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1022号
 

NO.1022        Ryo Onishi              12/13/2015

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雑貨屋のひとり言

抗酸化力がある水素水が最近注目を浴びています。スポーツジムにも水素還元水が無料で飲めるようになっています。私はロスから帰国した時、実演販売で水素還元水の浄水器のことを知り、それをすぐに購入しました。それ以来16年、その浄水器(フィルターは毎年交換)を使ってきましたが先週、新しいものに替えました。小型になって機能もだいぶ向上しています。設置してもらったときに説明を受けて、あらためて水素水の効果を認識しました。飲み水はもちろんですがお米や野菜をこれで洗ってから食べています。野菜は食感から変わり美味しくなるので効果が確認できます。お水がとてもおいしく毎日必要な量を摂るようにしています。≪R.O≫

 

停 電

 12月8日(火)午後、我が家が突然の停電に見舞われました。私たちの住んでいるロサンゼルス郊外の住宅街(ガーデナ市)では、あまり停電は起きないのですが、市全体が100年近く古く、インフラの見直しも不十分なためか、ガス管、水道管、下水道などに不備が生じるためか、修理用の作業車をよく見かけます。

 停電騒ぎも数年に一回は発生していますが、せいぜい1または2時間程度で復旧するものでした。時々、我が家内の電気の偏使用による自家用ブレーカーのオフによるものもあったりで、基本的には安定した電気事情であったといえます。

 ところが今回の停電は午後3時ごろ突然発生し、屋外はまだ明るい時間帯でしたが、
室内の電灯が切れ、カーテンで窓を覆っていた部屋は暗くなってしまいました。急いで、窓から外の様子をうかがうと、わが家の前を走る道路をはさんで、向こう側は灯りが見えたものの、こちら側には全く灯りらしきものは消えていました。我が家のある住宅ブロック一帯にトラブルがあったようです。

 まあ、ちょっと我慢すれば元通り回復するだろうと、それほど気にもせず、居間のソファで待つことにした私と、台所で食器洗いを続けていた妻でしたが、今回は一向に回復しません。

 12月ともなり、午後5時を過ぎると、屋外は夜の景色です。我が家の前の通りの向こう側では街灯がともり、家々の灯りがともり始めました。でも、我が家の側は相変わらず真っ暗です。部屋の寒さがしみはじめてきました。

 何とかローソクの灯りで居間に踏みとどまった私たちでしたが、電灯がダメ、テレビがダメ、パソコンがダメ、冷蔵庫がダメ、ヒーターがダメ、マイクロ・ウエーブもダメ。そのうえなぜか電話回線まで通じなくなっていました。家庭内で普段、電気に頼る生活をしているか、身をもって感じます。

 この時点で普通に使えるエネルギー器具はガスのみです。真っ暗闇でいつ回復するかわからなくなってしまった状況というものは、なんとも哀れなものです。台所に保管してあったカップヌードルをガスで沸かした湯をかけ、ローソクのもとで流し込み、早々とベッドの中で回復を待つことにしました。

 寝ている間に電気が回復することを願って寒々としたベッドへ入ったものの、実は大変な心配事がありました。もし、翌朝までに電気が来なかったら我が家の車庫(ガレージ)の扉が開かないのです。明日は朝から私の透析の日で、その場合は透析センターまで歩いてゆくことになり、1時間はかかるでしょう。「どうか、今夜中に停電が回復しますように!」祈る思いでした。
 
 夜中の3時30分、パッと寝室に灯りがつきました。寝室の天井灯のスイッチをオンにしておいたのが灯ったのです。この時ばかりは安堵しました。電気のありがたさをしみじみ感じたのでした。

 今回の停電の原因について今現在、何の情報もないので、コメントのしようがありませんが、この停電を機にいろいろ考えさせられました。世界は電力の逼迫問題で揺れています。日本も原発への対応、化石燃料輸入超過にともなう赤字問題など、日本の将来を担うエネルギーに関する大問題が私たちの目の前に存在しています。

これらの大問題は決して国家レベルの問題にとどまらず、一般家庭、個人ひとりひとりの問題であることを見せつけられた思いでした。

今回の停電の影響で、我が家の冷蔵庫はとけた冷凍品の水分があふれだし、おかげで冷蔵庫の大掃除をさせられ、賞味期限切れの古い食品の整理をする結果となり、これだけは事故の前向きの成果となりました。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


愛犬のペースで今日も万歩計

トビの子のトビ 元気なら良しとする

不揃いのリンゴに母さんのタクト

完璧でないから夫婦五十年

知恵の輪が解けて頷くことばかり


( ニュースやぶにらみ )


「加工食品」

飲んだ −自民党

「下絵に別の女性説」

苦笑 −モナリザ

「教科書謝礼は組織ぐるみ」

社名を四省堂にします −三省堂


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(403)「オアフ島最古の神殿」

ハワイには、もう何十回と行っているのに、“ハワイ諸島はどうして出来たか”(形成史)、“ハワイアンはどこから来たか”(有史以前のポリネシア人渡来説“、”ハワイの古代史“
などについては、ほとんど学習したことがない。ただ、翁が少しばかり、ハワイについて(知ったかぶりを)話せるとしたら、1795年(日本は寛政7年=江戸開府から192年目)カメハメハ1世がハワイ諸島を統一、ハワイ王朝を築いて以来の近世後半史(江戸時代中期〜幕末)から近代史(明治時代〜1945年の終戦まで、特に日本人移民の歴史)そして現代(1945年以降)についてである。ハワイ王国最後の国王(第8代)リリウオカラニ女王(第7代カラカウア王の妹)の時代に、アメリカ合衆国はハワイの領土化を企み、カメハメハ王朝成立からちょうど100年目の1895年、アメリカ政府はリリウオカラニ女王を(アメリカ統治反対運動首謀者として)逮捕軟禁、これをもって事実上、ハワイ王国は滅亡したことになる。1898年にハワイ準州としてアメリカ合衆国に併合、1900年にアメリカ領となるのだが、ハワイがアメリカ合衆国50番目の州となったのは、つい56年前の(戦後の)1959年(昭和34年)のことである。余談だが、現在でも多くの人に親しまれている名曲『アロハ・オエ』は、リリウオカラニ女王の作詞・作曲によるもの。女王は逮捕・軟禁させられてから22年目の1917年、多くのハワイ人に敬愛され、惜しまれながら79歳でこの世を去った。カラカウア王、リリウオカラニ女王については、いずれかの機会に詳しく書きたい。二人とも“親日家”として知られた国王であったから・・・

さて、このたび翁、初めて“ハワイの古代”に近づこうと『オアフ島最古の神殿』を訪ねた。その名を『ウルポ・ヘイアウ』と言う。ワイキキから車で北東の海岸線(72号線)、ココヘッド、ハナウマ・ベイ、ハワイ・カイ、シーライフ・パーク、ワイマナロ湾を経て、近年、観光客に脚光を浴びているカイルアの町へ。翁、カイルアが詳しくないので現地の友人ロビン君に案内をして貰った。中心地からやや離れた住宅街にある教会とYMCAの共同駐車場に車を止めて少し歩いた所に『ハワイ州立公園ウルポ・ヘイアウ史跡』がある。

その“聖地”に足を踏み入れた途端、異様な雰囲気を感じる。(前述のように)ハワイの古代史に疎い翁には、そこはまさに“古代”。神殿跡の石垣の脇に建てられている説明板によると、5世紀ごろ、伝説の民(メネフネ)数万人が、ここから16kmも離れたノースショア方面のクアロア(翁が、たまに乗馬を楽しむクアロア牧場一帯)から石を運んで、一晩で建立した、とある。“一夜城”と言えば、豊臣秀吉の墨俣城(すのまたじょう=大垣)や石垣山城(小田原)が有名だが、事実は一晩で完成させたものではない。ところが、ここ『ウルポ・ヘイアウ』は(数万人の人手で)本当に一日一晩で造り上げたと書かれている。故に『ウルポ・ヘイアウ』は“一夜の閃きで造った神殿(寺院)”と言う意味だそうだ。

翁とロビン君の2人きりで静寂に包まれた“古代”の雰囲気に浸っていると、そこへ突然、薄汚い衣をまとった、髭もじゃの男が現れた。“聖地の案内人・ケント”を自称する老人だ。「身なりこそ貧しいが、彼は、かなりの知識人のようだ」と通訳してくれたロビン君は感心する。それでは早速その知識人・ケントさんの話をまとめてみよう。

このヘイアウ(神殿)は北極星に向けて建てられていた。その理由は(想像するに)北極星は(日周運動で)ほとんど動かず、いつも、ほぼ真北に見えることから神(王)の存在の不動性・絶対性を象徴していたのではないか。神殿の規模は長さ42m、幅54m、石垣の高さ9m。北側の湿地帯は、かつては入り江になっていて漁の出入口(漁港)、また周辺の沼地ではタロイモ等栽培の農地が広がり、今でもバナナの木やティ・リーフ(お供え物などを包む葉っぱ、日本の笹の葉に該当する)が神殿を取り囲むように随所に生い茂っている。このような環境から、神殿は豊漁・豊作祈願祭をはじめ、生贄(野豚)を捧げる儀式、また高貴な婦人の出産所としても使われていたと、と伝えられている。現在、神殿を守る有志(ハワイアン)によって年に数回、“先祖の供養祭”が行なわれているそうだ(写真右)。最後にケントさんは(翁に向かって)言った「この神殿跡に上がって歩けるのはハワイアンだけ。ハワイアン以外のアメリカ国民、外国人は入れない」翁が石垣の上を歩き回って写真を撮っていたのをケントさんは見ていたのだろう。翁は素直に「アイム・ソーリー」。

ほんの少しハワイ古代史に接しただけだが翁、ふと思った「古代人の知的能力や精神性、人間性は現代人より優れていたのではないか」と。彼らには一般的に超能力が備わっており自然と人間の調和を保ちながら常に知恵を出し合い、人間的な生活をしていた。現代人は“自然への畏敬と感謝の心”を忘れ、コンピュータに頼り過ぎて“考えること”(思考力)、“人を思うこと”(人間性)から遠ざかり、思い上がりの精神だけを増幅させた。(極端かも知れないが)そんな反省と“古代人に学ぶ心”に芽生えたのが『オアフ島最古の神殿・ウルポ・ヘイアウ』探訪の収穫であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

もんじゃ焼き

先日、友人が月島のもんじゃ焼きに招待してくれた。最近、勤め先がこの月島に変わったそうで、このあたりは、月島もんじゃ振興会協同組合があって商店街には、もんじゃ屋さんが54件も連ねてある。実はお好み焼きの歴史よりもんじゃ焼きの歴史の方が長いのだそうだ。江戸時代に寺子屋で紙がまだ貴重だった頃に出汁で薄く伸ばした小麦粉を鉄板の上で文字(もんじ)を書く練習をしていたのが始まりだとか…
以前、下町生まれの友人がもんじゃ焼きを作ってくれた事がある。その時に初めてもんじゃ焼を食べた。鉄板の上でいつまでもコネコネかき混ぜ、ドロドロになったら、小さなヘラで伸ばして、伸ばしてパリパリになるのを辛抱強く待って食べるのだが忍耐の無い私は待ちきれず、クチャクチャに丸まった半生状態のもんじゃ焼きを食べて、また食べたいとは思わなかった。熱い鉄板の上に一揆にお好み焼きの具と粉を混ぜたものを流し入れ一揆にひっくり返して一揆に食べるのに慣れていた私には、あの小さなヘラでチマチマ時間をかけて食べるという事が難しかった。
それ以来、今回のもんじゃ焼きは2度目の経験、店で食べるのは初めての経験だった。月島に到着したのは午後の3時頃、西仲通り商店街を歩いていると、流石どこも、もんじゃ屋さんばかり。その中で、とひときわ賑わっている店があったので入ってみる事にした。私達が店に入って最後のテーブルが埋まった。

最初にコート類をビニールの袋に入れてくださいと言われた。煙で匂いがつかないようにとの配慮なのだ。注文したのは、このお店のお勧め、何でも入っているミックス。具はめんたいこ、お餅、エビ、タコ、イカ、キャベツ、天かす、コーン、蕎麦、等など。最初はお店の人に焼いてもらい、次に自分達で焼いてみた。味はいいのだが、どうしてもパリパリに焼くのが難しい。やっぱり今回も半生もんじゃ焼きになってしまった。食べ終わって店の外に出ると夕暮れ時の商店街は街頭がつき始めた頃だった。勝鬨橋を渡って東京タワーを見に行こうとブラブラ散歩していたら商店街の店の前で毛布を膝にかけたお客さんがイスに座って20数人ぐらい座っているのを見かけた。看板を見るともんじゃ焼きではなく居酒屋のようだった。最前列で待っているお客さんに聞くと店はカウンターのみで20人しか入らないらしい。それで1時間前から待っているのだそうだ。何でも煮物が美味しいらしい。その人は地元の人で歩いて5−6分の所に住んでいるらしく50年前からこの店に通っていると言う。昔はこの商店街で何でも揃ったらしいが時代が変わり古い店を継ぐ人がいなくなり、だいぶこの街から店が消えていったという。その寂れていく町の活性化の為に、このもんじゃ焼きストリートが出来たようだ。昔の雰囲気と変わってしまうのは致し方ないが、地元の人が地元の店に入るのにも今は一苦労だとこぼしていた。それでもこの商店街には昭和の面影が残る、ふとん屋さんや下駄やサンダルが売っている履物屋さん、昔からのパン屋さんやお肉屋さんがあってタイムスリップをしたような感じだった。その商店街の店先で友人が“お母さんにおみやげ”と焼き芋を買ってくれた。紙で包まれた焼き芋は、ほっこり暖かく蜜が紙ににじみ出ていた。久しぶりに焼き芋の甘い匂いに触れて、とても懐かしい気持ちになった。
勝鬨橋を散歩して戻ってくると居酒屋の最前列にいた人の姿はもうなかった。そして、また次の人が10人ぐらい待っていた。次回はこの行列の人に交じって、この店の自慢の煮物を食べてみよう。そう思ってこの街を後にした。
茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言

今週はお休みです。

 

 

 

 

   

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

TSUTAYAのレンタルは各店に分散しているのでジャズアルバムはどんなに大きな店でも限界がありました。あらたなジャズが次々に探せるこの楽天のレンタルシステムはすごいと思います。楽天CDレンタルではこれまで聴いてみたかったアルバムが結構見つかります。探していたのは、数年前に通天閣の近くにある澤野工房で買ったことがあるGiovassi Mirabashiのアルバムです。
2枚も見つかりました。今日はその中の一つ"Cantpiano"を紹介します。このアルバムもソロピアノでジャズというよりクラシックを聴いているような感じがします。飽きずにずっと聴いていられるのですからすごいと思います。じっくり落ち着いて聴けるアルバムです夜、ゆったりと聴くのをお勧めします。

"Cantpiano" Giovassi Mirabashi

01-Il Venait d'Avoir Dix-Huit Ans
02-Manon
03-J'ai Pas Le Temps d'Avoir Trente Ans
04-C'Que T'es Belle
05-La Canzone Di Marinella
06-Quand Maman Reviendra
07-Cecile Ma Fille
08-La Fleur Du Large
09-Sans Titre
10-Le Chaland Qui Passe
11-Les Passantes
12-J'Aimerais Tant Savoir Comment Tu Te Reveilles
13-Si Tu Me Payes Un Verre
14-Une Ile
15-Dis Quand Reviendras-Tu?

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

我が家の壁にはクリスマスカレンダーがかかっています。トロントにいたころワイフが作ったものでそれ以来、毎年使っています。12月になると毎日、一つずつ、日付が表示された袋に入った飾り物を出して飾っていきます。今はそれを孫にしてもらっています。孫は一度に全部やりたくてしようがない様子ですが、毎日一つずつと言い聞かせてやっています。《R.O.》


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1022

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com