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NO.937           Ryo Onishi              4/27/2014

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雑貨屋のひとり言

変則的な連休ですが、ゴールデンウィークが始まりました。25日金曜日の午後にアベノハルカスのある阿倍野に行きました。連休前なのにハルカス周辺はたくさんの人がいました。今話題の展望台に行こうとする人で混み合っていました。連休はもっとにぎわうのでしょうね。連休と聞いただけで気持ちがウキウキしてどこか出かけたくなります。天気のいい日中に歩くと暑くて汗をかきますので半袖でも過ごせそうですが、夕方は肌寒くなるので薄着だけで出かけないほうがいいですね。これはロスで日中ゴルフ場は半袖でプレイし、終わるころはセーターを着る、この感覚です。もうしばらく朝夕の温度差のある季節を楽しみたいです。≪R.O≫

 

Made in Occupied Japan(2)

ところで当時の日本はアメリカを中心とする連合軍に占領された土地であり、GHQ(連合軍総司令部)の支配下に置かれていた訳ですから貿易を再開しても、輸出品に“Made in Japan”と刻印または記入出来ません。なぜなら当時の日本は被占領地であり、独立した日本国ではないのですから。そこでやむを得ず使われたのが“Made in occupied Japan”という文言だったのだそうです。日本人にとって屈辱的ともいえるこの文言も当時の現実がそうであればしかたのないことだったのでしょう。

そしてこの“Made in occupied Japan”という文言は、1951年9月サンフランシスコ講和条約により日本が晴れて実質主権を回復し、独立国となるまで続いた筈です。即ち、“Made in occupied Japan” のマーク又は刻印のある製品こそ、ほぼ60年前、戦後日本から輸出された最初の製品群ということになり、その後の貿易(輸出)大国日本の原点であるといえるでしょう。

そこで私はその“原点”である“Made in occupied Japan” のマークまたは刻印のある品物を当地で探すことにしました。原点とは出発点であり、人間でいえば母親にも相当する懐かしい存在であると同時に、その後と今を知る最大の手掛かりだと思うからです。

このマーク又は刻印の入った品物は、1ドル=360円が決まった1949年4月から日本が再独立した1951年9月の間、わずか2年半程の短期間だけ輸出されたものと考えられ、その上、このマークや刻印は当時の被占領地日本からの輸出品に付けられたものですから最大輸出先であるアメリカこそ、探すのには最適地の筈であり、きっといろいろ該当品が見つかると考えたのです。(日本国内向けの商品にわざわざこんな屈辱的なマークや刻印はしなかったでしょうから)

当時の日本の輸出統計を取り寄せ調べてみると、その頃の日本は金額こそ少ないけれど結構それなりに多品種にわたり海外へ外貨獲得のため輸出していることがわかります。私がこれまで当地で見つけた“Made in occupied Japan” 品は陶器の皿、置物、飾りなどが主なものです。変わったところでは オペラグラスを手に入れました。これは私の友人を通して彼の知人(年配のアメリカ人)から譲ってもらったもので、そのアメリカ人は 朝鮮戦争の時、アメリカ軍(国連軍)の兵士として出兵し、戦地で手に入れたとのことで、まさに上記の2年半の間にぴったり符合するものです。

当時の輸出統計には 上記陶磁器類などの他、繊維(絹製品など)、雑貨(豆電球、造花、麦藁帽子など)、玩具類(木製・ブリキ製品他)、木製品・竹製品(釣竿、熊手など)、農林水産物、お茶、味の素などいろいろ記載されていますが、それら殆どは日常消耗品であり、残っている筈のないものが中心なので、今残っている品目と絶対量はそんなに多くはないでしょう。

私は当時、小学校の低学年でしたが 母親が生活費の足しにとしていた手内職の玩具作りを手伝った記憶があります。それはブリキのオモチャとインデアンの顔の絵が印刷された小さな太鼓でした。(1個作って手間賃が5銭とか10銭といった単位だったと記憶しています)あのオモチャ達も今にして思うと、多分外貨稼ぎのための輸出品ではなかったかと想像されます。そうすると それらの製品にも“Made in occupied Japan” と記されていた筈です。

何時の日か、幼かった私が母と一緒に内職で手間賃稼ぎをしたあのブリキのオモチャやインデアンの太鼓をアメリカで見つけ出し、再会するのも、実は私の“Made in occupied Japan”探しの目的の一つなのです。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )


消費税春のリズムをかき回す

放射能まだ故郷が遠いまま

原発の是非シーソーが揺れている

アベノミクス風は桶屋にいつ届く

がなったりしないが父の反戦歌


( ニュースやぶにらみ )


「よく似た惑星を発見」

やはり戦争をしてるのかな −地球

「貿易総額で一位に」

けんかも売っている −中国

「54%の家庭に」

指は口ほどにものを言い −スマホ


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(325)「韓国客船沈没事故に思う」

痛ましい事故発生から10日が過ぎた。4月16日午前8時46分、韓国南西部・珍島(チンド)付近で起きた韓国旅客船の沈没事故。修学旅行中の高校2年生の生徒352人、引率教員14人、一般客108人、乗務員29人の計476人が乗船、うち救助された人(生存者)174人、死者187人、行方不明者115人(4月26日現在)、連日、懸命の捜索活動が続けられているものの、船内には浮遊物が散乱し、各扉は固く閉ざされ、早い潮流や悪天候の影響で捜索活動は今後、かなり難航することが予想されている。この惨事の原因は、これまでにいろいろと報道されているが、韓国海洋警察と検察の合同捜査本部は、無理な改造(客室増設)による船自体の構造変化(船が傾いた時に、元に戻そうとする“復元力”の低下など)、安全性を無視した荷物の過積載、未熟な操舵による過度な右への針路変更など、複合的な要因による事故であったとする見方を明らかにした。

すでに報じられているように沈没した船『セウォル号』は、1994年に日本で建造され、当初、鹿児島―沖縄航路『フェリーなみのうえ』(全長145m、幅22m、総重量6586t、旅客定員804人)として運航していたもの。2012年に韓国の船会社に売却、その後(当旅客船は)最上階後方に客室を増設(旅客定員960人)、車輌やコンテナの積載量を増やすため船首右舷側の貨物用ランプウエイ(貨物の出入り口施設)を取り外すなどの改造が施され、重心が(日本時代より)高くなり、航行の安全性が疑問視されていたという。“人命より営利優先主義のしっぺ返し”との非難が続出している。まさにこの事故は100%人災だ。『セウォル号』の船長が出航前に仁川港の運航管理室に提出した“出航前の点検報告書”に虚偽記載があったそうだ。事故後に発覚した記録によると(船長が提出した点検報告書より)貨物は500t、車輌は30台も多く積まれていたという。また、船首あたりに10個あまりのコンテナが積まれていたが、これは報告書には記載されていなかったそうだ。このような“ずさんな報告書”が毎回、罷り通っていたかと思うと、背筋が凍る思いだ。そして、絶対に許せないのが船長以下、乗務員らの、乗客を置き去りにして自分たちだけがいち早く脱出した船舶遭難史上最大の“恥さらし”行為である。「客室で待機せよ」との放送をまともに聴き入れた乗客の多くが船と共に海底に沈んだ。船長・航海士・機関士ら、いわゆる“船舶職”15人は全員救助された。この逃亡者15人には極刑が至当である。

そんな卑怯者の乗員の中で、船が沈没する寸前まで救命胴衣を高校生たちに配って犠牲になった食堂スタッフ(アルバイト)のパク・ジヨンさんと言う女子大生(20歳)がいた。生徒たちが「お姉さんは救命胴衣着けないの?」と訊いたら「私は大丈夫よ、あとであなたたちを追いかけるから」と言い、浸水が始まると「海に飛び込みなさい!」と生徒たちに向かって叫んだ。そのパクさんは沈没後、遺体で発見された。まさに、パクさんこそが船長格の勇者だ。“歴史認識・反日外交”を売り物にしている大統領のパクさんよ “慰安婦像建造”などという(自らの品位を貶める)ヒステリックな行為は止めて、あの極限の中、若い命(高校生たち)を救わんとして自らの若い命を犠牲にしたパク・ジヨンさんの『勇敢なる韓国女性像』(顕彰碑)を建立してはいかがかな?

歴史認識外交一辺倒のパク大統領の片棒を担いで“日本叩き”を続けてきた韓国のマスコミも、ここに来てジャーナリズムの本道に目を向けるようになった。5年前(2009年11月)東京港発志布志(鹿児島)経由那覇行きのフェリー『ありあけ』が転覆事故を起こした際、乗員乗客全員が救助された事例を引き合いに「船の大きさや乗客数は異なるが共通点も多く“死者ゼロ”の日本の救難態勢、乗組員精神に学ぶもの」を論じた新聞、「救助活動における混乱、慌てぶり、遅れは、非先進国そのものだ」、「「韓国は国民の安全、人命の尊さ、諸外国への儀礼をわきまえない三流国家だ」「国民の不信を増幅した“じたばた政府”」などの見出しを掲げ、朴政権を批判する記事を掲載した新聞もあった。

日本政府からの支援の申し出を断った韓国政府の傲慢さに、翁は無性に腹がたった。いや翁だけでなく、その事実を後で知った韓国国民、特に犠牲者の遺族たちも怒った。韓国政府(韓国海洋警察)は、日本の海難救助技術の優秀さを当然知っているはず。「人命より、己れのメンツが大切か!」と国民や遺族たちは(韓国政府の料簡の狭さを)怒った。

船舶火災、海上での毒物・劇物の流出、転覆船舶などへの高度な救助技術を持つスペシャリスト集団・海上保安庁の『特殊救難隊』の海難救助技術は確かに世界最高レベルである。かつて翁が(大手広告代理店『電通』の依頼で)海上保安庁のPR映画シナリオを作成した時、東京国際空港内の羽田特殊救難基地を取材したことがある。『特殊救難隊』は、通称『特救隊(とっきゅうたい)』またはSRT (Special Rescue Team)と呼ばれ、海難救助の超プロフェッショナル集団。翁が(10年前に)取材した当時の数字は忘れたが、2012年現在では約12,500名いる海上保安官のうち、全国で150人しかいない潜水士から、更に選ばれたこの特殊救難隊員はわずか36人だそうだ。降下訓練や氷下潜水など厳しい訓練を重ねて鍛え抜いた強靭な肉体と精神力を持つ強者たち。1チーム6人編成(救急救命士が1人含まれる)で24時間体制。これまでに1人の犠牲者(殉職者)も出していないのが自慢だそうだ。日本政府が申し出たこの『特殊救難隊』の支援を、もし韓国政府が快く受け入れていたなら今回の『セウォル号』沈没事故の被災者救出劇は、もっと違った場面が展開されたかも知れないと(韓国政府の拒絶を)惜しむ声が多い。

人間は“災難の後始末の仕方”で評価(器の大きさ)が決まる。同時に“難儀を抱えた相手への思い方、接し方”もまた(その国、その人物の)評価が決まる。日本政府も日本国民も『セウォル号』沈没事故の犠牲者とご遺族へ心からの哀悼の意を捧げる“隣人愛”を忘れてはならない・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

今週はお休みです。

茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

今週はちょっと珍しいジャズドラマーの大隅寿男がリーダーのトリオの紹介です。
キレのいいピアノで始まるのでこのアルバムはピアノがメインなのかと思いました。
彼は2003年悪性リンパ腫の末期だったのですが演奏活動を続けながら治療を続け2004年にはそれを克服したそうです。前向きな人なんですね。次の年に発表したのがこのアルバム"On The Road"です。聴きごたえのあるアルバムです。

"On The Road" 大隈寿男トリオ 

01 Billy Boy 6:41
02 Reflection 4:57
03 All The Things You Are 5:12
04 Falling in Love With Love 5:24
05 Waltz For Debby 3:58
06 Black Orpheus 4:45
07 Bloomdido 4:39
08 My Funny Valentine 7:20
09 Night In Tunisia 3:57
10 On The Road 6:37

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

韓国旅客船の沈没事故から10日以上も経ちました。懸命の活動にかかわらず残念ながら最悪の結果になってしまいました。利益だけを優先したために安全が犠牲となって起こった人災事故ですが、起こった後の船長、乗組員の幼稚で非人道的な行動のせいで最悪の事態を招きました。こういう人災が起こる背景を深く考える必要があると思います。家族や関係者の絶望的な気持ちを考えない無神経な行動の政府関係者やメディアも問題だと思いました。
マレーシア航空の飛行機が消えたニュースはもうすっかり影をひそめてしまいました。たくさんの人の消息が分からないままになっていますが一体どうなったのでしょう?《R.O.》


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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.937

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com