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NO.936           Ryo Onishi              4/20/2014

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雑貨屋のひとり言

日本の人口の4人に1人が65歳以上になったと総務省から発表されました。以前から分かっていたことですが、日本はものすごい高齢化社会になりました。という私もその年齢に近づいています。
4月18日に開催された第16回関西加州会のほとんどのメンバーは65歳以上です。皆さんお元気で楽しそうな顔をされています。おそらく5年、10年先でも同じ顔ぶれで元気に会えるような気がします。終身会長の田渕さん、いつもご苦労様です。楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました。≪R.O≫

 

Made in Occupied Japan(2)

ところで当時の日本はアメリカを中心とする連合軍に占領された土地であり、GHQ(連合軍総司令部)の支配下に置かれていた訳ですから貿易を再開しても、輸出品に“Made in Japan”と刻印または記入出来ません。なぜなら当時の日本は被占領地であり、独立した日本国ではないのですから。そこでやむを得ず使われたのが“Made in occupied Japan”という文言だったのだそうです。日本人にとって屈辱的ともいえるこの文言も当時の現実がそうであればしかたのないことだったのでしょう。

そしてこの“Made in occupied Japan”という文言は、1951年9月サンフランシスコ講和条約により日本が晴れて実質主権を回復し、独立国となるまで続いた筈です。即ち、“Made in occupied Japan” のマーク又は刻印のある製品こそ、ほぼ60年前、戦後日本から輸出された最初の製品群ということになり、その後の貿易(輸出)大国日本の原点であるといえるでしょう。

そこで私はその“原点”である“Made in occupied Japan” のマークまたは刻印のある品物を当地で探すことにしました。原点とは出発点であり、人間でいえば母親にも相当する懐かしい存在であると同時に、その後と今を知る最大の手掛かりだと思うからです。

このマーク又は刻印の入った品物は、1ドル=360円が決まった1949年4月から日本が再独立した1951年9月の間、わずか2年半程の短期間だけ輸出されたものと考えられ、その上、このマークや刻印は当時の被占領地日本からの輸出品に付けられたものですから最大輸出先であるアメリカこそ、探すのには最適地の筈であり、きっといろいろ該当品が見つかると考えたのです。(日本国内向けの商品にわざわざこんな屈辱的なマークや刻印はしなかったでしょうから)

当時の日本の輸出統計を取り寄せ調べてみると、その頃の日本は金額こそ少ないけれど結構それなりに多品種にわたり海外へ外貨獲得のため輸出していることがわかります。私がこれまで当地で見つけた“Made in occupied Japan” 品は陶器の皿、置物、飾りなどが主なものです。変わったところでは オペラグラスを手に入れました。これは私の友人を通して彼の知人(年配のアメリカ人)から譲ってもらったもので、そのアメリカ人は 朝鮮戦争の時、アメリカ軍(国連軍)の兵士として出兵し、戦地で手に入れたとのことで、まさに上記の2年半の間にぴったり符合するものです。

当時の輸出統計には 上記陶磁器類などの他、繊維(絹製品など)、雑貨(豆電球、造花、麦藁帽子など)、玩具類(木製・ブリキ製品他)、木製品・竹製品(釣竿、熊手など)、農林水産物、お茶、味の素などいろいろ記載されていますが、それら殆どは日常消耗品であり、残っている筈のないものが中心なので、今残っている品目と絶対量はそんなに多くはないでしょう。

私は当時、小学校の低学年でしたが 母親が生活費の足しにとしていた手内職の玩具作りを手伝った記憶があります。それはブリキのオモチャとインデアンの顔の絵が印刷された小さな太鼓でした。(1個作って手間賃が5銭とか10銭といった単位だったと記憶しています)あのオモチャ達も今にして思うと、多分外貨稼ぎのための輸出品ではなかったかと想像されます。そうすると それらの製品にも“Made in occupied Japan” と記されていた筈です。

何時の日か、幼かった私が母と一緒に内職で手間賃稼ぎをしたあのブリキのオモチャやインデアンの太鼓をアメリカで見つけ出し、再会するのも、実は私の“Made in occupied Japan”探しの目的の一つなのです。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )


消費税春のリズムをかき回す

放射能まだ故郷が遠いまま

原発の是非シーソーが揺れている

アベノミクス風は桶屋にいつ届く

がなったりしないが父の反戦歌


( ニュースやぶにらみ )


「よく似た惑星を発見」

やはり戦争をしてるのかな −地球

「貿易総額で一位に」

けんかも売っている −中国

「54%の家庭に」

指は口ほどにものを言い −スマホ


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺散歩(83)
*室生犀星(1889〜1962)
加賀藩の足軽頭とその女中との間に私生児として生まれ、生後7日で生家近くの雨宝院住職の室生真乗の内縁の妻に引き取られ、7歳の時に正式に室生家の養子として入籍、室生照道を名乗ることになりました。この私生児としての生い立ちが後の犀星の文学にかなりの影を落としています。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの〜」
『或る少女の死まで』では酒場の少女を自分の生い立ちに重ねて、慈しみの目で見ています。「S酒場は団子坂からやや根津へ寄ったところの、鳥屋や、淫売屋の小路の中に(略)そこには鶴のようにやせた十二、三の女の子がいて、よくお酌をしていた(略)私はこの少女を見ていると、この少女の母親のことがよく考えられた。この子のようにやはり善良な微笑につつまれた女のように、わけても自分の子供さえ手にかけて育てられない運命をもっている女のように思われた。」
明治43年、21歳の時に東京に来て初めて住んだのが千駄木林町。以後下宿代が払えなくなると、動坂、千駄木、根津あたりを転々としています。
大5五年27歳の時に、朔太郎、暮鳥、等の同人を得て千駄木町120番地にて感情詩社を起こし『感情』を創刊。大正7年には上記「ふるさとは〜」の詩も含まれている『抒情小曲集』を刊行します。
同書より「小曲集第三部は主として東京に於て作らる。本郷の谷間なる根津の湿潤したる旅籠にて(略)いくそたび蹉跌と悪酒と放蕩との夏を迎へしことぞ」
大正8年隣町の田端に移ります。この頃、犀星は、既に詩人として名をなしていた高村光太郎の知遇を得ようと千駄木の高太郎邸を訪ねます。『我が愛する詩人の伝記』より「ツメタイ澄んだ大きくない一重瞼の眼のいろが、私の眼をくぐりぬけたとき彼女は含み声の、上唇で圧迫したような語調でいった。〈たかむらはいまるすでございます。〉〈は、いつころおかえりでしょうか。〉女の目はまたたきもせずに私を見たまま、答えた。〈わかりません。〉」智恵子に3度門前払いされ、4度目にようやく光太郎に会えましたが、高太郎に媚びている自分を恥じて、以後高太郎邸を訪れることはしませんでした。
大正15年、犀星を慕って集まっていた中野重治、堀辰雄等が同人誌『驢馬』を創刊。その溜り場だった動坂のカフェー「紅緑」の女給募集の張り紙を見て飛び込んできたのが、田島稲子(後の佐多稲子)でした。

龍翁余話

龍翁余話(324)「横浜公園のチューリップと山下公園の花壇展」

2012年6月に配信した『龍翁余話』(235)「鎌倉・紫陽花巡り」、2013年1月に配信した同(260)「余生の在りよう」、更に2013年6月に配信した同(274)「春のSL列車に乗る」で紹介した、旧友A・Mさん(元・某美術大学教授)が主宰するスケッチの会の皆さんとご一緒に、4月中旬、今度は『第36回よこはま花と緑のスプリングフェア2014』に行った。
まずは、横浜スタジアム(野球場)の敷地内にある横浜公園(1876年=明治9年に開園した我が国初の洋式庭園)の『チューリップ・フェア』。市民や近くの小学生たちのボランティアによって植えられた69種類、16万本のチューリップが、公園いっぱいに咲き誇る豪華絢爛さに圧倒され、映像のプロであるはずの翁、(目が散って)カメラ構図を決めかねるほどに興奮した。♪咲いた 咲いた チューリップの花が 並んだ 並んだ 赤・白・黄色 どの花見ても 綺麗だね――本当に(どこに目をやっても)綺麗だ!もう余計な能書きは省いて、この圧巻のチューリップ群をご覧いただくことにしよう。

『よこはま花と緑のスプリングフェア2014』のもう1つの会場は山下公園(1930年=昭和5年に開園)。ここは横浜港の臨海公園。かつて北太平洋航路で活躍した日本の大型貨客船(12,000t)『氷川丸』(1930年=昭和5年就役、1960年=昭和35年運航終了、以後、博物館船として横浜港に係留)や『横浜マリンタワー』、歌碑『かもめの水兵さん』、『赤い靴をはいていた女の子の像』、『水の守り神』などで有名。これまでに何回もテレビドラマなどの撮影に使われた場所なので全国的によく知られている公園。今、市内の造園業者による(さまざまな趣向を凝らした)『花壇展』が行なわれている(〜5月6日)。ここでも余計な能書きは不要、造園のプロが製作したアート・フラワー・ベッド(芸術花壇)をお楽しみいただこう。

“余計な能書きを省いた”のは、翁が体感した感動を出来るだけ読者各位におすそ分けしたいから、ということもあるのだが、もう1つの理由は、翁には『花』を語る知識がないからだ。ご一緒したスケッチの会の皆さん(今回は7人)は、いつも自然と親しんでいるせいか、さすがに(花に)詳しい。チューリップ園で翁が撮影している時「原産地はトルコですが、生産地はオランダが有名。日本では富山県、新潟県が主産地で両県の県花でもあります。横浜市では中区や神奈川区の区花。それと、チューリップの花言葉は愛です」その他、いろんなことを教えていただいたが写真を撮るのに夢中で、せっかくのご教授を無にしてしまった。ここにお礼とお詫びを申し上げる次第。ともあれ『よこはま花と緑のスプリングフェア』での感動は、今後の翁の草花への関心をいっそう高めてくれるだろう。改めて感じる美の魅力、これからも更に美を求める心を大切にしたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

心に残る言葉@

日本に戻ってきて、あの人に会いたいな〜と思う人が増えていくのは嬉しい事だ。
この数年の間にロスに滞在していた友人や会社の上司だった人達も日本に戻ってきているので日本で会う機会も徐々に増えてきている。また新たに日本で知り合いになる人もいる。その中でも特別、親しみを感じている地元のリーダーで今も活躍なさっているTさんがいる。以前もこの雑貨屋で彼女の事を少しだけ書かせて頂いたが祖母が亡くなって母が一人になってからは特にいろいろお世話になった。祖母が住んでいたこのあたりでは知り合いもあまりいなく心細い私たちにとっていつも笑顔で暖かく接してくださるTさんは頼りになるだけでなく会話も楽しい人だ。そんなTさんの人柄から発せられる言葉はいつも私の心に残る。Tさんは商家の生まれで育ったそうでお父様は彼女が務めに出ることは許してくれなかったそうだ。高校卒業後は洋裁学校や料理学校に通わされ空いている時間はお店の手伝いをしていたそうだ。当時は住み込みで働いているお手伝いさんもいたそうでその人達と一緒に働き在学中も実家の手伝いをしていたそうだ。その頃はTさんも家族も同じ方向を目指して結束する事に魅力と意義を感じていたそうだ。銭湯に来るお客様に気持ち良く過ごしてもらうこと、お客様が心を割ってTさん家族たちに接してくださる事も嬉しかったそうだ。家族皆がサービス精神に満ちていてお客様が喜んでくれる事に喜びを感じていたという。いろいろ複雑な家族構成でけして仲がいい家族ではなかったらしいが、この点だけは一致していたそうだ。そしてTさんは1度もお勤めしない身で、結婚し出産した。子育てがTさんの人生の全てだったそうだ。今でこそ義息子さんが経営している翻訳会社の経理の仕事を担当してその経費として給料を計上され、その1部を支払ってもらい年金生活の足しにしているのだそうだが家族5人の主婦時代には給料は主人が持ってくるものでTさんには全く無縁のものだったらしい。Tさんは、その頃の子育て時代に親子が参加するサークルの代表となり企画や運営に関わる運営委員として地元のサークル活動に奔走していたそうだ。財政が圧迫すると専任の変わりに母親件事務局員を作り束ねて毎日、事務所番までやったそうだ。そんな母親の後ろ姿を見て子供たちは育ったので家を空ける母親を責めること無く自分の母親は皆の為に働いていると理解してくれTさんの外出を嫌う父親にTさんが在宅していたように庇ってくれたそうだ。こういう社会貢献が自然に身についたのも彼女が育った環境とTさんの持って生まれた性格が功をなしたのだと思う。
実は私は日頃からTさんは主婦でありながら組織や会社経営のセンスがずいぶんある人だと感じていた。私がTさんを知れば知るほど、ただの主婦にしておくのはもったいない。彼女の天性を生かした会社があったらどんなに成功していただろう。そしてそんな彼女の会社で一緒に働けたらどんなに楽しく有意義だったろうと思っていた。今まで仕事柄いろんな経営者やマネージャーを見てきた私にとってTさんはそのへんの会社の経営者より有能な人材だと思ったのだ。それでそんな話をした時にTさんが息子さんとの会話を私に話してくれたのだ。その話がとても印象に残った。
ある日、Tさんが自分は今まで1円も収入を得たことが無いし仕事をした事が無いということ事を憂いていた時、息子さんが ”お母さん、広辞苑で仕事という意味を調べてごらんよ“ と言ったそうだ。
そこには仕事とは@すること、しなくてはならないこと A職業、職務と書かれていたそうだ。息子さんは職業よりも先に書かれている言葉に目を付けられたそうだ。
“仕事は収入を得ると書いていないでしょう” と言い “お母さんはしなければならない事をしているのだから、仕事をしているのだよ”と大学生だった息子さんが教えてくれたそうだ。その言葉にTさんは目からウロコの落ちる気持ちになったそうだ。なんと
立派な息子さんだろうと感動した。そしてその息子さんの会話を聞いて私も目からウロコが落ちたような気持ちになった。
私が会社を辞めて日本とアメリカを往復するようになってからのある日、日本にいる友人が “ 茶子ちゃんは仕事をしなくて大丈夫なの?いつになったら仕事をするの?”と。もちろん友人として私を心配してくれる気持ちからの言葉だったと思う。お金を生み出さないという事は仕事をしていないと思われるのは当然だったかもしれない。
外でバリバリ働く現役の友人からしたら家事というものが仕事というふうに理解出来にくいというかあまり、そういう仕事に価値を見いだせなかったのかもしれない。
今、日本に帰ってくるとその家事手伝いというのが主な私の仕事でもある。Tさんと息子さんの会話を聞いてから世の中にはいろいろな仕事、働き方というものがあるのだな〜と考えさせられるようになった。そしてその仕事が今の私にとって意味のある仕事なのだと思えるようになったのもこのTさんと息子さんの会話からなのだ。

茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

ずいぶん前のことですが大阪城の野外ステージで聴いたトランペットの迫力のある音が耳に残っていてトランペットは野外で聴く方が似合っていると思っていました。でも夜に静かに聴けるトランペットもたくさんあることも知りました。最近はそういうアーティストのアルバムをよく聴きます。その中の一人、イタリアの人気ジャズトランペッターChris Bottiのアルバム”Impressions”を紹介します。
ゆったりと流れるメロディーはまるで映画の1シーンでも観てるような気分になります。
うまく表現できないのですがとてもオシャレなトランペットジャズです。

"Impressions" Chris Botti 

1. Prelude (Frederic Chopin)
2. Per Te (For You) (Chris Botti/David Foster/Tiziano Ferro)
3. En Aranjuez Con Tu Amor (Joaquin Rodrigo)
4. You Are Not Alone (R. Kelly)
5. Losing You (Randy Newman)
6. Tango Suite (Chris Botti/Herbie Hancock)
7. Setembro (Ivan Lins)
8. Oblivion (Astor Piazolla)
9. Sevdah (Gabriel Yared/Tanja Tzarovska)
10. Summertime (George and Ira Gershwin/DuBose Heyward)
11. Contigo En La Distancia (Cesar Portillo de la Luz)
12. Over the Rainbow (Harold Arlen/E.Y. Harburg)
13. What A Wonderful World (Bob Thiele/George David Weiss)

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

韓国珍島沖で発生した巨大旅客船の沈没事故はとんでもない展開になっています。
船長と船員が事故発生時に適切な処置をとらず先に逃げ出すという信じられない行動のせいで、未だに多くの行方不明者がいます。おそらく行方不明者は船内に取り残されているのだと思います。沈没から4日も経っているのになかなか進展が見られません。捜索は困難を極めているようですが、これら一連の動きをニュースで見ている世界中の人がこの国は大丈夫なのかと思っているのではないでしょうか。早い対処と1人でも多くの生存者がいることを祈っています。《R.O.》


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.936

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com