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1017号
 

NO.1017        Ryo Onishi              11/8/2015

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雑貨屋のひとり言

マイナンバーの通知がまだ届きません。10月からスタートされているのに11月に入っても来ないので大丈夫なのかなと思います。突然のマイナンバーの出現はこれまでまったく知らない人にとっては訳が分からないと思います。ということはほとんどの人にとってメリットは感じられないように思います。訳の分からない人がいるとそこには必ず悪い奴らが詐欺を働きます。個人情報をきちっと管理できない役所がお金にからむ個人情報を扱うのですから心配ですね。≪R.O≫

 

引退日本人H氏の旅(8)内開きのドア

H氏のロサンゼルス滞在中のある日、私たち夫婦で彼をわが家へ食事に招いたことがありました。我が家の玄関のドアを開いた私に対する彼の第一声は「ヘー、ドアは家の内側に開くんですね!」でした。

いわれてみると、確かにわが家に限らず、この周辺の家のドアは内側に向かって開く構造になっています。一般に日本では、例外も多いでしょうが、スライド・ドアでなく開くドアの場合、普通は家の内側から外の向かって開くほうが多いように思います。H氏も日本の自宅のドアが外に向かって開くので、少々勝手が違い、奇異に感じたようでした。食事の間もしばらくは“日米のドア談義”に花が咲きました。

ドアの開き方に関する日米の差の理由は、一説によると、セキュリティー面から考えられたことなのだそうです。セキュリティー重視のアメリカでは内開きのほうがドアを閉めるのに有利だからだといわれます。戦争を想定した城門は世界中ほとんどが内開きなのだとか。日本のお城の門もその例外でなく内開きにしてあるようです。

日本の住宅は古くはスライド・ドア方式でしたので、外開きとか内開きとかは関係ないのですが、本来、ドアというものは「内」と「外」を区切るものであり、外敵から内側を護るためのものです。したがって世界中どこへ行ってもスライド方式でない場合は内開きドアが標準的のようです。

近年、日本でもホテルの部屋はほとんどが内開きドアで統一されているようで、日本でも一般住宅でなく、不特定多数が出入りするところのドアは内開きです。さらにホテルのような公共施設など、特殊建築物に科せられた法規制に「建物内部からの避難方向へ開く」という原則もあるようです。

セキュリティー面で不利であるにもかかわらず、日本の場合、一般住宅のドアを外開きにしている大きな理由は建物の構造上の狭さが関係しているのではないでしょうか。広々とした玄関を作れれば問題ありませんが、土地の限られた日本では玄関はほんの靴脱ぎ場所程度のスペースしか確保できない家が多く、ドアを外開きにして、少しでも広く使おうという工夫だと思います。

H氏との“日米のドア談義”を楽しむうちに同じドアでも“日米両国の対外戦略ドア”という話題にまで発展し、特にアメリカの対外ドアについて語り合ったりしました。

第一次・第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパに変わって国際社会での覇権国となったアメリカが、USドルという機軸通貨を武器に富と権力を集中させました。以降、アメリカは世界の警察を気取り、「自由」と「正義」を旗印に対外ドアを開いてきたことになっています。ただし、はたしてそうだったのでしょうか。

アメリカ合衆国という国家が世界の覇権を握り、強いうちは確かにそのような側面がありました。しかし、多くの面で圧倒してきた覇権が崩れ、他国の面倒どころではない事態に陥りはじめています。オバマ大統領の一般教書演説をみても外交より、圧倒的に内政に重点が置かれています。

かつては世界をリードしてきたアメリカですが、いまやアメリカの対外ドアの開きはかなり狭まったといえそうです。わが日本は何かにつけてアメリカの傘のもとで生きてきましたが、そろそろ自国のドアの見直しをする必要がありそうだ、というのがこのときの結論でした。H氏もわが家のドアから国家のドアまで、多くの思いをいたしながらホテルへ戻られたようでした。
河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


ホールインワンあのけちんぼに奢られる

先生の行くパチンコは隣り町

退職後パソコンというオモチャ箱

いい客が来たと目利きの骨董屋

譲られて困る親父のコレクション


( ニュースやぶにらみ )


「夫婦別姓」

離婚同姓 −維新

「共同宣言」

未来志向、歴史認識、慰安婦 −日中韓

「日韓首脳会談後焼き肉店へ」

似ても焼いても食えるから −安倍首相


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

龍翁余話

龍翁余話(400)「400号〜格別な思い」

『龍翁余話』が400号を迎えた。約8年かかった。よくもまあ続いたものだ、と、いささかの感慨に耽る。振り返れば10年前の2005年の春、(古希を目前に控え)そろそろ“世の中のこと、自然のこと、家族のこと、友のこと、そして自分のことを自由奔放(正直)に語ってみたい、そうすることによって自分の生きざまを顧み(省み)、今の自分の”立ち位置“を確認したい、いわば自分史を綴ることによって余生の”自分探し“を試みたい――そんな思いで“気まぐれエッセイ”『龍翁の独り言』を書き始めた。『龍翁』命名の由来については、これまでにも書いたが、2代目市川猿之助が昭和37年に孫の(当時)市川団子に3代目猿之助を譲り、自らを『猿翁』と名乗った。その時、彼は「翁の文字、まだ身にそはず、衣がへ」と詠った。74歳だったと記憶する。翁が『龍翁』を名乗ったのは68歳。その時、翁は『猿翁』の句をもじって「翁とは、まだ10年先の呼び名かな」と詠んだ。

『龍翁の独り言』の当時の読者は、翁のごく身近な友人知人に限られていた。そんな時、今年7月12日に配信した『龍翁余話』(383)「祝1000号“ZAKKAYA  WEEKLY“」
(1996年5月に米国・南カリフォルニアのサウスベイで始まった“在米日本人相互の情報交換便り”)で書いたように、ZAKKAYAの執筆メンバー”さくら つぼみ“さん(ペンネーム=当時、アメリカ帰りの経営コンサルタント)からZAKKAYA執筆メンバーへの参加のお誘いを受けた。”さくら“さんを紹介してくれたのは,(これも383号で書いた)某商社米国社長をしていて帰国後間もない中條 石(ちゅうじょう いわお)さんだった。「月に1,2回の”気まぐれエッセイ”でよければ」ということでZAKKAYAの主宰者・大西良衛さん(元米国駐在員=現在、兵庫県在住)の了解を得て(執筆メンバーの)一員に加わった。そして“気まぐれエッセイ”のタイトルを『龍翁の独り言』から『龍翁余話』に変えた。“余話”だから、自由なテーマで、書きたいことを独断と偏見で吼えまくることをモットーとした。そして、その時に詠んだ句は「翁とは、我が身にそえし呼び名かな」・・・

「月に1,2回」のはずが、スタートしてからは何と、WEEKLYのペースになった。その頃から翁には時間的余裕が生まれた。というのは、古希を機に、翁は会社(映像プロダクション)経営の全権を専務(現社長)に委譲した。(と言っても、翁は代表取締役会長だから経営責任は当然継続。原則として週2回、火曜日と金曜日を出社日として社長の補佐・相談相手を務めている)。このご時世、会社は順風満帆には程遠いが、現社長の巧みな経営手腕のお蔭で何とか生き続けており、翁の個人的週間スケジュール(原則)もだいたい決まるほどの時間的余裕が出て来た。週2回の出社、週1回のシニアサークルとの定例親睦交流会、週1回のゴルフ、そして『余話』のためのネタ探し(ドライブや小旅行)〜執筆という週間サイクルが出来上がった。病気や1週間以上の旅行の場合を除き“毎週執筆・配信”が続けられ、ついに400号を迎えることが出来た。100号、200号、300号の時も、それぞれに感慨はあったが、400号は“格別な思い”で独り感慨に浸っている。(読者各位への感謝も含めて)その“格別な思い”とは――

(唐突な話題になるが・・・)最近、翁はNHK・BSの番組「にっぽん縦断こころ旅」を視るようになった。俳優・火野正平が、視聴者から寄せられた手紙を読んで、その視聴者の“こころの風景”を自転車で訪ねる、という番組。火野正平という俳優は、若い頃は“女のケツを追い回す助平野郎”で、翁は彼を毛嫌いしていたのだが、60歳の半ばを過ぎた近年は、なかなか渋みのある俳優(男)になった。元映像演出家の翁から見て、番組の中の随所にクレームをつけたい箇所があるが、そのことを差し引いても旅の先々で出会う人々との語らい、風景への感想など、火野正平の自然体でのしゃべりが何とも魅力的になって来た。(もっと、ほかに言いようはないか、とハラハラさせる場面もあるが)・・・そして何より、チャリンコ(自転車)で日本各地(街中や山道、農道・林道、海岸線など)を(多少の雨風でも)走り回るバイタリティには敬服。自転車に搭載してある小型カメラが平坦な道を走る時の彼の楽しげな表情を映し出し、火野の身体に装着しているワイヤレスマイクが、彼のご機嫌の呟き、時には鼻歌までも拾う(ハスキーな彼の歌声もけっこうイケル)。反対に、上り坂を走る時の彼の苦しげな表情と“ヒイヒイ”音、「なんで、こんなシンドイことせにゃあかんのや(関西弁)」に同情するが、目的地に辿り着いて発するセリフ「とうちゃこ(到着)」。そして(手紙を寄こした人に)「○○さん、あんたの“こころの風景”は、今、こうなっとるよ、ええ所や」との呟きで、その日の“こころ旅”は終わる。

何故、今号に火野正平を登場させたか――実はこの番組の中で時折、彼が口にする「人生、下り坂最高」と「ちょうどいい」の言葉が、翁に、いろいろなことを考えさせてくれたからだ。「人生の下り坂」が最高であろうはずはない。仕事を離れ、次第に社会から遠のき、老いて行く様(さま)を喜びとする人はいない。ならば、この言葉は、今まさに老域に入ろうとしている俳優・火野の自虐的表現であろう。あるいは彼なりに“下り坂”を謳歌する術(すべ)を探しているのかもしれない。また、それは世の高齢者への応援歌にも聞こえる。一方、「ちょうどいい」は(年齢を重ねる毎に)己れの“身の丈”を自覚するようになった火野自身の“自戒語”と解釈する。下を見過ぎず(威張らず、己惚れることも無く)、上を見過ぎず(羨まず、卑下することも無く)、あくまでも“自分は自分”の足元を見つめ、己れの領域(立ち位置)を逸脱しないという、これも火野自身の“処世学”であろう。

『余話』「400号〜格別な思い」とは、まさに(翁流解釈の)「人生、下り坂最高」「ちょうどいい」が、翁の昨今の“思い”なのだ。翁の余生訓――「下り坂」は、けっして焦らず急がず、「ちょうどいい」は“足る”を知り喜び、“感謝”の気持ちを忘れない――これから先、500号への道程はかなり苦しい“上り坂”だろうが、気力・体力・知力が持続する限り目指したい、読者各位のご声援をいただきながら・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

松陰神社

世田谷の区役所に行く時にいつも松陰神社の前を通って行く。いつも立ち寄りたいと思いつつ、今までは急ぎ足で、その前を通り過ぎていた。今回、役所が開くまで少し時間があったので今日こそは寄ってみようと鳥居をくぐって入ってみた。入ると右手に10月の吉田松陰先生の言葉が貼られてあった。昔の文体なので読んでも意味が良くわからない。漢文も古文も退屈であまり真面目に勉強してこなかったから理解力が無いのだろうか…と少し悔いる気持ちで見ていたら、もう1枚その文章の下にその言葉の意味の解説があった。”この日本国に生まれた貴方ならば、この日本国家の成り立ちのいわれや素晴らしい文化や文明を学び、その尊さを知らなければなりません。“ 吉田松陰氏が27歳の時に松下村塾の塾生の為に書いた“士規七則”の中の指針だそうだ。松陰先生のお言葉は5年前から毎月この神社の掲示板に張り出されているそうで今の所、書籍や印刷物にはなっていないそうだ。
その解説を感心しながら読んでいると私の後ろでその言葉を手帳に書き写している女性の人がいた。聞くと今年から毎月ここに来て吉田松陰先生の指針を書き写しお墓参りしているそうなのだ。その方に案内していただき私も一緒に吉田松陰先生のお墓参りをさせていただく事にした。左手にあるもう一つの鳥居をぐぐって行くとあたりの空気が変わったような気がした。静かで穏やかな空気だった。
松陰神社(正面) 松下村塾 吉田松陰(銅像)
10月の言葉 吉田松陰墓前 書き写し

”前回はここに大きな百合の花が飾られていました”とその方が説明してくれた。
現在TVで上映されている“花燃ゆ”の影響もあってこの松陰神社を訪れる人もだいぶ増えたそうだ。私のハウスオーナーも先月、吉田松陰の故郷である山口の萩を訪れたそうだ。その山口にも松陰神社と吉田松陰のお墓があったそうだが、そこには彼の御遺骨は無くこの世田谷の松陰神社のお墓に収められているそうだ。小伝馬町の処刑所で吉田松陰氏が処刑された後、彼の弟子である高杉晋作や伊藤博文達によって回向院そして松陰神社が建立されて、ここに再び、吉田松陰氏のお墓として改葬されたのだそうだ。
毎年、ここで行われる幕末維新祭りは今年24回目、今回も松陰神社通りの商店街はその当時の衣装に身をまとった若者が行列して練り歩き大盛況だったそうだ。
11月3日は日本の祝日、近くに買い物に行く時に日本の国旗がポツンと1件だけ飾られている家を見かけた。昔は日本の祝日やお正月になると日本の国旗があちこちで飾られていたのを見かけた記憶がある。何だか少し寂しいような複雑な気持ちになった。
茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言「再会@ My Huckleberry Friends 」

今週はお休みです。11月1日の昼過ぎに雑貨屋ウィークリー1016号の発行をお知らせするメールを配信したのですが、その後、一部内容を修正し、再発行しています。念のためにこの場でお知らせしておきます。 下記のURLをクリックしてください。http://www.zakkayanews.com/zw/zw1016.htm

 

 

 

 

   

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

USBフラッシュメモリに入れたJAZZを毎日聴いています。超小型のUSBメモリ(32GB)はプレーヤーのフロントパネルのUSB端子に差し込んでも目立たちません。取り付けずにどこかに置いていたら失くしそうなので注意が必要です+。
今回初めて紹介するBarney Wilenは1937年フランスニース生まれのサックス奏者です。彼のアルバムが二枚あり、どちらもいいアルバムなので迷ったのですが、1959年にパリで録音された"More From Barney At The Saint-Germain"にしました。
収録されている8曲すべてが6分以上と演奏時間が長く"Round Midnight","There'll Never Be Another You"は11分以上あります。Barney Wilenのサックスも素敵ですが、Kenny DorhamのトランペットもDuke Jordanのピアノもアルバムの価値を上げています。ライブ盤ですが録音が良く、とてもバランスのとれたアルバムだと思います。

"More From Barney At The Saint-Germain" Barney Wilen

01-The Best Things In Life Are Free
02-All The Things You Are
03-Reets And I
04-Round Midnight
05-With A Song In My Heart
06-Time On My Hands
07-There'll Never Be Another You
08-As Time Goes By

メンバー
Barney Wilen (TSax:1-3,5,7,8 SSax:4,6)
Kenny Dorham (Trumpet:1,4-8)
Duke Jordan (Piano)
Paul Rovere (Base)
Daniel Humair (Drums)
 
ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

久々にPCのケースを開けて掃除をしました。ファンにホコリが集中しているので、ファンのところに取り替えできるフィルタをつけることにしました。近所の薬局のHさんと話をしていて知った驚きのアイデアです。数か月後の効果を楽しみにしています。《R.O.》


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1017

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com