龍翁余話(452)「晩秋の小石川後楽園」
実は、この『龍翁余話』で『小石川後楽園』を取り上げるのは2回目だ。1回目は2013年2月24日配信(267)「春の香りに誘われて」。今回は「晩秋を楽しむ」ための再訪である。
ご存知の読者も多いと思うが、念のため『小石川後楽園』の場所は、と言うと、東京都文京区後楽園、そう、あの「東京ドーム」や「後楽園遊園地」にほど近く、アクセスは都営地下鉄大江戸線の「飯田橋」から徒歩2分、JR総武線、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、丸の内線(いずれも「飯田橋」)から徒歩約10分。所々に「特別史跡・特別名勝小石川後楽園」の(小さな)看板がある。入り口の近くから園内の紅葉がチラチラ垣間見え、“秋への期待”が広がる。入園料150円(65歳以上の料金、一般は300円)を払って園内へ。この名庭園については前回の『余話』で詳しく説明したので今回は、もっぱら「深山の晩秋(紅葉)を楽しむ」ことを主眼とする。
入り口付近に「江戸時代初期の寛永6年(1629年)、水戸徳川家の祖・頼房が江戸の上屋敷の庭として造ったもので、2代藩主・光圀(黄門様)が完成させた」旨の説明版がある。
余談だが――“上屋敷”“中屋敷”“下屋敷“は時代劇によく出て来るのでご存知と思うが、“上屋敷“とは、比較的江戸城に近い場所にあって、殿様が江戸滞在中に使ったり、常時江戸暮らしの大名の家族や江戸家老、上級藩士なども屋敷内に居住していた。”中屋敷“には、成人した大名の息子や隠居した先代、その奥方などが住み、参勤交代で江戸にやって来た短・中期滞在の藩士らの宿舎としても使われた。規模は”上屋敷“や”下屋敷“より小さい。”下屋敷“とは、江戸城から離れた場所にあり、大名の別荘的な屋敷で”上屋敷“や”中屋敷“で消費される食糧や物資の集積場としても使われたそうだ。さて――
庭園巡りは(入って直ぐ左側の)『涵徳亭』(かんとくてい=食事処)の燃えるような紅葉から始まる(写真左)。小路に沿って渡月橋から『通天橋』方面へ(写真中)、『通天橋』を渡ると林の中に佇む『得仁堂』(とくじんどう=得仁とは光圀が好んだ孔子の言葉=仁を求めて仁を得る)と言う古い建物があるが、辺りには紅葉は見られないので、そこを通り越して(緩やかな)坂道を下ると『丸屋』(まろや)という茶屋風の小屋がある。その小屋に蔽いかぶさるような紅葉が更に見事、幾つかのアングルでシャッターを切った。どれもこれも捨て難く、1枚選んだ写真がこれ(写真右)だが、あとの写真にも未練たらたら・・・
『丸屋』の正面に、この庭園の中心をなす『大泉水』(だいせんすい)が広がる(写真左)。
『大泉水』の中央に、大名庭園の代表的な『蓬莱島』が浮かぶ(写真中)。『蓬莱島』とは海上(または湖上)にある仙人が住むと言われる仙境の1つ。その『蓬莱島』の林の中に建つ『弁財天』(弁天様=七福神の中の紅一点、琵琶を弾く妖艶な姿の福徳・諸芸能の神)の祠の赤と周囲の紅葉(もみじ)の競演が実に美しい(写真右)。
『大泉水』を右手に見て歩を進めると、こじんまりした『梅林』や『田圃』がある。光圀は自分の号を“梅里”と称した。それほどに彼は梅を愛し『梅林』を作った。また、光圀は農民の苦労、労働の喜びを家人に教えようと『田圃』も作った。現在でも地元・文京区内の小学生が5月に田植えをし、秋に稲刈りを行なうなどの伝統行事が続けられている。
もう1つ、翁が好きな建物がある。『大泉水』の傍に建つ『九八屋』(くはちや)と言う江戸時代の酒亭がそれだ。名前の由来は「酒は昼は九分、夜は八分にすべし、酒に限らず万事控えるを良しとする」との教訓による、と、説明版に書かれている。これらの場所は、すでに冬支度の観、紅葉が見られなかったので残念ながら素通りすることにした。
さて『晩秋を楽しむ』クライマックスは『内庭』(写真左・中)。内庭は水戸藩の書院の庭であったそうだ。池の周りを散歩しながら“光圀思想“に思いを馳せた。かねてより儒教(孔子の教え)に傾倒していた光圀は、明(みん)の儒学者・朱舜水(しゅ・しゅんすい=1600年〜1682年)を敬愛し、江戸時代初期に舜水が来日した際、光圀は舜水を招き庭園設計に参加させた。確かに園内の随所には中国的・儒教的趣向が見受けられる。また『後楽園』の名の由来は、舜水の助言により”先憂後楽“(民より先に国を憂い、民が楽しんだ後に己れが楽しむ)を基に光圀が命名したと言われている・・・と、そんなことを思い巡らせているうちに内庭回遊は終わり”晩秋を楽しむ“締めくくりは『大泉水』脇の『もみじ林』(写真右)――どこもかしこも存分に紅葉を楽しめた(満喫した)”小石川後楽園の晩秋“であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |