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NO.941           Ryo Onishi              5/25/2014

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雑貨屋のひとり言

ちょっと前まで、働きたくても働くところがなかったと思っていたのですが、今は人手不足がクローズアップされています。建設・土木の現場で働く人が不足していて工事が遅れています。
ファーストフード店ではパートやアルバイトの時給を上げても人が集まらないようです。近所にある有名な丼のチェーン店では持ち帰りのみしかやっていないところを見ると本当に人がいないのだとわかります。高齢化で介護の仕事が増えていますが、若い人がこういう仕事をやりたがらない傾向にあるのでここでも人手不足が懸念されています。少子高齢化が加速しています。このままだと日本の将来が危ういですね。失礼だと思いますが、10年後20年後にはこの世にはいないかもしれない政治家に50年後の日本の人口のことを言われても全く信頼性がありません。≪R.O≫

 

もの忘れ人生 バンザイ(1)

ある学説によると、人間の脳細胞(脳の神経細胞)は20歳位で約150億個で最高値に達し、その後は一日に約10万個ずつ死滅減少してゆくのだそうです。この計算によると60歳になると20歳の最高値にくらべて脳細胞は15億個近く(約1割)も減少してしまうことになります。

人の脳については近年、研究が進んでおり、新しい学説や成果が次々と発表されていて、中には歳を重ねても脳細胞は減少せず、増加すらすることもあるのだという学説まであるようで、まだまだ未解明の部分も多いようですが・・・。

私の体験からして、年をとるに従って脳の力が弱くなっていることに気付かされることがしばしばです。体力だけでなく、記憶力、想像力、創造力、やる気など、本来老若とは無関係と信じていたものまでも減少し、これらも脳細胞の減少による結果かと思わざるをえない状況です。

しかし、このような厳然とした事実を体験しているにもかかわらず、年齢によって記憶力などが減退すると思いたくないもう一人の自分がいます。脳が年とともに老化するなどという常識はたいへんな間違い・誤解であると信じたいのです。

医学的にはどうか知りませんけれど、20歳当時に比べて10%も脳細胞が減少するといっても、もともと人間は自分の脳のうち本当に有効活用しているのは全体の半分もないといわれています。10%脳細胞が減る事を心配するより、もっと脳の有効活用を心がけるほうが はるかに効果的でしょう。

ではなぜ年をとると脳の力が落ちると感じるのか。例えば物忘れが多くなるのでしょう。それは「記憶容量」の問題であると考えたら如何でしょうか。パソコンだって記憶容量があり、それ以上のメモリーは受け付けてくれません。パソコンを新規に購入した当初はソフトをどんどん記憶してくれます。それがメモリー容量が増えるに従い、ON にしても立ち上げに時間がかかり、挙げ句の果てにメモリー容量満杯で受付け拒否となる訳です。

私達人間だって同じことで、脳に無限の記憶容量が有る筈はなく、(脳の活用率と活用方法により個人別には大きな差があるでしょうが) 決まった容量しかないに違いありません。メモリー・スペースが沢山あった子供の頃には簡単に記憶出来たのが、中年以降に残余スペースが少なくなるに従い憶えるのに時間がかかり、思い出すのが難しくなってゆくのだと思います。

更にこの記憶の出入り口は一つで「後入れ、先出し」らしく、先に入った古い(子供の頃の)思い出は残っているのに最近の出来事ほど思い出せない傾向になります。(新しい記憶より古い記憶のほうが残りやすいことについて、脳医学の立場で科学的に説明した本を見たことがありますが、私には医学のことはわかりません)

20年分の出来事を体験した20歳の若者にくらべて、60年を経験した60歳は経験も豊富で、脳の有効活用方法も習得したので、60歳の脳の記憶容量は若い時に比べ増えこそすれ、決して減ってはいないと信じたく思います。

ただその量が多いので、あるものは溢れ出て消え去り、またある記憶は奥のほうにあるため取り出すのに少々時間がかかるだけなのです。

 一般に、メモリー容量一杯になったパソコンに更に記憶させる為には、(1)大容量チップと取り替えるか、メモリーチップを追加して容量を増やす。(2)データを圧縮する。 (3)入力済みのデータのうち不要なデータを削除する。(4)フロッピー・デスクなどの外部記憶装置へ移し、新たなスペースを作る、などがあります。

これを 私達人間に当てはめると、(1)は脳の有効活用、(2)は情報の整理、(3)は忘却(忘れること)、(4)は記録、ということになるでしょう。以下、この4項目について私の独断と偏見を記すことにいたします。 ―― 以下、次号に続く ――

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

血糖値 大福が好き酒が好き

エリートはエリートなりに酒の愚痴

お銚子を足されてノーを口ごもり

百薬の長の困った副作用

一病で禁煙 二病目で禁酒


( ニュースやぶにらみ )

「離婚の危機」

自公を見習いなさい −家裁調停官

「♪ありのままに」

歌えない −ASKA

「夕張メロン2玉250万円」

ヨーッ チャッチャッチャ −大間マグロ


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(329)「伊香保を愛した文化人」(1)(徳富蘆花編)

【翁は学生時代(日本人として初めてロシアの文豪トルストイと会見した)徳富蘆花に憧れていた。当時、翁は東京・京王線の明大前駅の近くに下宿していたので“蘆花ワールド”に浸りたくて(明大前に近い)芦花公園(正式名称『蘆花恒春園』)に度々足を運んだ。(中略)公園の草叢に寝そべって、神田の古本屋で買った『不如帰』や『自然と人生』を読み耽ったりした。へ難しい文語体で綴られたそれらの本を解読出来た時、少しばかり蘆花に近づけたかな?という微かな満足感を味わったものだ・・・】これは、昨年10月に配信した『龍翁余話』(301)「八重の桜・・・」から抜粋したものである。≪お詫びと訂正:「日本人として初めてトルストイと会見した」と書きましたが、これは翁の勘違い。実は、蘆花が1906年(明治39年)にトルストイと会った10年前(明治29年)に、蘆花の兄・徳富蘇峰(明治・大正・昭和のジャーナリスト、思想家、歴史家)が既にトルストイと会っていました。お詫びして訂正致します≫

さて、徳富蘆花の代表作『不如帰』は【上州・伊香保千明(じょうしゅう・いかほちぎら)の三階の障子開きて、夕景色を眺むる婦人。年は十八九・・・】という書き出しで始まる(千明は、1502年創業の老舗旅館『千明仁泉亭』のこと)。陸軍中将・片岡毅の愛娘・浪子は、海軍少尉・川島武男(男爵)に嫁ぐ。姑との葛藤が続く中、それでも浪子は武男の愛に支えられて幸福な結婚生活を送っていた。しかし武男が日清戦争へ出征した後、浪子は結核に罹り離婚を強いられ、武男を慕いつつ死んでゆくという悲哀物語。「ああ、人間は、なぜ死ぬのでしょう!ああ生きたい!千年も万年も!」は(当時)日本近代文学を代表する名セリフと言われたそうだ。翁、学生時代に“俺も、いつか伊香保を舞台に『不如帰』のような小説を書きたい”と思ったものだが、その夢は果たせず、60年も過ぎた今日、ようやくこの地を訪れることが出来た。小説ならぬエッセイ『龍翁余話』執筆のためである。

伊香保が“温泉地”として形成されたのは戦国時代、武田勝頼(武田信玄の庶子=婚外子、第20代甲斐武田家当主)が当時、上州(今の群馬県)を支配していた真田昌幸(大坂夏の陣で豊臣方に組し、徳川と激戦を交わした名将・幸村の父)に命じて整備させたと伝えられている。有名な“365の石段”も、この時に出来たそうだ。しかし翁が“伊香保で小説を書く”夢が破れてもなお伊香保行きを希望していたのは“温泉”ではなく『伊香保を愛した文化人』たちの息吹に触れてみたいという欲求を持ち続けていたからだ。明治以降に伊香保を訪れた文化人は徳富蘆花、与謝野晶子、竹久夢二、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情、山田耕筰、北原白秋、芥川龍之介、志賀直哉、菊池寛、直木三十五、谷崎純一郎、田山花袋など枚挙にいとまがない。彼ら(文化人)が愛した伊香保とは、どんな温泉地かを述べるのが文章構成の順序だろうが、翁にはそれを論ずる知識も体験も無いので、この度の取材は(翁の、かねてからの憧れの文化人)徳富蘆花と竹久夢二をターゲットに絞ることにした。《竹久夢二編》は次号に紹介するとして今号は《徳富蘆花編≫をお届けする。

伊香保温泉の中心地・365段の石段街の両側に56の温泉旅館のほか土産店、射的場があり、途中に、与謝野晶子の詩『伊香保の街』を刻んだ石段がある。蘆花が定宿とした『千明仁泉亭』は『伊香保の街』を刻んだ石段のすぐ傍に位置し、老舗の風格を漂わせる佇まい。広い廊下のあちこちに、蘆花が当時の『仁泉亭』の当主・千明三右衛門(千明家の当主は代々“三右衛門”を継承、現在は22代目)に宛てた遺筆(手紙)が展示されている。

『伊香保の街』が刻まれた石段 蘆花が定宿とした『千明仁泉亭』 蘆花の遺筆(手紙)

蘆花夫妻が初めて伊香保温泉を訪れたのは結婚5年目の1898年(明治31年)5月の初旬。1927年(昭和2年)9月に『千明仁泉亭』の離れで亡くなるまでの29年間に10回訪れている。逗留期間は(1回目こそ3週間だったが)各回平均滞在は2、3カ月だったそうだ。「10回目に来られた時、蘆花先生はかなりの重症で、愛子夫人、医師、数人の看護婦を伴って東京から車2台で来られ、大騒動だった、と聞いております」とは(泊り客でもない翁を案内してくれた)親切な仲居さんの話。ああ、そうだ≪文豪・徳富蘆花≫を語る機会はいくらでもある。翁は今“蘆花終焉の場所”に来ている。ならば仲居さんの(生々しい)話を中心に『蘆花の最期』にスポットを当てることにしよう・・・仲居さんの話を一言たりとも聞き漏らすまいと耳をそばだてた。

徳富蘆花記念文学館 『不如帰』の世界 蘆花の死とその後
『仁泉亭』離れ(蘆花終焉の家) 蘆花(左)主治医(右)と入浴 蘆花臨終の部屋

すでに病床にあり、歩行困難だった蘆花、周囲の反対を押し切って最後に伊香保を訪問したのは、1927年(昭和2年)7月。主治医(慶応大学病院・正木俊二博士=筆名・不如丘)と3人の看護婦が同行。『千明仁泉亭』に到着すると主治医と一緒に入浴するなど、病状はやや落ち着きを見せた。ところが2,3日して突然、「榛名湖に行きたい」と言い出した。これにはさすがの主治医も猛反対。我が儘な蘆花「ならば医者不要」と怒って主治医たちを東京に帰すと、旅館のスタッフや近隣の若い衆を集め総勢31人の“大名行列”(駕籠かき隊)を組んで榛名湖観光を決行した。しかし当然のことながら忽ち病状悪化。弟(蘆花)の危篤を知った兄・徳富蘇峰が急遽見舞いに駆けつけ、長年のわだかまり(不仲)を解消(和解)するに至った。蘆花は安心したか、その夜、兄蘇峰、妻愛子に看取られ、安らかに58年の生涯を閉じた。時は昭和2年9月18日。

さて、徳富蘆花の最期は以上の通りだが、翁は、蘆花を“文豪”にのし上げた影の立役者である妻・愛子を語らずにはいられない。愛子(本名は藍)は蘆花より6つ年下の1874年(明治7年)蘆花と同郷の熊本県生まれ。東京女子高等師範学校(現お茶ノ水女子大学)を卒業。20歳の時、蘆花と結婚。愛子自身、作家、随筆家としての創作活動を行なうかたわら、夫・蘆花の執筆活動にも大きく貢献する。1919年(大正8年)に夫婦で外遊し、その紀行文『日本から日本へ』を蘆花と共著出版、その後、夫婦生活を綴った長編小説『冨士』も共著で発表、蘆花の死後『蘆花全集』発刊に尽力した。また愛子は詩人としても評価も高かった。そして彼女は、文学を愛する以上に夫・蘆花を愛し、尽くした。
蘆花・愛子夫妻と同郷の詩人・作家の本田節子は著書『蘆花の妻、愛子―阿修羅のごとき夫なれど』(熊本日日新聞夕刊に連載された小説)の中で「蘆花作品の多くは、愛子がいてこそ生まれたと言える。作品が書けない時の蘆花は苦悩し狂気をも引き出し、その大方は妻の愛子に向けられた。もし愛子がいなかったら蘆花は多分、狂死していただろう(中略)。阿修羅のごとき夫を支えた愛子の愛こそが、並みでない夫婦を誕生させた」と書いている。愛子は蘆花の没後20年生き、昭和22年に夭逝、享年73。(写真は昭和3年初春、東京・蘆花恒春園にて)

愛子がいかに蘆花を愛したか――蘆花の死を悼んで詠んだ『追憶の詩』の中の1節を紹介しよう。「彼が選びし終焉の地伊香保 いまここに仁泉の尽きざる愛をもて 爾が霊に呼びかくる」(蘆花が選んだ終焉の地・伊香保で、(私は)尽きることのない恵みの泉の如き愛を、あなたの霊に捧げます=龍翁訳)の心情が、愛子の全てを物語っている。“愛”とは、かくも厳しく、深く、美しいものか、を改めて教えて貰った『徳富蘆花記念文学館』であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

木材祭り2014年

今年も木材祭りがやってきた!今年で14回目になるこのイベントは千葉のかしの木建設さんが毎年お客さんに感謝の気持ちを込めて行う、まさに“おもてなし“のイベント行事なのだ。毎年この木材祭りを楽しみに待っているお客様がたくさんいて私もその1人だ。3年前の木材祭りに招待していただいた翌年から私のスパイスコーナーのブースまで作ってもらい、そこで遊ばせてもらっている。何だか文化祭の仲間に入れてもらっているようで私にとっては楽しいお祭りなのだが大工職人さんたちにとっては
木材祭り第14回 即売会 新築かしの木建設
スパイスブース 桜の木300年 大工職人の手作り作品

楽しいだけでなく猛烈に忙しいシーズンだ。この4月からの消費税アップもありその前の駆け込みで家の建築やリフォームや修繕などで益々大忙しだったらしい。地方に出張中の大工職人の方々もこの日の為に駆けつけて前日の夜遅くまで木材祭りの準備に追われていたようだ。イベント会場の入り口の左手には木材祭り本番前の準備に追われる数日間の様子が写真で展示されていた。そして右手には昨年から今年にかけて新築されたお客様の家の写真が展示されてあった。やっぱり木の家は暖かいぬくもりがあって落ち着く。今年のお食事は、かしの木建設さんが手掛けたお店の方が請け負ってくだ
木材祭りフードコーナー 餅つき体験コーナー 1イベントコーナー
木材祭りイベント 木材祭りイベント 木材祭りイベント

さったようでその店のオーナーやスタッフの人も総出で焼き鳥や揚げ物など美味しそうな食べ物をたくさん用意してくれた。催し物のブースでは釘打ち体験コーナー、こぎりで木を切るコーナー、カンナの使い方を教えるコーナー、お箸作りコーナー、木作り玩具コーナーなどがあった。子供たちに交じって大人も夢中になってけん玉やベーゴマ遊びをしている姿も印象的だった。最近は木のおもちゃが心身共に、いい影響があると見直されている。土や木に触れることが少なくなってきた子供たちには新鮮な遊
木材祭り準備前日 Tシャツ 送迎バスの中で

びだったのだろう。恒例の大工職人による手作り作品は抽選だが外れたお客様にも、もれなく、まな板のプレゼントがあるのが嬉しい。帰りの送迎バスの中では景品やおみやげを抱えた人たちが次々と乗り込み私の隣には木箱を抱えた子供たちが座った。
”それは自分で作ったの?”と聞いたら”うん、10分で出来ちゃったよ。”と自慢げに見せてくれた。”楽しかった?”と聞くと ”今日は1日楽しかった!”と元気に即答してくれた。今、国家プロジェクトの一つとして大工職人の人材育成に力をいれはじめているようだ。この木材祭りを機会に未来の大工職人が生まれるかもしれない。

茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

このコーナーのおかげで、ジャズを聴くのが私の日課になっています。ジャズと出会えたことで人生が豊かになったと思います。いろんなジャンルのジャズを聴きながら素晴らしいアルバムを発掘する楽しさは格別です。今回ご紹介する、Duke Jordan(1992-2006ニューヨーク生まれ)の"Flight To Jordan"はだいぶ前から候補にあげていて、ようやく出番となりました。「超ブルーノート入門 完結編 4000番台の至福」(中山泰樹著,集英社)に"しおり"がちょうど"Duke Jordanの"Flight To Jordan"のところに挟まれていました。このアルバムの6曲はすべてJordanのオリジナルです。Jordanのピアノは素晴らしいのですがトランペットやサックスが結構目立つのでピアノはちょっと地味な印象を受けます。6曲目の曲はフランス映画「危険な関係」の主題歌です。英語の曲名は"No Problem"ですが訳があってスペイン語の"Si Joya"になっています。1960年に録音されたブルーノート4046番の名盤です。半世紀が経ってもまったく色褪せないアルバムです。

"Flight To Jordan" Duke Jordan 

01-Flight To Jordan
02-Starbrite
03-Squawkin'
04-Deacon Joe
05-Split Quick
06-Si-Joya

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

タイでクーデターが起きました。どんな形にせよクーデターってイメージがよくないです。タイに進出している日本の企業の関係者は心配だと思います。それにしても不安定な国です。ややこしいことにアジアには勝手なことばかりやるCやNという国があるので困ったものです。日本は毅然とした態度で外交に臨んでもらいたいと思います。 《R.O.》


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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.941

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com