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1192号

No.1192     Ryo Onishi              3/17/2019

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雑貨屋のひとり言
スマホを持つ人が増えていますが、未だにスマホどころかガラケーさえ持たない人がいるのも事実で。外出先で電話するときは公衆電話を利用することになりますが、最近公衆電話を探すのも苦労するようです。写真はシャッターが下りた店が並ぶ商店街に さみしくポツンとある電話ボックスです。かつてスーパーマンの映画にも登場していた電話ボックスですが今はそれを 知っているのは高齢者だけかもしれません。そして電話ボックスを使っている人をほとんど見かけなくなりました。そのうちこの電話ボックスも撤去されてしまうかもしれません。《R.O.》
 

河合将介さんのコーナー 

休止中です。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


痴話げんかタマのっそりと部屋を出る

三蔵は妻でおいらは孫悟空

コツコツの音で夫婦が積む積み木

年輪のゆがみも同じ夫婦杉

来世また一緒でという凡夫婦



( ニュースひとりよがり )


「原発ゼロ法案棚上げ」
やる気ゼロ法案です −与党

「三者トップの合議制」
三輪車で走ります −日産、ルノー、三菱

「青山学院に口利き疑惑」
学もなかなかやるなぁ −政官財子

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(565)「ラジオの思い出」

3月22日は『放送記念日』。今から94年前の1925年(大正14年)3月22日に東京・芝浦の東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)に仮スタジオを設け、午前9時30分、京田武男アナウンサーの「アー、アー、アー、聞こえますか?JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにちは、ただいまより放送を開始いたします」の第1声が流れた。
放送開始時点のラジオ受信契約者は、わずか5455人、ラジオのある商店の店先には毎日のように人が群がったそうだ。その年の内に大阪、名古屋にも放送局が開局、契約者は東京放送局(JOAK)13万人、大阪放送局(JOBK)5万人、名古屋放送局(JOCK)15万人と増えた。この時期、放送局が相次いで開局したのは、1923年(大正12年)の関東大震災時の“外国からの攻撃”、“朝鮮人の襲撃”などの流言蜚語で大騒動が起きた。そこで、いかなる時でも迅速に国民に正しい情報を伝えるメディアが必要だ、と言う社会的ニーズによってラジオ局開局が急がれた、とも言われている。なお『放送記念日』は1943年(昭和18年)に日本放送協会(NHK)によって制定された。

『ラジオの思い出』――翁が幼少の頃はラジオとは無縁であったが、1943年(昭和18年)に小学校へ入学した頃、ラジオ好きの母親の影響で時々ラジオ番組を聴くようになった。と言っても記憶にあるのは大本営(戦時中に設置された日本陸海軍の最高統帥機関)発表の「日本軍の勝利、連勝」ばかり。軍国少年だった翁は、この大本営発表の誇大ニュースに小躍りしたものだった。「日本は神の国、毛唐(けとう=毛色の異なる人種=主に米英の白人)に負けるはずはない。日露戦争だってロスケ(ロシア人に対する蔑称)に勝ったではないか、日本は絶対に負けない」と吹き込まれ、日本人全てが軍国色に染め上げられた時代であったのだ。なのに、その後、翁の田舎までも焼夷弾投下や機銃掃射を受け、夜、夜中でも空襲警報に脅かされて防空壕へ逃げこんだものだ。壕の中での大人たちのヒソヒソ話「こんな田舎にまで敵機がやって来るなんて、日本は本当に大丈夫なのか?」――

大丈夫ではなかった。小学3年生の夏休みの1945年(昭和20年)8月15日、猛暑の朝、龍少年は魚釣りに出かける支度をしていたら、母に「今日は家にいなさい。ラジオで大事な放送があるそうじゃから」と止められた。11時頃から近所の人たち10数人が我が家の座敷に集まった。龍少年と次姉(小学6年生)は隅っこに並んで座った。前年、長姉は女子挺身隊員として大阪・貝塚の軍需工場へ、兄は学徒動員で長崎・佐世保の海軍航空基地へ行っていて不在。父は、龍少年が3歳の時に病死したので当時は母・次姉・龍少年、それに遠縁の老夫婦の5人家族だった。座敷の客は神妙な面持ちで“大事な放送”を待った。正午の時報に続いてアナウンスで起立を求められ『君が代』が流れた後“玉音放送”(天皇陛下の肉声による放送)が行なわれた。座敷の客たちは初めは直立不動だったが、やがて畳にひれ伏し泣いた。龍少年は放送の内容が分からず母の傍にすり寄り、母の泣き顔を見つめた。母は「戦争が終わった、日本が負けた」と龍少年の耳元で囁き、また目頭を押さえた。「戦争が終わったなら、兄ちゃんも姉ちゃんも直ぐに還って来るよね」と(小声で)言ったら母に睨まれ、膝(ひざ)辺りをつねられた。

終戦直後、家のラジオから流れるのは『リンゴの唄』ばかりだったような気がするが、ほかの主なラジオ番組と言えば『のど自慢』(1946年〜)、『話の泉』(1946年〜)、『鐘の鳴る丘』(1947年〜)、『とんち教室』(1949年〜)。当時、龍少年は野球や音楽(オルガン、ギター、アコーディオン)に熱中していたので『鐘の鳴る丘』以外、ほとんど記憶にない。♪緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン、メーメー子ヤギも啼いてます、風がそよそよ丘の家、黄色いお窓は俺らの家よ(菊田一夫作詞、古関裕而作曲)・・・龍少年は(戦災孤児たちが)信州の山里で共同生活をする情景を勝手に描いて、自分も主人公の孤児たちの一員になったような気分でドラマを聴き、(やっと弾けるようになった)ギター伴奏でよく歌ったものだ。その後の有名なラジオ劇としては(女風呂が空になる、と言われた)『君の名は』(1952年〜)、『笛吹童子』(1953年〜)、『紅孔雀』(1954年〜)があったが、1951年に龍少年は神戸へ遊学(叔父の家に下宿)したので(ラジオとは無縁になり)それらのラジオ劇は1度も聴いたことがない。

時は流れて――翁は、映像製作を本業としながらも、若い頃(10年間も)ラジオ番組を手がけた経験がある。総理府(現・内閣府)提供の『政府の窓』(ドキュメンタリー、音楽、短編ドラマなど)を制作した。言うまでもなくラジオは、映像がない音だけの世界だから聴取者は自由に、際限なく想像を広げることが出来る。それだけにシナリオ(伝達文章)とアナウンス(伝達表現)は分かり易く正確でなければならない。翁はこのラジオ番組製作(経験)のお蔭でテレビ番組制作において出来るだけ分かり易く、正確な文章(シナリオ)作りと演出(表現技法)を心掛けた。

翁は、映像と同じようにラジオも好きだ。一昨年11月まで(半世紀以上)の運転歴でカー・ラジオは常に”癒しの友“であったし、報道番組は勿論のこと対談・てい談・音楽番組などのパーソナリティ(司会進行者)やゲスト出演者のしゃべりから得る豆知識も、テレビ番組企画(ネタ拾い)の“重要な情報源”の1つでもあった。現役を退いた後は、ラジオは“睡眠の友”。就寝時にはベッド脇に置いてあるラジオ(ニュースや音楽)を聴くのが習慣。自分の脳裡に勝手に映像を描き、時には、かつて取材した外国の風景などを思い出しながら、いつの間にか眠ってしまう。時々、その情景が夢に現れることもあって楽しい。

東京・港区愛宕にある『NHK放送博物館』に翁、これまでに数回行ったが、ラジオからテレビ、更には衛星放送、ハイビジョン、デジタル放送へと進歩・発展して来た “放送の歴史”を知ることが出来る。『放送記念日』にもう一度・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

メキシコ系マーケット

日系アメリカ人の友人でメキシコ料理が得意な人がいる。彼女が勧めてくれたメキシコ系マーケットを先週、訪れた。このあたりでは一番大きいメキシコ系マーケットなのだそうだ。店内に入るとすぐに野菜やフルーツの売り場があった。日系マーケットでは殆ど見られない種類の野菜や豆や果物が陳列されていた。テキーラや飲み物によく使われるライムなども一つが10セントで安い。他の野菜もクオリティーは別として全体的に他のマーケットより安い。奥の方を見るとかなりのスペースを取って香辛料、スパイスコーナーが広がっている。チリの種類も豊富だ。チリの中でもアナハイムチリは比較的日本人に好まれるチリだと聞いたので売り場で聞いてみた。でも残念ながら店員の人はニコニコ愛想がいいものの英語が通じなく、どのチリを見せても“ベリーグッド”しか言ってくれなかった。

野菜、果物コーナー ガバゾン豆 サボテン
スパイスコーナー サルサ2 ジャックフルーツ

今日は下見のつもりだったので諦めてベーカリーショップに移動した。見ると昔子供の頃に食べた甘食やメロンパンに似たようなパンがあった。値段も2個で1ドル、3個で1ドルのものが殆どで日系のパン屋さんと比べると四分の1から五分の1の値段で買える。試しにメロンパンに似たものを購入してみた。甘さは、さほど甘くないけれど食べた感じはボソボソとした感じだ。やはり日本のメロンパンとは格段の差だ。外はカリカリ中は、ふんわりとした日本の香ばしいメロンパンとはやっぱり違う。日本の夕張メロンパンを食べた時に香りがあってとても美味しかった。それだけの味を出すために日本のパン屋さんは工夫し研究し食材を吟味しているわけだから高くても仕方がない。そのベーカリーショップの隣にあるケーキ売り場のケースを除いてみた。派手な極彩色のケーキは粘土と絵の具で作られたような人工的なケーキのように見えた。これも日本の繊細なケーキとは違う。

トマティオ ハバビーンズ ユッカルーツ
ベーカリー アロエ

スライスしたケーキが少ないのは子供が多いパーティー好きのメキシカンの人には人気が無いのかもしれない。その隣はサルサチップと一緒に食べるディップが売られていた。四角くて細長く深いケースの中にお惣菜や肉まで入れて売っている。その容器で統一しているのは、いいけれど肉などは何となくグロテスクな感じがして美味しそうには見えない。

Loose Jamaica ケーキ

それにしても相変わらず日本の食文化は留まる所を知らない。先週カンブリア宮殿で“絶品スイートを影で支える魔法のオーブン”を見た。少しでも美味しいもの、いいものを追求していく原動力はお客さん喜ぶ笑顔が見たいからと言っていた。このスピリットがある限り日本の食はずっと開花していくに違いない。

茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言

今週はお休みです。
 

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

こんな素敵なアルバムを見つけました。Jazzはやっぱり楽しいです。
リラックスして聴くために創られたアルバムなんでしょうね。アルバムを作成している人、演奏している人もきっと気持ちが良かったと思います。家でゆったりくつろいでいるときに聴くのが一番かなと思います。気持ちのいいサウンドのJazzです。


"Groove Jazz N Chill #1"  Chilling Jazz Kollektion

01-Summer Wind 5:08
02-Colors 5:09
03-Sigh 4:14
04-Blue Water 4:00
05-You and I 4:09
06-Coolness 4:49
07-Mornin' 4:29
08-Return to Innocence 4:18
09-Home 5:42
10-Desire 4:19
11-Smooth Journey 3:53

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

 

編集後記

私は朝食後2錠、夕食後1錠の薬を服用しています。ちゃんと飲んでいるつもりでも飲み忘れることがあります。定期検診で処方してもらうたびに薬が余っているのでがっかりします。薬の飲み忘れを防ぐためのいい方法を探していたら、薬の管理ができるスマホアプリを見つけました。
薬名と飲む時刻を登録しておくと、スマホがリマインドしてくれると言うものです。『お薬リマインダー、飲み忘れ防止アプリ』です。アプリを使い始めてから、飲み忘れがなくなりました。

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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1192

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com