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1002号
 

NO.1002         Ryo Onishi              7/26/2015

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雑貨屋のひとり言

夏は服装が身軽なのはいいのですが、ちょっと動くだけで汗びっしょりになるのがつらいです。会社勤めの人は通勤時、とくにそう感じていると思います。これとは反対に寒い冬は朝起きるのもつらいし、コートを着て寒さに震えながら出かけるので、夏のほうが気軽でいいなあと思うものです。しかし四季がある日本だからそれぞれの季節で楽しめることがいっぱいあります。その時折の季節を楽しみながら暮らすのが一番です。そのためにはどんな季節にでも対応できる身体づくりが大事ですね。≪R.O≫

 

アメリカへ来て30年になりました

――― 30年間の仕事以外の備忘録(5)在外投票制度、詩吟、磁針など ―――
(757号からの続き)
30年の滞米生活で、もう一つ思い出深いのが「在外邦人の在外投票制度の実現」です。私たちはこの運動を通じて、署名運動、政府・国会への請願、日本弁護士連合会へ人権救済申し立て、裁判所への違憲訴訟、などを行い、またその後世界各国の有志との連携でワールドワイドなネットワークもつくり活動しました。その結果、運動開始から5年後の1998年4月に公職選挙法改正案が衆参両院で可決成立しました。そして私たち海外在留邦人も2000年6月の衆議院選挙から投票出来るようになったのです。

それでも、このとき認められたのは衆参両院選挙ともに比例区のみであり、まだ選挙区選挙への投票は認められませんでした。これではまだ憲法で認められた国民平等な参政権に違反する状態であり、私たちはこの違憲(憲法違反)状態をただすため原告団を結成し裁判所へ違憲を訴えました。

そして2005年9月、最高裁判所大法廷は私たち原告団(13名)の訴えを全面的に認め、在外投票を比例代表選のみに制限することは違憲とする旨の歴史的判決を下し、翌日の日本の主要新聞は全紙とも1面トップ扱いで報じました。そして、それにもとづき日本の国会も公職選挙法を改正し、そしてその改正公職選挙法による初めての選挙が2007年の参議院議員選挙でした。

在外投票制度の実現についてはこの運動に参加したメンバーで分担執筆し、途中経過を一冊の書籍にまとめました。(『海外から一票を――在外投票運動の航跡』明石書店刊、2004年10月発行)私はこの中で、街頭署名運動始末記の執筆を担当しました。

企業定年で現役を退いたのは1997年8月でした。引退後しばらくは健康に問題もなく、駐在員のように頭も身体も無理しなくてよいバラ色の期間がありました。このころ始めたのが今も趣味として続けている「詩吟」と、地元のバイリンガル新聞「羅府新報」一面のコラム欄(磁針)への月一度の寄稿、それに「海外ロングステイ」交流などです。

詩吟は国峯流(尚道会)の首席師範だった奥村国鉦先生の門をたたき入門し、週一度、奥村先生のご自宅のクラスへ通い、奥村ご夫妻から指導を受けました。いまは奥村ご夫妻ともにお亡くなりになりましたが、私の詩吟は続いています。年二回開催される尚道会南加地区全体の吟詠大会に参加して会員の皆さんと親睦を図るのを楽しみにしています。

詩吟とは、東洋古今の偉人、賢人や詩仙・詩聖たちが磨きぬいた言葉で綴った漢詩に日本独特の節付けをしたもので、奥の深い日本古来の伝統文化であり、品位と人生に対する幾多の教訓を学ぶことができます。また、それらを吟詠することにより作者たちの心に触れ、よろこびと同時に何ものにもかえがたい感動を味わうことができるのです。

羅府新報「磁針」コラムへの寄稿は、私が企業定年を迎え自由の身になった1985年8月から新聞社の依頼を受けて始めました。第一回目のテーマは自分の定年退職にかけて「定年って何だ」としたことを覚えています。以来、ほぼ月に1回の割で今日まで239回となり、今も続いています。

 2001年には日本の毎日新聞のネット版「毎日ドットコム」へ月一度「いまさらUSA」というタイトルでエッセイを連載しました。これは「毎日ドットコム」の終了とともに32回(2年半ほど)続きました。
―― 次号へ続く ―― 

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


鈍行で生きても歳はちゃんと取り

ネジ少し緩め人生四コマ目

老老元気 時に喧嘩もするけれど

悟りいえ諦めですとカネのこと

同じ雲眺め楽観悲観論


( ニュースやぶにらみ )


「十増十減」

内閣の不支持率と支持率ね −選挙区割り案

「不適切会計」

新国立競技場には言われたくない −東芝

「出動が増加の一途」

SOS −救急車


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(385)「夏土用」

7月も、はや下旬(大暑・酷暑・炎暑の候)となった。改めて7月のカレンダーを覗くと、20日の『海の日』が『夏土用入り』。翁が愛用している百科事典によると、『土用』とは、五行説(万物は木・火・土・金・水の5元素からなる、という自然科学の思想)に由来する暦の雑節(ざっせつ)の1つ、とある。雑節とは、節分・彼岸・社日(しゃにち=生誕地の守護神を祀る日)・八十八夜・入梅・半夏生(はんげしょう=毎年7月2日頃、昔は
農家にとっては田植えの時期を見計らう重要な日だった)・土用・二百十日・二百二十日、いずれも季節の移り変わりを適確に把握するために設けられた9つの暦日(れきじつ)があり、『土用』は9つの暦日の1つ。しかも『土用』は春土用、夏土用、秋土用、冬土用の四季にあり、期間はそれぞれ18日間。今年の夏土用は7月20日から8月7日。この程度の知識は、昔の人(特に農林水産業に携わる人)なら常識であったろうに、翁は、この歳になって(百科事典による俄か学習で)やっと『土用』の由来を知ることが出来た。

ご承知のように、『土用』の期間には『丑の日』というのがある。“丑”は言うまでもなく十二支の1つで、現在では、その年や人の生まれ年に用いられているが、昔は月日、時刻、方角にも使われていた。『土用の丑』とは、『土用』に入って最初に来る“丑の日”のこと。何故、“丑の日”なのか翁は知らないが、とにかく『土用』期間は春・夏・秋・冬とも、それぞれ18日間、なのに十二支は12(動物)しかないので、当然、“丑”は2回登場することもある。この2回目の丑の日を“二の丑”と言う。今年の『夏土用・丑の日』は7月24日と“二の丑”は8月5日、そして、これまたご承知の通り『夏土用』は1年中で最も暑い時期だから夏バテ防止に「丑の日にウナギを食べる」という習慣が古くからある。その習慣の起源には諸説あるそうだが、江戸時代、博学で有名だった平賀源内(蘭学者・医学者)が、知り合いの鰻屋を繁盛させるために仕掛けた、というのが定説のようだ。

日本人のウナギ好きは世界一で、その消費量は世界の7割を占めているそうだ。そのせいか、長年の乱獲がたたってニホンウナギが極端に少なくなり、2014年6月にスイスに本部がある“国際保護連合”からニホンウナギは絶滅危惧種に指定された。農水省の資料によると、「日本人はウナギの生息数が回復するスピードをはるかに超えるほど乱獲し、食べ続けて来た。漁獲量がはっきりと落ち込んだ1980年代以降、日本は(ニホンウナギの)代替えとして、スカンジナビア半島・バルト海・地中海・黒海にかけてヨーロッパ全域の河川に生息する“ヨーロッパウナギ”を輸入しだした。輸入ウナギをパック詰めした冷凍蒲焼も大量に出回るようになった。その結果、ヨーロッパウナギが2009年にワシントン条約で国際取引の規制対象になった。困った日本は、更なる代替えとしてフィリピン、マレーシア、インド、スリランカ、タスマニアなどに生息する“ピカーラウナギ”を輸入するようになった」――“ピカーラウナギ”の調理法は、ニホンウナギと同じく、蒲焼き・白焼き・酢の物・卵焼きなどだが、ニホンウナギの味とそれほど変わらないくらい美味らしい。翁もどこかのウナギ屋で食べたことがあるかもしれないが、説明が無い限り(翁には)味の違いが全く分からない。しかし、その“ピカーラウナギ”もまた減少してきているとのこと。いくらウナギ好きな日本人とて、こうも世界的にウナギが減って来たのでは、そう易々とウナギを食べることが出来なくなる(すでに、その傾向が見られる)・・・

ところが、嬉しい報せがある。ご存知の読者も多いと思うが、農水省が所管する独立法人水産総合研究センターが、5年前(2010年)「人工授精によって、ウナギの完全養殖が成功した」と発表した。「ウナギの完全養殖」の成功は世界初の快挙である、と言われている。更に同研究センターは昨年(2014年)「この4年間で、餌やホルモンの開発が進み、研究の舞台も(2010年の)“実験室”から(2014年には)“水槽”に移し、遂に大型水槽で稚魚の飼育に成功した」と発表。ウナギ好きの日本人には、この上もない朗報だろう。近い将来、『土用の丑の日』に欠かせないウナギが、たとえ養殖であろうと安価で市民の口に入る、そんな日が来るのは、そう遠くないのでは、と期待が膨らむ。

ところで翁、ウナギの話になると、きまって旧静岡県浜名郡可美村(現在、浜松市南区)の友人Iさんを思い出す。旧可美村とは、自動車やバイクのスズキ本社がある村。スズキの法人税収入で財政面ではかなり裕福だったので、1950年代に周辺の自治体の多くが浜松市に合併されたが、可美村は長い間“村”で独立していた(1991年5月に浜松市に編入合併)。翁がIさん宅へ頻繁に遊びに行かせて貰ったのは1960年の半ば頃から1970年代にかけての“可美村時代”だった。「Iさん宅訪問目的」は、勿論、Iさんとの親睦交流が一番だが、正直、あと2つ、理由があった。その1つは、最上級の“浜名湖ウナギ”をご馳走になること、もう1つは、中田島砂丘の(フォトカメラでの)撮影だった。

当時、浜名湖ウナギは「100%地元産。種苗は全て天竜川河口や浜名湖内で採捕されたもので養殖している。全国的には、養殖ウナギは単年飼育(1年以内)の出荷が多いが、浜名湖ウナギは周年飼育(1年以上)を基本としているので、より美味しいウナギが提供できる」(浜名湖養魚漁協)と言われていただけに、とにかく美味かった。(100%地元産の)高級ウナギを(たびたび)ご馳走してくれたIさんには本当に感謝している。そしてIさん宅に泊めて貰って、近くの中田島砂丘での撮影が楽しみだった。中田島砂丘は映画やテレビドラマ、CMのロケ地としても有名で、晴天の青空と砂浜の白色のコントラストの美しさもさることながら、翁はサンセット(太平洋に沈む夕陽)が好きだった。かなりのカット数をカメラに収めた。それほどお世話になったIさんと(翁の仕事上の事情とは言え)疎遠になってしまったことを大いに悔やみ、申し訳なく思っている。現役を退いて久しい翁、今年こそ機会をみてIさん宅を再訪し、お詫びかたがた浜名湖ウナギと砂丘の夕陽に再会したいと願う2015年の『夏土用』である・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

世界のブレンドスパイス ケイジャン(アメリカ編)

今はもう無くなってしまったが昔、マリナデルレイのショッピングセンターの一角にアメリカ南部ニューオーリンズ風のレストランがあった。時々そこでジャズのライブをやっていた。そのレストランで食べたのが最初のケイジャン料理だった。ケイジャンスパイスとは、いくつかのスパイスをブレンドして味付けしたアメリカ南部の代表的な料理だそうだ。ちなみにケイジャンスパイスと言われるベイシックなブレンドスパイスはどんなスパイスがどのくらいの配合で使われているかというとカップ1/4 (作り置き用)を作る場合
オレガノ (小さじ1と1/4)、塩(小さじ2)、ガーリックパウダー(小さじ2)
オニオンパウダー(小さじ1)、カイエンペパーかチリパウダー(小さじ1)
パプリカ(小さじ2/と1/2)、赤唐辛子(砕いたもの小さじ 1/2)
オレガノ(小さじ1と1/4)、タイム(小さじ1と1/4)、黒胡椒(粗挽き 小さじ1)
これらをミックスして小さなガラス瓶に入れて調味料の棚にでも置いておくと、いつもの料理に飽きた時に一振りするだけでも違った味を楽しめるかもしれない。日本ではスパイスの量り売りが無いので最初はブレンド済みのものを買うのも手っ取り早いだろうけれど。

とにもかくにもケイジャンという言葉もその店で初めて聞いた。最初に注文したのはジャンバラヤというパエリア風のコメ料理、それにルイジアナ州で有名なガンボというオクラと豆と野菜が入ったスープ、メインはチキン料理。どの料理にもケイジャンのスパイスが使われていたと思う。思ったほど辛くは無かったけれどあまり印象には残らない味だったように思う。
ケイジャン料理で印象的だったレストランというとレドンドビーチにあるショッピングセンターの2階にあった店だ。名前がキラーシュリンプといってユニークなその名前が面白かったので友人と入ってみた。メニューを見たらメインのシュリンプ料理の1品のみ、後は付け合せにパンか麺かライスの3種類の中から一つを選ぶ。それにノンアルコールの飲み物がいくつかとデザートも1品のみ。野菜もオードブルも他の料理は何も無いのだ。あまりに素っ気も無いので拍子抜けしてしまった。本当にこれだけのメニューなのか裏をひっくり返して見ても表にあるメニューのみ。悩むほどチョイスが無いのでとりあえず、パンを選んで注文したらすぐに山盛りのパンが運ばれてきた。その量は大きなフランスパン一本ぶんぐらいあった。“食べ放題だから、いくらでも、どうぞ、おかわりもフリーです”と言われた。いくらパンが好きでもパンばかり食べるわけいかないし…と思う間もなくキラーシュリンプの主役の一品が運ばれてきた。大きな白い丼のような器にヒタヒタのスープとその中に大きなエビがゴロゴロ20匹ぐらい入っていた。あっけにとられている私達にウェイターの人は“これにパンを付けて食べると最高に美味しいのだよ”と自信あり気にパチッとウィンクして私達にアピールして見せた。
友人はビールが無いので落胆しつつ、私は少し後悔しながらもパンにスープを浸してエビを食べ始めた。ところが、そのスープがとてつもなく美味しかったのだ。期待していなかっただけに感動が大きかった。今まで食べたことの無い深い味わいのある独特なスープの味だった。スープが無くなる頃は器の底の方に沈んでいたスパイスが見えてきた。今考えるとカレー風味のクミンやセロリシード、ローズマリー、フェンネルシードも入っていたと思う。ケイジャンスパイスをベースにエビやチキンのスープストックが絶妙なバランスで作られた極上の一品料理だった。スープを作るだけで10時間もかかるのだそうで売切れたら店じまい。こっちが食べているのにイスやテーブルをさっさと、かたしはじめる時もあった。時々キラーシュリンプのその一品が食べたくなり定期的にテイクアウトをしたりもした。懐かしくなって調べてみたら今はもうレドンドビーチの店は無くなってしまったけれど今もマリナデルレイの方にはあるようだ。
それにしても、一発勝負というか一品勝負のこの店のメニューは誰が考えたのだろうか、いかにもアメリカらしい発想の店だ。

茶子 スパイス研究家

 

第50回天山祭り(2)

第50回天山祭りは7月11日(土曜)午前11時に村人を中心に心平を忍ぶ沢山の方々二百数十名で開始。
関係者の挨拶、村人の郷土芸能披露、詩の会の方々が代わる代わる心平の詩を朗読。
心平の好きだった焼いたイワナ、山菜のお弁当で鏡割りのお酒のふるまい。約2時間の宴でした。
亡くなっても慕われ忍ぶ会がこうして行われる個人の生き方に感銘の2時間でした。
 
 


なぜか群馬県の選出の元経済産業大臣小渕優子が来てましたが特別扱いすることなく名前のみ紹介、ここいら辺りにも心平ならそうするであろうと村人の対応に思いました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%BA%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E9%87%8E%E5%BF%83%E5%B9%B3

裏話:戦後モリアオガエルを見て見たいものだという記事を新聞で読んだ川内村・長福寺住職と手紙でのやり取りを通じ昭和28年8月、心平が川内村に来られたそうです。
町長、住職たちが出迎えに常磐線富岡駅まで出たそうです。その時で迎えた車は村の消防車。
心平は麦藁帽に着流し、下駄だったそうです。
その後、心温まる村民と運動会、盆踊り等の交流を通じ昭和36年には名誉村民になられたそうです。

そのお礼に、村から毎年炭俵100俵送るという事を決め、100俵を当時のがたがた道を川内村から国道6号線を走り東京・新宿柏木のご自宅に持参したそうですが余りの多さに1年で辞退されたそうです。

その後、心平は感謝の意味で蔵書等3千冊を村に寄贈。村民は会津の酒蔵から古い酒樽をもらいくり抜き図書館代わりとしたそうです。

しかし、これでは失礼であろうという事で村人から文庫建設の話が持ち上がったそうです。

案内してくれたT氏の本家では自分の持ち山の土地を提供、村人による資材、労力の提供を通じ村人総出のボランティアで文庫を建設。
設計図を引いたのは山本圭・学の父親で心平の友人山本勝巳。

文庫設立発起人には川端康成、井上靖、金子光晴、武田泰淳、谷川徹三、中野重治、西脇順三郎、武者小路実篤達であり、入り口にかけてある“天山文庫”という大きな木製の表札は棟方志功作で交友の広さをうかがい知れました。
天山文庫のいわれは、シルクロードを通じ東西文化が融合したところにあった大きな山々の天山山脈から名を取ったとのこと。

文化勲章受章しても、人と分け隔てなく接し、えばらず、おごらずの人生観にただただ感心。

村に一泊後、モリアオガエルが梅雨時に木の上で産卵に来るへ平伏沼(へぶすぬま)へ。
http://www.kawauchimura.jp/seeing/showplace/hebusu.html
このカエルは特別天然記念物だそうで泡状のたまごがまだ残ってました。
木の上でかえったおたまじゃくしはポタンと沼の水面に落ちるのでした。
しかし、今年は雨が少なく保護観察員が発砲スチロールの大きな箱に水を張り卵の泡の下に置いてありました。
11日、12日と楽しいひと時でした。

中條 石

 

ジャズライフ−今週のお奨 めアルバム

久しぶり(と言っても一ヶ月半ぶりですが)TSUTAYAに行きました。最近はいろんなところで値上げが行なわれています。TSUTAYAのレンタル料金もレンタル期間の自由度がなくなり実質10%以上の値上げになっていました。聴きたいアルバムリストを作成してあるのでたくさんのアルバムが簡単に探せます。でも初めてのジャズアーティストのアルバムを3枚も見つけられたので喜んでいます。今週はその中の一つ"L.A.4"のアルバムを紹介します。ジャケットに書かれた定価を見てびっくりしました。3885円もします。プレミアムがついていて入手が難しいアルバムです。西海岸のトップミュージシャン集団で1970年代のウェストコーストジャズを席巻した4人グループの最高傑作です。
そんなことはまったく知らず、視聴したら素敵なアルバムだったので選びました。たまたま見つけたのですがラッキーだったのかもしれません。

"Just Friends"  L.A.4

01-Nouveau Bach
02-Carinhoso (04:18)
03-Just Friends (07:25)
04-Love Medley: Love for Sale/Love Walked In (08:23)
05-Spain (08:31)

Laurindo Almeida
Bud Shank
Ray Brown
Jeff Hamilton
 

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

週末のヨガクラスは身体の調整ができるのでできる限り参加することにしています。
いつもヨガクラスでやる背骨に溜まった老廃物をとる簡単なマッサージ法を紹介します。体育座り(膝を立てて座り、膝を両手で抱えます)をしてそのまま、ごろんと後ろに転がります。後ろへ倒れたら、ひざを抱えたまま、腹筋を使わずに体の揺れで自然に元の姿勢に戻ります。背骨をごろごろ刺激し、首の下からお尻までゆっくりとやります。20回くらい繰り返します。これをやって背骨が痛く感じるのは老廃物がたまっている証拠です。一度試してください。《R.O.》



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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1002

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com