龍翁余話(425)「京都(その1)・葵祭行列」
京都には『葵祭』(5月=下鴨神社と上賀茂神社の祭り)、『祇園祭』(7月=八坂神社の祭り)、『時代祭』(10月=平安神宮の祭り)と言う“三大祭り”があることは周知の通りだが、これまで翁は、どの祭りをも実際に観たことはなかった。たまたま先日、ハワイから2組の夫婦、サンフランシスコから1組の夫婦、計6人が揃って来日した。彼らはアメリカで日本人の血脈を継ぐ日系3世と4世で、当然、日本の歴史や伝統文化に強い興味と深い関心を持つ“親日家”(翁の親友)ばかり。したがって、今回の来日の主な目的の1つが京都観光、特に15日の『葵祭行列』見物であることを事前に知らされていた。そこで翁も、この際、『葵祭』の歴史や名前の由来、行列の概要などを学習した。と言っても、日本人でもなかなか理解し難い用語や意味がズラズラ。翁の英語力ではとうてい説明出来るものではないので、さてどうしたものか、と案じていたら、彼らはインターネットで『Aoi-matsuri
Festival』をプリントアウト(印刷)したものを用意していた。しかし、英訳の内容そのものが難しくて彼らには理解出来ない(とのこと)。そこで翁、“王朝用語”を“現代用語”に翻訳して“Simple
explanatory
note”(簡易説明英文)を作成し彼らに配った。彼らは感謝してくれたが、多分、それでもよくわからないだろう。何故なら、翻訳した翁自身がよく理解出来ていないのだから・・・「実際に行列を観て感じて貰いたい」が翁の精一杯の言い訳であった。読者各位にも申し上げる「今号の『余話』は写真を見て感じて貰いたい」。
行列(写真)を見ていただく前に、簡単に『葵祭』の概要に触れておこう。古墳時代後期の天皇・欽明天皇(きんめいてんのう=540年〜574年)の時、凶作に見舞われ飢餓疫病が流行したため、天皇が勅使(ちょくし=天皇の使者)を遣わし“鴨の神の祭礼”を行なったのが起源とされている。『葵祭』が下鴨・上賀茂神社の例祭であるゆえんはそこにある。
かつては“賀茂祭”と呼ばれていたが『葵祭』になったのは江戸中期からだそうだ。牛車(御所車)、勅使、供奉者(ぐぶしゃ=お供)の衣冠、牛馬に至るまで全て葵の葉と桂の小枝で飾られているのでその名になったとのこと。なお、徳川家の家紋“三つ葉葵”は、家康が上賀茂神社を崇拝していたことによる、と伝えられている。平安中期には祭りと言えば賀茂祭を指すほど隆盛を極めたが、鎌倉・室町時代には衰え、再興されたのは江戸時代中期、(前述のように)その辺から『葵祭』と呼ばれるようになったそうだ。『葵祭』の復興には、徳川幕府の多大な援助があったと言われている。明治2年の東京遷都で行列は中止されたものの明治17年には(京都活性化策として)復活、しかし大東亜戦争で再び中止、戦後、行列巡行が行なわれるようになったのは昭和28年からである。
さて、初夏の太陽が厳しさを増して来た10時30分、新緑が美しい京都御所で始まった平安貴族装束の総勢500名と牛馬40頭、長さ約800mにも及ぶ行列(路頭の儀)は御所・堺町御所を出て丸太町通り、河原町通りを巡行して下鴨神社にて休息、午後2時20分に下鴨神社を出発して下鴨本通り、洛北高校前、北大路通り、北大路橋、賀茂川堤を経由して上賀茂神社で終わる(午後3時30分)。翁たちは京都御所の広い玉砂利(御霊が宿る白い小石)の庭に胡坐をかいて見物した。その絢爛豪華な“王朝絵巻”を読者各位にお届けする。
「乗尻(のりじり)」行列を先導する騎馬隊(写真左上)、「検非違使志(けびいしのさかん」検非違使庁の役人で警備隊員(写真中上)。「検非違使尉(けびいしのじょう)」警備隊の最高責任者(写真右上)。
検非違使の志・尉ともに「調度掛(ちょうどけい)」に弓矢や鉾(両刃の長柄の武器)を持たせ(写真左)敵の襲撃に備える。下鴨・上賀の茂両神社に供える「御幣櫃(ごへいびつ)」を白丁(下級武士)に担がせて行く(写真中・右)。
「牛車(ぎっしゃ)」俗に御所車と言われ、藤の花などで飾られ牛に引かせる(写真左)。
「御馬(おうま)」走馬(そうめ)とも言われ、下鴨・上賀茂両神社の神前で走らせ、神々にご覧いただく馬(写真中)。「勅使(ちょくし)」天皇の遣いで行列中の最高位者(写真右)。
「牛童(うしわらわ)」牛車を牽く牛飼い童、童となっているが実際は成人(写真左)。「風流傘(ふりゅうがさ)大傘の上に季節の花を飾り付け、本列の結びを飾る(写真中・左)。
ここから『斎王代列』になる。斎王代とは『葵祭』の女人列の中心をなす人物で、平安から鎌倉初期には未婚の高貴な女性(皇女)が選ばれ、斎王代を務めた。近年は京都ゆかりの未婚の女性の中から選ばれ『葵祭』のほか、下鴨・上賀茂両神社の行事に、ほぼ1年間奉仕する。
御禊(みそぎ)を済ませた斎王代は、十二単の大礼服装で供奉者に担がれた輿に乗って参向する(写真左)。斎王代の御輿を先導する「命婦(みょうぶ)」高級女官の通称、祭りの際は、花傘を指し掛けられる(写真中)。葵と桂のほか桜と橘の飾りをつけた「女房車」が“葵祭行列”の締めとなる(写真右)。実は、まだまだ幾つかの行列シーン(写真)があるのだが、正直、解説がつけられないので割愛する。何しろ、翁は初めての“葵祭行列”参観だったし、内容把握が十分でなかったので、上記の説明(写真解説)が正しいのかどうか、かなり心配だが、もし、間違いがあったらご遠慮なくご指摘をいただきたい。
それでもアメリカの客人たちは、大いに感動し喜んでくれた。多少なり、それが翁の満足でもあった。同じように今号の余話『葵祭行列』が読者各位にとって多少なり楽しめていただけるなら法外の喜びである。なお「京都(その1)」とあるのは、次号は「京都(その2)」を乞うご期待、と言うことになる・・・と、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |