weekly

1003号
 

NO.1003        Ryo Onishi              8/2/2015

 weekly
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雑貨屋のひとり言

水曜日、定期検診を受けるために病院に行きました。二つの病院が統合されオープンしたばかりの総合医療センターです。そこは家から歩いても20分くらいの距離なのですが、この暑さの中では歩く気がしないのでバスで行きました。予想どおり再診受付では戸惑っている人で混雑していました。受付を済まして採血室に行くと、これまでの混雑が嘘みたいにほとんど待たずに済みました。患者の数が増えているのに大幅な時間短縮が(なぜ短縮できているのかよくわかりませんが)できていることに驚きました。診察を待っている間、建物の中を見て廻りました。一階の中央部に日本庭園のような空間としゃれたカフェがあり病院のイメージが大きく変わりました。
診察の時間が来ると呼出受信機で知らせてくれるのですが、相変わらず予約の時間どおりではありませんでした。建物内に時計が見当たらないのは待たされていることを感じさせないようにしているからでしょうか。高度な最新医療設備が揃った病院ですができたらお世話にならないようにしたいと思います。≪R.O≫

 

アメリカへ来て30年になりました

――― 30年間の仕事以外の備忘録(6)海外ロングステイ運動 ―――
(前号からの続き)
企業定年により時間が出来、もう一つ、それまで考えていたことも始めました。それは当時、日本で関心が芽生えていた「海外ロングステイ運動」との交流です。

定年引退直後に日本へ行ったとき、海外生活関係での本から知った「海外ロングステイ」に興味を持ち、その本から所在を確認して東京・港区の「財団法人・ロングステイ財団」を訪れ、会員登録しました。通常、ここの会員は日本人で海外へ長期滞在を希望する人のためのものなのですが、私の場合、ロサンゼルスという海外にいてそのサポートをしようと思ったからでした。

はじめのうちはこの財団を通して日本各地のグループと交流しました。日本国内のいくつものロングステイ同好会とも情報交換をしました。2001年6月、ロングステイ湘南主催の海外ロングステイ・シンポジュームが神奈川県藤沢市湘南台文化センターで開催され、私も講師の一人として参加しました。私の他、オーストラリア、ニュージーランド、ロタ島(北マリアナ諸島)などからの講師陣とロサンゼルス希望の日本人とのシンポジュームでした。

参加費有料(一人500円)にも関わらず、会場には 300人を遥かに越す人が集まり、熱心に我々パネリストの話に耳を傾け、また質問も真剣で活発だったのには驚きでした。そして翌日の朝日新聞、読売新聞(但し、湘南地方版ですが)にも写真入の記事になって大きく報じられており、改めて『海外ロングステイ』に対する急速な関心の高まりに私のほうがびっくりしました。

また、私が年に一度日本へ行けた時代には各地(神奈川、仙台など)のグループの会員の皆さんとオフミ(オフミーティング)と称する集会にも顔を出させていただきました。
    
日本からロングステイ会員がロサンゼルスを調査に来られたりすると案内役として喜ばれました。また私のほうから「ロサンゼルス便り」というタイトルでこれらのみなさんへこちらの情報を送りました。「ロサンゼルス便り」は2006年10月まで300号までは発信しました。

 日本が経済的に豊かになり、若い層だけでなくシニア年齢層にもゆとりある人たちが増加するにつれ、最近、「海外ロングステイ」を現実のものとして考える人たちが増えているようです。以前から日本人のロングステイ人気国として挙げられているのはマレーシアで、私の友人・知人の中にも引退後はマレーシアに移住した人がいます。
マレーシアは10年間の滞在が可能なビザ「マレーシア・マイ・セカンドホーム(MM2H)」制度を設け、長期滞在者の受け入れに積極的に取り組んでいる。加えて、気候が穏やかで治安もよく、医療水準も高いことなどから安定した人気を保っているようです。その他で人気のロングステイ滞在先はタイ、ハワイ、カナダといわれています。

「海外ロングステイ運動」への支援活動は私のライフワークの一つとして力を注いでいたのですが、これも病気、手術などに伴う体調不良のため、現在は一時停止のやむなきやむなきにいたっています。
―― 次号へ続く ―― 

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


その先のまさかを知らぬ王手飛車

練り上げた策に想定外の乱

飲みこんで見たが小骨が引っ掛かり

火種まだ残したままでした握手

往年の策士 時流の外で吠え


( ニュースやぶにらみ )


「経営統合へ」

水と油ではありません −出光、昭和シェル

「お詫びセール」

ロッテもやるかな −大塚家具

「競技場そしてエンブレム」

うまく繋がらないなあ −五つの輪


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(386)「忘れまい!昭和20年8月の悲劇」(拡大版)

毎年、8月を迎えるたびに、この『余話』で“昭和20年8月の悲劇”を(1つずつ)取り上げてきた。今号は、その“悲劇”を時系列で纏めてみることにする。おおざっぱな纏めではあるが、我々日本国民は“昭和20年の悲劇”を絶対に忘れてはならない。そして、これら忌まわしい出来事の数々をしっかりと記憶に留め、後世に語り継がねばならない。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍機が広島市に人類史上最初の核兵器・原子爆弾を投下した。投下から43秒後、地上約600mの上空で目も眩む閃光を放って炸裂、小型の太陽にも似た灼熱の火球を作った(ピカッと光ってドンという物凄い炸裂音を轟かせたので当時“ピカドン”とも言われ、急激で大量な爆燃で“キノコ雲”発生)。その火球の中心温度は100万度Cを超え、直後に直径280mの火の玉となり、爆心地周辺の温度は3,000〜4,000度にも達した。爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線(爆風)が四方へ拡がり瞬時に約10万人、数か月以内に約16万6千人の命が奪われた、と記録されている。
昭和20年8月8日(日本時間午後11時)、ソ連(現ロシア)は突然、日本に対し宣戦を布告、翌9日午前零時に軍事行動を開始した。昭和15年(1941年)4月に締結した国際条約“日ソ中立条約(不可侵条約=1946年まで有効)”を一方的に破棄しての暴挙である。近代日本史上、これほど日本人が激怒したことはなかった。(現在では、日本領土である尖閣諸島周辺に、これまた国際ルールを無視してドブネズミ作戦を展開する中国に対して激怒しているが・・・)“ソ連軍の無法侵攻”については後で更に述べる。
昭和20年8月9日午前11時2分、長崎市に(広島に次ぐ)2回目の原爆(ピカドン)が投下された。惨状は広島と同様、市内の建物の50%が焼失、約7万4千人の命が奪われた。そればかりではない、広島・長崎の被爆者たちの、その後何十年にも及ぶ“地獄の苦しみ”はいかばかりだったか。厚生労働省の資料によると平成25年末現在の被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)は広島27,388人、長崎は3万7,574人ではあるが、(あれから)70年近くも経過すれば被爆者たちの多くが全国各地に居を移し、関東(東京・千葉・埼玉・神奈川)の1万5,971人をはじめ全国では(未だ)20万1,739人もおられるそうだ。その人たちの戦争への恨み、原爆への怒り、平和への悲願を、全ての日本人が共有しなければならないことを、改めて痛感する。
昭和20年8月14日、日本政府は“ポツダム宣言”を受託、翌15日に(昭和天皇の肉声による)玉音放送が行なわれ、国の内外に戦争終結を宣言した。玉音放送の要旨は、概ね次の通りである。【・・・私は、日本政府に対し、米、英、中、三国の共同宣言(ポツダム宣言)を受諾するよう下命した・・・そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英2国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない・・・戦局は好転せず、世界の大勢も我国に有利をもたらさず、更に敵は残虐な爆弾(原爆)を使用して無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できなくなった。このまま戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。故に私は日本政府に対しポツダム宣言を受諾するよう下命した・・・私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して謝意を述べるとともに、戦死者、殉職者、被災者、その遺族の気持ちに想いを寄せ、心を痛めている・・・今後、日本国の受けるべき苦難は並大抵のことではないが、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、誇るべき自国の不滅を信じ、正しい道を忘れずに国家再建に総力を挙げて貰いたい・・・】
“ポツダム宣言”とは、ドイツが無条件降伏をした(昭和20年5月9日)の後、同年7月17日から8月2日にかけて米・英・ソの代表がベルリン郊外のポツダム宮殿に集まり、敗戦国ドイツの取り扱い、日本への無条件降伏要求について会談を開いた。同年7月26日に米・英・中の代表の名で日本に対し“無条件降伏宣言(13ヶ条)”を突きつけた(米英支三国共同宣言とも言う=ソ連は後に追加)。その時点で日本政府はこれを拒否したものの結局は昭和天皇の御下命で(前述の通り)昭和20年8月14日“ポツダム宣言”を受託、翌15日に玉音放送が行なわれ、国の内外に戦争終結を宣言した。
ポツダム宣言が日本に要求した主な内容は@日本は軍国主義を無くすること、A日本が回復するまで連合国が日本を占領すること、B日本の領土は北海道・本州・四国・九州および周辺の島々とすること、C戦争犯罪人を処罰し、日本に民主主義を育てること、D再軍備を禁止すること・・・これらの各条項について、翁流の解説を試みる――@日本は戦後70年、世界に誇る“平和国家”としての道を歩み続けた。A昭和26年(1951年)9月8日、日本政府はサンフランシスコ条約に調印(翌年4月28日に発効)、日本は正式に国家としての全権を回復した。B日本の領土は北海道・本州・四国・九州・小笠原諸島(昭和43年6月26日返還)・沖縄(昭和47年5月15日返還)のほか、周辺の島々と言えば、当然、北方4島(択捉・国後・歯舞・色丹)も、竹島も、尖閣諸島も、その他の島嶼も全て日本固有の領土であることは国際法で認められている事実(それらの歴史的根拠については、これまでに『余話』で何回か書いたので今号は割愛する)。それをソ連(ロシア)や韓国のドロボウ猫が“平和主義国・日本”の優しさ(軟弱)に付け入って不法占拠したままになっている。C戦犯の処罰=昭和21年5月3日の開廷から昭和23年11月12日の判決までの2年6か月の歳月をかけての『東京裁判』は、国際法に基づかない(戦勝国による)復讐の儀式、茶番劇だった。戦勝国(アメリカ)は強引に“戦犯”をつくり、7人を絞首刑、(他の7人は処刑の前に獄死・病死)、16人を終身禁固刑、2人を有期禁固刑に処した。ご存知だろうか?日本の法律は“戦犯”ではなく“昭和殉難者”としていることを――
次のD再軍備の禁止、の前に、『東京裁判』が、国際法に基づく公正裁判とはほど遠く、いかに戦勝国の都合のいい“復讐劇”であったかを如実に物語る“証言”があることに触れておきたい。その証言者は誰あろう、強引に『東京裁判』を仕掛けた、あのGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)最高司令官だったマッカーサーその人である。マッカーサーは昭和26年(1951年)5月、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で次のような重大発言をした「天然資源に乏しい日本がそれらの輸入を閉ざされたら産業や安全保障の道も閉ざされる。日本が戦争に飛び込んだ動機は、まさに国家の自立・自衛のためであった」――しかし驚いたことに、これほど重大なマッカーサー証言を報じた日本のマスメディアは(翁の記憶の中には)皆無なのである。
話を戻す。ポツダム宣言でD再軍備の禁止が謳われたが、急激な時代の変化が日本に“防衛力”を求め始めた。昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が始まり在日米軍の主力が国連軍として朝鮮半島に赴く事態となり、日本国内の治安維持に不安が生じたことから政府は同年8月に『警察予備隊』を創設した。これが現在の『自衛隊』(防衛省)の出発点である。なお、この項については、いずれかの機会に詳しく述べることにする。
さて、日本人が最高に激怒した“ソ連軍の一方的日本侵攻”を再度取り上げる。(前述のように)昭和20年8月8日、ソ連(現ロシア)は“日ソ不可侵条約”を一方的に破棄し、突然、日本に対し宣戦を布告、翌9日午前零時に軍事行動を開始した。8月15日に日本が“終戦宣言”をしたにもかかわらず、ソ連は滅茶苦茶な侵攻・蛮行を続け(それまで日本領だった)南樺太、北千島、(現在もなお日本固有の領土である)択捉・国後・色丹・歯舞の北方4島を占領(略奪)して9月5日にようやく終了させた。その間(世界的に悪評高い)最悪の非人・非道の獣行為を繰り返して来たソ連兵は婦女暴行、金品強奪、無抵抗の日本人数万人を虐殺・・・南樺太(サハリン)の真岡郵便電信局で9人の乙女(電話交換手)たちは、目前に迫って来たソ連兵の魔手に墜ちまいと、本国に対し「これが最後の通信です。皆さん、さようなら」の声を残して青酸カリで集団自決した(昭和20年8月20日)。そのことは『龍翁余話』(43)「哀し!9人の乙女」(2008年8月10日配信)に詳しく書いている。これらの歴史的事実は(翁の偏見かもしれないが)左翼系のマスコミや文化人、教育現場(日教組)に無視され続けてきたので、この超重大な事件を知らない日本人がやたらと多いのは遺憾(憤怒)極まりない。故に翁、今日もなおソ連(現ロシア)を“無法者・卑怯者のドロボウ猫”と蔑み、折々の政権が、いかに猫なで声で接してきても絶対に警戒の手を緩めるな、と吼え続けている理由はそこにある。(ドブネズミ行為を繰り返す中国政府に対しても同様である)。
“昭和20年8月の悲劇”を絶対に忘れてはならないと同時に今、騒がしい“安保法”関連法案が、日本の領土・領海の保全、国民の安泰、そして本当に世界平和への積極的貢献に繋がるのかどうか、しっかりと見極めなければ・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

世界のブレンドスパイス(東南アジア編)

今回はインドネシアやマレーシアで常備ソースとしてよく使われているサンバルというチリソースについてご紹介。サンバルという言葉はインドネシア語でジャワ島やバリ島、マレーシアなどの南国地帯で昔から使われてきた唐辛子入りの万能調味料なのだそうだ。
あまり、まだ日本ではサンバルという名前は馴染が無いかもしれない。サンバルは知らなくてもナシゴレン(マレーシアの焼き飯料理で目玉焼きが上にのっている)やサテ(串焼き料理)は食べた事があるという人もいると思う。その料理に使われているのがこのサンバルというスパイス調味料なのだ。ちょうど日本で言えばラー油と唐辛子の味付け調味料が一時流行った時があったけれどあんな感じなのかもしれない。先日、行きつけのトレーダージョーズのマーケットでこのインドネシアの万能辛味調味料がビンで売られていた。
 
サテチキン、ビーフ サンバル
ナシゴレン マレーシア料理レストラン

最初にこのサテを食べた時には日本の焼き鳥みたいだな〜と思ったけれど串がやたらと長いのが印象的だった。なんでも、このサテという串焼き料理は昔アラビア半島に住んでいた人が移住してきて広がったという説もあるようだ。そう言えば以前、イラン人の人にランチを招待されて長い刀のようなものに肉を刺した本格的なシシカバブをご馳走になった事があるがそういう名残があるのかもしれない。このインドネシアのサンバルのレシピを見てみるとやはり少しずつ入れる材料や分量が微妙に違う。魚料理やチキンやビーフに寄っても付け加えるものが変わってくるようだ。
基本的なインドネシアのサンバルのレシピを見てみると
唐辛子4つぐらい(種を取る)、トマト 1個、にんにく1かけ、玉ねぎ1/4をミキサーにかけフライパンで油炒めする。そこにナンプラー(あるいはエビを発酵させた調味料)適量塩、レモン汁(もしくはライムや酢)、砂糖2−3杯、味の素や胡椒などを入れる。
其々の家庭によっても味付けは変わってくるので後は好みで自分の好きなサンバルを常備ソースとして作り置きするのもいい。
そう言えば、以前行ったことのあるレストランで美味しいマレーシア料理を食べさせてくれる所があった。あの甘辛かったり甘辛くて酢の効いたさっぱりした料理は中国料理とまた違って油が控えめで日本人には馴染やすい味だ。
確かあの店は190Street沿いにあったな〜と用事のついでに今日はその店に行ってみようと立ち寄ってみたら、すでに違う店に変わっていて残念だった。また一つ楽しみが減ってしまった。

茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言「風の鈴」

例年より遅くなると予報された関東甲信越の梅雨明けは、逆に2日早い7月19日、同時に猛暑も到来、台風一過の影響だという。公立小中学校の児童生徒が夏休みに突入するこの時期に重なった梅雨明けは、“いよいよ夏を満喫しようか!”と、こどもの元気をもらえそうな気持になる。我が家に隣接する小中学校2つのプールから、こどもたちの、天にまで届くような明るい声が風になって、町中に響き渡る。その昔はそんなこどもだっただろう今はおとなの人々の住む佃島の路地脇から、人が憂いを感じるような風鈴の音(ね)も響き、心に涼が流れる。時を超え風が運ぶものを、熱く、そして静かに楽しむ夏の始まり。

幼い頃から始めた趣味の一つに、鈴収集があった。造りも色形も全く同じでも、その音色はどれ一つ同じものがない。人間と同じく鈴の音も”十人十色”、そう感じたことが収集の始まり、“おませな少女”だったのかもしれない。また、梅雨が明けると軒下に風鈴を吊るすことを好んだ父の影響だったのかもしれない。そして、組んだ竿に様々な風鈴をぶら下げて担ぎ「ふぅ〜りん、ふうりん」と美声で売り歩く“風鈴売り“も夏の風物詩の一つ。
私とっさには家の外へ走りだし、”風鈴売りの美声に聴き入ったものだ。心で感じる涼しさ、清さ、空しさ、脆さ、不思議な夏の色と音だった。あれから随分と経った今、自分の住む佃の町に、自分の故郷と変わらない風鈴売りのオジサンや兄さんがやってくる。「ふぅ〜りん、ふうりん」、佃の島に涼風が通り過ぎていく瞬間だ。

ところで、そんな涼しい佃の島に、熱く燃える時がやってきた。3年に一度の“佃住吉神社の大祭(本祭り)”がそれだ。住吉神社の例祭は毎年、8月6日と7日の2日間だが、今年の“佃住吉神社の本祭り“は、7月31日から8月3日までの4日間。しかし、佃島住民でいう”佃の祭り”とは、この4日間をピークとした、大幟柱を掘り起こす7月5日から、それを埋め戻す8月16日までを指す。この大幟柱は、柱や抱木(だき)が空気に触れて腐らないよう、隅田川の引き込み水路(船溜まり)に架けられた佃小橋下の川底に埋めて保存され、これも江戸時代からの決まりごとだときく。7月26日、江戸時代に城からも観えたという高さ20メートルの大幟柱6本が、佃島の随所に立てられてから、“祭り”の雰囲気は次第に高まる。8月1日の揃浴衣の男衆による獅子頭や八角御神輿の宮出し、2日の隅田川の船渡御祭など、まさに、江戸幕府に許可された由緒ある“お・ま・つ・り”の風が、形になって佃島を染める。御神輿担ぎの掛け声が“わっしょい・わっしょい”ではなく、“おりゃ・おりゃ”なのも粋なもの。佃島がこの最も盛り上がりに染まる4日間、1日24時間、休まず響き渡るのが、佃囃子。江戸三大(葛西・神田・佃)囃子のひとつに数えられる佃囃子は、大太鼓が波音を、千烏笛が海の鳥を表現しているといい、交代しながら生のお囃子を奏でてくれる。このお囃子を朝も夜も聴いていると、島中に吹く様々な風の音に歴史が蘇るのか、心がすこぶる昂る様な、しかし和み安らぐような、思わず走り出すような、更に舞いを舞うような、なにかに酔いしれる島人になってしまうから、あら不思議。

この“さくらの独り言”が読まれる8月2日頃は、佃島も私も、熱い祭りの真っ最中。猛暑の中でも、昔集めて捨てた鈴のように、昔心和らいだ風鈴のように、また、気持ひとつにされる神輿の掛け声のように、そして潮風を思うお囃子のように、みなの心に潔い涼風が届きますように。そして、私もまたきっと、きっと、次の大祭もあずかられますように、っと呟く、さくらの独り言。

 

三浦半島松輪でのアジ釣り

私の趣味に一つが魚釣りである。最近は余り釣れないことが多く落胆気味でした。
つい3週間ほど前には静岡県下田市須崎へ、イサキを狙い出船するもわずか6匹、翌日は、川奈沖で目鯛、のど黒、鬼カサゴを狙うがほぼ坊主状態。坊主というのは釣れなかったという事。

釣りは天候、海の状況(水温、潮の流れ、にごり等)が大きく釣果に作用することは言うまでもない。

最も嫌うのは風。風が強く吹くと波が出ること。

今日、7月31日早朝3時過ぎ起床、高鳴る気分を押さえながら一路、埼玉県さいたま市から東京都内を抜け神奈川県三崎市松輪の船宿一義丸へ距離100q、1時間半ほどのドライブ。釣り宿の事務所で乗船名簿に名前を記載し、大型遊漁船に乗船。

早速準備開始。席は船左舷前から2席目。

両脇のお隣さんに挨拶、釣りの準備開始。

ロッドキーパーという釣竿を固定する道具を船べりに固定。1.8?程の竿に電動リールを装着。

仕掛けはというと天秤といわれる固い針金でできた金具に呼び餌を入れる重い130号のおもりの付いたこませ籠を装着、もう一方にほどの細い糸に3本ハリ。

ここ1週間ほど爆釣が続いており大いに期待。港を6時少し前に松輪港を出船。

空は曇天でこのまま続いてくれることを願う。12名ほどが乗船した船は行程15分ほど沖合に走り一斉に船長の合図で竿を下ろす。

エサは赤たんと呼ばれるもので、赤く染めたイカを3ミリほどに小さく切っもの。

底から3メートル程上を鯵の群れは泳いでいるので海底まで一気に80メートル程糸を送り出し、電動リールのレバーを3,4回巻き、大きく竿を2回ほど振って、またリールのレバーを2,3回転させ、こませ籠の中のイワシのミンチの呼び餌の煙幕を作り、その中に赤たん付きのハリが入る様するのです。

下ろして10秒もするかどうか竿先に大きな反応。2匹目、3匹目の狙い追い食いをさせるべく誘うとその気配。

電動リールのスイッチオン。自動的に5メートルほど手前で巻き上げ停止。天秤をつかみ取り込み、30から35センチほどの大きな鯵が2匹。この繰り返しで35度にもなろうかという気温の中午後12時半まで集中。

竿を何十回と下ろしましたが釣れないで糸を巻き上げたのはわずか3,4回。

釣った魚は友人達数名に差し上げましたが大よそ90匹ほど釣りました。

アジ釣りでは今まででの記録。外道に超ブランドのサバが数匹という一日でした。

来週も挑戦すべく三浦半島釣行に参ります。

最近は釣り道具の性能が大きく向上しており目をみはるばかり。

下記のURLはご参考まで…。

http://niftsuri.cocolog-nifty.com/premium/2013/07/post-5697.html

http://www.turiyado.com/report.asp?cid=kazuyoshi

中條 石(いわお)

 

 

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

チェコ出身のEmil Viklickyのピアノジャズアルバムです。チェコ出身の音楽家ヤナーチェクの楽曲とEmil Viklickyのオリジナル曲から構成された、かれのデビューアルバムです。
このアルバムを初めて聴いたとき、とても質の高いピアノジャズだと思いました。すばらしいアルバムに出会え喜んでいます。どの曲も聴きごたえのあるアルバムに仕上がっています。
"Sinfonetta"は村上春樹の小説「IQ84」のオープニングに登場するヤナーチェクの曲がジャズピアノで表現されています。フィルハーモニア管弦楽団のシンフォニーも聴いてみましたが私にはジャズピアノの方が受け入れやすいと思いました。


"Sinfonietta" Emil Viklicky Trio

01-The Forlorn Peach Tree
02-When I Walked
03-A Bird Flew Over
04-Gone With Water
05-In The Mists
06-Touha(Desire)
07-My Lover is Leaving Me
08-Fanoshu
09-Sweet Basil
10-She Was Walking Meadow
11-Jenufa Act2.Scene 8
12-Sinfonietta

Emil Viklicky piano
George Mraz bass
Lewis Nash drums
Laco Tropp drums(on Sinfonietta)

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

朝からムッとした暑さで、早く目が覚めます。去年もこんなに暑かったかなあとつい考えてしまいます。
近くのショッピングセンターの入り口付近には10時の開店を待つ人が結構います。高齢の方が多いようです。本日のセール品を買いに来ているのか、単に涼を求めて来ているのか知りませんが開店前から待つ方が暑いような気がします。《R.O.》



雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1003

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com