龍翁余話(516)「ああ、忘れまじ硫黄島」(再編=拡大版)
この『龍翁余話』で「硫黄島」を取り上げるのは2009年3月22日配信に次いで2度目。
大東亜戦争(太平洋戦争)を知る高齢者は「硫黄島」のことは当然ご承知のことと思うが、若い人に多く知られるようになったのは2006年12月に公開されたアメリカ映画『硫黄島からの手紙』からではなかっただろうか。この映画は、硫黄島守備隊最高司令官(小笠原兵団長・小笠原方面陸海軍最高指揮官)栗林忠道中将が戦闘の最中、頻繁に家族に送った手紙を基に“日本側の視点”で製作されたクリント・イーストウッドの監督作品。渡辺 謙、二宮和也、伊原剛志、中村獅童ら出演者はほとんど日本俳優陣。栗林中将の家族愛・人間愛が印象的、そして壮絶極まる戦闘シーンは今もなお生々しく記憶に残る。
硫黄島は、東京から南へ1,250キロ、東京都小笠原諸島に属する火山島。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物に覆われているところから、この名がつけられたという。総面積22平方キロ、ほぼ品川区の広さである。この小さな島が、日米にとっていかに重要な島であったか――米軍は、長距離爆撃(日本本土攻撃)中継基地の確保などで硫黄島を必要とした。当然、日本はそれを阻止するため(本土防衛の防波堤として)硫黄島の戦略的重要性を認識し、栗林忠道中将率いる小笠原兵団第109師団、陸・海軍将兵・軍属・特年兵(少年兵)を含む22,923人を配した。その中には在島民1,100人のうち、130人の若者を軍属として徴用(あとの島民は本土に疎開)。資料によると日本軍の兵器は高射砲、ロケット砲、追撃砲、臼砲、野山砲などが約280門(弾丸類は最初からギリギリだったとか)、戦車23輌、支援航空機約75機、対する米軍は艦船800隻(硫黄島四方の海が艦船で埋め尽くされた、と記録されている)、航空機約4000機、将兵総数約25万人。これでは、まともに戦っては勝負にならない。そのことを当初から計算していた栗林兵団長は、島内に全長18キロにも及ぶ地下壕を作り、随所に点在する自然の洞窟を利用して持久戦に備えた。
1945年(昭和20年)2月16日、硫黄島周囲の米軍艦隊が一斉に火を噴いた。空爆も加えた。島の形が変わるほどの熾烈な爆弾の雨。そして19日早朝、B29爆撃機の大編隊による空爆と沖からの艦砲射撃が全島を襲い、その間、120機の艦載機が上陸地点へ執拗に爆撃。そして海兵隊約9000人(夕方までに4万人)が戦車200輌と共に南海岸へ上陸。そこから日本軍の反撃(迎撃戦)が始まるのだが、所詮、兵士・兵器ともに米軍には到底及ばない。おまけに50度を超える蒸し風呂のような地下壕や洞窟に立て籠もっての迎撃戦を強いられ、将兵たちの体力消耗は日増しに激しく、熱病、栄養失調で倒れる兵も続出、中盤以降は武器弾薬、食糧、飲料水、医薬品などが底をつき、日本兵は精神力だけで白兵戦(刀剣などの接近戦)や自爆戦に転じたという。その悲惨な戦闘状況を、翁の拙筆で再現することは、この地に散華した将兵たちに申し訳ないので割愛するが、当初、米軍側の「あんな島は5日で陥落させる」の予想に反し日本軍は、栗林忠道兵団長(陸軍中将)指揮のもと、市丸利之助第27航空戦隊司令官(海軍少将)、千田貞季混成第2旅団長(陸軍少将)らが共同して見事な持久戦を展開、圧倒的な兵力・兵器を有する米軍上陸部隊に多大な損害を与えた。しかし米軍上陸後約1ヵ月足らずで日本軍は大多数の将兵を失い、栗林兵団長は遂に大本営に訣別の電文を送った【戦局、遂に最期の関頭に直面せり。小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。我が将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものあり。しかれども今や弾丸尽き水枯れ、戦い残る者全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、ここに永久のお別れを申し上げる(要旨)】――3月26日未明、栗林兵団長以下300余名の将兵は北部(天山)を出発して最後の総攻撃を敢行、全員玉砕。これをもって日本軍の42日間に及ぶ組織的戦闘は終わった。日本軍の戦死者21,900人、戦傷者1,020人(計22,920人)、米軍の戦死者6,821人、戦傷者21,865人(計28,686人)。日本軍生還者は1023人(数字は資料によって多少異なるが、厚労省の資料を採用)。ともあれ日本軍は本土防衛“最後の砦”として絶対に譲れない(この島を死守することによって本土攻撃を1日でも遅らせる)使命を帯びて死闘を展開した。大東亜戦争(太平洋戦争)の最後にして最大の激戦地「硫黄島」は“42日間だけ地球上に出現した地獄”であった。「戦史上、かくも悲惨極まりない戦いが(これまでに)あったろうか、それはまさに地獄絵図そのものであった」と、当時、従軍記者として硫黄島の戦いを取材した米国人作家ビルD・ロスは、彼の著書『硫黄島 勝利なき死闘』に詳しく記している。
翁が「硫黄島」へ渡航したのは過去2回。最初は1999年3月、硫黄島協会主催の“慰霊の旅”(参加者約100人)の同行カメラ取材。航空自衛隊入間(いるま=埼玉)飛行基地から大型輸送機で硫黄島へ。同島に駐屯する海上自衛隊の車数台に分乗して激戦の跡を訪ねる。全島を一望できる擂鉢山(標高169m)に登る途中に幾つかのトーチカ跡や破壊された大砲、弾丸跡が随所に。頂上には米軍占領記念(星条旗を掲げる海兵隊)レリーフ、各県の戦没者慰霊石碑、壮絶な空中戦を展開した零戦(第1、第2御盾)攻撃隊の顕彰碑などを撮影。擂鉢山を下りて草木の葉や根っ子を食べ、雨水を啜って命を繋いだ(鬱蒼たる)ジャングル数か所、1932年(昭和7年)ロス五輪の乗馬の金メダリスト”バロン(男爵)ニシ“で有名な戦車連隊長・西 竹一中佐の壮絶な最期の地(東海岸)を回った。この東海岸一帯は強烈な硫黄の臭いが鼻をつく。西中佐ら戦車連隊は、こんな場所で死闘を展開したのだ。熱砂の浜に点在する小岩群が将兵たちの英姿に映る。翁、撮影を終え、しばし黙祷。
翁が最後に撮影した場所は『医務科壕』(医療活動をした洞窟)。案内の海上自衛隊尉官が言った「この壕の地下には、未だ多くの戦死者が祖国への帰還(遺骨収集)を待ちわびています」――翁は黙祷してからカメラを回す。霊気が背中をよぎる。こみ上げるものを抑え翁、心の中で英霊たちに語りかける「皆さん、長い間、本当にご苦労様でした。ありがとうございました。さあ、私のカメラの中に入って下さい。私と一緒に日本へ帰りましょう」――下記の詩『あなたは今どこに』は、この時の心情を詠んだ翁の、せめてもの硫黄島英霊たちに捧げる鎮魂歌である――
@ あなたは今どこにいますか? 語り合う仲間もいないジャングルの中で 今もじっと
耐えているのでしょうか? 過ぎし日 あなたは戦った 愛する祖国のために 戦った
痛かったろう 苦しかったろう・・・
A あなたは今どこにいますか? 水もない 食べるものもない熱砂の中で 今もじっと
耐えているのでしょうか? 過ぎし日 あなたは戦った 愛する人のために 戦った
熱かったろう 辛かったろう・・・
B 地獄の跡へ行きました あなたを探しに行きました 本当に本当に ありがとう!
だから もう帰りましょう 愛する祖国へ 帰りましょう・・・
C 地獄の絵図を忘れません あなたのことを忘れません 本当に本当に ありがとう!
だから もう帰りましょう 愛する人のもとへ 帰りましょう・・・
翁、帰京後すぐに(硫黄島の英霊たちが収まっているであろう)カメラを持って靖国神社に御霊をお預けし霊魂不滅をお祈りしたことは言うまでもない。(なお、翁が2度目に渡航したのは2000年3月の「日米硫黄島戦没者合同慰霊祭」のカメラ取材。)
ところで硫黄島戦死者の遺骨収集活動が始まったのは1952年(昭和27年)からで2016年(平成28年)までの64年間に100回以上も行なわれたが、戦死者21,900人のうち収集された遺骨は10,400柱、未収容遺骨は(推計)11,500柱、まだ半数以上が彼の地に取り残されたままになっている。収集活動に困難をきたしているのは、硫黄島のほとんどの道がコンクリートで固められていること、遺骨収集団(主に硫黄島協会会員)の老齢化、少額予算などが考えられる。果たして今後の遺骨収集活動はどうなるだろうか?
さて、翁と「硫黄島」を結んでくれたのは、かねてからの翁の友人で(前述の)西中佐のご長男・西 泰徳氏(当時、硫黄島協会副会長、のちに会長)と栗林中将のご長男・栗林太郎氏(当時、硫黄島協会理事)のお二人だった。太郎氏の名は映画『硫黄島からの手紙』にも登場しているが、残念ながらこの映画が公開される前年(2005年)に亡くなられた。また泰徳氏とは数年ご無沙汰が続いたが、何という奇縁か、2011年の秋、偶然にもK大学病院(腎臓内科)で、それも同じドクターの3か月検診で再会、その後、数回“3か月ごとの旧交”を温め合うことが出来たが、これも残念ながら2012年の冬までだった。翁と交わした最後の言葉は「もう一度(硫黄島)東海岸の親父(西中佐)に会いたい」であった。栗林太郎氏、西 泰徳氏、お二人とも硫黄島で非業の最期を遂げたご尊父及び将兵たちへの鎮魂・慰霊の生涯であった。お二人のご冥福を心から祈る――靖国神社の桜が咲き始めた。花見に興じるもよし。されど、この花びら1枚も見られない硫黄島の英霊たちを決して忘れるなかれ。感謝と慰霊の心を忘れるなかれ。この3月「ああ、忘れまじ硫黄島」・・・
っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |