龍翁余話(602)「ハワイ先住民文化に触れる」(拡大版)
翁が今年のハワイ旅行の目的にしていたのが2つあった。1つは先週号(601)で紹介した『ハワイ王国最後の国王・リリウオカラニ女王』、もう1つは『ハワイ先住民文化に触れる』である。
人類が石材を用いて生活道具や武器を作っていた「石器時代」(旧石器時代は約200万年前〜紀元前8600年、新石器時代は紀元前8000年ごろから)、石器のほかに青銅器を使うようになった「青銅器時代」(紀元前3500年ごろから)、石器・青銅器のほかに鉄器を使うようになった「鉄器時代」(紀元前3000年ごろから)の3時代を有史以前と言い、その時代以後、一定の地域に住み、一定の社会を形成するようになった人類を“原住民”とか“先住民”と呼ぶ(と、翁は解釈している)。が『ハワイ先住民』の祖は、それほど古くはない。ハワイ州観光局によると『ハワイ先住民』は約1500年前、マルキーズ諸島(南太平洋にある幾つかの島々)のポリネシア人が、星の明かりだけを頼りにカヌーで3200km以上を航海して(無人島だった)ハワイ諸島にやって来た、と言う。彼らは神や半神半人(“半神”の多くは“動物”)の思想を持ち信仰深く、酋長による厳格な階級社会を形成していた。
約1500年前と言えば、日本では古墳時代(3世紀〜7世紀)の後期に該当する。日本的に言うと古墳時代〜飛鳥時代〜奈良時代〜平安時代までは“古代”だから、1500年前にハワイに渡って来たポリネシア人は“古代人”であり、以後、彼らがハワイに(最初に)定住したので『ハワイ先住民』と呼ぶ(これも翁の解釈である)。彼らの伝承文化は幾つかあるが代表的なものはフラ(神への祈り、人と人とのコミュニケーションのための歌舞音曲)という芸術、サーフィンというスポーツだろうか。
さて、翁が何故『ハワイ先住民文化』に触れたいと思ったか、(古い話だが)約35年前にドキュメンタリー番組『氷河期前の人類・ネグリトの謎を追う』(ネグリトとはアフリカのピグミーによく似たフィリピン諸島やインド東部のベンガル湾に浮かぶアンダマン諸島に住む”山の小さな黒人“=人類学的にはアジア人の先祖、とも言われている)を作った時にお世話になった(当時)ハワイ大学人類学教授グリフィン博士に、オアフ島の『ハワイ先住民』の居住跡に連れて行って貰ったことがある、その時の強烈な印象が忘れられず「いつか再訪を」という思いが続き、約35年後の今年やっと実現したという次第。
ハワイの弟分・デネス君にガイドと運転をして貰い、ワイキキからフリーウエイ(H1)で西へ約30分、パールシティの山の手に入り、丘陵地に広がる閑静な住宅地を抜けて緑深い山中へ入って行くと、うっそうとした森の中にオアフ島随一のヒーリング(心や体の病を癒し回復させる)の聖地『ケアイヴァ・ヘイアウ』に辿り着く(ヘイアウとは『ハワイ先住民』が建設した“聖域”)。ここはかつて“ロミロミ”(古代ハワイから伝わる伝統的なマッサージ)をはじめ“エネルギーワーク”(自己成長を目的とする目に見えないエネルギーの活性化手法)やハーブなどの薬草を採り入れた祈りと自然療法の場所。
ヘイアウの中心部には円形のマウンドがあり(写真左)、数か所に花・貝殻・木の実などで作られた首飾り(レイ)が掛けられた少し大きめの石が建てられている(写真中)。翁はこれをエネルギー・ストーン(目に見えないエネルギーを発する石=祈りを捧げる石)とみた。薬草や動物の肉、魚などを焼く竈(かまど)も保存されている(写真右)。周辺には今も(治療に使われたであろう)植物が豊かに生い茂っている。思い出す――ここは間違いなくグリフィン博士に連れて来て貰った『ハワイ先住民』の暮らしの跡である。
こんな雰囲気の中に立つと、翁、昔の習性で(がむしゃらに)動き回りたくなる。先住民の住居跡はないか、神殿跡はないかなど、かすかな期待を抱いて(デネス君を駐車場に待たせて)1人、ジャングルに入った(遭難したら大変なことになるので携帯電話を持参)。早速、住居入り口跡らしき石垣を発見。人間は大昔から石と密接な関わりを持って来た。神殿造りや神々を祀る儀式、魔除け、家々や集落ごとの境界線にも石が使われた。(前述のように)石には病気を治す力(ストーンパワー)があると信じて来た。翁もその石垣に手を当てパワーを貰った気分になったので、更に奥地へ向かう。“先住民の足跡”を求めて“獣(けもの)道”を歩く。先ほどの石垣や、ジャングルの樹木からのパワーが効いているのだろうか、本来、翁は山歩きが嫌い、しかも八十路の老体であるのに足取りは軽い。深い森の中を30分程歩いただろうか、まだ何も発見出来ない。だが「この道を1500年前の先住民が歩いたのだ」と古代へのロマンに浸りながら更に奥へ、とその時、後方の遠くから翁を呼ぶ声、デネス君が息を切らしながら迎えに来てくれたのだ。ジャングルの中は電波(WIFI)が途切れて携帯電話が通じない。デネス君、かなり心配してくれた様子だったが翁の元気な姿を見て安心したのか、笑顔が戻って次なるヘイアウへ向かってくれた。
『ケアイヴァ・ヘイアウ』からフリーウエイ(H1)へ戻って今度は海に向かう。オアフ島西の新しい行楽地“コオリナリゾート”を走る。この辺りは翁、何回もゴルフに来ているので馴染み深い。約50分走るとワイアナエの町に着く。左手にはポカイ湾のワイルドな景観が広がる。市民の憩いの公園の先端が目的地『クイリオロア・ヘイアウ』だ。『クイリオロア』とはハワイ神話に出て来る戦いの神(Ku=犬の半神半人)の意味だそうだ。
ここへ来る途中、ランチで立ち寄ったオーガニックファーム(有機野菜農園)のスタッフ(ヘイアウに詳しい青年)の話によると『クイリオロア・ヘイアウ』は、11世紀ごろカヌーで海を渡って来たタヒチ人が上陸、ヘイアウ(聖域)を築き海岸沿いに独自の生活圏を形成した。(前述の通り)ヘイアウは心身を癒し病の自然療法を施す場所だが、13世紀ごろから天文学や航海術を学習したり、漁業の無事を願い、海の神への祈りを捧げたり、また“罪人の一時的な逃れの場所”だったとする説もある。
これまでに数回、行ったことのある「ポリネシア・カルチュア・センター」(ワイキキからノースショアに向かって車で1時間半ほどの所にあるポリネシア文化村)で学んだトンガ・タヒチ・フィジー・サモア・アオテアロアなどのポリネシア人の生活文化の大要を紹介すると、ポリネシアの生活様式は地域(それぞれの民族)によって多少の差異があるが基本的には原始的な狩猟、漁業、焼畑農業、家畜が行なわれた。狩猟は弓矢・槍が主な道具。漁業は釣り糸を持たず素潜り(手掴みや小さな槍で魚を刺す)もあれば大規模な人工池を造り養殖漁業を行なう地域も。農作物は主にタロイモ・ヤムイモ(日本の山芋に似た塊根)、バナナ・ココヤシ・パンノキ(加熱して食べるフルーツ)など。家畜はブタ・ニワトリ・イヌの3種に限られていたそうだ。ポリネシア人の衣装は伝統的な“タパ”(樹皮で出来た布)で作った衣装で男は“マロ”(ふんどし)、女は“パウ”(腰巻のようなスカート)、布地に植物や土の色、模様をつけるなど斬新なデザイン感覚と技術を持っていたと言う。
約35年前、翁を『ハワイ先住民』の世界へ誘ってくれたグリフィン博士の言葉を思い出す――「太陽と月や星の位置、風向きや潮の流れ、魚影や鳥の動きなどを見ながら、カヌーひとつで海を渡り、太平洋を自在に旅した古代ハワイアン(ポリネシア人)の勇気と叡智に(我々は)学ぶものが多い」――『クイリオロア・ヘイアウ』の先端(海側)に立つ今、翁も博士のその言葉を噛み締める・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |