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1163号

No.1163     Ryo Onishi              8/26/2018

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雑貨屋のひとり言

7月の台風12号に続いて先週は台風20号が近畿地方を直撃しました。深夜、ものすごい雨風の音で目がさめました。建物が少し揺れていたように思います。
淡路島で風力発電用の風車が根元からポッキリ折れて倒れて驚きましたが、風力を利用する施設が強風で倒れるような構造では困りますね。けが人などが出なくてよかったです。それにしても今年は台風の発生が多いです。
地震、豪雨水害、酷暑、台風と次々に自然災害に襲われている今年の夏はストレスがかかります。日本中が疲れているのではないでしょうか?≪R.O≫

 

 

私は当地ロサンゼルスを中心とする日系バイリンガル新聞である羅府新報の『磁針』欄に、ほぼ月一度寄稿をしています。ここで磁針寄稿250回を迎え、これまでの寄稿文を整理しています。

ほとんどの文章は当、雑貨屋ウイークリーに投稿しているコメントですが、『磁針』のほうはロサンゼルスを中心に滞在している日本人や日系人を対象にしており、また紙面の都合上、文字数に制限があり(860文字)、雑貨屋用とは若干ニュアンスが異なった書き方、内容になっています。

そこで過去の磁針寄稿文をここにも連載させていただき、ご参考に供します。

 


河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


温室で蝶の情も知らず咲き

脇道の花にカーナビ目もくれず

美しく咲いたが故の薔薇の棘

手の届く頃は高嶺の花も枯れ

花束の中で造花のすまし顔



( ニュースひとりよがり )


「現在の生活に満足が74.7%」
水増しをしてない? −官庁の障害者雇用率

「9月20日に総裁選」
熱くなるのも彼岸まで −自民党

「罰当たり台風」
四国遍路だなんて −気象庁


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(539)「民放テレビ発足記念日」

普段、あまり野球のテレビ中継を視ない翁だが、今夏の異常気象(酷暑続き)で外出を控えたため、テレビ・タイムが増えた。中でも“甲子園”は、ほとんど毎日(途切れ途切れだが)観戦した。秋田県代表の金足農高校の健闘は実にドラマティックで感動的だった。準決勝の日大三高との戦い、決勝の大阪桐蔭高との戦いでは、翁は完全に判官贔屓(ほうがんびいき)だった。金足農高ナイン準優勝、おめでとう!天晴れ!

ところで“甲子園”を視ている時、ふと「この全国高校野球テレビ中継放送は、いつから始まったのだろう」と、その歴史を知りたくなり、調べた。当然、「日本のテレビの歴史」と重なる。1952年にサンフランシスコ条約で日本が主権を回復(独立)した翌年1953年(昭和28年)2月1日にNHKが東京で(1日約4時間の)本放送開始。フィルム取材によるニュースや劇場映画を除き、ほとんどが生(なま)放送だった。2月20日からクイズ・ゲーム番組『ジェスチャー』がスタート、5月は大相撲中継、8月に初めて「甲子園での全国高校野球(第35回大会)」を中継した。したがって“甲子園の高校野球テレビ中継”は今年で65年目になる。そして同年8月28日には日本テレビ放送網が民放初の放送開始。初期は野球中継(巨人戦中心)、大相撲本場所、プロレス、ボクシングなどのスポーツ中継が街々に設置された街頭テレビから流れ、人々はそこに群がった。日本テレビ開局と同時にテレビCM放送も始まった。第1号は精工舎・服部時計店(セイコー)の時報(正午と夜7時の2回)だった。その後、サロンパス、龍角散が続く。そこで(いつからか不明だが)8月28日は「民放テレビ発足記念日」、「テレビCM記念日」と言われるようになった。 

テレビが初めてお目見えした1953年(昭和28年)の日本はどんな時代だったか、主な出来事を拾うと――吉田首相(当時)が衆院予算委員会で「バカヤロー発言」(2月25日)、その後、鳩山一郎・広川弘禅・河野一郎・三木武吉・石橋湛山らが吉田自由党を脱退し「分党派自由党」(通称:鳩山自由党)を結成(3月18日)、「中国からの引き揚げ開始」(3月23日)、「伊東絹子が第2回ミス・ユニバースで第3位入賞」(7月16日)。「奄美群島日本返還」(12月24日)、「第4回NHK紅白歌合戦」(12月31日)・・・当時の流行歌は「雪の降る町を」(高英男)、「街のサンドイッチマン」(鶴田浩二)、「君の名は」(織井茂子)、邦画は「東京物語」(原節子)、「雨月物語」(京マチ子)、「ひめゆりの塔」(津島恵子)、洋画は「禁じられた遊び」(ブリジット・フォッセー)、「ライムライト」(チャップリン)、「シェーン」(アラン・ラッド)、「ローマの休日」(オードリー・ヘプバーン)など・・・翁たち高齢者は、流行歌や映画のタイトルを見る(聞く)だけで「あの時、あんなことがあった、こんなこともした」と自身の歴史と重ね合わせ懐かしい思い出に浸ることが出来る。

さて、もう少し“テレビ史”を探ってみよう(『家電の昭和史』を参考)――日本でテレビ放送が始まった年(1953年)、国産初の白黒テレビ14型175,000円、17型約30万円で発売された。当時の公務員の初任給は大卒7,650円、高卒5,400円、牛乳15円、ラーメン30円、週刊誌25円、新聞購読料280円、映画120円だったので、とてもじゃないが一般家庭にとってテレビは高嶺の花。やはり一般市民は街頭テレビを楽しみにしていた。

1955年(昭和30年)から始まった“神武景気”期は、電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビが“三種の神器”と言われ、テレビの家庭への普及も少しずつ拡がりを見せたが、1958年(昭和33年)でもわずか16%だった。ところが翌年1959年(昭和34年)「皇太子さま・美智子さま(現天皇・皇后両陛下)のご結婚」パレードの生中継を観るために急激な勢いでテレビは普及した。そして1960年(昭和35年)NHKや民放各社は一斉にカラー放送を開始した。しかしカラーテレビは高くてなかなか買えない。3年後の1963年(昭和38年)、白黒テレビ1,600万台に対してカラーテレビはわずか50,000台。この年、初の日米間テレビ宇宙中継の実験放送があり、奇しくもその放送でJ・F・ケネディ大統領の暗殺現場が中継され、日米両国民に大きな衝撃を与えた。余談だが、その時、翁はすでにテレビ番組制作の仕事をしており、スタジオで実況を視ていたが、そのショックは忘れがたく、後年、ダラス市警の協力を得てケネディ大統領暗殺現場を徹底的に取材(撮影)した。

1964年(昭和39年)の「東京オリンピック」が白黒テレビの世帯普及率を押し上げたが、カラーテレビは伸び悩んだ。理由は依然、高値。当時の白黒テレビの価格(19型)74,000円、カラーテレビの価格(19型)198,000円。それでも1970年(昭和45年)の「大阪万博」から(20型が)17万円台となり、バブル景気に乗って世の中はカラーテレビ、クーラー、カーの「3C時代」に入る。1975年(昭和50年)には普及率94%、つまり現在では当たり前になったカラーテレビは昭和50年初頭から全盛の時代を迎えた訳だ。

ところで、テレビが出始めた頃(確か1957年頃?)社会評論家の大宅壮一氏が「1億総白痴化」と言い出した。「テレビは低俗、人間の思考力や想像力を低下させる」と言う意味合いだ。長年、テレビ番組制作に関わった翁でも、幾分“大宅論”に同調する向きもある。個人的感情論だが、翁は“お笑い芸人”のバラエティ番組は(極低俗と思って)視ない。だが、テレビ番組すべてが“白痴化要因”ではない。放送倫理基本要領に「放送は福祉の増進・文化の向上・教育教養の進展・産業経済の繁栄、平和社会の実現に寄与する」と謳われている。要は番組製作者、放送局、スポンサー、そして視聴者の認識(教養レベル)の問題だろう。今やテレビは国民にとって身近なメディアであり、その社会的影響は極めて大きい。8月28日の『民放テレビ発足記念日』に際し、翁は吠える「番組製作者・放送局・スポンサーはテレビの持つ社会性を自覚し、国民生活に役立つ情報(客観的事実の報道)と健全な娯楽を提供せよ」。「チャンネル選びも議員選びも同じこと。国民の選球眼1つでテレビも政治も変わる。考えようではないか」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

再び二宮金次郎

最近の異常気象は世界的に広がっている。この数年、日本も何度となく豪雨の為に川が氾濫したり土砂崩れの被害が出ている。米国から日本のニュースを見る度に住民が避難して学校の体育館や公民館にいる姿を見るにつけ心が痛む。そして思い出されるのが二宮金次郎の実話だ。
1787年、時は江戸時代。二宮金次郎は小田原市の栢山で生まれる。二宮金次郎が4歳の時、大雨の為、川の堤防が決壊し彼の田畑は全滅する。その時、家の中まで濁流が押し寄せてきた時、家族皆で天井の柱に捕まって難を逃れたとか、、、その後、荒廃した田畑を戻すために家族総出て働くも父親が過労で倒れる。幼少の金次郎は父親の代わりに大人たちに交じって堤防の修復作業も手伝った。その大人たちの履いている草鞋がボロボロになっているのに気が付き夜なべをしながら大人たちの草鞋を作って売り家計を助けたのだそうだ。その、金次郎の努力も空しく父親は亡くなり母親も後を追うように亡くなり残った金次郎と弟が其々親戚に預けられ離れ離れに暮らす事になる。
自然災害はむごい。誰を恨んだらいいのか、、、これだけ科学が発達しても未だに天気のコントロール一つ出来ないのだから自然に対し人が寄りそって対応していくしかない。地球も一つの生命体であるのなら地球にも意思があって人に警告を発しているのかもしれない。将来の災害に備えなければならないのに民主党時代は防衛費もインフラ整備も恐ろしいくらい予算をカットしてしまった。おまけに今までTVに出ていた御用学者は国からたくさんの予算をもらいながら全く役に立たなかった。
二宮金次郎氏の言葉で
学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。

学問は、学んだことを活用してこそ意味がある。活用しなければ、幾ら沢山の本を読んだとしても、意味はない

今もその言葉が新鮮に聞こえる。
また、二宮金次郎氏のこんな名言も残されている。
古語に「三年の蓄えなければ国にあらず」といっている。外敵が来たとき、兵隊だけあっても、武器や軍用金の準備がなければどうしようもない。国ばかりでなく、家でも同じことで、万事ゆとりがなければ必ずさしつかえができて、家が立ちゆかなくなる。国家天下ならなおさらのことだ。
樹木を植えて、30年たたなければ材木にはならない。だからこそ後世のために木を植えるのだ。今日用いる材木は、昔の人が植えたものだとすれば、どうして後世の人のために植えないでよかろうか。
こんな話もある。
災害の後に二宮金次郎が大人たちに交じって働いている時に一人の老人が木陰で休んでいるのを見かけたそうだ。その老人は松苗が売れなくて困っていたそうだ。その松苗を金次郎は子守をしたり薪を売ったりして作ったお金で全部購入してあげたそうだ。その松苗を土手に一つ一つ植えていったそうだ。次回の災害に備えて彼なりに考えたのだろう。その松が今は大きくなり二宮金次郎が植えた松並木道として今も残っているようだ。いつかその松並木道を歩いてみたい。それにしても、普通なら悲劇のまま終わってしまう人も多い中、二宮金次郎氏は違った。彼は世界で初めて協同組合というものを作った優秀な農政学者であり思想家であり615もの村の再建に貢献した偉大な人物なのだ。
そんな偉人がいた事を数年前に訪れた二宮金次郎の記念館で知った。母曰く戦前は殆どの小学校の入り口に二宮金次郎の銅像があって子供たちは像の前でペコリと頭を下げて門をくぐったのだそうだ。
戦前に日本から海を渡って来た二宮金次郎の置物を日系人の方の家で数年前に見かけた事があった。今でもリトル東京には彼の像がある。その事には意味があるのだ。
初めてリトル東京を訪れた時には、何でここに二宮金次郎の像があるのだろうと思った程度で深く考える事も無かった。
日本の復興精神を学ぶためにも今再び二宮金次郎の作った報徳思想を学ぶ時が来ているような気がする。


茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言「誇りの美しさ」

夏の風物詩の一つに、“甲子園”、“夏の高校野球”がある。夏の始まりと終わりさえ感じさせるこの高校野球・高校球児に、“美しさ”を感じる。選手たちの、ほとばしる汗の笑顔が美しく、泥と涙にまみれた泣き顔も、また美しい。高校野球ならではの“体育の美”を感じる。そして、甲子園で斉唱される国歌、大会の歌、そして各学校の校歌も、大変美しいと思う。今日は、甲子園の“誇り”のいくつかを、そっと呟いてみたいと思う。

そのひとつは、甲子園の土、甲子園の誇り。甲子園を去る時に、負けても勝っても彼らが袋につめて持ち帰る土、それは、彼らにとって“栄冠”、人生の勲章・トロフィーだと言われる。彼らの誇りそのものが、甲子園の土(埃)を栄冠に変えることができる。私は、開会式と閉会式に斉唱される夏の甲子園大会歌“栄冠は君に輝く”(加賀大介作詞、古関裕而作曲)の行進曲を聴いただけで心が昂ぶり、奮い立たせられる思いになる。また、画面に映し出される歌詞に合わせて歌うと、つい感涙してしまう。甲子園に舞う誇りに酔いしれるのだと思う。いや、遠き自分の、若人時代を懐かしく思い起こすのかもしれない。

またもうひとつ――校歌斉唱の誇りだ。夏の高校野球では、初戦2回の表と裏に、対戦相手同志の校歌が斉唱され、勝った高校は試合後にもう一度、自校の校歌を歌う。その校歌は勝つ度に歌われ、優勝まで勝ち進むと2回×6試合の合計12回、夏の甲子園に、そしてテレビ・ラジオを通して全国に響き渡る。私の心にもいっぱいに響く。それは、選手も関係者も、自分の学校に誇りと自信、愛を持っているからだと、私は思う。校歌は、その学校の建学の精神を謳い、校風を発揚するために制定されたもの。だから歌詞には、学校名を軸に校訓や教育理念、学校の所在地周辺の自然や地理、風土、歴史、未来への夢、社会への貢献などが盛り込まれている。いわば校歌は学校を象徴するもののひとつ、在校生・卒業生やその家族にとっては、アイデンティティに通じるもの、といっても過言ではない。母校の校歌に誇りをもって歌えるということは、甲子園に限らず、美しいことであり、大切なことだと思う。勿論、卒業して半世紀が過ぎても覚えていればの話だけど。

さて、夏の甲子園閉幕と重なるように、アジア選手権が始まった。日本人の金メダル獲得は勿論、日本国旗掲揚と日本国歌斉唱に、日本人としての誇りを感じる。近年、学校や地域行事の際、国歌“君が代”斉唱をしないこともあるという。日本人たる誇りが“埃”にならない未来であって欲しいと願うのは私だけだろうか。甲子園に続くアジア大会のテレビ観戦時、互いに口にした言葉は「ねえ、母校(大学ではなく小学校・中学校・高校)の校歌、歌える?」だった。母校の校歌は忘れても、母校の誇りは忘れないでいたいもの、“歌える”ということは、つまりそんなことなんだよぁ・・・っと呟く、さくらの独り言。

 

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

たまにはサックス奏者のアルバムにしようと思いColeman Hawkinsを選びました。
Coleman Hawkinsは9歳からサックスを吹き始めていたそうです。私は楽器を器用に扱える人を尊敬します。音楽で人に感動を与えることができるというのが素晴らしいと思います。
"Complete 1962 Studio Recordings. Good Old Broadway + No Strings + Make Someone Happy + Today and Now"という長いタイトルですがゆったりと聴けるアルバムでおすすめです。

"Complete 1962 Studio Recordings" 

Coleman Hawkins Quartet


Disc 1
01-I Talk to the Trees 4:21
02-Smoke Gets in Your Eyes 4:38
03-Wanting You 2:25
04-Strange Music 6:16
05-The Man That Got Away 4:06
06-Get out of Town 4:11
07-Here I'll Stay 4:07
08-A Fellow Needs a Girl 4:47
09-Look No Further 4:31

Disc 2
01-Wouldn't It Be Loverly? 7:48
02-Cry Like the Wind 4:31
03-Climb Ev'ry Mountain 4:32
04-Make Someone Happy 3:05
05-Out of My Dreams 4:50
06-Have I Told You Lately? 3:24
07-I Believe in You 4:44

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

 

編集後記

家計の支出が10年前と比べて3.5%減っている(292万1476円)のに対し、携帯電話通信料は逆に25.4%も増えている(10万250円)という総務省の家計調査結果はちょっと驚きです。スーパーの3倍ポイントデーやセールの日に買い物をし少しでも家計を助ける努力をしている一方で高額な携帯電話通話料を支払っているちょっと変な家計になっているんですね。


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雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1163

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com