龍翁余話(386)「忘れまい!昭和20年8月の悲劇」(拡大版)
毎年、8月を迎えるたびに、この『余話』で“昭和20年8月の悲劇”を(1つずつ)取り上げてきた。今号は、その“悲劇”を時系列で纏めてみることにする。おおざっぱな纏めではあるが、我々日本国民は“昭和20年の悲劇”を絶対に忘れてはならない。そして、これら忌まわしい出来事の数々をしっかりと記憶に留め、後世に語り継がねばならない。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍機が広島市に人類史上最初の核兵器・原子爆弾を投下した。投下から43秒後、地上約600mの上空で目も眩む閃光を放って炸裂、小型の太陽にも似た灼熱の火球を作った(ピカッと光ってドンという物凄い炸裂音を轟かせたので当時“ピカドン”とも言われ、急激で大量な爆燃で“キノコ雲”発生)。その火球の中心温度は100万度Cを超え、直後に直径280mの火の玉となり、爆心地周辺の温度は3,000〜4,000度にも達した。爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線(爆風)が四方へ拡がり瞬時に約10万人、数か月以内に約16万6千人の命が奪われた、と記録されている。
昭和20年8月8日(日本時間午後11時)、ソ連(現ロシア)は突然、日本に対し宣戦を布告、翌9日午前零時に軍事行動を開始した。昭和15年(1941年)4月に締結した国際条約“日ソ中立条約(不可侵条約=1946年まで有効)”を一方的に破棄しての暴挙である。近代日本史上、これほど日本人が激怒したことはなかった。(現在では、日本領土である尖閣諸島周辺に、これまた国際ルールを無視してドブネズミ作戦を展開する中国に対して激怒しているが・・・)“ソ連軍の無法侵攻”については後で更に述べる。
昭和20年8月9日午前11時2分、長崎市に(広島に次ぐ)2回目の原爆(ピカドン)が投下された。惨状は広島と同様、市内の建物の50%が焼失、約7万4千人の命が奪われた。そればかりではない、広島・長崎の被爆者たちの、その後何十年にも及ぶ“地獄の苦しみ”はいかばかりだったか。厚生労働省の資料によると平成25年末現在の被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)は広島27,388人、長崎は3万7,574人ではあるが、(あれから)70年近くも経過すれば被爆者たちの多くが全国各地に居を移し、関東(東京・千葉・埼玉・神奈川)の1万5,971人をはじめ全国では(未だ)20万1,739人もおられるそうだ。その人たちの戦争への恨み、原爆への怒り、平和への悲願を、全ての日本人が共有しなければならないことを、改めて痛感する。
昭和20年8月14日、日本政府は“ポツダム宣言”を受託、翌15日に(昭和天皇の肉声による)玉音放送が行なわれ、国の内外に戦争終結を宣言した。玉音放送の要旨は、概ね次の通りである。【・・・私は、日本政府に対し、米、英、中、三国の共同宣言(ポツダム宣言)を受諾するよう下命した・・・そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英2国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない・・・戦局は好転せず、世界の大勢も我国に有利をもたらさず、更に敵は残虐な爆弾(原爆)を使用して無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できなくなった。このまま戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。故に私は日本政府に対しポツダム宣言を受諾するよう下命した・・・私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して謝意を述べるとともに、戦死者、殉職者、被災者、その遺族の気持ちに想いを寄せ、心を痛めている・・・今後、日本国の受けるべき苦難は並大抵のことではないが、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、誇るべき自国の不滅を信じ、正しい道を忘れずに国家再建に総力を挙げて貰いたい・・・】
“ポツダム宣言”とは、ドイツが無条件降伏をした(昭和20年5月9日)の後、同年7月17日から8月2日にかけて米・英・ソの代表がベルリン郊外のポツダム宮殿に集まり、敗戦国ドイツの取り扱い、日本への無条件降伏要求について会談を開いた。同年7月26日に米・英・中の代表の名で日本に対し“無条件降伏宣言(13ヶ条)”を突きつけた(米英支三国共同宣言とも言う=ソ連は後に追加)。その時点で日本政府はこれを拒否したものの結局は昭和天皇の御下命で(前述の通り)昭和20年8月14日“ポツダム宣言”を受託、翌15日に玉音放送が行なわれ、国の内外に戦争終結を宣言した。
ポツダム宣言が日本に要求した主な内容は@日本は軍国主義を無くすること、A日本が回復するまで連合国が日本を占領すること、B日本の領土は北海道・本州・四国・九州および周辺の島々とすること、C戦争犯罪人を処罰し、日本に民主主義を育てること、D再軍備を禁止すること・・・これらの各条項について、翁流の解説を試みる――@日本は戦後70年、世界に誇る“平和国家”としての道を歩み続けた。A昭和26年(1951年)9月8日、日本政府はサンフランシスコ条約に調印(翌年4月28日に発効)、日本は正式に国家としての全権を回復した。B日本の領土は北海道・本州・四国・九州・小笠原諸島(昭和43年6月26日返還)・沖縄(昭和47年5月15日返還)のほか、周辺の島々と言えば、当然、北方4島(択捉・国後・歯舞・色丹)も、竹島も、尖閣諸島も、その他の島嶼も全て日本固有の領土であることは国際法で認められている事実(それらの歴史的根拠については、これまでに『余話』で何回か書いたので今号は割愛する)。それをソ連(ロシア)や韓国のドロボウ猫が“平和主義国・日本”の優しさ(軟弱)に付け入って不法占拠したままになっている。C戦犯の処罰=昭和21年5月3日の開廷から昭和23年11月12日の判決までの2年6か月の歳月をかけての『東京裁判』は、国際法に基づかない(戦勝国による)復讐の儀式、茶番劇だった。戦勝国(アメリカ)は強引に“戦犯”をつくり、7人を絞首刑、(他の7人は処刑の前に獄死・病死)、16人を終身禁固刑、2人を有期禁固刑に処した。ご存知だろうか?日本の法律は“戦犯”ではなく“昭和殉難者”としていることを――
次のD再軍備の禁止、の前に、『東京裁判』が、国際法に基づく公正裁判とはほど遠く、いかに戦勝国の都合のいい“復讐劇”であったかを如実に物語る“証言”があることに触れておきたい。その証言者は誰あろう、強引に『東京裁判』を仕掛けた、あのGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)最高司令官だったマッカーサーその人である。マッカーサーは昭和26年(1951年)5月、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で次のような重大発言をした「天然資源に乏しい日本がそれらの輸入を閉ざされたら産業や安全保障の道も閉ざされる。日本が戦争に飛び込んだ動機は、まさに国家の自立・自衛のためであった」――しかし驚いたことに、これほど重大なマッカーサー証言を報じた日本のマスメディアは(翁の記憶の中には)皆無なのである。
話を戻す。ポツダム宣言でD再軍備の禁止が謳われたが、急激な時代の変化が日本に“防衛力”を求め始めた。昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が始まり在日米軍の主力が国連軍として朝鮮半島に赴く事態となり、日本国内の治安維持に不安が生じたことから政府は同年8月に『警察予備隊』を創設した。これが現在の『自衛隊』(防衛省)の出発点である。なお、この項については、いずれかの機会に詳しく述べることにする。
さて、日本人が最高に激怒した“ソ連軍の一方的日本侵攻”を再度取り上げる。(前述のように)昭和20年8月8日、ソ連(現ロシア)は“日ソ不可侵条約”を一方的に破棄し、突然、日本に対し宣戦を布告、翌9日午前零時に軍事行動を開始した。8月15日に日本が“終戦宣言”をしたにもかかわらず、ソ連は滅茶苦茶な侵攻・蛮行を続け(それまで日本領だった)南樺太、北千島、(現在もなお日本固有の領土である)択捉・国後・色丹・歯舞の北方4島を占領(略奪)して9月5日にようやく終了させた。その間(世界的に悪評高い)最悪の非人・非道の獣行為を繰り返して来たソ連兵は婦女暴行、金品強奪、無抵抗の日本人数万人を虐殺・・・南樺太(サハリン)の真岡郵便電信局で9人の乙女(電話交換手)たちは、目前に迫って来たソ連兵の魔手に墜ちまいと、本国に対し「これが最後の通信です。皆さん、さようなら」の声を残して青酸カリで集団自決した(昭和20年8月20日)。そのことは『龍翁余話』(43)「哀し!9人の乙女」(2008年8月10日配信)に詳しく書いている。これらの歴史的事実は(翁の偏見かもしれないが)左翼系のマスコミや文化人、教育現場(日教組)に無視され続けてきたので、この超重大な事件を知らない日本人がやたらと多いのは遺憾(憤怒)極まりない。故に翁、今日もなおソ連(現ロシア)を“無法者・卑怯者のドロボウ猫”と蔑み、折々の政権が、いかに猫なで声で接してきても絶対に警戒の手を緩めるな、と吼え続けている理由はそこにある。(ドブネズミ行為を繰り返す中国政府に対しても同様である)。
“昭和20年8月の悲劇”を絶対に忘れてはならないと同時に今、騒がしい“安保法”関連法案が、日本の領土・領海の保全、国民の安泰、そして本当に世界平和への積極的貢献に繋がるのかどうか、しっかりと見極めなければ・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |