終戦(敗戦)の後、疎開先の両親の故郷である滋賀県から東京へ引き上げてきたのは、その年(昭和20年、1945年)の12月でした。
もともと住んでいた我が家は戦火で焼けてしまっているので、父が知り合いの厚意で借り受けた家でした。幸い学校も元の学校に入ることが出来ました。と、いっても校舎が戦災で跡形もなくなっているので、焼け残った別の学校の一部を間借りしていました。児童数は激減していても教室数が足らず、一番厳しい時は『三部授業(一日を3回に分けて授業する)だったりしました。
終戦直後の小学校低学年の頃は、食糧難で苦労した親には申し訳なかったですが、空腹の毎日であった記憶は鮮明ではあるものの、何とか生きながらえ、それはそれで楽しく遊んだ思い出が浮かびます。
家の周囲は焼け野原で、何もなく、子供たちの遊び場には不自由しない環境でした。中学生になった昭和50年(1950年)6月、朝鮮戦争が勃発、私たちの毎日の生活は一変しました。いわゆる朝鮮特需が始まり、東京下町の零細企業は一気に仕事で活気づいてきたのです。私のごく親しかった友人の家では朝鮮戦争(国連軍という名の米軍)向けの砲弾の一部を請け負っていました。
当時の私たち子供たちの夏休みはもっぱら『鉄くず拾い』に精を出しました。鉄くずを廃品業者へ持ち込むと重量により一貫目いくらで買い取ってくれたのです。
周囲はすべて焼け野原で、どこへ行っても鉄釘など、鉄くずが散乱していたので、最高の小遣い稼ぎだったのでした。したがって中学時代の初期は鉄くず拾いに明け暮れたのが夏の記憶といえそうです。
そんな夏休みの楽しみの一つに海水浴の思い出があります。学校ごとに『海の家』が指定されており、私たちは千葉県の谷津海岸へ夏休みの間に学年ごとに先生に引率されて出かけました。京成電車に乗って行く海の家は子供心に残る思い出となっています。いまではこの辺りは埋め立てが進み、立派なビル街が並んでいます。
学校で連れて行ってもらう年一回の海の家の他、我が家では何回か家族で谷津海岸へ行った記憶もあります。谷津海岸の特設ステージに有名な歌手が来て当時の流行歌を披露していました。当時最大の人気歌手だった並木路子さんが登場し、『リンゴの唄』を熱唱していたのを鮮明に記憶しています。
☆リンゴの唄(詞:サトウハチロー、曲:万城目 正)
♪ 赤いリンゴに 口唇よせて
だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど
リンゴの気持は よくわかる
リンゴ可愛(かわ)いや可愛いやリンゴ
その時、聞いた『リンゴの唄』と一緒に聞いた『麗人草の歌』という流行歌もなぜか忘れられず、以後70年、私のカラオケの持ち歌としていまだに存続し続けています。この歌は林伊佐緒さんの持ち歌でしたが、この時、林さんご本人が歌ったのかどうかは定かではありません。
☆ 麗人草の歌(詞:松村又一、曲:加藤光男)
♪ 愛の涙に やさしく濡れて
咲くが女の 命なら
なぜに散らした あの夜の風よ
いまはかえらぬ 夢哀(かな)し
河合 将介( skawai@earthlink.net ) |