龍翁余話(537)「終戦記念日雑感」
戦前生まれ、戦中育ちの翁にとって8月15日は、何年経っても格別な感慨を抱く日である。
小学校3年生の夏休みの8月15日の昼前、近所の大人たち10人ほどが翁の家に集まり、ラジオの前で正座した。何が始まるのだろう?龍少年(翁)も最後列の母の横に座った。正午の時報の後「只今より重大な放送があります。皆様ご起立願います」大人たちは立ち上がった「天皇陛下におかれましては全国民に対し、かしこくも御自ら(おんみずから)大詔を宣せられることになりました。これより謹みて玉音をお送り申しまず」(このアナウンス原稿は後年調べたもの。その時は龍少年には意味が分からなかった)。母たちは深く頭を垂れた。そしてたしか『君が代』が流れ『玉音放送』が始まった。「朕(私は)深く世界の大勢と帝国(我が国)の現状に鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、ここに忠良なる爾臣民(なんじしんみん=国民)に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇(アメリカ・イギリス・中国・ソ連)に対して共同宣言(ポツダム宣言=ベルリン郊外のポツダム村で作成された、日本に対する“無条件降伏文書”)を受託する旨通告せしめたり・・・
耐へ難きを耐へ、忍びが難きを忍び、以て万世の為に太平を開かむと欲す・・・」(この勅語も後年に調べたもの)初めて聞く昭和天皇の悲痛なお声の終戦を告げるお言葉が、73年目を迎える今でも翁の耳に鮮明に残っている。その時は、お言葉の意味が分からなかったが、ラジオの前で泣き伏す大人たちの有り様を見て子供心に「これはただごとではない」と思い、龍少年は泣いている母の横顔を見る。母は声を震わせ小声で「戦争が終わった、日本が負けた」と龍少年の耳元でささやく。その時、龍少年は(事の重大さを理解出来ず、泣くどころか、戦争が終わったのなら)学徒動員で長崎県佐世保軍港(航空機整備兵)に行っている兄や、女子挺身隊員として大阪の貝塚(紡績工場)で勤労奉仕をしている長姉が帰ってくる、直ぐに会える、その嬉しさがこみ上げて笑みを我慢したものだった。
さて、この『玉音放送』が大東亜戦争(太平洋戦争)を本当に終結させたものかどうか?“否”である。『玉音放送』6日前の8月9日、ソ連(現ロシア)は、1941年に締結された『日ソ中立条約』(不可侵条約)を一方的に破って日本(満州)への攻撃を開始、世界戦史上、類のない非人間・蛮兵の悪名高いロスケ(ソ連兵)によって日本軍及び民間人10数万人が殺された(半藤一利著『ソ連が満州に侵攻した夏』より)。日本が終戦宣言『玉音放送』した後もソ連は南樺太・千島列島を攻撃、ロスケはここでも日本人(民間人)数万人を虐殺した。おまけに日本固有の領土である“北方4島”までも不法占拠した。故に翁「ドロボウ猫のロスケ野郎」と若い頃からロシアを罵倒し「北方領土返還」を叫び続けている。
今更、ではあるが『終戦記念日』で思い起こすのは日本が“降伏”から“独立”に至る経緯である。1945年8月14日にポツダム宣言受託を連合国に通告、8月15日『玉音放送』、以後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ=総司令官はダグラス・マッカーサー元帥)は日本を占領下に置き(GHQ意向の)「日本国憲法」を押し付ける。その憲法は象徴天皇制・戦争放棄・国民の権利・義務・三権分立など第11章、第103条に及ぶ長文だ。ほかにGHQが矢継ぎ早に行なったことは財閥解体・労働組合結成・農地改革・学制改革・戦犯裁判(東京裁判)など。翁の感情論だが、民主主義の押し付けで日教組と言う左系教育団体が日本の伝統文化と日本精神を破壊したことは許せないが、思想・宗教・職業の選択・言論等の自由、平等・人権尊重などは民主主義の光の部分と言うべきだろう。
1945年9月2日、日本政府代表(重光 葵外務大臣)は(東京湾に停泊中の)「戦艦ミズーリ」艦上で、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥と「降伏文書調印式」を行なった。
その「戦艦ミズーリ」は硫黄島や沖縄を攻撃した後、日本本土に接近し太平洋側の各都市に雨あられの艦砲射撃を行なったにっくき戦艦。その船が1999年1月からハワイ・パールハーバー(真珠湾)に浮かぶ『アリゾナ記念館』(上写真右側)の左方向に同じく記念艦として一般公開されている(大東亜戦争の始まりと終わりを象徴する2艦)。翁は数回参観しているが、最初に艦上の重光外務大臣が「降伏文書」に署名した場所(『Shigemitsu
POINT』 の記念プレート)(下写真右)に立った時、ある種の屈辱感を味わったものだ。
さて、終戦から7年目の1952年4月28日、「サンフランシスコ平和条約」の発効により
国際法上(ソ連等共産主義国を除く)連合国各国と日本との戦争状態が終結、日本は完全な独立国に回復した。その“独立”直後の5月2日、先の大戦で散華した「全国戦没者追悼式」の第1回が新宿御苑で催された。8月15日に行なうようになったのは1963年日比谷公会堂からだ。翌年(1864年)は靖国神社で。そして1965年(昭和40年)から現在の日本武道館で開催されるようになった。8月15日は(翁は、ほとんど毎年)靖国神社に参拝するので当式典の模様はテレビで視るだけ。今上天皇・皇后のご臨席は今年が最後、そのご心境を窺い知ることは出来ないが、昭和天皇の御遺志を継いで戦没者への哀悼と平和への祈りは、殊更強く深いものであられるだろうと拝察する。翁も両陛下30年の御在位に感謝し、戦没者への哀悼の誠を捧げたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |