龍翁余話(415)「東京大空襲〜モンペ悲話〜」
3月10日は『東京大空襲の日』。平成生まれの若者や子供たちは“空襲”だの“焼夷弾”だのと言ってもピンとこないかも知れないし、実のところ、翁のような地方出身者は『東京大空襲』と言っても実体験がないので、それもまた実感が伴わない。ただ、戦前に生まれ、戦中に育ち、いろいろな場面で“戦争“を引きずりながら戦後を駆け抜けて来た昭和人間は『大東亜戦争』(太平洋戦争)とはいかなるものだったか、そして『東京大空襲』とは、の知識くらいは持っておきたいと思い、翁はこれまでに靖国神社の『遊就館』や九段下の『昭和館』その他、いくつかの“戦争資料館”で学習したりした。両国国技館や江戸東京博物館に近い墨田区横網町(よこあみちょう)公園内の『東京都慰霊堂』にも、これまでに2度参詣した。過去2回は、いずれも江戸東京博物館参観の際の“ついで参詣”だったが、先週某日に行った3回目は“慰霊のための目的参拝”であった。
71年前(1945年)の3月10日深夜0時8分、アメリカ軍B29爆撃機が東京上空に330機も飛来して焼夷弾をばら撒いた。まさに無差別爆撃だ。東京は一瞬にして地獄絵と化した。死者約10万人、消失家屋約27万戸、罹災者約100万人。これは、単一の空襲による被災としては戦史上類のない大虐殺である。その後にもまた、ヒロシマ、ナガサキで世界史上最悪の悲劇が起きたが・・・
大東亜戦争(太平洋戦争)勃発(1941年、昭和16年)ごろの東京の人口は700万人(日本全人口の1割)を数えていたが、戦争の激化に伴い“国民総決起――撃ちてし止まん”のスローガンの下、青年層は勿論のこと壮年層に至るまで兵隊にとられ、少年・少女までが“学徒動員”“女子挺身隊”として戦場や軍需工場に送り込まれた。そして都市部の(特に東京の)一般家庭においては地方へ一家疎開・集団疎開したりして東京を離れた。加えて『東京大空襲』その他の戦災で尊い命が奪われたりして、終戦の年(1945年、昭和20年)の東京人口は従来の人口700万人の約半数350万人にまで減少した。
さて、ここ『東京都慰霊堂』(写真左)は、もともとは関東大震災(1923年、大正12年9月1日発災、被災者190万人、死者・行方不明者10万5千人余)の身元不明者の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る“震災慰霊堂”として1930年(昭和5年)に創建されたものであるが、1945年(昭和20年)3月10日の『東京大空襲』の身元不明者の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀するため1951年(昭和26年)に現在の姿になった東京都の施設である。3月10日の大慰霊祭を前に(翁が訪れた日の)慰霊堂周辺は静けさを保ち、参拝者もまばら。誰もいない広々とした堂内の仏壇の前で焼香、しばし合掌して『関東大震災』『東京大空襲』の犠牲者のご冥福を祈った。ここは仏教各宗派を超えた祭祀施設であることが特徴的だ。
慰霊堂の右隣りに『平和記念碑』がある(写真中)。斜面に彫られた花は“永遠の生命”を象徴し、碑の内部(地下)には“東京大空襲犠牲者名簿”が収められている。そのまた右側に、1930年(昭和5年)に開館した『東京都復興記念館』(写真右)がる。ここもまた、当初は『関東大震災』の惨事を後世に伝え、震災の惨禍を物語る多くの遺品や資料を展示し、焦土と化した東京を復興させる願いを込めて創建されたものであるが、戦後は『東京大空襲』の関連資料も併せて保存展示している。翁(この記念館は)初めての参観だ。
翁が(『東京大空襲』で)廃墟と化した街並みの写真や刀剣など(残骸)の展示遺品を撮影していたら、突然、横から「あのう、失礼ですが」との声がかかった。見ると、ズダ袋を肩にかけた小柄な老婦人。「報道関係の方ですか?」「いえ違いますが」「あまりにご熱心に写真を撮っておられたので、てっきり・・・あのう、ちょっと、これを見ていただけますか?」ズダ袋から引っ張り出されたのは、焼けただれた縞木綿のモンペだった。翁、ふと“このお婆さん、正気だろうか?”と疑った。しかし、それは誠に失礼な“疑い”であることを直ぐに思い知らされた。「これは私の母のモンペです。突然、こんなものを見せられて驚かれたでしょう? 私の話を聞いて下さいますか?」「はい、私でよかったら」、「ありがとうございます。昭和20年3月10日、私は4歳でした。私たちは隅田川の向こうの浅草橋に住んでいました。私は祖父に連れられて防空壕へ。母は“大日本婦人会”の皆さんと防火活動へ。焼夷弾の嵐がおさまっても母は帰って来ませんでした。翌日の昼、私は祖父に連れられて母を探しに出かけました。一面焼野原と死人の山、私は恐ろしくて祖父にしがみついたままでした。どこを、どのくらい歩いたか覚えていませんが、両国橋の傍の隅田川岸に、(いつも母が着ていた)このモンペだけが引っ掛かっていたのを祖父が見つけたのです。母の姿はありませんでした。祖父は泣いていましたが、私はまだ、ちゃんとした事情がつかめず、恐ろしさばかりで泣くことも出来ませんでした。私が母の死を受け止めたのは、それから数日経ってのことでした。以来(71年間)、私はこのモンペを片時も手放したことはありません。このモンペこそが私の母なのです・・・」涙ながらに語る老婦人の話は、まだまだ延々と続くが、スペースの都合で割愛する。それにしても何故、この老婦人が翁に声をかけ、モンペ悲話を語ったのか、理屈ではとうてい説明することが出来ない不可思議な出会いであった。世の中には、まだ、戦争の傷跡を癒すことが出来ない人がいるという現実を(我々は)絶対に忘れてはいけない、そんな思いを強くさせられた出会いだった。『復興記念館』の玄関先に咲きほこるオオカンザクラ(大寒桜)(写真右)が美しくも何故か物悲しかった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |