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1034号

 

NO.1034        Ryo Onishi              3/6/2016

 weekly
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雑貨屋のひとり言

太陽光発電は自然エネルギーを利用するので二酸化炭素を排出せず環境には良いと思いますが、設置場所によっては環境破壊につながる問題があるようです。設置された太陽光パネルからの反射光が近隣の住宅にあたり、眩しいだけでなく、部屋の中が高温になって生活に支障を来たすケースもあります。山の斜面の木を伐採して、緑を台無しに、大雨を吸収できず土砂崩れを起こりやすくしています。河の護岸工事を予定していたところにパネルを設置されてしまい大雨による河川の決壊を招くなど、環境の破壊と自然災害に対して悪影響を与えているケースもあります。目先のお金儲けを最優先する事業者は後で高い代償を払うことになってしまうと思います。エゴなエネルギーてはなく、自然にも社会にも優しいエコなエネルギーを創る事業者になってもらいたいものです。≪R.O≫

 

スーパーチューズデー

 今年は閏(うるう)年で、閏年といえば夏季オリンピックが開催される年(今年はリオ・デジャネイロ開催予定)ですが、同時に米国大統領選挙が行われる年でもあります。

 米国大統領選挙は事実上、二大政党(民主党、共和党)が各州ごとに予備選挙(または党員集会)を経由して州の候補を決め、最終当選者にたどり着く、ほぼ1年がかりの大イベントです。2月からスタートし、民主・共和両党の候補者を1人に絞る「予備選挙(または党員集会)」と、11月に両党の候補者から大統領を選ぶ「本選挙(一般選挙)」とがあります。

 候補者の指名争いの予備選挙・党員集会ののうち、大きな山場となるのが『スーパーチューズデー 』と呼ばれる日で、10を超える州で実施され、その後の選挙の行方に多大の影響を及ぼすといわれます。今回は3月1日(火)がその『スーパーチューズデー 』でした。

 『スーパーチューズデー 』の結果は、民主党では、12州・地域で8勝を挙げたヒラリー・クリント ン前国務長官が指名獲得に向けて大きく前進しました。この調子で行くと、民主党はヒラリー氏が手堅く候補者として指名される可能性が出てきたといえそうです。

ヒラリー・クリント ン氏の指名獲得については、ある程度予想されていたことであり、本音ベースで私は彼女の政策に若干危惧するところがあるのですが、今後の行方を注目したいと思っています。

一方の共和党ですが、私に言わせれば「相も変わらず、またまた」ドナ ルド・トランプ氏が躍進しました。彼は今回、11州中7州で勝利し、いよいよ政治経験ゼロのトランプ氏の指名獲得が現実味を帯びだしてきました。トランプ氏がここまで勝ち続けるとは私には予想できませんでした。

国内マスコミも海外メディアも嫌悪感丸出しの報道の中で、潰されもせず、いいたい放題の発言(というより暴言)を繰り返すトランプ氏の躍進が私には信じられません。

今は選挙期間中ですし、特定の候補者に対し偏った私見を述べるのは必ずしも良くないことは承知の上で、あえていえば、ドナルド・トランプという候補者の発言は暴言以外のなにものでもありません。

これまでのトランプ発言(暴言)の中には、たとえば、「私たちの国の代表が、何が起きているのか把握できるまでイスラム教徒が米国に入国するのを全面的かつ完全に禁止することを要求する」

「メキシコが人々(移民)を送り出すとき、多くの問題を抱えた人を送ってくる。こうした人々が米国にドラッグや犯罪など問題を持ち込んでくる。彼らはレイプ犯人たちだ。一定の人たちは確かに良い人たちだが・・」

 また、日本に関しても、「日本を防衛して、米国は世界中の笑いものになっている」「もしどこかの国が日本を攻撃したら、米国がすぐに駆けつけて第三次世界大戦をおっぱじめなければならない。もし米国が攻撃されても日本には米国を守る義務はない。ともかく、これは公平には聞こえない」と言い放って平気でいるのです。とても良識ある政治家の発言とは思えません。

今回の共和党におけるトランプ氏の躍進ぶりは異常であり、『スーパーチューズデー』まで、これほど彼が大きな支持を維持し続けるとは私は予想すらしていませんでした。ここ数日の主要テレビ各社の報道を見るかぎり、共和党のトランプ陣営の熱狂ぶりは異常なほどであり、まさに大騒ぎです。アメリカという国の国際感覚からかけ離れた「ド田舎ぶり」丸出しといった感じです。

私がどんなに予想外の結果であると感じても、現時点でこれほどの熱狂さをもって多くの米国民から支持されているわけで、今のアメリカの国民感情の中に政治・経済・軍事などの格差に不平・不満を持っている人が多いことも良くあらわれています。

今後、この現象もいずれ11月までの長い道のりをかけて米国民の良識と判断により修正されることだと思いますが、民主・共和両党ともに将来に悔いを残さぬ大統領選びをしてほしく願わずにはいられません。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


立て板に酒で男も姦しい

任せろと見得を切ってる空財布

焦ることないのに欲の勇み足

チャンで呼ぶ友一人逝き二人逝き

御仏の慈顔唯物論も老い


( ニュースやぶにらみ )


「なでしこ苦境」

名前を変えてみたら −民主・維新

「聖火台なし」

間違いなくオリジナルです −東京五輪競技場

「新党名 協議難航」

なあなあでやりましょうや −政策協議

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(415)「東京大空襲〜モンペ悲話〜」

3月10日は『東京大空襲の日』。平成生まれの若者や子供たちは“空襲”だの“焼夷弾”だのと言ってもピンとこないかも知れないし、実のところ、翁のような地方出身者は『東京大空襲』と言っても実体験がないので、それもまた実感が伴わない。ただ、戦前に生まれ、戦中に育ち、いろいろな場面で“戦争“を引きずりながら戦後を駆け抜けて来た昭和人間は『大東亜戦争』(太平洋戦争)とはいかなるものだったか、そして『東京大空襲』とは、の知識くらいは持っておきたいと思い、翁はこれまでに靖国神社の『遊就館』や九段下の『昭和館』その他、いくつかの“戦争資料館”で学習したりした。両国国技館や江戸東京博物館に近い墨田区横網町(よこあみちょう)公園内の『東京都慰霊堂』にも、これまでに2度参詣した。過去2回は、いずれも江戸東京博物館参観の際の“ついで参詣”だったが、先週某日に行った3回目は“慰霊のための目的参拝”であった。

71年前(1945年)の3月10日深夜0時8分、アメリカ軍B29爆撃機が東京上空に330機も飛来して焼夷弾をばら撒いた。まさに無差別爆撃だ。東京は一瞬にして地獄絵と化した。死者約10万人、消失家屋約27万戸、罹災者約100万人。これは、単一の空襲による被災としては戦史上類のない大虐殺である。その後にもまた、ヒロシマ、ナガサキで世界史上最悪の悲劇が起きたが・・・

大東亜戦争(太平洋戦争)勃発(1941年、昭和16年)ごろの東京の人口は700万人(日本全人口の1割)を数えていたが、戦争の激化に伴い“国民総決起――撃ちてし止まん”のスローガンの下、青年層は勿論のこと壮年層に至るまで兵隊にとられ、少年・少女までが“学徒動員”“女子挺身隊”として戦場や軍需工場に送り込まれた。そして都市部の(特に東京の)一般家庭においては地方へ一家疎開・集団疎開したりして東京を離れた。加えて『東京大空襲』その他の戦災で尊い命が奪われたりして、終戦の年(1945年、昭和20年)の東京人口は従来の人口700万人の約半数350万人にまで減少した。

さて、ここ『東京都慰霊堂』(写真左)は、もともとは関東大震災(1923年、大正12年9月1日発災、被災者190万人、死者・行方不明者10万5千人余)の身元不明者の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る“震災慰霊堂”として1930年(昭和5年)に創建されたものであるが、1945年(昭和20年)3月10日の『東京大空襲』の身元不明者の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀するため1951年(昭和26年)に現在の姿になった東京都の施設である。3月10日の大慰霊祭を前に(翁が訪れた日の)慰霊堂周辺は静けさを保ち、参拝者もまばら。誰もいない広々とした堂内の仏壇の前で焼香、しばし合掌して『関東大震災』『東京大空襲』の犠牲者のご冥福を祈った。ここは仏教各宗派を超えた祭祀施設であることが特徴的だ。

慰霊堂の右隣りに『平和記念碑』がある(写真中)。斜面に彫られた花は“永遠の生命”を象徴し、碑の内部(地下)には“東京大空襲犠牲者名簿”が収められている。そのまた右側に、1930年(昭和5年)に開館した『東京都復興記念館』(写真右)がる。ここもまた、当初は『関東大震災』の惨事を後世に伝え、震災の惨禍を物語る多くの遺品や資料を展示し、焦土と化した東京を復興させる願いを込めて創建されたものであるが、戦後は『東京大空襲』の関連資料も併せて保存展示している。翁(この記念館は)初めての参観だ。

翁が(『東京大空襲』で)廃墟と化した街並みの写真や刀剣など(残骸)の展示遺品を撮影していたら、突然、横から「あのう、失礼ですが」との声がかかった。見ると、ズダ袋を肩にかけた小柄な老婦人。「報道関係の方ですか?」「いえ違いますが」「あまりにご熱心に写真を撮っておられたので、てっきり・・・あのう、ちょっと、これを見ていただけますか?」ズダ袋から引っ張り出されたのは、焼けただれた縞木綿のモンペだった。翁、ふと“このお婆さん、正気だろうか?”と疑った。しかし、それは誠に失礼な“疑い”であることを直ぐに思い知らされた。「これは私の母のモンペです。突然、こんなものを見せられて驚かれたでしょう? 私の話を聞いて下さいますか?」「はい、私でよかったら」、「ありがとうございます。昭和20年3月10日、私は4歳でした。私たちは隅田川の向こうの浅草橋に住んでいました。私は祖父に連れられて防空壕へ。母は“大日本婦人会”の皆さんと防火活動へ。焼夷弾の嵐がおさまっても母は帰って来ませんでした。翌日の昼、私は祖父に連れられて母を探しに出かけました。一面焼野原と死人の山、私は恐ろしくて祖父にしがみついたままでした。どこを、どのくらい歩いたか覚えていませんが、両国橋の傍の隅田川岸に、(いつも母が着ていた)このモンペだけが引っ掛かっていたのを祖父が見つけたのです。母の姿はありませんでした。祖父は泣いていましたが、私はまだ、ちゃんとした事情がつかめず、恐ろしさばかりで泣くことも出来ませんでした。私が母の死を受け止めたのは、それから数日経ってのことでした。以来(71年間)、私はこのモンペを片時も手放したことはありません。このモンペこそが私の母なのです・・・」涙ながらに語る老婦人の話は、まだまだ延々と続くが、スペースの都合で割愛する。それにしても何故、この老婦人が翁に声をかけ、モンペ悲話を語ったのか、理屈ではとうてい説明することが出来ない不可思議な出会いであった。世の中には、まだ、戦争の傷跡を癒すことが出来ない人がいるという現実を(我々は)絶対に忘れてはいけない、そんな思いを強くさせられた出会いだった。『復興記念館』の玄関先に咲きほこるオオカンザクラ(大寒桜)(写真右)が美しくも何故か物悲しかった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

花冷え

この所、だいぶ暖かくなって半袖やノースリーブの人を見かけるようになった。
街中を車で走っていると、あちこちにカラフルな花が咲き始めている。そんな風景を見ていると気持ちも明るくなるし街が華やかな感じだ。
ちょっとした日差しや空の色や雲一つで気分も変わる。天気や気候の変化だけでもずいぶん人の気持ちや体に影響をあたえるものだ。
朝霧 ミモザ
春の花 チャイニーズ

2月の後半は暖かいというより突然、夏日になって車のエアコンをつけた日もあった。
そんな日でも夕方は急に冷え込んだりする時もあるので外出時はジャケットが必須だ。だから冬よりも、この季節の変わり目に風邪をひいたり、体の調子が悪くなる人が多い。ようやく暖かくなって油断をした途端、やられるのだ。今頃になって私の周りでも風邪をひいている人が多い。今日オフィスにいったらスタッフの一人もダウンしてお休み中だった。
先週の早朝、マーケットに買い物に行こうと外に出たら霧で一寸先も見えない位濃い霧に包まれていた。まるで別世界に迷い込んだようで、ここが、どこだかわからないほどだった。 ふと” 花冷え ”という言葉が浮かんだ。寒暖差のある、この時期にピッタリの言葉だ。” 寒の戻り ”という言葉も、季節を良く表している言葉だ。日本では3月から4月の寒暖差のある時期を指すらしい。そう言えば桜が満開になるお花見の頃はいつも肌寒かったのを思い出す。日中は、まだしも夕方から日が落ちた後の夜桜はライトアップされて艶やかでいいけれど風が冷たい。その下でゆっくりくつろいでお酒を飲む気にはなれない。そう言えば、お酒の温度の呼び方に粋な名前がついている。燗で人肌だと35度、熱燗だと50度、冷の場合”雪冷え”が5度、そして”花冷え”が10度なのだそうだ。昨晩、母と話したら今日はだいぶ暖かく外の温度は15度ぐらいだと言っていた。お酒の冷では“涼冷え”の温度。“常温”の20度に慣れている私には、まだまだ寒い。この花冷えの季節、春の養生によると風邪をひかないように、新鮮な野菜をたっぷり摂取し体を暖めるものニラ、ニンニク、ネギや生姜なども積極的に摂るといいようだ。明日は暖かい餃子スープでも作ってみよう。
茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言「仰げば尊し」

1月は行ってしまい、2月は逃げてしまい、そして去ってしまう3月になってしまった。なんとも時の流れは隅田川のそれよりも早く、心焦るのは私だけだろうか。この時期、佃島の下町路地裏も紅白梅のかほりも高く、春遠からじと期待を抱く。「梅の花香る今日〜」という出だしがつきものの「卒業」の祝辞、送辞や答辞などが頭をよぎり、別れや旅立ちの歌や風景が心に浮かぶ。澄み渡る空を見上げながら、遠き昔の懐かしき頃、その青い時代を想い出す。今も心にしみる「仰げば尊し」・・・

この「仰げば尊し」、聞くところによると、最近の卒業式ではあまり歌われなくなったという。理由は様々らしいが、特に、歌詞の日本語が分かりにくく、曲が暗いとの理由が多いらしい。義務教育・高等教育の通算12回歌い、更に自分が教員として働いた時代にも歌ってもらった私にとって「仰げば尊し」離れは、とても寂しい気がする。私の在学時代、特に誰かが歌詞や曲想について注解してくれたことはなく、式次第にあるのが当然、送る側としても送られる側としても、この時季に繰り返し歌いつがれるこの歌に、寂しさと喜びの重なる涙がこみ上げたもの。それは自然に流れる空気、自然な心情の波、美しい春の風景だった。歌詞の持つ意味は当時の私たちにとって、日めくりを共にめくったようなもので“過ごした時と心”が解いてくれていた気がする。日本人だから“感じる”歌だと思っていた。

ところで今回は、「仰げば尊し」の歌詞ひもといて、さくら風意訳をつけてみた。
@ 仰げば尊し 我が師の恩
(見上げるほどに尊く思える 私の師のご恩)
教えの庭にも はや幾年
(この学校で学んで もう何年も経った)
思えばいと疾(と)し この年月
(思えば とても早く感じた年月だった)
今こそ別れめ いざさらば
(今お別れの時 ありがとう さようなら)

A 互いに睦し 日頃の恩
(お互いにいつも仲がよかった 友の恩
別るる後にも やよ忘るな
(別れた後も 忘れないでいようね)
身を立て名をあげ やよ励めよ
(自立して自分の名を汚さないように 頑張ろうよ)
今こそ別れめ いざさらば
(今お別れの時 ありがとう さようなら)

B 朝夕馴れにし 学びの窓
(朝夕をともに馴れ親しんだ 校舎のすべて)
蛍の灯 積む白雪
(蛍のような小さな光が 白雪のように積み重なる)
忘るる間ぞなき ゆく年月
(忘れることはないだろう 過ぎ去った年月)
今こそ別れめ いざさらば
(今お別れの時 ありがとう さようなら)

さて、近年、多くの小中学校の卒業式では、「旅立ちの日に」(1991年埼玉県秩父市立影森中学校の教員、小嶋登作曲、坂本浩美作曲)を“卒業ソング”として歌われることが多いという。歌詞の中、「未来を信じて広い大空へ飛び立とう」と繰り返えし使われている。この歌を聴き、その歌詞を読み返しつつ、時が流れ、生活スタイルや環境が変わっても、人と人との信頼、明日への希望、夢を追う力、学舎(まなびや)には今も変わらないものがある。それは、まさしく「仰げば尊し」の(歌詞の)精神と同じかな、いや、そう思いたいの・・・っと呟く、さくらの独り言。

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

あっという間に一週間が経ちます。毎週土曜日の朝はアルバム選びから始まります。今週はすでにノミネートしてあるアルバムから選ぶことにしました。たまにはギターが良いと思い、Jim Hallのアルバムを聴いたのですが、ちょっと気分に合わなかったのでつぎにサックスのPaul DesmondのPure Desmondを聴いてみました。Paul DesmondとJim Hallのコラボレーションのアルバムで、一曲目のSqueeze MeはJim Hallのギターで始まるアルバムでした。Jim HallのギターとPaul Desmondのサックスのマイルドな音が、とても聴きやすく感じるのは私だけではないと思います。

"Pure Desmond" Paul Desmond

01-Squeeze Me
02-I'm Old Fashioned
03-Nuages
04-Why Shouldn't I
05-Everything I Love
06-Warm Valley
07-Till The Clouds Roll By
08-Mean To Me

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

暖かい日が続いています。軽い服装で出かけられるのがうれしいですね。屋外にいるほうが部屋の中にいるより暖かく感じます。
近所のショッピングモールはリニューアルした店がオープンしはじめて、にぎやかさを取り戻しかけています。最近テレビでよく見る芸人が「リニューアルはすべらせません。」とPRしているのですが、本当にすべらないようにしてもらいたいと近所の住民は心から願っています。
《R.O.》


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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1034

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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