Zakkaya Weekly No.98

NO.97 Ryo Onishi 3/29/98 バックナンバー  Homepage

先週土曜日、腕時計のバッテリー交換とベルト交換をしてもらいにArtesia Blvd.にある時計屋に行きました。次から次へとお客がきてお店の二人(多分親子だと思う)は、とても忙しそうでした。

お店の人によると、みなさん土曜日にまとめて来るので忙しいそうです。バッテリーを交換した腕時計は、先日亡くなった義父に24年前に買ってもらった物でした。よみがえった時計を見て、とても懐かしく感じました。(R.O)

もうひとつのオリンピック−パラリンピックの感動

人間が自分の能力の限界に挑戦するということが、なんと感動的であるかを改めて知らされたのが今回、日本の長野で開催された冬季オリンピック並びにパラリンピックでした。

どんなに早く滑っても、どんなに高くジャンプしても所詮、人間は野生動物や鳥にはかなう訳はない。なんでそんな事に挑戦するのだろう・・、中でも障害者が主役のパラリンピックにいたっては、「障害を持った人が何も健常者の真似をしなくとも・・」 と当初 は思っていた私でしたが、それがとんでもない偏見と誤解であったことを痛いほど思い知らされました。障害があるからこそ残された自分の部分を鍛え、自分の限界に挑む・・それが感動につながるのだと知りました。私達は 例えば身体の一部に障害のある人を「障害者」又は「身障者」 と呼び、「健常者」 と区別しています。そして勝手に「健常者」が世の中の標準で、「障害者」 は標準外の気の毒な人々なのだと決め付けて、だから援助と配慮が必要なのだと一方的に結論付け、納得している傾向があります。もちろん どこか不自由な人がいたら援助と配慮は当然必要ですが、でも良く考え直してみるに、援助だの配慮だのという言葉自体、所謂 「健常者」 サイドからの発想であり偏見差別語です。「障害者」 のための施設等は社会の中に当然あるべき基本的インフラであり決して援助でもなければ配慮でも何でもない当たり前の事なのではないでしょうか。今の所 私は一応 所謂 「健常者」 に属しますが、空を飛ぶ翼も持たず、水中を泳ぐ“ひれ”も未来を見通す念力も持っていません。もし 翼と“ひれ”と念力を持つ人がいたとしたら、その人に対して私は完全に「障害者」 になる訳です。世の中のインフラが 空を飛び、海を泳ぎ、念力を持つ人を基準に作られていて、その他の人の為の施設がすべて援助と配慮 だと言われたらどういう事になるか想像してみればわかるでしょう。翼や念力とまで言わなくても、昔の人間に比べて現代の我々は本能始め、多くの機能・能力が退化してしまっていると言われます。だからこの意味で現代人はすべて「障害者」という事になり、我々が「障害者への援助・配慮」 などというのは おこがましい限りではないでしょうか。生後19ヶ月で盲聾唖となり、後世「三重苦の聖女」と言われたヘレン・ケラー女史の言葉に 「言葉は非常に便利であるが抽象作用を行うので沈黙的な非ことばの世界に遥かに劣る。」 というのがあるそうです。見る事も、聞くことも、話すことも出来ないヘレン・ケラー女史は我々の通常の感覚ではまさに「障害者」 以外の何物でもありません。でも彼女は人並み外れた意志と努力、それにサリバン先生のような人に恵まれ「障害」をはるかに超越する「能力」を身に付けました。こうなるとヘレン・ケラー女史は 「超健常者」であり、私達が「障害者」 という事になるのでしょう。

さて話をパラリンピックに戻しますが、今回の長野大会は 日本選手の大健闘で大いに盛り上り、日本中が沸いたそうで嬉しいことです。金メダル12を含み、メダル総数が40台に達した成果も感嘆に値しますが、それにもまして どんな人でも限界に挑戦する事の意義と やる気があれば何でも出来ることを教えてくれました。沈滞気味の日本と日本人にとっては大変な励ましです。伴奏者と一心同体で滑るバイアスロン、コーチと選手で文字どおり二人三脚もあったりして・・・・。

パラリンピックの迫力は我々人間皆んなを感動させます。それは「人間の美しい姿」 がそこにあるからです。現在では、パラリンピックの意味は「障害者のオリンピック」でなく、「もうひとつの(“Parallel”)オリンピック」という事になっているとの事で、障害者を差別扱いから開放しようと言う意味では当然の事でしょう。

ただ現実の世の中を見渡すと、まだまだ 所謂「障害者」 に対するインフラの整備は遅れています。今回の冬季パラリンピックを契機に 長野が、また日本が 所謂「障害者」 の人達でも普通に生活出来る街作りに取り組み、この点でも世界の先進地と言われるようになれば どんなに素晴らしい事でしょう。

長野パラリンピック―― 感動くれてありがとう!!

       河合将介 skawai@wakao.com

健康の方程式 「耐える力をつける情操教育」

西尾誠一郎

耐える力とどうつけるかについてはいろんな切り口があります。一番大切なことは情操教育を重視することです。情操教育といえば、芸術のことお絵描きとか音楽をイメージする人も多いと思います。広辞苑を開いて、まず情緒と情操の違いを調べてみましょう。そしてもちろんその定義に西尾流独断と偏見も加えます。

情緒とはある事を思うにつれて生じる喜怒哀楽のようなさまざま感情のことです。情が緒につく、つまり感情が生じることですね。情緒にあたるemotionという言葉の語源は「働くこと」を意味するラテン語の“moteruに「外へ」を意味する接頭語の”e“がついたもので、心理学の分野では情動という言葉が使われます。私たちが有意義な人生を送るためには外に向かってほとばしり出る感情、つまり情熱とか旺盛な好奇心、情動がまず大事です。

そして次に大切なのが情操なのです。「情操とは高い精神活動に伴って起こる感情、情緒より知的で安定感があり、持続できる情緒的態度」と広辞林では定義されています。私流に解釈すると情操とは情を操る、つまり感情をコントロールすることです。考えてみてください。私達がこの世の中で唯一コントロールできるものは、自分の感情、自分の心構えです。しかし自分の人生を振り返ってみれば分かるように、これすらなかなか難しいことです。「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉は「現在進行中の自己の心的状態を認識する」ことなのです。でも前回述べたマシュマロテストの結果を見ても分かるように、もう一個マシュマロをもらうために、目の前のマシュマロを食べるのをしばらく我慢できる四歳児がかなりいるということは、彼らはすでにある程度自分の感情をコントロールできるということです。

我慢できる子とできない子の違いはどこから来るのでしょうか。我慢できた子とできなかった子の違いは、高校3年のSATテストの210点の差だけではありませんでした。我慢できた子は自分の考えを言葉で的確に表現でき理性的な応答ができ、集中力があり、計画を立てて実行する能力に優れ、学習意欲も優れていたのです。これらの違いをずばり一言で言えば言葉と行動による早期情操教育の違いなのです。

私の文の保育園児の例で説明してみましょう。2歳児も4歳児も風邪の予防注射を受けました。2歳児に注射と風邪の因果関係について言葉で説明することはできません。ですから注射の痛さに泣くだけで彼らは自分の感情をコントロールすることについては何も学習できません。次に注射器を見たり、白衣の人を見ると注射をする前から泣く子もたくさん出ます。

ところが4歳の子供達は違います。「この注射をすれば、君たちは風邪を引かない強い子になれるんだよ」と前もって説明しておくと、もちろん泣く子もいますが、何割かの子供達は泣かずに痛さを我慢できるのです。中には私のところへ誇らし気な顔をしてきて「俺、泣かなかったよ」とか「注射痛くなかったよ」と報告してくれた子もいました。私が大いにほめたことは言うまでもありません。彼らは私の話を完全に理解し、そして注射の痛さを自分の心で乗り越えたのでした。

読者からのたより 松村さん

私はこのところ、”一日中テレビをつけない”を実践しています。そうすると時間がまるまる自分のものになったようで、とても豊かな気持ちに。テレビって役に立つこともありますが、何か生活を慌ただしくするもののようでもあります。 忙しい毎日かと思いますが、そんな日を設けてみるのもよいかと思います。 (知り合いで、リビングに3台、ベッドに1台、奥さんの部屋に1台、ジャクジーに1台とテレビを6台所有している人がいますけど、そういう人にこそ実践してもらいたい!)

編集後記

先日娘と日本から帰ってきて、約2週間、二人暮らしでしたが、ついに日本に行ってしまいました。娘のことをまだ子供だと思っていたのですが、いろいろ教えられることもありました。まだワイフもいないので、またさみしい一人暮らしになってしまいました。

Zakkaya Weekly No.98

雑貨屋店主 大西良衛 ronishi@earthlink.net