龍翁余話(539)「民放テレビ発足記念日」
普段、あまり野球のテレビ中継を視ない翁だが、今夏の異常気象(酷暑続き)で外出を控えたため、テレビ・タイムが増えた。中でも“甲子園”は、ほとんど毎日(途切れ途切れだが)観戦した。秋田県代表の金足農高校の健闘は実にドラマティックで感動的だった。準決勝の日大三高との戦い、決勝の大阪桐蔭高との戦いでは、翁は完全に判官贔屓(ほうがんびいき)だった。金足農高ナイン準優勝、おめでとう!天晴れ!
ところで“甲子園”を視ている時、ふと「この全国高校野球テレビ中継放送は、いつから始まったのだろう」と、その歴史を知りたくなり、調べた。当然、「日本のテレビの歴史」と重なる。1952年にサンフランシスコ条約で日本が主権を回復(独立)した翌年1953年(昭和28年)2月1日にNHKが東京で(1日約4時間の)本放送開始。フィルム取材によるニュースや劇場映画を除き、ほとんどが生(なま)放送だった。2月20日からクイズ・ゲーム番組『ジェスチャー』がスタート、5月は大相撲中継、8月に初めて「甲子園での全国高校野球(第35回大会)」を中継した。したがって“甲子園の高校野球テレビ中継”は今年で65年目になる。そして同年8月28日には日本テレビ放送網が民放初の放送開始。初期は野球中継(巨人戦中心)、大相撲本場所、プロレス、ボクシングなどのスポーツ中継が街々に設置された街頭テレビから流れ、人々はそこに群がった。日本テレビ開局と同時にテレビCM放送も始まった。第1号は精工舎・服部時計店(セイコー)の時報(正午と夜7時の2回)だった。その後、サロンパス、龍角散が続く。そこで(いつからか不明だが)8月28日は「民放テレビ発足記念日」、「テレビCM記念日」と言われるようになった。
テレビが初めてお目見えした1953年(昭和28年)の日本はどんな時代だったか、主な出来事を拾うと――吉田首相(当時)が衆院予算委員会で「バカヤロー発言」(2月25日)、その後、鳩山一郎・広川弘禅・河野一郎・三木武吉・石橋湛山らが吉田自由党を脱退し「分党派自由党」(通称:鳩山自由党)を結成(3月18日)、「中国からの引き揚げ開始」(3月23日)、「伊東絹子が第2回ミス・ユニバースで第3位入賞」(7月16日)。「奄美群島日本返還」(12月24日)、「第4回NHK紅白歌合戦」(12月31日)・・・当時の流行歌は「雪の降る町を」(高英男)、「街のサンドイッチマン」(鶴田浩二)、「君の名は」(織井茂子)、邦画は「東京物語」(原節子)、「雨月物語」(京マチ子)、「ひめゆりの塔」(津島恵子)、洋画は「禁じられた遊び」(ブリジット・フォッセー)、「ライムライト」(チャップリン)、「シェーン」(アラン・ラッド)、「ローマの休日」(オードリー・ヘプバーン)など・・・翁たち高齢者は、流行歌や映画のタイトルを見る(聞く)だけで「あの時、あんなことがあった、こんなこともした」と自身の歴史と重ね合わせ懐かしい思い出に浸ることが出来る。
さて、もう少し“テレビ史”を探ってみよう(『家電の昭和史』を参考)――日本でテレビ放送が始まった年(1953年)、国産初の白黒テレビ14型175,000円、17型約30万円で発売された。当時の公務員の初任給は大卒7,650円、高卒5,400円、牛乳15円、ラーメン30円、週刊誌25円、新聞購読料280円、映画120円だったので、とてもじゃないが一般家庭にとってテレビは高嶺の花。やはり一般市民は街頭テレビを楽しみにしていた。
1955年(昭和30年)から始まった“神武景気”期は、電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビが“三種の神器”と言われ、テレビの家庭への普及も少しずつ拡がりを見せたが、1958年(昭和33年)でもわずか16%だった。ところが翌年1959年(昭和34年)「皇太子さま・美智子さま(現天皇・皇后両陛下)のご結婚」パレードの生中継を観るために急激な勢いでテレビは普及した。そして1960年(昭和35年)NHKや民放各社は一斉にカラー放送を開始した。しかしカラーテレビは高くてなかなか買えない。3年後の1963年(昭和38年)、白黒テレビ1,600万台に対してカラーテレビはわずか50,000台。この年、初の日米間テレビ宇宙中継の実験放送があり、奇しくもその放送でJ・F・ケネディ大統領の暗殺現場が中継され、日米両国民に大きな衝撃を与えた。余談だが、その時、翁はすでにテレビ番組制作の仕事をしており、スタジオで実況を視ていたが、そのショックは忘れがたく、後年、ダラス市警の協力を得てケネディ大統領暗殺現場を徹底的に取材(撮影)した。
1964年(昭和39年)の「東京オリンピック」が白黒テレビの世帯普及率を押し上げたが、カラーテレビは伸び悩んだ。理由は依然、高値。当時の白黒テレビの価格(19型)74,000円、カラーテレビの価格(19型)198,000円。それでも1970年(昭和45年)の「大阪万博」から(20型が)17万円台となり、バブル景気に乗って世の中はカラーテレビ、クーラー、カーの「3C時代」に入る。1975年(昭和50年)には普及率94%、つまり現在では当たり前になったカラーテレビは昭和50年初頭から全盛の時代を迎えた訳だ。
ところで、テレビが出始めた頃(確か1957年頃?)社会評論家の大宅壮一氏が「1億総白痴化」と言い出した。「テレビは低俗、人間の思考力や想像力を低下させる」と言う意味合いだ。長年、テレビ番組制作に関わった翁でも、幾分“大宅論”に同調する向きもある。個人的感情論だが、翁は“お笑い芸人”のバラエティ番組は(極低俗と思って)視ない。だが、テレビ番組すべてが“白痴化要因”ではない。放送倫理基本要領に「放送は福祉の増進・文化の向上・教育教養の進展・産業経済の繁栄、平和社会の実現に寄与する」と謳われている。要は番組製作者、放送局、スポンサー、そして視聴者の認識(教養レベル)の問題だろう。今やテレビは国民にとって身近なメディアであり、その社会的影響は極めて大きい。8月28日の『民放テレビ発足記念日』に際し、翁は吠える「番組製作者・放送局・スポンサーはテレビの持つ社会性を自覚し、国民生活に役立つ情報(客観的事実の報道)と健全な娯楽を提供せよ」。「チャンネル選びも議員選びも同じこと。国民の選球眼1つでテレビも政治も変わる。考えようではないか」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |