weekly


1252号

No.1252     Ryo Onishi              5/10/2020

 weekly
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雑貨屋のひとり言

コロナウィルス感染で日本の危機対応力の弱さが露呈しています。特にIT化の遅れが幅広く影響しています。給付金の配布にしても紙ベースでの申請をしてからでないともらえないという情けない状態です。
2006年、IT戦略本部により作成された"IT新改革戦略"を読むと、立派なことが書かれていて、これができるようになったら日本もたいしたものだと期待したものでした。この中の基本理念に「5年以内に世界最先端のIT国家になる」ことを目標に、IT革命への本格的な取り組みを開始した・・・・とあります。
2010年までに各種行政手続きの簡素化を実現する・・・と書かれていますが、どうやら絵に描いた餅となってしまっています。
2020年、世界中で日本ほどIT化が遅れている国はありません。今はIT総合戦略本部というところが推進しているらしいのですが、ITのことがまったくと言っていいほど分からない大臣がトップになっている現状を見るとやる気がないと思わざるを得ません。このシラけた状態から脱却できるのはいつになるのでしょうか?《R.O.》

 

河合将介さんのコーナー 

休止中です。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )

公約が一歩進んで二歩下がる

スピーチは苦手棒読みならできる

検察の死角をペンでえぐりだし出し

税金に占める戦費のパーセント

平和ありがたし三度の飯が食え


( ニュースひとりよがり )

「健在誇示」 

イナイイナイ バー −金正恩

「五月場所星取表」

や −相撲協会

「鼻の差で天皇賞連覇」

鼻高々 −フィエールマン
 

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(625)「沖縄復帰記念日」(拡大版)

来る日も来る日も“コロナ、コロナ”。政府も自治体もマスコミも医療機関も国民も(日本中が)“コロナ”に振り回されて4ヶ月目、そろそろ“コロナ疲れ”がピークになりそう。しかし、ここで気持ちを緩めるわけにはいかない。国民がなおなすべきことは“外出自粛””3密回避”“マスク着用・うがい・手洗いの励行“――つまり、「うつらない、うつさない」の行動規制の継続である。個人の行動規制に伴って多くの業種も自粛を求められ営業中止・縮小を余儀なくされた。文化・音楽・芸能・スポーツ等の活動やレジャー関係も然り。更に学校の休校は児童・生徒は勿論、親御さんたちにとっても諸問題が噴出。「コロナ感染拡大防止対策」としては仕方ないことだが、こんな状態が続くと、いやでも“心の枯渇”が生じる。心理学者や宗教家は“心の潤い感は自分の心の中にある”と言うが、翁をはじめ一般の人々は、それほどの精神修行を積んでいないので、やはり、心身の疲れ(ストレス)は“心の枯渇”を生む。“緊急事態宣言”は(とりあえず)5月末日まで続くようだが、7日以降、自治体や業種、学校によって一部“自粛緩和”の動きが出て来た。そんなニュースを聞くと多少はホッとするが、それでも5月に行なわれるはずの歴史的なイベント、例えば15日の「葵祭」(京都)、黒船祭(下田)は、今年は中止、三社祭(浅草)は10月に延期。16日の「青葉祭」(仙台)も今年は中止になったとか。我々の生活(心身や経済)に本当の“潤い”が感じられるようになるのは、いつの日だろうか・・・

そんな中、沖縄県民以外の国民がつい忘れがちになっているのが5月15日の『沖縄復帰記念日』である。(「沖縄本土復帰記念日」「沖縄祖国復帰記念日」などの名称があるが、ここでは『沖縄復帰記念日』とする。)実は翁、沖縄復帰時の記念事業の中に、翁の生涯にとって絶対に忘れることが出来ない“自分史”がある。その“自慢話”をする前に「沖縄復帰」までの背景を振り返ってみよう。

大東亜戦争(太平洋戦争)末期1945年(昭和20年)3月26日〜6月23日の3か月間に及ぶ“沖縄戦”では沖縄県民死者・行方不明者122,228人(内民間人死者94,000人)県外出身死者・行方不明者約66,000人、合計約19万人の犠牲者を出し“硫黄島の戦い”(1945年2月19日〜3月26日)に並ぶ戦史上最も悲惨な地獄絵であった、と記録されている(その戦いについての詳細は割愛)。終戦後、沖縄は直ちに米国に占領された。したがって占領下の沖縄の人々の生活は全て米国流であった。例えば本土から沖縄へ行くのにパスポートを必要とした(沖縄の人も沖縄を出る時はパスポートを必要とした)。通貨は日本円ではなくドル使用(1ドル360円)、道交法は、人は左通行、車は左ハンドルの右通行(現在の米国と同じ)、街の景観もことごとく“米国風”であった。(返還直後に翁が訪沖した時も状況はまだそのままだった)。その後、日本政府は米国に対し「沖縄返還」を要求し続け、27年後の1972年(昭和47年)5月15日午前零時をもって遂に「返還」が実現。戦争で取られた領土が“交渉”だけで戻って来たことは誠に稀有なこととして(交渉を成功させた)佐藤栄作首相(当時)は後にノーベル平和賞を受賞した。しかし「沖縄復帰」の背景には、戦後日本の奇跡的復興があったことも見逃せない。

日本は1951年(昭和26年)にサンフランシスコ平和条約によって主権を回復した翌年の1952年に世界銀行に加盟、そこから日本の本格的な“戦後復興プロジェクト“が始まる。
主に鉄鋼・自動車・造船・ダム建設(電力開発)。1960年代に入ると輸送セクターが急速に伸び日本経済の発展を支えるようになった。東名高速道路や東海道新幹線がその代表例と言えるだろう。そして1940年(昭和15年)開催予定だったが東京オリンピックが戦争のため中止、以来、24年ぶり(1964年)に開催された東京オリンピックが大成功、「日本の戦後は終わった」と世界から評価された。「沖縄復帰の実現」は、再建日本の国力が世界に認められたことも米国を動かした1つの要因であろうと翁は考える(米国サイドから見て日本は東西冷戦の防波堤と言う計算もあったろうが)――そして終戦から27年後の1972年5月15日に“歴史的領土返還“が実現したのである。

東京会場の「武道館」 お言葉を述べられる昭和天皇
那覇会場で挨拶する屋良沖縄県知事 「沖縄返還協定」に調印した佐藤首相とニクソン米国大統領

さて、沖縄復帰時、忘れることが出来ない“自分史”その1――翁が若い時に設立した映像・録音の製作会社(プロダクション)の製作業務の中に総理府(現在の内閣府)提供の(政府広報)『政府の窓』と言う番組の受託製作があった。その関係で1972年5月15日の「沖縄復帰記念式典」の際、東京会場と那覇会場で式典の模様を録音、それを“記録レコード”製作したこと。つまり「歴史的国家記念事業」の片隅に加わることが出来たこと。そのことが(その後、総理府から出版された)『沖縄復帰記念式典記録』(240頁)の「記録欄」に明記されていること、それは、翁の長い間のプロダクション活動の中で特筆すべき“自分史”の1つであろうと自慢している。残念ながらその“記録レコード”は、翁の手許には無いが、『沖縄復帰記念式典記録』の本は、今も翁の書棚に保存されている。(上記の写真は、いずれも『式典記録』から流用したもの。)

『沖縄復帰』直後、沖縄は“琉球政府”から“沖縄県”に名称変更。それまで琉球政府行政主席(第5代)だった屋良朝苗(やら ちょうびょう)氏が初代沖縄県知事に就任した。
「沖縄復帰」で忘れることが出来ない“自分史”その2――「沖縄復帰」の翌年(1973年)の春、(前述の総理府提供番組『政府の窓』の取材で)翁は初代沖縄県知事・屋良朝苗氏にお会いする機会を得た。噂では「琉球政府行政主席在任中“沖縄復帰”促進に翻弄したが、その道のりは険しく、氏は苦渋に満ちた表情をすることが多くなり、いつしか“縦しわの屋良”と呼ばれるようになった」と聞いていたので、さぞかし気難しい知事だろうと思って会見に臨んだが、(「復帰」後の安心からか)噂とは大違いの好々爺、若造(翁)の無遠慮なインタビューにも笑顔で優しくお応えいただいた。中でも(今も)印象に残っている言葉――「たとえ国土防衛のためとは言え“沖縄戦”で多くの命が奪われた。その戦没者の無念を思う時、胸の痛みを禁じ得ないが、ここに来て私どもはやっとの思いで名実ともに日本国民の地位を回復した。これまでの沖縄の不運な歴史を乗り越えて“復帰”を機に“新生沖縄“を創造して行かなければならない。しかし沖縄にはなお複雑な問題が内包されている。政府も国民も”沖縄問題“を共通の課題としてその解決にご協力いただきたい」

屋良知事が言う“沖縄問題、それは多分”基地問題“であったと思う。日本政府は”本土並み復帰“を目指したが実際には33か所の米軍基地・弾薬庫・演習場等が残され、その面積は全県の12%(本島の15%)。加えて米兵士による犯罪の多発、演習による(航空機等の)騒音、米軍ヘリ墜落などの事件処理では不平等な”日米地位協定“で日本側に不利な裁判で片づけられて来た。屋良知事は(沖縄復帰直後から)それらの問題を予測しておられたのであろう。“基地問題”は48年経った今もなお様々な姿形で尾を引いている。

屋良知事インタビューの後、「沖縄復帰記念事業」の一環、1975年開催予定の『海洋博』の事前調査で(会場予定地)本部町から名護市・コザ市(沖縄市)・那覇市・糸満市を走ったが、車は依然として左ハンドルの右通行(本土と同じ道交法の変換は1978年)。那覇・コザの繁華街はまるで“アメリカ”のままだった――ここで、改めて我が人生を振り返るに“自分史”を華々しく飾るようなエピソードは少ないが『沖縄復帰記念事業』に関係したことは翁にとって忘れ難い思い出の1つである・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

中村包丁

他人の家のキッチンで料理をするようになってから7〜8年は経つだろうか、、、、、その間、いろいろなスタイルのキッチンを見てきた。そのうちキッチンを見ると、何となくその人のライフスタイルや嗜好、健康状態までがわかるようになってきた。と言うと偉そうに聞こえてしまうかもしれないけれど、、、、キッチンの道具や調味料の品揃えや食器のセンスなどを見ているとイマジネーションが湧いてきて、ああやっぱり、、、、と思う事が多い。
それにしても米国の日系人のキッチンは和洋折衷で面白い。戦前、日本から持ってきたのかもしれないと思う時代もののお茶碗があるのにフォークでご飯を食べていたりステーキ用のナイフはたくさんあるのに青ネギを薄く切る包丁が無かったり切ればトマトの皮ごと潰れてしまう、お粗末なナイフだったり、、、、、やたらと包丁の数は多くても重くて使いにくく手が痛くなるようなものばかりだったり、、、、なかなか自分が気に入る包丁の出会いが無かった。とにかく切れ味が悪いと素材の味も変わる。切れない包丁を使っていると余計に力が入りケガをしたりもする。そんな不満足な気持ちの中で、やっぱり包丁は自分が使いやすいものを持参した方がいいなと思っていた。ある日、クライアントさんのキッチンの引き出しを整理していたら奥の方から、だいぶ古そうではあるけれど使いやすそうな包丁が出てきた。使ってみたら妙に手にしっくりと馴染んで持ち手の所もパーフェクトだった。青ネギを切ったら、ちゃんと薄く切れた。カボチャのような硬い皮にもスッと刃が入って切れた。

どこかのすぐ欠けてしまうヤワなセラミックの包丁とは違う。トマトの薄い輪切りも綺麗に切れて気分がいい。一体どこの包丁かと見てみたら中村包丁と書いてあった。クライアントさんにどこで、この包丁を購入したのか聞いてみたら、さっぱり覚えていないとの事。彼女はカリフォルニアのサクラメントで生まれ戦前に日本に戻って山口県で育っている。戦争が終わってからハワイそしてロスに来て結婚をして現在93歳。そのどこの時期に中村包丁を手に入れたか記憶には無いらしい。私がその包丁を気に入ったと言ったら即 “そんならあげるわよ”とあっさり私にくださった。そんなわけで私の仕事バックの中には先週から中村包丁が納まっている。次回、日本に行った時にどこで購入出来るのだろうと包丁の持ち手に書いてある電話番号、住所そして中村包丁とパソコンで打ち込んでみたら都城商工会議所のホームページにヒットした。そこで中村包丁の事が紹介されていた。何だか嬉しくなって都城商工会議所へ中村包丁の使い良さについてコメントを書いた。すると私のコメントを見た都城商工会議所のK氏が中村刃物製作所の会社の方に届けてくださったのだ。その後、中村刃物製作所からも丁寧な、お手紙を頂いた。その手紙を読んで感動した。中村の包丁は1本1本手作りなのだそうだ。だから、やっぱり何か違うのだ。手をかけたぶん、人のぬくもりや魂さえ感じる道具なのだ。毎日使うものだからこそ、自分が気に入ったものを使いたい。それで料理をしたら満足いく美味しい料理が作れるはずだ。そうしたら食べる人もHappyな気持ちになる。そして手紙には、この中村刃物製作所は都城では一件しかない昔ながらの鍛冶屋だという事が書かれてあった。この鍛冶屋という言葉にもピピっと反応してしまった。久しぶりに聞く鍛冶屋という言葉の意味を調べていたら“村の鍛冶屋”という歌が出てきた。聞いてみたら子供の頃に聞いた事のある懐かしいメロディーだった。歌詞を聞きながら昔の暮らしに思いをはせた。村の鍛冶屋の歌詞の一部を聞いたら思い出される方も多いだろう。

暫しもやまずに 槌うつ響き 
飛び散る火の花 はしる湯玉 
ふいこの風さえ 良きをもつかず
仕事に精出す 村の鍛冶屋
あるじは名高き いっこく老爺
早起き早寝の 病知らず
鉄より堅しと ほこれる腕に

この歌は尋常小学校の唱歌で大正元年に作られたそうだ。説明によると鍛冶屋職人の仕事を通じて働く事のすばらしさ尊さをうったえるメッセージソングなのだそうだ。
素晴らしい!パチパチとパソコンの前で一人拍手してしまった。
そして、頂いたその手紙には謙虚で職人気質を思わせるような文面で“少しでも長く皆様のお役に立てるよう日々精進しています。”と書かれてあった。
私などのような者が送ったメッセージに従業員全員、元気を頂いたとも書いてくださった。その事もとても嬉しかった。見も知らずの私のコメントを中村刃物製作所の方に届けてくださったK氏の方のコメントが最後に添えられていた。“橋渡しが出来て自分も幸せな気持ちになりました。ありがとうございます。”と。私の方こそ幸せな気持ちにさせて頂いてありがとうという気持ちなのだ。こんなひょんな事から人生はカラフルになる。今度、日本に行った時の旅に中村刃物製作所も訪れるつもりだ。また、楽しみが増えた。
この数か月、未曽有の疫病騒ぎで世界が混乱し闇の中に沈んでしまったような日々が続きTVでは、その話題ばかりだった。もちろん私の頭の中もその事で一杯だった。そんな中一筋の明るい陽射しが差し始めたような気がした。日本の素晴らしい職人さんたちが、また日本を世界を牽引する時代が来ますように、、、、私たちが忘れかけていた大事なものにたくさんの人々が気が付いてくれますように、、、、  
 

茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言

今週はおやすみです。
 

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

ジャズファンは外出自粛であろうとなかろうと家の中でお気に入りのオーディオでお気に入りのジャズを楽しんでいるのだろうと勝手に想像しています。
女性ヴォーカルのジャズを聴いてみたくなりました。6年ぶりのAnn Burtonのアルバムを紹介します。ソフトな彼女の歌声が心地良く入ってきます。


"Am I Blue"    Ann Burton

01-Can't Face The Music 5:00
02-I'll Be Around 4:06
03-Did I Remember 4:00
04-Laughing At Life 4:29
05-Am I Blue 2:45
06-I Wished On The Moon 5:16
07-I Don't Want To Cry Anymore 5:07
08-On The Sentimental Side 3:00
09-I Get Along Without You 5:15
10-I Am A Fool 6:10

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

 

編集後記

先週、1月に亡くなられた雲田さんのことを書きました。雲田さんと親交の厚かった井出さんからメールをいただきました。雑貨屋ウィークリーを楽しみに読んでいただけていることを知り、喜んでいます。

来週、歯のチェックアップが予定されていたのですが歯科医院のほうから予約日を2ヶ月延期して欲しいと連絡がありました。いろいろと日常生活に影響が出てきますね。

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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1252

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com