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NO.928            Ryo Onishi              2/23/2014

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雑貨屋のひとり言

ソチのすぐ近くのウクライナで大きな騒ぎが起こっていますが、まもなくソチ冬季オリンピックが終わります。心配されていたテロがなくてよかったですね。たくさんのドラマがあったオリンピックでした。
オリンピックに出場するだけでも大変なのに、そこでメダルを取るということがいかに難しいことかをあらためて感じさせられました。勇気と希望を与えてくれた選手がたくさんいました。みなさんご苦労様でした。そして感動をありがとうございました。≪R.O≫

 

日本語と否定形(2)

私が目にした日本語の文章で、一見いかにも日本人離れのようでありながら、実はやはり日本人の文章だなと感じたものを、以下にご紹介したいと思います。

これは以前、NHK出版から出ている『日本一、心のこもった恋文』に掲載されている「恋文」のひとつです。少々押し付けがましいのが気になりますが、テーマがテーマだけに、そこは若さと情熱・意気を認め 「よし」 とすれば、この文章に私は、新しい日本人の前向き・積極的な「心と感性」の一端を見る気がします。以下のとおりです。

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そうよ。私のこと、好きになってみない? そんなに悪い話じゃないと思うわ。そりゃ、あなたが望むような、美しさや細やかさはないけれど、それくらい我慢しなさいよ。私は何も望まないんだから。
そんなに悪い話じゃないはずよ。そりゃ、かわいさやかよわさには欠けるけど、私には度胸があるわ。ほら、何が起こるかわからない世の中だし、いざという時、きっと重宝するわよ。
どう。なかなかいい話でしょ。そりゃ、私、器用じゃないから、一度に多くのこと考えられないし、物忘れもたくさんあるけど、それでも、それでも、あなたのことを一番に思っていてあげる。ずっとおもっていてあげるから。私のこと、好きになりなさいよ。ね、そうなさい。(福岡県・木戸美穂子さん21歳)

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一読した限りでは、確かに恐れ入るというか、堂々たるラブレター(恋文)ですね。私の世代の感覚からすると、空恐ろしくて逃げ出したくなる程に 自信にあふれた文章のようにみえます。

ところが、こんなモーレツに見える文章でも、しょせんは日本人の書いた文章であり、否定形(又は消極的表現)が8ヶ所もあります。(尤も、この文章の場合、否定形に決して負けない 強い肯定形もあり、そこが現代の若者らしい力強さを感じます。特に、最後の一行の『私のこと、好きになりなさいよ。ね、そうなさい。』がもし『私のこと、好きになれないですか。ね、だめですか。』だったら折角のそれまでの文章が腰砕けです。)

21世紀は「心と感性の豊かさ」 が改めて見直される時代だと思います。そして、その時は、日本の出番の筈です。出番に備えて今から「感性と心」をしっかりと持ち続け、さらに磨いておきたいものです。 ――― 以下、次号へ続く―――

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )


札束に尾など振るかと言うよだれ

足し算の欲掛け算にして転び

パチンコで返す気でいる借りた金

偽札の技術 刑事に惜しがられ

また留守にします小菅に参ります


( ニュースやぶにらみ )


「跳んだ、飛んだ」

集大成を ―浅田真央

眠気が  ―真夜中のテレビ前

「発言」

大事なときに転ぶんだよなオレ −森元首相

「4年後の葛西選手」

ぜひパパで金を −谷亮子


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺散歩(81) 根津編
*藤沢周平 『飛鳥山』
幕末から明治半ばまで根津は遊郭として賑わった場所でした。その根津から北へ団子坂、動坂を越えて行くと王子へ行きます。
この小説の主人公(女)は、この道の途中の所で一人暮らしをしている母親を見舞ったついでに、桜で賑わっている飛鳥山まで足をのばします。女は、18歳で結婚しますが、3年足らずで夫がよそに子どもを作り離婚。34歳の今は根津の引手茶屋で働き独身でした。「寄ってくる男たちに、女たちがほんの束の間のあやしげな夢を売って、金を巻き上げる根津の色里の隅で、ただ時に流されて、日々生きているだけだった。女は歩きながら、深い溜息をついた。(略) 何て可愛い子だろ。ゆっくり膝を折りながら、女はそう思った。女はもともと子供が嫌いではないが、こんなに心を動かされるような子に、会ったのは初めてだった(略)子供は、怯えていなかった。〈お名前は?〉小さな声で聞いた。〈ゆき〉〈おゆきちゃんね〉」しかし女はそのまま子供の傍を離れて、王子のお稲荷さんにお参りし、その帰りにまたこの子に会います。この子の母親は亡くなり、母の兄一家に引き取られたのですが、邪魔者扱いをされていたようです。
「じゃ、おばちゃんと一緒に行く」ついそう言ったとき、女の胸は早鐘を打った。(略)女がさし出した手に、子供がつかまった。女は、子供を抱き上げると、幸福感があふれた。だがそれは一瞬で、すぐに恐怖のために息苦しく、口をあけてあえいだ(略)〈安心してつかまっていなさいね〉とささやくと、子供は、女の首にしっかりと腕を回してつかまった。子供がささやいた〈おっかちゃん〉〈おう、おう〉と女は答えた。胸に抱いているのは、生まれるはずだった、自分の子だとおもった。突然に、女の目から涙があふれ出た。」

龍翁余話

龍翁余話(317)「大倉山公園梅林」

品川区西五反田エリアにある我が家の前を中原街道が走っている。この街道は、昔は東京都港区虎ノ門を起点として神奈川県平塚市(中原御殿)を繋ぐ東海道の脇街道であったが、近年、西五反田の中原口交差点からを中原街道と呼ぶようになった。この街道は同じく西五反田を起点として横浜市神奈川区浦島に至る綱島街道も含まれるのだが、多摩川を渡ると街道は小杉(川崎市中原区)方面と東急東横線の日吉・綱島(横浜市港北区)方面の2筋に分かれ(一般的には)小杉方面の道を中原街道と呼び、日吉・綱島方面の道を綱島街道と呼ぶ。その綱島街道沿い(東横線日吉、綱島の次)に大倉山と言う駅がある。翁の家から車で約50分、大倉山駅裏手の小高い山の上に『大倉山公園』がある。日吉に住む友人の話では「あの公園には駐車場がない」とのことだったので、駅近くの有料駐車場に車を入れて歩いた。大倉山駅横からの急勾配の上り坂は、さすがに息が切れる。

大倉山公園へ何しに来たか、というと、実は過日、戸越銀座商店街に買い物に出た時、池上線・戸越銀座駅構内の案内板に置かれていた『大倉山公園梅林』のチラシが目に止まり、ならば行ってみよう、と思い立った次第。40年も西五反田に住んでいるのに大倉山公園も梅林も知らなかったのだ。インターネットで調べたら、ここの梅林には寒紅梅(かんこうばい)、田子の浦(たごのうら)、紅千鳥(べにちどり)、白玉梅(しらたまばい)など32種、約200本の梅が植えられているとのこと。知識のない翁にとっては、各梅の木の脇に、それぞれ種類の名称札が付けられていたので、何となく物知りになった気分。当日(2月19日)は8割程度の開花、充分に見応えはある。しかし、2週連続の大雪のあとだからか、見物客はまばら。翁、残雪を踏みながら1時間ほどの梅林散歩を楽しんだ。 

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ところで――『大倉山公園』と言う名から、遠い昔の青春時代の思い出が甦る。それは神戸(高校)時代のことだった。高校2年生の夏休み期間だったか、学友(仲良し4人組)と大学受験勉強(という名目)で神戸市立中央図書館に通っていた時期があった。その場所が神戸市生田区(現・中央区)の『大倉山公園』内にあったのだ。夕方5時の閉館まで勉強したあと、4人は小丘の公園の芝生に胡坐をかいて(どこで仕入れたか)コッペパンをかじり牛乳で喉を潤しながら語り合うのが習慣だった。『逍遥の歌』(旧制高等学校寮歌)もよく歌った。『紅もゆる丘の花』(第3高等学校=京都大学)、『ああ玉杯』(第1高等学校=東京大学教養部)、『都ぞ弥生』(北海道大学予科)などは今でも歌える。時には夜の更けるのも忘れ、(芝生の上に寝転んで)満天の星を見上げながら“青雲の志”を語り合ったものだ。「法律家になって社会正義を貫きたい」「貿易業を興して神戸を世界のKOBEにする」「農林官吏になって日本の第1次産業の発展に尽くす」「ジャーナリストになって世界を駈け巡る」熱く語り合った4人組の友情は、60年経った今もなお続いている。

神戸の『大倉山公園』(の名称)は、明治・大正期に貿易・建設・化学・製鉄・繊維・食品など多数の企業を起こした大倉財閥の総帥・大倉喜八郎(東京経済大学の前身、大倉商業学校の創設者)が明治43年にこの土地を神戸市に寄贈したことに由来するのだが、同じく
『大倉山』と名のつく有名な場所が北海道にある。ご存知『大倉山ジャンプ競技場』だ。ここは、大倉喜八郎の長男で大倉財閥2代目総帥・大倉喜七郎(ホテルオオクラ創設者)の資金援助によって(昭和6年に)建設された施設。古くは笠谷幸生、八木弘和、秋元正博、近年では原田正彦、船木和喜、ソチ五輪の銀メダリスト葛西紀明らの有名スキー・ジャンパーがここで活躍した。もっと若手では伊東大貴、高梨沙羅もここのジャンプ台で約3万人の大観衆を魅了した。と、知ったかぶりを書いているが、実は翁、北海道には50年前に1度、道央・道北・道東を駆け足取材したことがあるだけで、ほとんど知らないし、ましてや『大倉山ジャンプ競技場』は1972年の札幌オリンピックの時、テレビで視ただけ。
資料によると、リフトを使って頂上へのぼると展望ラウンジがあり、標高300mの地点から札幌市街地、石狩平野、石狩湾が一望できるとか。寒さとウインタースポーツに弱い翁だが、一度は白銀の世界を跳ぶ“日の丸飛行隊”の雄姿をナマで観たいものだ。

さて、ここ横浜市の『大倉山公園』は、大倉財閥とは関係ない。たまたま同姓の大倉邦彦(1882年〜1971年)という実業家(製紙業)・教育者(第10代東洋大学学長)が1932年「東西両洋の精神文化を学術的に研究し、知性・道義の高揚を図り、公民生活の向上、世界文化の進展に貢献する」旨の『大倉精神文化研究所』を開設、1981年に横浜市が敷地を取得、1984年に『大倉山公園』として開園した、とされている。梅林に誘われて思いがけず大倉邦彦を知ることが出来た。丘の頂上の深い樹木の間からギリシャ神殿風の白亜の建造物『横浜市大倉山記念館』(音楽会・美術展のホール、図書室などの文化施設)が訪れる人を待ち受けている。いつか、日を改めてこの記念館を訪問し“大倉邦彦の世界観”を学習してみたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

ジャパニーズアメリカン

ジャパニーズアメリカン、日本にいる人はこの言葉を聞いたことがあるだろうか?日本人ではあるけれどこちら(米国)で生まれ育った人をジャパニーズアメリカンという。そしてそのジャパニーズアメリカンの1世(パイオニア)の人は初めて日本から米国に来て移り住んだ日本人で戦前からこちらに来ていた人も多い。その頃に日本から船でアメリカに来てこの地で頑張った人は凄まじい大和魂を持っていたと思う。戦前にアメリカに来て日本が第2次世界大戦に突入し、このアメリカに住んでいた1世の人は殆どがキャンプ(収容所)に入れられている。その両親から生まれたアメリカ生まれの日本人は2世と呼ばれる。その2世の殆どが、当時、その両親と共にキャンプ生活を経験している。そして、そこで生まれた2世の子供もいる。
その1番苦労した1世の人はもう、殆どいない。そして、その初代の1世に育てられた2世の人が今は80歳から90歳、100歳を迎えている。そしてその2世を両親に持つ人が3世になる。この3世になると殆どがアメリカの教育を受けてアメリカの文化の中でアメリカの食事をして育ってきた世代なので日本人の両親であってもよほど自分から興味を持って日本の文化や言語を勉強しなければ英語しかしゃべれない人が多いしあまり日本の事を知らない。最近、その2世のKさん宅で日本食作りとリハビリを兼ねたお散歩のお手伝いをする事になった。最初にその方の家に行くと元総理大臣の小泉首相の表彰状が目に入った。103歳で亡くなられたご主人が100歳の時に長寿を祝って頂いたものだという。昔から日本食を食べてきた1世の両親に育てられ、やはり日本食が懐かしく美味しくてたまらないのだ。2世の人は何を作っても有難がって美味しい美味しいと感謝してくれるからこちらも嬉しくなる。その笑顔を見ているだけで私が逆に幸せな気持ちにさせてもらえる。
2世の家にお伺いすると日本の昔の暮らしがそこにあり何か懐かしい気持ちになる。火鉢や餅つきの道具やら洗濯板やら珍しいものがたくさん発見出来る。キッチン用具も砥石や鰹節の削るもの、笊や籠にいたるまで祖母のキッチンにもあったようなものがゾロゾロ出てくる。
 
柿の木 ドライフルーツ柿

庭には柿の木や梅や桜があり盆栽がある。“おばあちゃん、ずいぶん大きな柿の木があるのね”と言うと “毎年、柿が実る頃は近所に配ってずいぶん喜ばれたのよ。うちのは、とても甘くて美味いって評判だったけれど昨年は転倒をしてしまい足が不自由になってしまったから今年は、ほったらかしで、あんなになってしまっているの”と。
近くに行って見ると熟しきってしぼみかけた柿をついばみにたくさんの鳥が来ていた。
 
裏庭

ご主人自ら作られた池にはたくさんの鯉が泳いでいたそうだがご主人が亡くなってから誰も鯉の面倒を見る人がいなくなってしまったので全部知り合いに鯉をあげてしまったそうだ。乾いた池を見ながら、ふとKさんがここで5人の子供たちを育てた日々が浮かんできた。2ブロック歩けば行ける場所にKさんの長男が住んでいて一人暮らしの母を気使って毎日、朝に晩に立ち寄ってくれると言う。お嫁さんも週

末は食事を作って届けてくれるらしい。“息子も娘も孫も婆ちゃん婆ちゃんといつも来てくれ大事にしてくれるので私は幸せ者だ ”と穏やかな、いい笑顔で話してくれる。特にこの長男が普段は英語なのだが母親を呼ぶ時に“かあさん”と呼ぶ言葉が私を和ませてくれる。今日もその長男が母親の所によって洗濯を手伝っていた。その洗濯物を干す場所までちゃんとこの庭にはあるのだ。乾燥機があっても日に干す気持ちよさをKさんは知っているのだ。帰り際にKさんが冷凍庫から去年作ったという干した柿を“好きかどうかわからないけれど良かったら食べて”と差し出してくれた。添加物も何も入っていない柿そのものの自然の甘さは素朴で味わいのある干し柿だった。いつも日系2世の人と接すると暖かい気持ちになるのは昔の良き日本人の心をそのまま時を超えて受け継いでいるからなのだろうか…
茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

アルバム探しに困ったときは、Xアプリの検索を使います。"おまかせチャンネル"の"隠れた名曲"で検索して上位の方にリストされたジャズ、フージョンを一曲ずつ聴いて行きます。Pat MethenyのStill Life (Talking)という曲がとても爽やかに耳に入ってきましたので、これを選びました。Pat Methenyのシンセサイザーのギター、アコースティックギター、エレクトリックギターがメインです。ちょっとラテン系のノリで気分のいいアルバムです。
Pat Metheny Groupが1987年に発表したアルバムで1988年度グラミー賞ベスト・ジャズ・フュージョン・パフォーマンス賞を受賞しています。

"Still Life (Talking)"  Pat Metheny Group

01-Minuano
02-So May It Secretly Begin
03-Last Train Home
04-(It's Just) Talk
05-Third Wind
06-Distance
07-In Her Family


ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

豪雪地帯でもない地域に想定外の大雪が降り、大きな被害が出ました。最近は一年を通じて想定外の自然災害が全国、全世界で発生しています。特に超高齢化の進んでいる日本の地方はこれらの災害に対する防備や対応が課題です。高齢化はこれからもますます深刻になっていくでしょうから、これまでどおりのやり方や、考え方を大きく変えて行く必要がありそうです。《R.O.》


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
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Zakkaya Weekly No.928

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com