言葉と文化は表裏一体であるといわれます。日本語に否定形又は消極的表現が 比較的多く用いられるということは、即ち日本の文化、日本的発想が
「断定・二者択一型」でなく、「人と人との関係・調和を重んじ、論理的対決を好まないコンセンサス型」
であることと、無関係ではありえないことでしょう。
いつの日か将来、(又は現在もう始まっているのかも)日本と日本人がいわゆる日本的発想を捨て、例えばアメリカナイズしてしまったとしたら、日本語は現在の形ではもはや生き続けられなくなるのではないでしょうか。
日本もこれから国際社会の中で諸外国と共存し、相互信頼関係を維持するためには、これも一面ではやむをえないことでしょうが、しかし他面、この日本的発想こそが、「財・物」に比重を懸けすぎた過去から
「物」・「心」のバランスのとれた未来への一つの切り札になる筈なのだから、これはきちんと残さなければならないと
私は信じています。この観点からすれば、言葉としての日本語もあまり変わって欲しくないというのが私の本音です。
日本語からは外れますが、仏教の経典に「般若心経」(正式には「摩訶般若波羅蜜多心経」)という 「お経」
があります。ご存知の通りこの経典は、三蔵法師がインドから中国へ持ち帰り、漢語に翻訳したと伝えられるもので、世に数ある経典の中で
最も短い「お経」といわれ、 全文でわずか262文字しかありません。私はこの262文字の中に「否定」を意味する文字である 「不」 と
「無」 が いくつあるか 数えてみました。
結果は 「不=9」、「無=21」 で合計30文字、何と262文字のうち、11%強は否定を表現する文字でした。要するに 「般若心経」とは
「アレデハナイ」、 「コレデモナイ」 の連続といってもよい「お経」 のようです。(これは
けっして経典をけなしているのではなく、その逆でそこに仏教とインド哲学の奥の深さを感じます)
私は仏教をはじめ、宗教については殆ど無知ですが、「般若心経」の解説書によると、これは「経典」というよりは宇宙の根本原理について説いた「哲学」なのだそうで、
森羅万象の根本原理を「無我」と「無常」に求め、そしてこの宇宙の存在原理を最終的に「空」として捉えていく――こう書いている私自身、本当のところ、何のことやら
サッパリ判っていませんが、でもつかみどころのないこれら表現に、何故か知らない共感を覚えます。
この世のすべては移ろうもので常ならず(無常)、お互い関係しあって存在する(無我)、そしてそこに我々は
「物」とか「心」とかを超越した何かの存在を感じとる――こんなところが「何故か知らない共感」 に相当するのではないでしょうか。
また、日本の古典から藤原定家撰と伝えられ、日本人に良く知られている「小倉百人一首」について、否定表現を調べてみました。全百首のうち否定表現が一ヶ所でもあるものを拾い出してみたら(私もヒマだね)なんと百首中、46首(46%)もありました。(例えば;「まだふみもみず」「こころもしらず」・・・)
中には「わが袖は潮干にみえぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなし(二條院讃岐)」のように、一首の中に否定が3ヶ所あるのもあり、日本人の否定形好きは長い歴史があるようです。
話を現代の日本語へ戻します。日本人は一般に他人にものを頼む時、謝礼の話はしないことが多いようです。(ビジネス又はビジネスライクの場合を除く)
頼む方も、頼まれる方も
「悪いようにはしないから」、「悪いようにはしないだろう」という暗黙の相互了解が存在するからです。でも考えてみるにこの「悪いようにしない」という発想自体、こんな曖昧なものはありません。でも日本人同志なら普通これで通用するのです。これが通用しなくなった時、日本と日本人が変わる時であり、もしかしたらその時は既に始まっているのかもしれません。
「不言実行」という言葉は日本語として普通に使われますが、英語ではこれに相当する慣用句はないようです。英語の文化圏では「有言実行」
というコンセプトの方が強いから「不言実行」という発想自体がでてこなかったのではないでしょうか。
因みに今、私の手許にある漢字辞典(角川新字源;親字数 1万字、熟語数6万余)で 「不」、「無」
で始まる熟語の数をかぞえてみたら、「不=102熟語」、「無=118熟語」 も有りました。(不可思議 ・不肖 ・ 不遜 ・無頓着 ・ 無駄
・ 無茶など・・・)
これら熟語は、それぞれを英訳した時、英語では否定表現でないのが普通なのが圧倒的に多いのではないでしょうか。
河合 将介( skawai@earthlink.net ) |