weekly


1271号

No.1271     Ryo Onishi              9/20/2020

 weekly
LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
 
雑貨屋のひとり言

今週は先週、逝去された河合将介さんの追悼特集としました。
2年前の9月に河合さんから治療に専念するので雑貨屋を休止する旨の連絡をいただきました。河合さんのことだからいつか回復されるのではないかと期待をしていましたが、それは叶わぬことになりました。
私たち以上に河合さんが一番歯痒く悔しかったと思います。
河合さんは誰からも愛されて尊敬されていました。先週、河合さんの追悼のメッセージを送っていただきたいとお願いしましたら、みなさんからいただきました。ありがとうございました。いただいたメッセージを全文、掲載させていただきました。
河合将介さんが記事としての投稿は20号からです。雑貨屋ウィークリーのバックナンバーでお読みいただけますので、どうぞご覧ください。
私が帰国(1999年11月)する際、雑貨屋の執筆者と読者のみなさんが送別会をしてくださったときの記念写真です。右端におられるのが河合さんです。《R.O.》

 

河合将介さんへの追悼メッセージ 

北岡和義さん

河合将介さん、憲法実践者の功

 夕方になるとぼくはダウンタウンからトーランス向けて車を走らせた。当時、エプソンンの事務所はトーランス市役所の裏にあった。ぼくは河合將介さんを訪ね、いろいろ話を聞いた。
 エプソンは諏訪精工舎のブランドだが、セイコー社と服部精工舎とエプソンの関係が良くわからず河合さんに解説してもらったことを今もよく覚えている。こうしたオフタイムが取材者のぼくにとって本音が訊ける絶好のチャンスなのだ。
 底抜けに明るくざっくばらんで日本企業駐在員の雰囲気から抜けでていた。そんな河合さんからいろいろ教えてもらった。しかも定年退職した後もLAに残る、と聞いていたので河合さんはよほどアメリカ社会に馴染み溶け込んでいたのだろう。
 河合将介、東京・墨田区生まれ。近くに諏訪精工舎があったことが影響したのだろう。大学を卒業すると諏訪精工舎に就職した。自分はドメスチック派と決め込んでいた河合が突然、シンガポール駐在を命じられた。腕時計のケース工場を立ち上げる任務だったという。入社8年目というからよほど会社の評価は高かったのだろう。
 海外駐在経験のある人なら理解できると思うが、留学経験もない人材にいきなり海外駐在を命じることはよほど本人の能力、人柄が異文化、異言語社会に適している、と判断されることが選考の第一だと思う。
 河合さんはシンガポールに8年勤務し、いったん本社に戻ったがその後、ロサンゼルスのエプソンに駐在した。もちろん市場はアメリカ社会であり、日系とかアジア系はごくマイナーな対象だった。エプソンがパソコンのプリンターでしっかり稼いでいることは間違いないようだった。
 河合さんのものおじしない人柄はアメリカ人に受け入れられたようで、アメリカの会社で働く違和感は払拭されていた。
 その河合さんが日本国憲法違反の判決を最高裁から勝ち取ったことを知るヒトは多くないだろう。ぼくらLA在住の日本人は海外に住んでいるため国政選挙で投票できないでいた。1993年6月18日、宮沢内閣不信任案が可決、細川護熙連立内閣が実現した時、多くの日本人が激動の政局に強く反応した。
 同時に海外に住む日本人もまた急激に動いた政局に大いに刺激を受けたのである。LA在住の建築家・高瀬隼彦氏を中心に「海外在住日本人にも投票させよ」という運動を立ち上げ、日本の国会向けて運動を始めた。その仲間に河合将介さんが参加してくれたのである。
 政治関係に関わりたくないビジネス駐在員をものともせず河合さんは「民主主義の実践」を標榜して立ち上がった。最高裁判決でぼくらが全面勝利するまで最後まで戦いの仲間として連帯してくださったのが、河合将介さんだった。
 ぼくらは日系スーパーの入り口で署名活動を行った。河合さんは真っ黒に日焼けして熱心に署名を集めてくれた。衆議院議長、参議院議長、内閣総理大臣へと陳情活動は広がったが、多くは総論賛成各論反対で埒があかず、ついにぼくらは国を憲法違反で訴えた。
 ぼくらの違憲訴訟は最高裁大法廷に回され、2005年9月14日、ついに違憲判決を勝ち取った。一人当たり5000円の賠償金も認める全面勝訴となった。河合さんは原告団13人のうち最後まで残って戦った原告団の一人だった。軸足のぶれない民主主義者だった。
河合将介さんの御霊に心から哀悼の真を捧げます。(合掌)

------------------------------------------------------------------------------------
田中利彦さん
  
河合さんご逝去のメールありがとうございました。長年にわたり多臓器不全でさぞ悔しい思いをされたことと思います。安らかに天国にておやすみなさい。 
私は85年〜96年駐在、その間随分いろいろな方を紹介していただき充実した生活を送ることができました。河合さんは以前シンガポールにほぼ同時期駐在していたことを知りました。大変な勉強家で知識が豊富で人の面倒見の良い方でした。
来日の際には天麩羅屋さんとか根岸のちゃんこ料理やさん、あとは決まってカラオケ、彼の声は素晴らしかったです。もう彼と会うことは出来ないのが残念です。私は遠からず彼の後を追います。座席を取っておいてください。

-----------------------------------------------------------------------------------

中條 石さん

河合将介さんとの出会いはLA赴任間もない1988年末頃に共通の友人の勉強会で知己を得、帰国する98年夏までの約10年、会社、業界も違うのに公私にお世話になりました。
その後、将介さんとは彼の訪日時、或は私の訪米時、LAで何度かお会いしましたがここ10年ほどは病を得てからそれもなく心配しておりました。
初対面の頃はお互いに親しく話すこともありませんでした。
しかし、幼少時代東京の下町台東区竜泉で私が一時期育ったこともあり同じく下町墨田区押上で育ったという将介さんと胸襟を開いたざっくばらんな交際までは時間の問題でした。それからは折あるごとにお会いしましました。
色々博識で地域への社会貢献にも積極的に参加されておりました。

代表的な一つに海外在住日本人が母国日本の国政選挙に憲法で保障されているにもかかわらず参加出来ないことに疑問を持ち、LAからの在外投票制度の実現をめざす運動の一員として参加され、特に94年夏からの街頭署名活動では中心的に大役をこなされました。
この署名は日本の国会、内閣、自治省その他の請願に利用され効果を上げたことは云うまでもなく、多くの方々の尽力と諦めることなく最高裁まで国を相手取り争い最終的に権利を獲得したことは大きなエポックでした。

カラオケが好きでよくカラオケバーにはよく行きました。
レパートリーも広くよく歌いました。

今私が使用している名刺の英文表記には、NO OFFICE,NO TITLE,NO MONEY & NO WORRIESとありますがこれは将介さんのオリジナル。彼の了解の元拝借したもので、彼の人生観を十分表しているよう思います。
物知りで知的なばかりでなくユモアー、いたずら心にあふれておりました。
その昔、こんなことを2人で真面目に考えたりしました。
ダウンタウンフリーのフリーウエーを出たところによくホームレスが恵んでほしい旨と最に”GOD BLESS YOU”と書いたボール紙を持って立っているが機会を見て汚い格好をして二人で立ってみようかというものでした。
日本人の我々は仏教信者なのだから“南無阿弥陀仏”とでも書こうかとか言いながら・・・。
それならいっそ親しい友人宅をノックしたらどういう対応するかやろうかというものでした。

今でも忘れられない将介さんの名言にこんなのがあります。
私に幸せとはどういうものかと聞いてきましたが答えられない私にこう言ってくれました。
“幸せは幸せと思う所に来るものであり、不幸と思う所には不幸しか来ない”ということでした。確かにそう思い、座右の銘にしております。。

将介さん、自分がこうして今あるのは社会に出るまで特に学生時代、成近兄貴たちが自分を犠牲にして経済的協力してくれたお陰で今日があるんだとよく云ってました。
98年夏、私の帰国に際し送別会を率先して発起人の一人として開いてくれました。
照れくさいので辞退しましたらこう言いました。
送別会と葬式は本人に関係なく廻りがするものだから黙って参加すればいいとの事。
多数の方々参加して下さった立派な宴でした。

将介さんのこの度の訃報には絶句。お世話になるばかりでした。
コロナ禍でもあるうえ葬儀にも遠路という事もあり参加はかないませんが今は、ご冥福をお祈りするばかりです。感謝

------------------------------------------------------------------------------------
若尾龍彦さん

雑貨屋の大支柱でもあった河合さんのご逝去にお悔やみを申し上げます。
河合さんは本当に心の広い人格者でした。
長年にわたりお世話になったことを感謝しつつ、心から哀悼の意を表しご冥福をお祈り致します。

------------------------------------------------------------------------------------

龍 翁さん
河合将介さんのご逝去を悼む

米国(ロサンゼルス)で暮らしておられた河合将介さんと東京に住む私(ペンネーム龍翁)が直接お会いしたのは、これまでに(将介さんが帰国された時の)2回だけ。それも、アメリカ時代から将介さんと親交が深かったお二人、中條 石(いわお)さんと、雑貨屋の投稿者・さくら つぼみ(ペンネーム)さんにご紹介されての脇役的位置づけで、それほど親密な関係ではなかった。したがって将介さんのプロフィールについてはほとんど存じ上げず、ただ、長野県諏訪市のご出身で某精密機械会社に勤められ、後年、同社のアメリカ法人に赴任、副社長で定年、退職された後、そのままロサンゼルスに留まり(移住?)、地元新聞や(さくら つぼみさんのご紹介で2007年から私も寄稿者の仲間入りをさせていただいた)「雑貨屋ウイークリー」に寄稿されたり、その「雑貨屋ウイークリー」の、もう1人の寄稿者(川柳作家)河合成近さんの弟さんでいらしたことぐらいの知識しかなく、いわば“雑貨屋ウイークリー執筆者集団”の先輩・後輩だけの間柄であった。

2回しかお会いしていなかったが、将介さんに対しては「人の気持ちを汲む人」「諸事に感動することが出来る人」「周囲の環境に順応しやすい人」「芸術的センスのある人」という印象が強かった。そして(彼の)早口言葉には驚かされた。まさに“立て板に水”、私は(失礼ながら)それを“機関銃話法”と呼んだ。しかし、早口というのは「頭の回転が早い」「豊富な知識の持ち主」ということになる。

「将介さんのプロフィールはほとんど知らない」と書いたが、実は1つだけ私と共通の趣味を持っておられたことを紹介しておきたい。それは「漢詩・詩吟」だ。私がかつて「雑貨屋ウイークリー」に我が郷土・豊後の国(大分県)日田の(江戸時代の)儒学者・教育者・漢詩人であった広瀬淡窓(1782年〜1856年)について書いた時のことだった。彼から「淡窓先生の作品(漢詩)は大好きです。私たち詩吟の会でも“淡窓漢詩”はよく吟じます」とのメールを頂戴したことがある。その後、李白・杜甫・菅原道真・阿倍仲麻呂・広瀬淡窓・頼山陽そのほか中国、日本の漢詩人の作品(漢詩)について意見(メール)交換をしたことがある。懐かしい思い出である。翁は、詩は吟じないが漢詩そのものは高校時代から愛好していたので将介さんとはウマが合った(とはいえ、将介さんの造詣の深さには及ばなかったが・・・)

将介さんのご逝去に際し、お兄様(成近さん)が「雑貨屋ウイークリー」1270号(9月13日)に寄稿された川柳「泣くもんか お前の笑顔が 好きだった」「半生を ロスで江戸っ子 そのままで」「さあ駆けろ 透析の管(くだ) もうないぞ」「線の風 だったか冷ややか 今朝の風」など弟を想う兄の愛情が私の胸を打った。そこで私も漢詩の友・将介さんのご逝去を悼んで、李白の詩『静夜思』を贈る。
静夜思(李白)

牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
    
    寝床の前で月光を眺める
    白々とした灯りは まるで地上の霜
    頭を上げて山上の月を眺め
    頭(こうべ)を垂れ 後にした故郷を想う

<病床にあった時の将介さんのお気持ちをおもんぱかって、龍翁の強引な訳>
【離れられなくなったベッドに横たわり 窓辺の月の光を眺める
煌々と輝く灯りは まるで町のネオンサインだ
ベッドから頭をもたげ 更に傾く月影を追う
静かに目を閉じると 子どもの頃の故郷(諏訪)の思い出が
走馬灯の如く脳裏を走る】

河合将介さんのご冥福をお祈り申し上げます <合掌>
-------------------------------------------------------------------------------------
井出英雄さん
河合さんが米国で過ごした理由

河合さんはカリフォルニアで駐在員として12年間働き、1997年60歳の定年に際しリタイヤ後の生活は米国で過ごすことを決めた。その経緯は雑貨屋1161号に掲載されているし、私も当時LAですぐ近に勤務していてお付き合いもあり直接話を聞いたことがありました。

河合さんが米国を選んだ理由はこうだ;
日本の場合、定年退職者に対する言葉は「ご苦労様でした。これからお達者に」と人生の舞台から去り行く人への慰労の言葉が中心。
一方米国では、リタイヤメントとは次の人生のスタートであり周囲の人たちが「ハッピーリタイヤメント」と祝福してくれる。
この格差が米国残留を決めた決定的要因だ、と述べています。

そしてご存知のように、常に前向きで、誠実、実直、用意周到、そして新しくて少し面白いものを常に準備し、趣味にもボランティアにもまさにハッピーリタイヤメントを実行した方でした。私は2008年まで様々な組織やイベント、呑み会、カラオケなどお付き合いさせて頂きました。河合ご夫妻は我々夫婦と同じく子供はいない。そんな共通点もあり色々と話し合ったものだ。後日、訪米中の私に闘病生活の中から電話を頂いた。体は弱っていても意気軒昂で変わらぬ信念に感服した。私より4歳年上で、兄のような存在だった。

河合さんは雑貨屋の主筆として長い間巻頭コラムを飾り、大きな足跡を残されました。
実兄である成近さんもエスプリの利いた川柳で共に紙面を充実させています。今回も;
さあ駆けろ 透析の管もうないぞ     成近
と悲しみを越えて弟を労わる一句を詠まれています。

自ら選んだ国で自分らしく第二の人生を楽しまれた河合将介さんに敬意を表し、私からも一句献上します。ちょうど河合さんが亡くなられたころ撮影した稲光の写真に句を入れました。
河合さん、遠雷のように声も聞こえましたし、暗い夜(世)に輝いていましたよ。

遠雷や望む加州に生きし友

(河合将介さんに捧げて)
井出半句
----------------------------------------------------------------------------------
ゲルマン喜子さん

河合さんの思い出

河合さんほど一緒にいて楽しい方はいませんでした。知識の深さも幅の広さも抜群でカラオケもびっくりするほど上手で研究熱心でした。

JBAからSBMSで長く活躍されて、その間雑貨屋、羅府新報への寄稿と精力的に活動されました。

私はこの雑貨屋のLAの観光スポットのお陰であちこちへ行き懐かしい思い出話が沢山あります。ハリウッドサインを背景に写真を撮ろうでは坂の途中の右側のピンクの家は元マドンナが住んでいた家だとかの説明があり、くねくねした坂を上りました。Millard Canyon Falls では沢にある石を母と一緒にぴょんぴょんと飛び滝を見にいきました。
Lake Balboaも河合さんのコラム知り、日本以外にここLAにいてもお花見が出来るのだと知り、とても嬉しかったです、それからは毎年訪れるようになりました。
又、Newport Beach のBalboa Islandもこのコラムで見てあの5〜6分のフェリーにのり向こう岸に渡り素敵な家並みをみてびっくりしたものでした。
その他にはLAXを離着陸する飛行機をみる丘の案内をみてEl Segundoも何回も行きました。母が日本へ帰るたびに母をLAXで下したあとあの丘へ行き母の乗った飛行機が見えなくなるまで見ていました。

Descanso Gardens も母を連れて行きトラムにのりました。きれいな椿の花がとえも印象的でした。サンペドロのターミナル島にもいきました、こんなに近くに住んでいても行ったことはありませんでした。沢山の日本人が昔は住んでいたというところなのに。でも鳥居があるのにはびっくりしました。
マンハッタン ビーチにあるSand Dunes Parkにもびっくりしました。こんな場所にこんな砂丘があるあんて。河合さんのLAの観光スポットと母の思い出はいつも一緒にあります。

河合さん、本当に楽しい時間を提供して下さりありがとうございました。
ご冥福を心からお祈りしています。

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )

健康の過信目眩に脅かされ

宿命と悟ってガンと対峙する

余命あと三月どうするあなたなら

難病にiPSという光

黄泉路には宇宙ツアーに行ってから


( ニュースひとりよがり )

「菅野投手11連勝」

私もやってみたい −菅トウシュ

「悪しき前例の排除」

先ず派閥談合の排除から −石破前幹事長

「スポーツの秋」

綱引き −経済とコロナ

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(644)「菅政権発足」

平成24年(2012年)12月26日に第2次安倍内閣が発足以降、実際に退任した令和2年(2020年)9月16日までの2,822日は、言うまでもなく歴代首相連続在任期間のトップである。辞意表明をしたのは8月28日、その時点の2,803日でも佐藤栄作首相(1964年〜1972年)の2,798日を抜いてトップに立った。約7年9か月の長きに亘って“日本丸”の舵取りをしてこられた労苦に対し、まずは「お疲れ様、ありがとう」の謝意を表したい。

2012年以前は外国人から「日本はプライム ミニスター(首相)がコロコロと代わるので名前も顔も分からない政局不安な国、信頼出来ない国」と悪評が高かったが、2012年に第2次安倍内閣が誕生して以来、安倍首相は「地球儀を俯瞰(ふかん)する戦略的外交」をスローガンに掲げ在任中、176の国・地域を訪問(飛行距離約158万2千km、地球約40周)した。その結果「ジャパン イズ アベ」(安倍が日本の顔)が定着した。

安倍政権について“功罪”はいろいろ。しかし安倍の外交力が日本の国際的存在感向上に大きく貢献した事実は(翁ばかりでなく)多数が認めるところ。その証拠に、安倍首相が辞任表明をした直後、欧米諸国、アジア各国・地域の首脳から(安倍首相の)功績評価、病気見舞いのメッセージが多く届けられたそうだ。例えばアメリカのトランプ大統領、フランスのマクロン大統領、イギリスのジョンソン首相、ドイツのメルケル首相、ロシア大統領府、オーストラリアのモリソン首相、インドのモディ首相、トルコのチャウシオール外相、イラン外務省、イスラエルのネタニヤフ首相、台湾の蔡英文総統、シンガポールのリー首相、インドネシアのジョコ大統領、マレーシアのムヒディン首相、フィリピンのドウテルテ大統領、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問(外相)その他、多数の国・地域の首脳から(安倍首相への)称賛の声が寄せられたとのこと(内閣府資料)。

さて、菅・岸田・石破の3人による(ポスト安倍の)総裁選は“自民党の三悪人”の目論見通りのバカバカしい“出来レース”で菅に決まった。“三悪人”とは、カジノで金儲けを企む細田博之、中国に媚を売る二階俊博、失言多き漫画爺の麻生太郎の“老獪3人組”。翁は日本(政界)清浄化のために、この3人の早期引退を促したいのだが、それはともかく16日に菅政権が発足した。「背が低く、地味なオヤジ、諸外国首脳と並べば見劣りがする」など見た目をとやかく言う人がいる一方、「東北人特有の粘り強さ、人の痛みが分かる苦労人、思い立ったらとことんやる頑固さが為政者向き」と“人柄”を評価する人も多い。菅政権発足直後に日本経済新聞が行なった『菅内閣支持率』は74%、発足当時の内閣支持率としては、小泉内閣85%、鳩山(由紀夫)内閣77%、細川内閣75%に次ぐ歴代4位、小泉、鳩山、細川はどちらかと言うと“人気投票的”だったと翁は思っているが、菅内閣の高い支持率(74%)は、“人柄”のほか、7年9か月の官房長官としての“実績“、そしてコロナ禍と経済不況の”時代背景”が要因となっている(と翁は分析する)。

菅首相は「国民のために働く内閣」を謳った。当たり前の言葉だが、アベノミクス失速、コロナ感染対策の不手際、忖度問題等の疑惑未解明など“国民の顔を見ない政治”が続いた昨今「国民のために」が新鮮に聞こえるのが不思議だ(と言うか)、「素朴で、一徹なこのオヤジ(菅)なら、きっと国民ファーストでやってくれるだろう」と言う期待感から「国民のために」が“新鮮”に思え(前述の)高支持率を生んだのかも知れない。

菅首相は「コロナ対策、経済再生を最優先に、行政の縦割り、既得権益、悪しき前例主義を打ち破って“規制改革”に取り組む方針」を示した。その一環として、国民から具体的な事例を通報してもらう窓口「縦割り110番」を設置する、と言った。これは8代将軍・徳川吉宗が設置した“目安箱”みたいなものだ。昔の“訴状”と違って現代は電子メールや電話で訴えるのだから誰でも自由に参加出来る。まさに“直接、国民の声を聴くシステム”だ。(専門的にはパブリック・インテリジェンスと言う。)

「縦割り打破」の象徴として「“デジタル庁”を創設し、コロナ感染拡大で遅れが露呈した行政のデジタル化を省庁横断で一気に進める」そうだ。要するに“政府見解の統一(一貫性)”、“行政のスピードアップ”と言うことだろう。更に「規制改革」に関しては、携帯電話料金について「国民の財産である電波を、携帯電話の大手3社が90%も寡占(市場支配)し、世界でも高い料金設定で過分の営業利益を上げ続けている」と批判、今後、対策を講じる考えを示した。携帯電話が手放せない翁、もろ手を挙げて賛成する。

「コロナ対策」では、「来年(2021年)前半までに全ての国民に行き渡るワクチンの確保を目指す」としている。ワクチンも必要だが、PCR検査がもっと容易に廉価(または無料)で受けられる政策を急いで貰いたい。翁の知人の例――かかりつけのクリニックで「PCR検査を受けたい」と言ったら「検査費用15,000円、それに検査(陰性)証明書5,000円など、2,3万円かかる」とか、「保健所に行ってくれ」と言われ、ストレスが溜まって食欲減少、眠れない、物事がすべてつまらなくなる、などで苦しんでいる人がいる。PCR検査が受けにくい、料金が高い、などの状態が続けば間違いなく心身疾患者は増える。

「コロナ対策」の一環として中小零細企業の倒産防止(事業者への経済支援)のための支出と来年夏の「東京オリンピック・パラリンピック」などでの歳出の膨張は計り知れない。菅政権の中長期財政健全化の策は大丈夫か?――「コロナ感染拡大防止」と「経済再生」の両輪をどのように動かすか、加えて(更なる)外交の進展、安全保障の強化をどのように図るか――「国民のために仕事をする内閣」の姿を、具体的に見せて貰いたいと願ってやまない・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

旅立ち

名誉も損得も勘定に入れない縁の下の力持ちとは河合将介氏のような人の事を言うのだと思う。仕事柄、今までたくさんの人とお会いしてきたけれど河合氏は特別だった。その人柄に魅かれ、お付き合いなさっていた方も多いと思う。役職や地位に関わらず、どんな人にも平等に接してくださった。LAの日系社会でもたくさんの方が彼にお世話になったその話は、あちこちで、たくさん耳にした。
そんな河合氏と初めてお会いしたのは、はっきり覚えていないのだけれど何かのボランティアの会合だったと思う。それから様々なグループの勉強会やセミナーに誘っていただいた。私が早期退職する前後も何かと相談にのってくださり自分の参加するグループの勉強会でスパイスセミナーも開催して頂いた。本当に有難かった。親身になって聞いてくださった心の温かい方だった。
河合氏のような上司がいたら部下はきっと会社の為でなく、この人の為に頑張ろうと思うに違いない。そして彼ほど強靭で陰ながら努力する人を身近で見た事が無い。
会社を辞めて日本とLAを忙しく渡り鳥のように行き来し始めた頃 “私が毎週、書いている雑貨屋というホームページに貴方も何か書いてみませんか?”と勧めてくださったのが河合氏だった。雑貨屋のホームページを見てみると河合氏が自らの足で回って集めた“LAの観光スポット”が掲載されていた。実に良く調べていて行き方もわかりやすく、そのへんの観光本よりずっと面白いと思った。雑貨屋で投稿されている河合氏のエッセイはもちろんの事、他の執筆されている方の内容も文章も素晴らしく私などのような者が登場すると雑貨屋の品格が下がりそうで恥ずかしいと思った。やんわりとお断りしたけれど河合氏が書ける時だけでいいのだからと背中を押してくださった。下手な文章や誤字もあり雑貨屋の読者には申し訳ないけれど読まない自由もあるわけなので、ま〜いいかと気楽な気持ちで書きたい時に書けばいいとスタートさせていただいたのだ。何年か書いているうちに書くという事は自分を見つめるいい機会になる事に気が付いた。そして、それが自分の足跡になるわけだし稚拙な自分であってもいいじゃないか、それが今の自分なのだから気負わずマイペースで自分らしくあればいいのだと。今更ながら雑貨屋に縁をつなげて頂いた河合氏には感謝の気持ちで一杯だ。先日、河合氏の悲報を聞きスケジュール表を開いたらそこに挟んであった面白いシールが出てきた。だいぶ前に河合氏から頂いたものだ。気に入って毎年新しくスケジュールブックを買い替える度にそのシールを新しいスケジュールブックに移していた。何度見ても思わず笑ってしまう。このシールを見せてたくさん人が笑顔を見せてくれた。河合氏はユーモアのセンスも抜群だった。今も河合氏の笑顔とジョークが目に浮かぶ。あっちの世界に旅立っていった河合氏に、いつか私も会ってお礼を言いたい。

茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言

さくらの独り言「つづく・・・」

♪〜 線路はつづくよ どこまでも 野をこえ山こえ 谷こえて 
はるかな町まで ぼくたちの たのしい旅の夢 つないでる
線路はうたうよ いつまでも 列車のひびきを 追いかけて
リズムにあわせて ぼくたちも たのしい旅のうた うたおうよ
ランラ ランラ ランラ (繰り返し)・ラン ラン ラン   〜♪
アメリカ民謡(I’ve been working on the railroad)に、佐々木敏氏が日本語歌詞を付けたことでしられる日本の童謡、“線路はつづくよどこまでも”。雑貨屋主筆・河合将介さんを想う時、私はこれを口ずさむ。数えきれない河合将介さん(以降、河合主筆と記す)との想い出、そして私が出会った河合主筆のイメジは、何事も“続けつづける”人だから。

河合主筆の、悲しい旅立ちの報せは、玉兄こと中條石さんが届けてくれた。日本時間9月11日、空に星の輝く時刻だった。短いそのメッセージを何度も何度も読み返しながら、河合主筆との出会いとその軌跡が走馬灯のように駆け巡り、それは振り返ればすぐ手の届くところにある事象に思える程に、色褪せもせず存在する。その一つひとつを想起してみると、そこにはいつも、何かをなし続けている主筆がいた、誰かのために、そして自分のために。私がLAへ行く時は、必ず河合主筆にお会いした。特別な時間だった。どんな時も歓待してくださった。知る人ぞ知るLA近郊のスポットの多くへ連れて行ってくださった、しかもランチ付きで。河合主筆の運転する車は、カリフォルニアの海岸を時に南北に、山脈を時に東西に、とにかく走った走った。そして河合主筆のお話もまた終わりを知らず、続いた続いた。現地ツワーガイドもかなわない程の、知識と見聞に満ちたヒューモラスたっぷりの説明に加え、「さくらさん、はい、ポーズ!」と写真撮影。やっと西海岸に陽も落ちる頃、旅の〆はトーランスのお仲間も加わり夕食に続くカラオケ。河合主筆は、胸のポケットから黒い手帳を無造作に取り出し、自分の持歌をジャンジャン入力し熱唱。その黒い手帳には自分の持ち歌番号が整然と列記され、限られた時間の最適化を実証した河合主筆だった。河合主筆の車窓の向こうに流れた羅府の海も丘も、聴いた波の音も鳥のさえずりも、孔雀やラッコのおどけなさも、今も次から次へと目の前に飛び出してきて、まるで玉手箱。そんな私の五感で感じた絶景と織りなすように、河合主筆と心置きなく語りあった数々のことも、今の私に迫ってくる、まるで押しては返す波の様に。中でも河合主筆がよくテーマにあげて語られたこと、それは“続ける”ということだったように思う。今思えば、未熟な私へのメッセージ、贈り物だったのではとも思う。

ところで、日本語の“つづく”を漢字では、“続く”と書く。『物事がまだ終わらず繋がっている状態、連なる、繋がる、続ける、つなぐ』と意味づけられ、目に見える事象、仕事や地位だけではなく、目に見えない精神や魂が引き継がれる時も使う。河合主筆との想い出を手繰り寄せると、『生まれ続け、笑い続け、歌い続け、楽しい続け、書き続け、求め続け、創り続け、信じ続け、出会い続け、走り続け、戦い続け、愛し続け、祈り続ける』河合主筆の生き様が、人と人、そして国と国をつないでくださっていたと確信する。

さて、河合主筆と誓い実現できなかったことが、3つある。ひとつは、河合主筆がはるかケンタッキー州へ旅をしてくれること。西海岸を愛してやまなかった河合主筆だったが、私の第二の故郷だから必ず行くと約束してくれた。今頃は馬にまたがりブルーグラスの野山や谷を飛んでいらっしゃるかもしれないな。二つ目は、ラスベガスに河合主筆夫妻と楽しい旅をしようというもの。ラスベガスなんてギャンブル一色で非現実的な世界だという固定観念に縛られていた私に、「ラスベガスは社会・経済の仕組みを集約している処、驚異と発見が様々な洞察力を生み出し、工夫すれば健全に楽しむこともできるから」と河合主筆は力説したものだ。「散歩がてらに軽く行ってみようと車を走らせればいい、次回はご一緒に」と勧めた河合主筆の言葉が懐かしい。そして三つ目、今から20年前も前、河合主筆から言われ続けたこと、「さくらさん、さくらの独り言を一冊に纏めてみなさい。そして最初の一冊を私にください。今まで書いたものの中から、好きなものを選んでもいい。纏めるとうことは、また続けるとうことに繋がるから」と。早く纏めておけばよかったと忸怩たる思でいっぱい。私が持ち歩く手帳にはさんでいる一枚の写真(大西店主の巻頭言に掲載)がある。雑貨屋店主大西さん帰任時に、河合主筆が中心となり開催された雑貨屋店主送別会の記念写真。加州各地から集まった。中條さんは日本から、私もケンタッキーから飛んで行った。編集長の店主、河合主筆をはじめとする執筆者・投稿者、読者、み〜んな雑貨屋のメンバー、出会い繋がっている証。河合主筆の声が聞こえてきそう、「雑貨屋はつづくよ、どこまでも」・・・っと呟く、さくらの独り言。

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

富山の宇奈月温泉のホテルで河合さんの追悼メッセージを受信しながら、みなさんのメッセージをどういうふうに掲載するか、ジャズはどうしようかと考えていました。幸いWi-FiでつなげるのでAmazon Prime Musicを聴くことができいいジャズが見つかりました。どこにいてもメールは見れる、ジャズも聴ける便利な時代になりました。
今週紹介するアルバムはEdward Simon Trioの"Danny Boy"です。透き通ったような音が素晴らしいピアノジャズです。


"Danny Boy" Edison Simon  

01-Danny Boy
02-How Deep Is The Ocean
03-I Fall In Love Too Easily
04-Monk's Dream
05-Matriarch
06-Birthday Samba
07-Blame It On My Youth
08-She Moved Through The Fair

Edward Simon (p)
Stephen Keogh (ds)
Philip Donkin (b)

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

 

編集後記

先週木曜日から長男家族と富山、金沢への小旅行をしました。富山では雨に降られましたが宇奈月温泉から黒部狭鉄道のトロッコ列車に乗りました。素晴らしい景色を堪能しました。宇奈月温泉はとてもいい温泉ですが残念だったのは宇奈月温泉に廃墟となった建物が目立つことでした。
土曜日は金沢で兼六園や金沢21世紀美術館に行きましたが、ものすごい人で驚きました。4連休と好天そしてGO TOキャンペーンですね。

 

 

 

雑貨屋ウィークリーをスマホでお読みになる方は右のQRコードをコードリーダーで読み取ってください。
ホームページが出てきますので最新版をクリックしてください。
QRコードリーダーはアプリにありますのでダウンロードしてください。

雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1271

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/indexY.htm

              tenshu@zakkayanews.com