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1098号

NO.1098     Ryo Onishi              5/28/2017

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雑貨屋のひとり言

病院で採血するときに氏名を聞かれます。番号で呼ばれる(番号表示)のになぜ名前を言わせるのだろうと思っていました。採血するところは仕切りされてい てディスプレイに番号が出るのですが、隣の番号のところに間違えて座ってしまう方がたまにいるので確認しているとのことでした。年齢に関係なく間違えるそうです。私は別の理由かと思っていました。≪R.O≫

 

 暗 記 教 育

私は当地ロサンゼルスを中心とする日系バイリンガル新聞である羅府新報の『磁針』欄に、ほぼ月一度寄稿をしています。ここで磁針寄稿250回を迎え、これまでの寄稿文を整理しています。

ほとんどの文章は当、雑貨屋ウイークリーに投稿しているコメントですが、『磁針』のほうはロサンゼルスを中心に滞在している日本人や日系人を対象にしており、また紙面の都合上、文字数に制限があり(860文字)、雑貨屋用とは若干ニュアンスが異なった書き方、内容になっています。そこで過去の磁針寄稿文をここにも連載させていただき、ご参考に供します。

『 暗 記 教 育 』(磁針寄稿文、1998年5月掲載)』
日本人は意味のない単なる数字を覚える場合、それを意味ある言葉に置き換えて覚えようとする。例えば電話番号や歴史の年号、数式などは4649(ヨロシク)、1492(イシクニ)、1.41421356(ヒト夜ヒト夜ニ人見頃=√2)のようにして覚える訳だ。

それでは英語圏の人達はこんな場合、どのように暗記すのだろうかと、ふと疑問に思ったのでアメリカの高校・大学に留学経験のある友人に聞いてみた。

彼が言うには「アメリカの教育でも、知識の修得はもちろん重要視するが、暗記には殆ど価値を認めていない。歴史の年代などはおおよそで認識すればよく、正確な年号など暗記すること自体、何の意味もないという発想だ。

一年の誤差もなく歴史の正確な年号を丸暗記してそれが何の役に立つのだと思っている。その代わり、電話番号など生活に必要なものはご存知のように数字をアルファベットに置き換えたりして、いろいろ工夫はしているようだ、との事だった。

私のような古いタイプの日本人は、かつて受験勉強のため必死に歴史の年号や各種数字・記号・文章をひたすら無条件で丸暗記した時期があったが前記のアメリカ的発想からすると、“ソレガ何ナノ”と一言で片付けられそうだ。

歴史の年号や数式などの数字を、英語圏の人々はどうやって暗記するのか、という疑問自体がアメリカでは無意味なのだと言う事になり、私にとって日米の文化の違いをまた一つ教えられた結果となった。

私は暗記教育自体は、決して無意味でもなければまた不要でもないと思っている。問題は受験暗記への偏重と没個性助長なのであり、バランスの問題だ。

日本でも最近は入学試験が多様化し、所謂「知識偏重・丸暗記」だけを問うやり方から「個性や創造性」とのバランスが重視されつつあり、21世紀の日本も決して見捨てたものではないと思っている。

今回意見を聞いた彼はまた同時に、「高校(アメリカ)のアメリカ史のクラスで、歴代の大統領や、アメリカの憲法、政治の仕組みなど、暗記させられたのを、昨日のように覚えている」とも言っており、アメリカだって決して一律に「暗記=無意味」と言っている訳ではなく、そこにアメリカ式の「合理性」といったものを感じた。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


勲章が欲しくて偽善積み上げる

錯覚の天狗の鼻が上を向く

あの時が絶頂億の披露宴

盛衰を見てきた池の錦鯉

勲章を昔話が撫でている事


( ニュースやぶにらみ )


「高安の大関昇進」
待った≠ネし −相撲協会

「総理のご意向」
たいした効果はありません −街角景気

「国会のタヌキ」
治療をしろと言われても ―加計学園獣医学部


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(478)「高齢者のかくれ脱水」

5月も間もなく終わろうとしているが、今年の5月ほど気温差の激しい年も珍しい。こんな時季は、翁の“寒暖差アレルギー”が一段とひどい。以前にも『余話』に書いたことがあるが、翁が8年前と7年前に立て続けに(2種類の)ガン手術を行なって以来、かなり体質が変化した。良い変化は(それまで食べられなかった)生のネギ類、ニラ、セロリ、シソ、七味唐辛子が食べられるようになった(ミョウガ、ウド、ミツバ、強烈なニンニク料理、それに青魚の刺身などは、いまだに食べられないが)。悪い変化は(タバコを止めたせいか、食べるものが美味しくなって)メタボになったこと、そして“寒暖差アレルギー体質”になったこと。何で“寒暖差アレルギー”になったか原因は不明。“寒暖差アレルギー”とは、文字通り急激な気温の変化で生じる(花粉症によく似た)症状で、特に春から夏にかけてと、秋から冬にかけて、つまり季節の変わり目に起こると言われているが、翁の場合は、ほとんど1年中だ。なかでも、この5月のような気温差の激しい月は異常と言えるほどひどい。それがまだ続いている。朝起きてしばらくは、ティッシュを手放せない。

東京地方の5月の気温を調べたら、初旬からいきなり25℃超えの日があり、9日、10日は20℃を下回り爽やかな“五月晴れ”であったが、11日、12日は再び夏日、13日から17日までは20℃前後に落ち着いたものの、18日から23日までは、毎日のように30℃に迫る真夏日のような高温だった。24日以降から今週にかけては、やっと平年並みのようだが、このような気温差の激しい時季は、翁の“気温差アレルギー”は一段と激しくなる。一般的には高齢者は、翁のような“気温差アレルギー”に罹る人は少ないと思うが、案外、多いのが『かくれ脱水』だ。この5月、何回もニュースで報道されたのでご記憶の読者も多いと思うが、自分が気付かないうちに“脱水状態”になっていて、いろいろと不都合な病気に見舞われる。

余談だが、実は翁、今年の4月に腰を痛めて以来、友人M君の薦めで週に1度、(1回1時間)某電位治療(宣伝体験所)に行っている。厚生労働省が認可している効果の謳い文句は“頭痛・肩こり・慢性便秘・不眠”だけだが、「万病は酸素の不足から。その解消は血流改善しかない」という野口英世博士の言葉通り、この体験所は“酸素の取り入れ・血流改善”を主眼としているところに(翁は)注目して、(初めは半信半疑で)行ってみた。翁の腰痛が、そこで治るはずはないので近くの整形外科クリニックへ行って注射ほか、わずか2回の治療で痛みは止まったが、念のためドクターに“電位治療”について質問してみた。ドクターの答え「確かに酸素と血流は健康の要(かなめ)。適度の電位治療ならいいと思いますよ」に意を強くして、現在も週1度通っているが、まだ具体的に“これ”という効果は現れていない。薦めてくれたM君の電位治療の体験は(週3回のペースで)1年を超えたそうだが、それまで35℃と低かった平熱が6か月で36℃代に上昇したこと、それによって便秘が解消された、長年苦しんだ“花粉症”が治った、など具体的な効果を得た体験者だ。そのM君が翁に問う「いかがですか?実感出来る効果が出ましたか?」。口の悪い翁「イワシの頭も信心から。信じる者は救われる」とはぐらかしているが、まだ10数回しか行っていないので“効果”の実感はない。ご承知のように平熱36.5℃前後の健康人は細胞の新陳代謝が活発で免疫力も高い。ところが翁の平熱は35℃程度でかなり低い。翁のメタボの原因の1つは、基礎代謝が低下して脂肪を燃焼しにくくしているせいかも知れない。翁が某電位治療体験所に行く理由は(前述の)“頭痛・肩こり・慢性便秘・不眠”などとは関係なく、ひたすら平熱アップと血流改善を期待してのことだ。いや、もう1つある。その体験所のスタッフ(数人)のスピーチがまことに巧妙で1時間を退屈させないどころか、彼らが発信する“医学・健康情報”が分かりやすく、実にタメになるので(翁の週1回の足運びは)それを楽しみにしている部分もある。

話を戻そう『高齢者のかくれ脱水』についてだが――(前述の体験所スタッフの“講義”を参考にすると)今年の5月のような気温差の激しい時季は、高齢者には体に大きな負担がかかる。高齢になると体温調整の機能がだんだん衰えて来る。寒い時には、人間は自律的に体内で熱を創り出して体温を一定に保とうとするが、高齢者はその働きが低下する。
更に温度感覚も鈍って気温の上下に衣服を合わせ、体温調整をすることが若い時より難しくなって来ている。また、水分や塩分の摂取に重要な食事の量も減っている高齢者は、発汗による体温調節が充分に機能せず、脱水症を起こしやすい。低体温や脱水症が続くと血行も悪くなり免疫力も低下して、疲労・アレルギー・生活習慣病(緑内障・糖尿病・高脂血症・脂質異常症)などの病気に罹りやすい(それらの病気については別の機会に)。

『かくれ脱水』を確認する簡単な方法として「爪を押した後、色が白からピンクに戻るまで3秒以上かかる」、「手の甲をつまみ上げた後が戻りにくい」、「口の中が乾いている」、「皮膚に張りがない」、「爪の表面に亀裂がある」、「手足が冷たい」、「大量の汗をかく」、「食欲不振」、「たちくらみ」など・・・高齢者が『かくれ脱水』を予防するには、常に自分でチェックすることが肝要で、たとえば(常識的なことばかりだが)「暑さを避ける服装」、「外出時は首にスカーフなどを巻く」(翁は、夏場のゴルフは必ず細い“クーラータオル”を首に巻いている)、「我慢してクーラーや扇風機を止めたりしない」(節電して病気になったら勘定が合わない)、そして最も重要で難しいのが「栄養バランスと量を考えた食事」。

脱水症の前触れ『かくれ脱水』は、暑い日の外出時は勿論だが、実は、どこででも、特にマンションの屋内・夜間・運転中に起きるそうだ。翁は主治医から365日の水分補給を厳命されている。渇きがあろうとなかろうと、歩く時も車の中もベッド脇にもペットボトルは欠かせない、まさに“命を繋ぐ水”。加えて前述の“酸素と血流”の電位治療も続けよう、もう少し、この世に居たいから・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

北海道の旅(1日目)

東京から新青森経由で新函館北斗まで4時間と少し。今年、開業一周年を迎えた北海道新幹線。同じ頃、日本に帰る友人が“函館朝市に行って美味しいものを食べに行くの”という言葉に惹かれて私も旅の初日に北海道に行く事に決めた。
今回で北海道は3回目。初めは札幌にいる友人を訪ねて飛行機で行った。2回目は新幹線と在来線。海底を走る青函トンネルを1度体験してみたかった。行ける限り遠くまで行ってみようと計画性の無い私は釧路まで行った。7年前ぐらいだったと思う。北海道に入ってからが遠かった。十勝平野の夕日を見たかったのに、すでに外はとっぷりと日が暮れて真っ暗。どんなに目を凝らしても窓には自分の姿しか見えなかった。釧路に辿り着いたらシトシト雨。ホテルのレストランも終わっていてさっさと寝るしかなく、翌朝一番の電車に乗り込んで、また東京に向かった。今度こそ十勝平野をじっくり見てみようと途中まで立ちっぱなしで外の景色を眺めていた。途中、大きな鷲が悠々と空を舞っているのが見えた。
ペリー艦隊函館来航 赤レンガ倉庫の八重桜
41954年洞爺丸台風 赤レンガ倉庫港

家に帰って釧路の売店で早朝に買ったタコの燻製のお土産を母に渡したら、そのパッケージを見て母が大笑いした。パッケージのかわいいタコの絵柄のセリフに“私、釧路から来たの”と書いてあって、それが面白かったらしい。
今回は函館に到着してすぐに観光局に向かった。夕方4時頃の新幹線で東京に帰る事を告げると観光局の人は函館駅付近の観光ポイントを説明してくれた。お昼過ぎには終わってしまう朝市に急いで向かった。もうすでに朝の賑やかさが去った後だったので人影は、まばらでゆっくり見る事が出来た。どんぶり横丁の一角にある店で海鮮どんぶりのお昼をすませ、それから歩いて赤レンガ倉庫が並ぶ港町に向かった。途中の壁にこの函館湾にペリーの船が来て開港された時の事が簡単に説明されてあった。きっとあの頃のイギリス艦隊は上から目線で日本に開港を迫ったのだろう。何だか偉そうで立派な感じで描かれているペリーを見てその頃の事を想像してみた。港の近くの赤レンガの倉庫街はビアホールやレストランや雑貨屋がたくさん並んでいた。函館の歴史を知る上で五稜郭タワーにも行きたかったけれど時間が足りなかったので次回の楽しみにして函館をブラブラ散歩するだけにした。そして、また函館北斗駅に戻って待ち時間の間に青函トンネルの完成までのパネルを見た。青函トンネルへの歴史は1954年に津軽海峡を襲った台風から始まる。その洞爺丸台風は凄まじい勢いで青函連絡船洞爺丸を沈没させた。日本海難史上最大の事故となって1430名もの人が亡くなった。タイタニックに次ぐ世界でも大きな船の事故だったとか…そんな事故があった事など全く知らなかった。その頃は人工衛星もなく正確に天気を予測する事はかなり難しい事だったのだと思う。船が危うくなった時、船長は救命胴衣着用を全員に命じた。その時、船長は部下から手わされた救命胴衣を“ありがとう”と受け取ったまま荒れ狂う海をにらんでいたと言う。その後、船長の遺体は救命胴衣を着けず双眼鏡を左手に握ったままだったらしい…最後まで船と共に逝く覚悟をしていたのだろう。
海の下を掘ってトンネルを作ると言うとんでもない発想は、この時の悔しさや憤りのエネルギーが起爆剤となって生み出されたものなのかもしれない。そして途中、何度も挫折しながら24年もの長い歳月をかけ1985年に世界1長い海底トンネルが開通。新技術の土を凍らせて掘り進める技術が開発されたのだ。確かTVのドキュメンタリーで青函トンネルを作るために津軽海峡の底を掘り抜いた男達の物語を見た事がある。とても感動した。
青函トンネル開通祝いのその日、最初にそのトンネルを歩いたのは海の底を掘った男達。その彼らの胸に抱えられていた写真は工事中に殉死した34名の仲間の写真だったという。彼らの犠牲のお蔭で北海道は私達にとって遥か遠い所ではなくなった。
昔、北島三郎の歌で“はるばる来たぜ函館 さかまく波を乗り越えて”という歌があった。以前は青森から船で4時間近くもかかって函館まで大変な船旅だったのだな〜と…
北海道新幹線開通で便利で近くなったけれどその恩恵は彼らの犠牲の延長線上にある事をけして忘れてはいけないと思った。

茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言「あれから1年・・・がんばるけん くまもとけん・・・」

開け放した窓から、空に届かんばかりの声が響き入る。それぞれの運動会練習に励む佃島小学校児童と、佃中学校生徒たちの透き通った声。先生の声に導かれるように声を発する小学生の響き、その姿や息づかいが見える気がする。また、変声期の入り口に立った中学生の掛け声は、頼もしくも甘酸っぱさを感じて笑ってしまう。このコミュニティの地理的中心部に位置する小・中学校は校舎と運動場を共有しているが、ここに生活する人々の心の真ん中にも大きく存在していると私は思う。それはあたかも地下水の湧き出る源泉の様に。あれから1年・・・そう、熊本大地震から1年が過ぎた・・・と、しみじみ思う。

雑貨屋1051号「あかずきんちゃん気をつけて」でも紹介したように、昨年の熊本大震災時、幼稚園や小中高校が閉鎖されたこともあり、熊本在住の娘と3人の子ども(私たち夫婦にとっては孫たち)は、私たちの住む佃で約ひと月半の避難生活を過ごした。その間、当時8歳だった孫娘は佃島小学校3年生のクラスに、5歳だった孫娘は月島幼稚園年長のクラスに通わせてもらえた。運動会の練習も小学校の児童や幼稚園の園児たちと一緒に仲良く練習させてもらったのだが、運動会開催前に熊本の学校・幼稚園が再開、子どもながらに複雑な気持ちで、熊本へ帰って行ったものだった。その後孫たちは、その時仲良くなったお友だちと、今でも文を交わし、再会を約束する“なかよし”でいるようだ。着の身着のまま被災地熊本から上京した孫たちは、制服もランドセルもなかったが、小学校児童や幼稚園児の家族のご支援で、何不自由なく小学校・幼稚園生活を過ごすことができた。今孫たちは、1年前を振り返り、熊本地震でも避難地でも、とても貴重な体験をしたと実感しているという。幼いながらに感じた自然への恐怖であり、助かり助けられた安らぎであり、子どもだからこそ感じ得た“しあわせ”な佃の生活だったと思う。私は、いま運動会練習に励むこの児童・生徒たちに感謝しながら、彼らの透き通った声の響きに心傾けている。

ところで、天災を受けた多くの地域がそうであるように、熊本も例外ではなく、熊本大地震によって失ったものは計り知れない。命、家族、住居、生活、仕事、歴史の証、その他もろもろ、目に見えるものも見えないものも。被害の大小・有無はあれ、生活や生き方を変えざるを得ない人は数知れない。私の友人・知人、身近な熊本県在住の多くは、廃業や破産、転業や転職、転出・転居も多い。仮に住居や職を保たれても、以前のような生活は戻らない。特に、私の身近な知人友人の中には、病魔に侵される人が増えた。特に50代から60代の疾患、しかも癌。遺伝なのか、電磁波なのか、ストレスなのか、それは誰にもわからない。でも私は、昨年から続出する友人知人の癌発生に、何らかの熊本大地震が関連していると思われて仕方がない。そして重ねて思い知らされるのは、世界レベルで発展が著しいと言われている日本医学・医療、しかし都心と地方の格差は否めないのは実情だ。医師そのものの士気の有り方、患者と医師の関係の在り方、医師の治療方針やその説明の有無、リスク管理対応等など、関東のそれとは大きな差があることを思い知らされ、絶望さえした。そして、熊本城の今の姿を見て、涙しない熊本県民はいない。それは、あの日から身に迫る数々の困難に崩れ落ちても立ち続けようとする日々、くまもと、に違いない、と私は思う。そんな中、4月22−23日、ブルーインプルスが熊本城空で航跡を描きながら復興を祈る支援イベント「飛翔祭」が行われた。晴天に恵まれたその日、多くの熊本県民は、それぞれの置かれた境遇の中で、希望を与えられたといい、余命半年と言われた癌闘病中の友人も、震災から1年、心に空が広がり希望が天に昇るようで、初めて笑ったと連絡をくれた。そして、ある友人は「この白いスモークの航跡は、福島と熊本の祈りを繋ぐものだ」と言った。あれから1年、そして、これから何年も、復興への祈りが天空に広がり続けてほしい、そんな気持ちでいっぱいだった。

さて、昨年、(上の孫娘が)佃島小学校3年生として通学していた時、両親は長崎出身だという佃島小学校在校生のお宅から「使用したランドセルだが使ってほしい」と寄贈して頂いた。赤く柔らかい皮の小型ランドセル、帰熊時に返却しようとしたら「是非、持って帰って活かしてほしい」と言われ、娘家族は持ち帰った。上の孫娘は入学時に買ってもらって使いなれている自分のランドセルが無事だったので、帰熊後はそれを使っている。同じく昨年、月島幼稚園に通わせてもらった下の孫娘は、今年の4月、小学校1年生になった。その孫娘は、新しいランドセルを買ってもらうより、佃島小学校のお友だちのお宅から頂いた、あの赤いランドセルを自分は使いたいといい、今、赤いランドセルを、嬉しそうに背負い登校している。私は、そんな孫娘が可愛くて仕方ない。この孫娘は3月生まれのせいか、同学年の中でも最前列、その小さい身体に背負うランドセルには、1年前の不安も安堵も、喜びも希望も詰まっているだろう。何よりも、この佃島の人々の祈りが詰まっているのかもしれない、教科書より重い思い出、何と素晴らしい思い出だろう。あれから1年、『がんばるけん、くまもとけん』が今や、熊本の合言葉だそうだが、我が愛する“くまもとけん”の孫娘たちも『がんばるけん』であってほしい、なにごとも・・・っと、呟く、さくらの独り言。

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

カントリーミュージックのスーパースターWillie Nelsonとジャズ界を代表するトランペッターWynton Marsalisが共演した大変珍しいアルバム"Two Men With The Blues"を紹介します。Willie Nelsonの歌声が目立ちカントリーっぽいですが楽しく聴けるアルバムです。

"Two Men With The Blues" Willie Nelson Wynton Marsalis

1-Bright Lights, Big City
2-Night Life
3-Caldonia
4-Stardust
5-Basin Street Blues
6-Georgia On My Mind
7-Rainy Day Blues
8-My Bucket's Got A Hole In It
9-Ain't Nobody's Business
10-That's All

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

 

編集後記

宮里藍選手の引退発表は驚きました。まだ31歳なのにとみんなが思ったのではないでしょうか。

メールに届いた変なファイルを開くとPCが支配されてしまい元に戻すのにお金を要求されるという問題が発生しているようです。皆さん被害に遭わないように注意しましょう。


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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1098

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com