお元気になられ、温厚な笑顔が素敵な方である。 
 大きなテーブルいっぱいに料理が並べられ、どれから手を付けて良いのか迷うほどだ。お母さんや姉さんも加わり、宴は盛り上がる。 
中国のビールに、中国最高級酒「五狼液」が振る舞われ、「乾杯」「カンペイ」となる。日本から魔法瓶に入れて持ってきた、岐阜県の天領酒造鰍フ「杜氏の持ち帰り酒・吟醸純米酒」も食卓に上げると、「オイシイ!オイシイ!」と見る見る間に1.2gが空になる。お兄さんは来日された時はあまり飲まれないので、お酒は嫌いかと思いきや、何の何の、さすが中国的豪快な飲みっぷり。 

原料米:ひだほまれ
精米歩合:55%
アルコール度数:15.5
日本酒度:+2
酸度:1.4
アミノ酸度:1.3

  
スーパー銭湯もあるでよ 
  
 本来、既に寺内氏から電話が入って、彼の行きつけのクラブで合流するはずが、いっこうに連絡がない。時間的にも、もうそろそろ二次会に繰り出すのであれば判断しなくてはならない時刻。やむなく、お兄さんの知っているカラオケクラブに案内して頂く事になり、征薇さん兄妹と、松本さんに私で行くことに決定してタクシーを飛ばす。 
 中に入ると日本よりは遙かに大きい部屋が並び、その奥にホステスの待合いがあり「選り取り見取り」で指名してBoxへ。その後は「五狼液」の飲み過ぎか殆ど記憶に残っていません。 
 明くる日は、征薇さんに連れられて、近くの公園を散策し市場へ。日本では消えてしまった市場風景に松本さんはエキサイトし、荷物になるにもかかわらず、幾つかの店で土産物として買っている。 
 その後、上海の路線バスに乗り、今一番新しい観光スポットの新天地に向かう。バス代はエアコンバスで2元(約26円)。 
一昔前は、征薇さん達が住んでいた所だが、今はその名残を留めているのは「中国共産党第一回大会会場」と「上海革命歴史博物館」程度。 
 新天地の中にあるお茶をメインにしたレストラン「一茶一坐」で昼食を採って、人民公園まで歩き一休みして、南京路へ。東京の銀座をも凌ぐデパートや商店が林立している。我々は中国食材を求め「上海市第一食品商店」というデパートへ入る。ここでも松本さんはタア菜や金華ハムを買い込む。 
 地下鉄とタクシーを乗り継いで、いったん征薇さんのマンションに戻った我々は、お兄さん達が待つスーパー銭湯へ行くべくタクシーを止めようとするが、20分待っても空のタクシーが捕まらず、相当遅れて銭湯へ。 
 名前は「雲都の温泉」と言って、なんでも日本に留学中に、スーパー銭湯を経験し、これを中国に持って帰って商売にしようとした青年がオーナーとか。国情の違いで若干スタイルは違うが、宴会場では「箕面スパーガーデン」を凌ぐえらく盛り上がりで、さすがネアカの上海人と驚嘆。 
  
美人の工場長潘さん 
  
 マンションの近くまで帰ってきた我々は、征薇さんの「結構評判ですよ」という餃子坊「東北人」に入っていった。しかしもうかんばんだというのを、無理やり「一杯だけ飲ませてくれ」とテーブルへ。正にあてなしで店自慢の「白酒」を所望。しかし、まだ味が乗ってなく若いので「もっと旨いのは?」と聞くと大瓶に入ってある白酒を指す。よしそれもいただこうと飲んで見ると38度のお酒としては深みもあり、これをぜひ土産にと、ポリ容器に詰めてもらうが、これが帰国の時に一騒動の原因に。 
 翌23日は、山田さんと岡さんが「月ヶ瀬の梅酒」を手土産に持って飛んできて、私がバンコクに飛び発つ日。朝食は征薇さんに美味しいお粥を作っていただき、9時過ぎから、工場団地にあるお兄さんの工場を見学に行く。そこは市内から高速道で1時間ほどかかり、周囲は空き地があちこちあるが、殆ど「台湾人」らの工場が建つ予定になっているとか。 
 上海誠摯工貿有限公司の工場長は、生産部部長の肩書きを持つ潘麗仙さんで、社長の片腕として設立時から会社を支えてこられている。日本との取引が主で、征薇さんがその通訳・翻訳を担当しておられ、今回は日本の会社関係者が訪中するため、ガイド役としての帰国。2棟の工場に50名ほどの従業員が働いている。地方からも多数来ているようで、読み書きできない女性もいるとか。 
 一通り場内を案内していただいた後、従業員が食べに行く近くの食堂で、我々も昼食をいただいたが、皆さんよく食べること。 
  
リニアモーター列車に乗る 
  
 岡さん達が到着するのは我々と同じ便なので、午後2時50分着予定。余裕で工場を後にして空港へ送ってもらったが、高速道路で途中すざましい交通渋滞に巻き込まれ、浦東空港に着いたのは3時20分。我々の時はその時刻には到着ホールに出てきていたので、慌てたが、結果二人がホールに出てきたのは3時50分。 
 逆算すると、私がここでチェックインする午後7時50分まであと4時間、即ち片道2時間となると悠長に構えていられない。二人をせかせて、初体験のリニアモーター列車(こちらでは磁浮列車)の改札口に急ぐ。大人一人50元(約650円)但し当日のエアーチケットを持っている人は40元になる。物価指数から考えると決して安くないが、結構人がいる。 
 4時15分発の列車があるというので慌てて乗車するが、座席指定ではないのでそれぞれ空席に分かれて座る。列車は徐々にスピードを上げていく。431q/hより上がらないと思っていると、どんどんスピードが落ちて、わずか7分半で終着駅に着いてしまった。乗り心地は良かったが、対向車とすれ違う時の衝撃は半端ではなかった。 
 それから地下鉄・タクシーを乗り継ぎマンションに到着したのは5時過ぎで、さすがリニアといったところ。お兄さんと征薇さんにいただいた中国酒に昨日買った白酒など、いっぱいの手荷物を持って征薇さんに送られ空港行きのバス乗り場へ向かうが、今日もタクシーが止まらない。やむなく市バスに乗ってターミナルへ向かい、どうにか6時発のバスに間に合った。 
 1時間余りで空港に着き搭乗手続き。北京でSARSが発生したためか、一段とチェックが厳しい。お酒の機内持ち込みもうるさくて、4本の内2本はリュックに詰めて手荷物預けにするが、買った白酒のキャップがうまく閉まらずリークすいるので、機内に持ち込むと主張するがなかなか認めてくれなかったが、根負けしたのか「勝手にせえ!」と言わんばかりに搭乗券を発給。この時は、セキュリティー・チェックでも「あきらめ顔」で通してくれてバンコクへ。 
 浦東国際空港を定刻より20分遅れで離陸したMU-547が、バンコクのドンムアン国際空港に着いたのは翌日の1時10分(時差−1H日本とは−2H)と出発の遅れがひびいている。 
 2時過ぎにホテルにチェックインしたが、次の目的地カンチャナブリに行くためには、6時30分に起床し7時には出発しなければ、始発駅のトンブリー駅発7時40分の列車に間に合わない。 
  
3時間乗って75円?! 
  
 7時10分にホテル前でつかまえたタクシーに行き先を説明し、分かったと言っていたのに、いざ駅近くで分からなくなってしまい右往左往。結果、駅に着いたのが7時40分。日本ではもう間に合わない時間だがさすが南国、まだ乗客がプラットホームでうろうろしている。切符も買わずに乗り込んだが出発したのは50分。4~50年はゆうに使っている列車にはぎっしりの乗客。3時間余り乗って25バーツ(約75円)とはタイ国鉄も大赤字だろうことはうかがえる。ちなみにホテルから駅までのタクシー代は100Bを超えていた。 
 KANCHANABURI River Khwae Bridge 駅には定刻の11時8分に到着。インターネットで予約したPung-Waan Resort Kwai Yaiホテルは、パソコン画面ではすぐそばにあったので、それらしい方向に歩き出すが、建物が見あたらない。道ばたの店で聞くと2qはあるという。そこで40Bで店の息子さんのバイクで送ってもらうことになって、無事ホテルのフロントへ。 
  
大戦の傷跡は今も消えず 
  
 ここカンチャナブリに来る目的は、第二次世界大戦中無謀な日本軍の泰緬鉄道建設で、多くの死者を出したことに対する日本人としての謝罪の気持ちを込めて献花をすることにあった。 
 ホテル側に2つの花束を頼のみ、送迎も依頼して昼食後の2時過ぎに出発。リゾート地といえども40度を超える暑さには車のクーラーも効きが悪い。 
 ところが、最初に案内されたのは真新しい墓地。なにも分からず祭壇に行くと鶏のミニチュアをお供えせよと言う。それで謎が解けたと思った。確か鳥インフルエンザがタイで最初に発生したのがカンチャナブリ県だったと記憶している。その慰霊のために作られた墓地なのだろう。日本でも何十万何百万の養鶏を殺したのだから、こちらのタイでも然りであろう。それにしても敬けんな仏教国タイの対応には頭が下がる。 
 次に案内してもらったのがThailand-Burma Railway Centreで、当時の鉄道建設のパノラマを始め多くの資料が展示されてあり、その前に連合軍共同墓地がある。 
 墓地の中心には十字架の塔があり、私が花束を持って歩いていると、管理責任者という男性が目的を尋ね、それだったら塔の基壇に捧げるように言って立ち去った。 
 私が終わりしばらくすると、白系の女性も花束を捧げて記念撮影をしていた。残念ながら話をすることは出来なかったが、今でも思いを馳せて訪れる人が絶えないことに、傷口の深さが身に染みた。 
 当時の試算で5年はかかるとされた総全長415q(タイ側263q、ビルマ現在のミャンマー側152q)をわずか16ヶ月で開通させるという突貫工事は、多くの犠牲者を生んでしまった。捕虜の2割に当たる1万6千人、アジア人労働者10万人の殆どが死亡したという。今の米英のイラク侵略を見ても、やはり戦争とは人を狂気にさせてしまう恐ろしい行為なのだろう。 
 次にクワイ・ヤイ川畔にあるカンチャナブリ戦争博物館に案内された。B4版1枚の日本語の解説の最後に(訳者から)として 

この博物館には、主に連合軍捕虜に関する資料が展示してありますが、歴史の影に埋もれてしまった多くの名もなきアジア人労働者のことも忘れないでいただきたいと思います。そして、こうした過去を知った上で、他の人々を思いやる心を持つことが、私たちにとって最も大切なことではないでしょうか。一人一人が未来に向かって、少しでも平和な世界を実現する絶えまぬ努力を続けようという気持ちを持っていただければ、訳者小生の幸いとするところです。(AFS36期生川上槙市郎) 

 最後に、戦没者慰霊塔のある第二次大戦博物館に向かい、慰霊塔に献花をし、しばしクワイ川鉄橋を見つめ、自己56年の歴史をふり返った時、確かに世界を二分するような大戦はなかったけれど、地球上のあちこちで内戦や侵略戦争が続いていることに、やりきれない思いが込み上げてきた。 
  
浦東空港を右往左往?! 
  
 翌日は、鉄道を使って帰えるのをやめ、長距離バスで帰ることにする。9時発のバスを予定していたが、迎えのタクシーが遅れ9時15分発のエアコンバスでバンコクへ。運賃は75B と国鉄の3倍だが、こちらは2時間でバンコクに着く。スローフード・チャオプラヤの伊藤さんに頼まれた種苗を探しにスーパー・マーケットをはしごするも見当たらず、遂にサンデーマーケットまで足を伸ばす。テント張りの会場は茹だるような暑さで、汗がぼとぼと落ちる。 
 ここでも依頼された内の2〜3種しか手に入らず断念。夕食はこれも伊藤さん推奨のスクンビット・ソイ55の「香港粥」。渋滞の中タクシーで向かいどうにか店に入ったが、先客は1組だけ。入り口には女性がコンピューターを前に店番。お粥と単品を頼んで食べたが、とびっきり美味しかったというほどではなかった。 
 帰国便は深夜の1時55分発のMU-548。22時には空港に着き、チェックイン開始を待ち、手続きを終えたのはまだ25日。長い待ち時間の後上海に向かったが、中国東方航空は、上海で改めて関空行きのチケットを発券してもらわなくてはならない。一番で手荷物受取場に降りた私は、MUのカウンターを探す。それらしい人物に聞くが要領を得ない。ついには、「親切に」ドアー開けて、3階のチェックイン・カウンターに行けという。 
 結果、上海から初手続き者と同じ扱いを受け、空港利用料も払わないと乗せないという。また手回り品として持っていた中国酒も、また預けろという。2日前はOKで通れたと言って、どうにか搭乗券を発券してもらってセキュリティー・チェックを受けると、ここの担当者がガンとして認めない。「もう一度チェックイン・カウンターに戻って預けろ」の一点張り。 
 やむなく服務員通路を通ってチェックイン・カウンターに戻ったところで、たまたまなのか丁寧な日本語は話す若い背広姿の服務員がいて、事情を聞いて同情してくれた。 
 そして、ボトルのキャップのところにテープを巻いてくれたり、発泡スチロールに梱包する費用まで出してくれた。 
 また、元来た道を一緒についてきてくれたが、出国審査場でクレームがついた。仕方なく責任者のいる部屋まで行き彼が経緯を説明。責任者は、私にチェックイン・カウンターに戻れと指示した本人を呼びつけ、多分「簡単に戻すな!」としかっている様子。 
 時間があったから良かったものの、もし乗り継ぎ時間が無かったら大変なことになっていたし、お酒も没収されていたかも知れない。現に午後の便で帰国した松本さん達も引っかかって、あわや没収!ということだった様だ。 
 それにしても90元の空港管理建設費を払わされる羽目になったのが悔やまれた。

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今日は「母の日」、家族四人で、阪急十三にある寿司屋に行きました。最近四人でゆっくり食事をすることがなかったので有意義な時間でした。
プロ野球セントラルリーグは団子状態で、どこが抜け出すかわからないですが、阪神タイガースも、ジャイアンツもがんばっています。面白くなってきました。
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.ne.jp/asahi/zakkaya/weekly/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.417

雑貨屋 店主 大西良衛  but_up.gif (232 バイト) zakkaya@news.email.ne.jp