weekly


1193号

No.1193     Ryo Onishi              3/24/2019

 weekly
LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
 
雑貨屋のひとり言

先週は長男家族と仙台に行きました。私たちにとっては2回目の仙台で、春らしくなった仙台を楽しむことができました。しかし花粉の影響を大きく受けて目の痒み、鼻水がひどく、マスクと ティッシュそしてコンタックは欠かせませんでした。やんちゃになった2歳8か月の孫に7か月の孫がいてとてもにぎやかな旅行でした。仙台中心のこじんまりとした範囲で楽しみました。伊達政宗ゆかりの秋保(あきう)温泉、品切れが続く「伊達」で有名なニッカウィスキーの宮城狭蒸留所、はじめて入ったアンパンマンミュージアム、そして仙台名物の牛タン も堪能しました。《R.O.》

 

河合将介さんのコーナー 

休止中です。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


原節子ってだあれと孫に子に言われ

あの歳でじいちゃんはまだサユリスト

義理チョコにまだ男だと認められ

お隣がポックリ寺という元気

まだ死なぬ三途の渡し賃がない



( ニュースひとりよがり )


「桜開花」
春ですねえ −スギ花粉

「引き際」
イチロー選手お見事 −竹田JOC会長

「日本は幸福度57位」
手を叩いている人が少ないな −坂本九

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(566)「地獄の終わりと始まりの日」(拡大版)

3月26日は、日本人にとって永久に忘れてはならない“悲痛の日”である。いや“悲痛”ていどの言葉では収まりがつかない『地獄の終わりと始まりの日』である。地獄の終わりは『硫黄島戦争』、地獄の始まりは『沖縄戦争』。偶然にも、この2つの地獄が重なったのが3月26日。『硫黄島戦争』については小文で過去2回取り上げた(2009年3月22日配信の『龍翁余話』(73)と昨年3月18日配信の『龍翁余話』(516)、題名はいずれも「ああ、忘れまじ硫黄島」――まずは、その1部抜粋から――

硫黄島(“いおうじま”とも呼ばれていたが2007年から“いおうとう”に統一)は、東京から南へ1,250キロ、東京都小笠原諸島に属する火山島。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物に覆われているところから、この名がつけられたという。総面積22平方km、ほぼ品川区の広さである。この小さな島が、日米にとっていかに重要な島であったか――米軍は、長距離爆撃(日本本土攻撃)中継基地の確保などで硫黄島を必要とした。当然、日本軍はそれを阻止するため(本土防衛の防波堤として)硫黄島の戦略的重要性を認識、栗林忠道中将率いる小笠原兵団第109師団、陸・海軍将兵・軍属・特年兵(少年兵)を含む22,923人を配した。その中には島民1,100人のうち130人の若者を軍属として徴用(あとの島民は本土に疎開)。資料によると日本軍の兵器は高射砲、ロケット砲、追撃砲、臼砲、野戦砲などが約280門(弾丸類は最初からギリギリだったとか)、戦車23輌、支援航空機は約75機、対する米軍は艦船800隻(硫黄島四方の海が艦船で埋め尽くされた、と記録されている)、航空機約4000機、将兵総数約25万人。これでは、まともに戦っては勝負にならない。そのことを当初から計算していた栗林兵団長は、島内に全長18キロにも及ぶ地下壕を作り、随所に点在する自然の洞窟を利用して迎撃戦に備えた。

1945年(昭和20年)2月16日、硫黄島周囲の米軍艦隊が一斉に火を噴いた。空爆も加えた。島の形が変わるほどの熾烈な爆弾の雨。そして19日早朝、B29爆撃機の大編隊による空爆と沖からの艦砲射撃が全島を襲い、その間、120機の艦載機が上陸地点を執拗に爆撃。そして海兵隊約9000人(夕方までに4万人)が戦車200輌と共に南海岸へ上陸。そこから日本軍の反撃(迎撃戦)が始まるのだが、所詮、兵士・兵器ともに米軍には到底及ばない。おまけに50℃を超える蒸し風呂のような地下壕や洞窟に立て籠もっての迎撃戦を強いられ将兵たちの体力消耗は日増しに激しく、熱病、栄養失調で倒れる兵も続出、中盤以降は武器弾薬、食糧、飲料水、医薬品などが底をつき、日本兵は精神力だけで白兵戦(刀剣などの接近戦)や自爆戦に転じたという。その悲惨な戦闘状況を、翁の拙筆で再現することは、この地に散華した将兵たちに申し訳ないので割愛するが、当初、米軍側の「あんな島は、5日で陥落させる」の予想に反し、日本軍は栗林忠道兵団長(陸軍中将)指揮のもと、市丸利之助第27航空戦隊司令官(海軍少将)、千田貞季混成第2旅団長(陸軍少将)、西竹一戦車連隊長(陸軍中佐=1932年ロス・オリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト、“バロン(男爵)ニシ“として世界的に有名だった)らが共同して見事な持久戦を展開、圧倒的な兵力・兵器を有する米軍上陸部隊に多大な損害を与えた。しかし、米軍上陸後約1ヵ月足らずで日本軍は大多数の将兵を失い、栗林兵団長は遂に大本営に訣別の電文を送った【難局、遂に関頭(瀬戸際)に直面せり。我が将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものあり。しかれども今や弾丸尽き水枯れ、戦い残る者全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、茲に永久のお別れを申し上げる】――3月26日未明、栗林中将以下300余名の将兵は北部(天山)を出発して総攻撃を敢行、全員が玉砕。これをもって42日間に及ぶ日本軍の組織的戦闘は終わった。日本軍戦死者21,900人、戦傷者(生還者)1023人。米軍戦死者6,821人、戦傷者21,865人(数字は資料によって多少異なるが厚労省の資料を採用)。ともあれ日本軍は本土防衛“最後の砦”として絶対に譲れない(この島を死守することによって本土攻撃を1日でも遅らせる)使命を帯びて死闘を展開した。「42日間だけ地球上に出現した地獄絵、戦史上、かくも悲惨極まりない戦いが(これまでに)あっただろうか」と当時、従軍記者として硫黄島の戦いを取材した米国人作家ビル・D・ロスは彼の著書『硫黄島 勝利なき死闘』に、そう記している。

硫黄島は現在、海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれており、基地関係者以外の民間人の渡航は制限されているが、翁、1999年と2001年の2回、当時、硫黄島協会副会長だった西 泰徳氏(西中佐のご子息)や同会理事の栗林太郎氏(栗林中将のご子息)(今やお二人とも故人)ら硫黄島協会有志と一緒に航空自衛隊入間基地から輸送機で硫黄島に行き、戦禍の跡を隈なく取材(撮影)した。随所で“地獄の跡”を見たが、最も異常な霊気を感じたのは医務科壕(医療を行なった洞窟)だった。案内の海上自衛隊尉官が言う「この壕の中には未だ数えきれない将兵の遺骨が埋もれたままになっています」。翁、入り口で慰霊の黙禱を捧げ、壕に入ってビデオカメラを回すが、翁の涙でレンズが曇る。翁、心の中で英霊たちに語りかける「祖国のために戦って下さった皆さん、本当にありがとう!さあ、皆さん、私のカメラの中に入って下さい、私と一緒に“祖国”へ帰りましょう」――あの死闘から74年、これまでに収集された遺骨は約8,800柱、未だ約13,000柱が昼なお暗きジャングルの中、熱砂の中に埋もれたままになっている。

3月26日をもって『硫黄島戦』は終わり、奇しくも同日(もう1つの地獄絵)『沖縄戦』が始まる。アメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との戦いである。沖縄攻撃の目的も硫黄島攻撃と同じく日本本土攻撃のための基地確保であった。この時期、日本軍はすでに兵器・兵士ともに枯渇状態、そこで沖縄戦では「軍民一体の戦闘協力」のスローガンのもと、住民が軍事活動として飛行場建設や陣地造りに参加、やがて“戦闘協力”は一段とエスカレートして成年・学生・生徒児童までもが根こそぎ戦争のど真ん中に巻き込まれていった。6月23日までの3か月間に亘る“沖縄の悲劇”については多くの出版物や映像などで世界中に紹介されているので、ここで(翁の)拙筆描写は控えさせていただくが、この沖縄戦での戦没者に改めて哀悼の意を捧げ、犠牲者の内訳を再確認しておこう。

沖縄戦における戦没者約20万人のうち沖縄県民(社会人・男女学生・生徒児童・幼児)の犠牲者は12万人以上と言われている(実は、一家全滅、戸籍書類等焼失などで正確な数字は未だに分かっていないそうだ)。そんな多くの犠牲者に対して翁は(今更ながら)申し訳なく心咎める心情だが、中でも『熱血勤皇隊』と呼ばれた14歳〜16歳(旧制中学生)の少年兵、『ひめゆり部隊』と呼ばれた女子学生(学徒隊)の献身的犠牲には一段と心が痛む。『熱血勤皇隊』に参加した学校は「沖縄師範学校」「県立第一・第二・第三中学校」「県立工業・農林・水産・商工学校」「県立宮古中学校」「県立八重山中学校」「県立八重山農学校」「開南中学校」で動員総数約1,800人、戦死者約1,000人。

一方、『ひめゆり部隊』に参加した学校は「沖縄師範学校女子部」「沖縄県立第一高等女学校」(ひめゆり学徒隊)「県立第二高等女学校」(白梅学徒隊)「県立第三高等女学校」(なごらん学徒隊)「昭和高等女学校」(梯梧=でいご学徒隊)「沖縄積徳高等女学校」(ふじ学徒隊)「県立首里高等女学校」(瑞泉=ずいせん学徒隊)のほか「八重山高女学徒隊」「八重山農学校女子学徒隊」「宮古高女学徒隊」も加わった。総動員数約300人、戦没者約250人(資料によって多少数字が異なる)。各所に女子学徒隊の「慰霊碑・塔」が建立されているが、中でも「ひめゆりの塔」(糸満市)が代表格。翁もかつて数回訪れたが、その都度、万感胸に迫り来るものを抑え切れなかった。

古い話になるが――1972年(昭和47年)沖縄(琉球諸島及び大東諸島)が日本に返還された翌年、まだ若かった翁、総理府(現・内閣府)の番組取材で初代沖縄県知事(復帰以前は“琉球政府主席”)屋良朝苗(やら ちょうびょう)氏をインタビューする機会を得た。「沖縄が返還されたことは誠に喜ばしい。しかし復帰の中身は私たちが求めたものとはかなり異なっており、嘉手納基地や普天間基地など(沖縄の)多くの土地が米軍基地としてそのまま残ることになった。そのことは後々まで尾を引く重要課題だが、ともあれ、先の沖縄戦で我々は筆舌に尽くし難い地獄に陥れられたが“琉球魂・大和魂”を持つ沖縄県民は、必ずや自らの運命を開拓し新たな歴史を創造する大事業に挑戦してくれると信じる」――穏やかな口調だが小柄な全身からほとばしる知事の熱い言葉が龍青年の胸を打つ。

屋良知事が預言した基地問題は今なお様々な難問を生んでいる。端的に言えば日本を狙う中国のゲスな覇権主義が収まれば沖縄の基地問題は緩和される。先の大戦で沖縄を地獄に陥れた米軍が、今度は沖縄を地獄から守る役割を担って沖縄に駐留している。運命とは皮肉なものだ。その運命を政府も沖縄県も共に切り拓く知恵(日米地位協定の改定)が求められるのだが、そのことはいずれかの機会に・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

稲穂の国、日本

世田谷にある東京農業大学の文化祭に何度か行った事がある。生徒たちは皆、元気で明るく目が輝いて見えた。どんな人が学長さんなのかネットを見たら実にいい事が書いてあったのでプリントアウトした。あれから7~8年経過しただろうか、、、
先日書類の整理をしていたら、その学長さんの就任のご挨拶文が出てきた。内容は国力を担う農業の重要性を感じた農大の創設者の榎本武揚氏の事が書いてあった。
武士でオランダ留学の経験もあり近代日本創生時に活躍した国際人だったらしい。初代学長の横井時敬氏は“稲の事は、稲に聞け、農業の事は農民に聞け”という有名な言葉を残した近代農法の開拓者だったそうだ。彼の信念は “人物を畑に還す” “実学主義”で警告として“農学栄えて、農業滅ぶ” 理論ばかり先行して頭でっかちになってはいけないとの教訓を残した人なのだそうだ。それにしても日本の近代国家を作った草創期の頃の人は凄い人物が多い。5年前には新たにこの農大で日本では初めての学科として食品安全健康学科という科もスタートしたらしい。
ちょうど、その頃、薬膳にも興味を持った私は、薬膳関係の資料を調べていたら薬膳の学院長さんの案内も農大の学長さんと同じ所にファイルをしていた。学院長さんは、ドイツ人の詩人ゲーテの言葉で“人は自然から遠ざかるほど病身に近つく”というフレーズを紹介していた。確かにお天道様の下で土に触れている人は元気だ。
“自然の作物を大切にしてこそ人間の本来の歩む道が開かれるのだ”というのが彼の信念だ。そして食品と薬品の間を行くサプリメントに頼る人の多い事にも警鐘を鳴らしていた。とても納得したので彼の言葉をそのまま紹介させてもらう。
“現代栄養学も大切ですが、人体は数字の塊ではありません。一見科学的に思えても数字が全てを解決すると思ったら大間違いです。”と。
私はその食品のカロリーや、どのくらいのビタミンやミネラルが含まれているのか言う事よりも、その食物の持っている(野菜や果物、魚や肉などの)本来のエネルギーがどのように人間の心や体に作用するか、美味しいか、美味しくないかの方に興味がある。食の安全として土や水の環境をどうやって守り維持していくかも近々の課題だ。
稲穂の国、日本が今後も存続していけるように水資源のある土地を外国に売り渡す事などして欲しくないし、一刻も早く国のセキュリティーとして法律の改正をして欲しい。

茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言

今週はお休みです。
 

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

久々にBill Evansを聴きました。アルバムDynamic Jazzに収録されているPeace Pieceはとても美しい曲です。静かでゆったりとしたBill Evansのソロピアノが楽しめます。 忙しい方もこんな曲をゆっくり聴ける状況をつくることが大事だと思います。もちろんWaltz for Derbyも素敵です。そんな曲がいっぱい詰まったソロピアノアルバムはいかがでしょう。

"Peace Piece"  Bill Evans

01-Our Delight 4:41
02-Displacement 2:33
03-Waltz for Derby 1:18
04-Conception 4:45
05-Five 4:01
06-Young and Foolish 5:53
07-I Love You 3:54
08-Easy Living 3:51
09-Epilogue 0:39
10-Peace Piece 6:42
11-Lucky to Be Me 3:40
12-Oleo 4:06
13-I Got It Bad (And That Ain'tGood) 1:37
14-What Is There to Say? 4:53
15-Speak Low 5:08
16-My Romance 1:56
17-Minority 5:20
18-Night and Day 7:34
19-Tenderly 3:33

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

 

編集後記

昨年、私たちの住む高層ビルの大規模修繕が終わり、同時に長期修繕計画を作成しましたが、これからその修繕計画を精査して次期大規模修繕のために必要な積立金を検討することにしました。まだだいぶ先ですが、次期大規模修繕は費用が大きく膨らむことが予想され、積立金の見直しをしなければなりません。皆さんとのコミュニケーションにもなるので定期的に委員会を開催して勉強しながら進めようと思います。 なにより一番気がかりなこと、それは住人の高齢化です。

雑貨屋ウィークリーをスマホで読みたい方は右のQRコードをQRコードリーダーで読み取ってください。
ホームページが出てきますので最新版をクリックしてください。
QRコードリーダーはアプリにありますのでダウンロードしてください。

雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1193

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com