Zakkaya Weekly No.366
Ryo Onishi                                     
5/18/2003

雑貨屋のひとり言 定 年 の 達 人 さくらの独り言 川 柳 & コント バックナンバー
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SARSの日本上陸(しかも大阪、兵庫)を思わせるニュースをみてちょっと心配しています。この狭い日本で感染者がいたらどうなるかと、考えるとぞっとします。でも近いアジア諸国で発生しているSARSが日本に来ていないことも不思議なことだと思います。そろそろマスクがいるのでしょうか?通販のマスクのプライスも高騰しているというニュースもあります。スーパーマーケットで売られていたマスクは398円でした。これって高いのかどうか・・・。(R.O.)

5年半前、米国駐在員の身分のまゝ企業定年を迎え、ビジネスの第一線から退いた私は日本へは帰らず、妻と二人でアメリカに残り、そのまま米国(ロサンゼルス郊外)で引退生活を送っています。

引退生活と言っても、地域のボランティア活動や趣味などでビジネス現役時代よりも忙しい思いをしながら、セカンドライフを存分に楽しんでいます。

特に趣味のドライブ旅行を生かして書いている「ロサンゼルス周辺の観光スポット案内」は当“Zakkaya Weekly”や地元ロサンゼルスの日系新聞「羅府新報」へ寄稿済みのものだけでも140ヶ所を超えました。

この「観光スポット」の中には、米国にとって栄光のハイウエイだった“USハイウエイ、ルート66”のような私にとっての「生涯テーマ」とも言うべきものも含まれています。

また、私はビジネス引退後、毎年5月中旬から6月初旬にかけて日本へ行くことを恒例としています。

日本では、現役時代の日本の勤務先であり今でも日本の自宅がある長野県諏訪市と、私が生まれ育った東京の2ヶ所を中心に滞在し、家族・友人・知人との旧交を暖め、楽しんでいます。

また最近、私には日本行きの楽しみがもうひとつ増えました。それは M.L.(メーリング・リスト)グループの仲間達とのミーティングです。

I.T.(情報技術)の進歩は日米間の距離をなくし、インターネットや E-メールを媒体に簡単に仲間を作れるようになりました。私も日本の「海外ロングステイ同好会」、「シニア・ネット」、「ライオンズ・クラブ」と言ったグループと交信し、情報交換などをしています。普段は E-メールによる交信だけですが、時には実際に相手の地を訪問し、メール仲間と直接顔を合わせます。これを「オフ会」と呼んでいます。

「オフ会」では、たとえ相手が物理的に初対面であっても、すぐ旧知の間柄と同じになれるのが最高の特色ではないでしょうか。

私は今年も5月14日から日本へ行くことにしました。今回も各地のグループが「オフ会」を計画してくれており、今から楽しみにしています。

そのうちのひとつ、「日米シニア井戸端会議」というグループでは仙台の世話人の方(河北新報社メディア局部長の佐藤和文氏)が私の仙台行きについて自社のサイト中の「Web日誌」に書いてくださいました。私を「定年後の人生の達人」と紹介してくださり恐縮しています。このサイトの U.R.L.は次の通りです。ご覧いただければ幸いです。
http://www.kahoku.co.jp ⇒ 画面右の「Web日誌」から「定年の達人」を選択
  skawai@earthlink.net )but_up.gif (232 バイト)

【お願い】:私(河合将介)は5月14日(水)から6月8日(日)まで日本で、ロサンゼルスを留守にします。日本へはパソコンを持参していません。この間、私にご連絡いただく場合は私の兄(東京・河合成近)までお問い合わせいただくようお願いいたします。
兄のアドレスは、 nakawai@adachi.ne.jp です。

さくらの独り言 母の日

アメリカで電話使用が最も高く記録されるのは、「母の日」だという。多分日本も例外ではないだろう。私も、母とこどもの居ない叔母二人の計三人へ電話し、感謝の辞を伝えた。毎年恒例のことだ。こどもの居ない(母にはなれなかった)私は今年この「母の日」に、一通の手紙を貰った。姪(姉の娘)の有紀からだった。こうした特別の日に愛を分かち合う手紙文化・習慣がある私たちファミリーを、幸いに想った。これも「母」の教えで生まれた我ファミリーの果実、「母の徳」である。

「有紀の大好きなおばさん、お姉ちゃんへ」(注:姪甥は私をお姉ちゃんと呼ぶ)で始まるその手紙は、家族の近況がまず語られ、途中から「家族の報告はこれくらいにして、今日は母の日にちなんで手紙を書きました!」と文脈が変る。「今年は何をしようかと思って考えたら、今私にできることは、手紙を書く事でした。私はこの家族の一員として命を与えられた事を本当に嬉しく想います。今の私は何もできないけど、一つだけできることがありました。それは皆の心の支えになることです。私は、祖母や母を愛しているように、私はこの手紙を読んでくれている一人ひとりを、本当の祖母や母と同じぐらい心の奥深くから愛しています。この『大きな愛』が皆の心に伝われば幸いです。私はいつも、みんなが元気に笑って生きていけるように祈っています。私が、こうやって『愛』を与える人間になろうと思ったのも、今までの皆さんのおかげです。本当に有難うございます。体は遠くに離れていても、心はいつもすぐ近くにいるからね! 無理をせず、体だけは気をつけて毎日を楽しく過ごしてください。また会える日を楽しみに待っています。2003.5.母の日。有紀」。この姪は、毎年母の日にはこどものいない私の母の妹達(私の叔母たち)へ、自分の給料の中からプレゼントを送ってくれていた。しかし今年4月から働きながら通信大学へも通い始めたこの姪が財政厳しい中で知恵を絞り、形をかえた贈りものとなったのがこの手紙という訳だ。そして今年から私も「母の日」に覚えられる一人に追加してくれたらしい。ニクイ奴であり、やっぱり可愛い奴である。

さて、「母の日」の始まりは、ギリシャ帝国の母なる神「ルアー」を春に祝ったという説もある。しかし、今日我々が祝すところのものは、米国ウエストバージニア州在住のアンナ・ジャービスさんの母親が1907年5月第2日曜日になくなったことが始まりという。夫と早くに死別したジャービスさんの母親は、幼い子どものジャービスさんとその妹(盲目)を苦労して育て、過労死したと伝えられている。ジャービスさんはその母親への恩を忘れず、母親の徳を偲ぶ為に追悼式を開き、そこで母親の愛した白いカーネーションを献花した。母の優しさ、清らかさ、そして母の愛の忍耐力を表現したと伝えられている。アメリカで「母の日」が公式行事となったのは1914年、「父の日」の選定は1972年だった。日本では、1915年頃からキリスト教会で祝され始め、戦後1947年に公式に制定された。いずれも「父の日」より「母の日」が先に制定されたことは面白い。

ところで東洋のある書には、「父は天、母は地」とある。また「四季の歌」(作詞・作曲:荒木とよひさ)の第2と4には、「夏を愛する人は 心強き人 岩を砕く波のような ぼくの父親。 冬を愛する人は 心広き人 根雪をとかす大地のような ぼくの母親」とあり、母を大地と関連付けるものも多い。しかし江戸時代の寺子屋で使用された教科書「童子教」には、「父の恩は山より高く、母の徳は海より深し」とあり、母と海が関連づけられる。漢字の「海」は母の涙だと聞いたこともあり、またフランス語ではmere(母)の中にmer(海)があると教えられたこともある。このことを三好達治は「測量船」で見事に表現している。「海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。そして母よ、フランス人の言葉では、あなたの中に海がある」と。今年も「母の日」は、海よりも深く大地より熱い「母の徳」に感謝した。そしてピンクのカーネーションを自分の部屋に飾り、母や叔母や姪などの、ファミリーの愛を愛でた。っと、東京湾を眺めながら、たまには女性らしいさくらの独り言。

sakuratsubomi@earthlink.netbut_up.gif (232 バイト)

川 柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

灰皿の外にはみでた言葉尻

捨石の勇気 波紋が渦となり

乱反射させてメッキの有頂天

絶頂の椅子を取り巻くブルータス

自信家の脆さ知ってるポリグラフ

( ニュースやぶにらみ )

「怖い駄洒落」
オシャカにな りそな銀行  −金融危機

「夢」
長者番付から長寿番付に変えた ー年金生活者

「不成績」
対大関戦に負け越した  −平幕力士


(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jpbut_up.gif (232 バイト)
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

満腹したら食休み(62) 「涙は甘いかしょっぱいか」

涙もろい人は何かにつけて“涙腺が緩む”というが、最近自分がそうなっていることに気付いた。やたら泣ける場面に遭遇してしまうのだ。というより、今まで何とも思わなかったような場面でもついつい涙が出てきてしまう事が多い。テレビのドラマや映画はもちろん、歌を聴いても泣けてくる。最近ではついに新聞や雑誌の記事を読んでも涙が出てくるようになった。

私の涙腺が緩むのは、テレビでも何でも決まって、親子愛、頑張る子ども、市井の中で訥々と生きる人、そして動物、特に犬が登場するもの。歌はこてこての演歌は苦手だが、それでも親を思う歌詞などが流れてくるともうだめだ。また私の、中、高校生時代はニューミュージックの全盛期だったが、その頃よく聴いた歌が流れてくると、やはり泣けてくる。

今まで新聞を読んで泣くことも殆ど無かったのだが、つい最近小学校の先生が書いたものに涙が溢れてしまった。昨年小学校に入学した少し手の不自由な男の子の1年の成長振りを書いたものだが、その子は手が不自由な分他の子に遅れをとることも多い。そしてよく泣く子でもある。今までは両手を目に当てエーン、エーンと所構わず幼児泣きをしていたが、1年経った今では、目に浮かぶ涙を流すまいと必死でこらえるようになった。その子を見守る先生の、その成長に対する喜びが文章間に溢れており、親とはまた違った愛情にすっかり感動してしまい、読みながらもう涙、涙。

どうして最近こんなに涙もろくなったのだろうかと気になっていた。年齢とともに感情が豊かになったのだろうか。そういえば、年齢に比例するかのように涙もろい人をよく見かける。人生経験が豊富になるほど、感動する場面も多くなるというわけだ。心が豊かになるのだ。でも悔しいことにどうもそうではないらしい。ちゃんと理由があるのだ。たまたま目にしたインターネットのホームページで涙に関する記事を見つけた。

涙は喜怒哀楽を感じたとき、自律神経の興奮によって涙腺のコントロールが緩んでしまい溢れてくるものだ。その涙にも2種類あり、嬉しいとき、感動したときは心身をリラックスさせる副交感神経が刺激される。このときの涙は量も多く塩分も薄めらしい。逆に怒りや苦しみで流す涙は交感神経が刺激されたもので、量も少なく塩分が濃いそうだ。

この涙の分泌は10歳頃が一番盛んで、年齢と共に衰えてきて、40歳を過ぎると全盛期の半分になってしまうそうだ。ところが、年齢と共に涙もろくなるのは、涙の量の問題ではなく、感情を抑える理性の力が弱くなってしまうことに大きく関係しているという。

40歳を過ぎるとですって?ぴったりではないか。私は年齢と共に、涙の量は減ってきているのに感情を抑える理性の力が弱くなってきているのだ。だから最近やたら涙もろくなってきていたのだ。私は生理学的にきちんと合った成長(老化)を遂げていたのだ。

裏を返せばこの老化、喜怒哀楽がより激しくなるということ。その言葉から連想するのは頑固、我儘という言葉。やっぱり私は思いたい。人生経験が豊富になるほど、心も穏やかに、豊かになるのだ。だから感動で涙腺が緩む場面が多くなるのだと。それがただの老化のせいだなんて今回の解答、知らないほうが良かったかもしれない。
さっか あきこ 
akikosk@sbcglobal.netbut_up.gif (232 バイト)

 

セリーグはまだまだ阪神が頑張っています。甲子園球場にゲームを見に行こうと思うのですが、人気が高すぎてチケットが手に入りそうにありません。
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Zakkaya Weekly No.366

雑貨屋 店主 大西良衛  gp-bmail.gif (1852 バイト) zakkaya@news.email.ne.jp

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