だいぶ前に、この欄でアメリカ医療体制の専門別分業システムについて書きました。私は人間のからだも全体のバランスのもとで均衡が取れていると考えています。人体のある臓器が障害を生じたとき、一点集中でその臓器だけを治療しても、ほかの臓器とのバランスが崩れては全体として意味をなさず、生命を全うできません。
以前、歯科医の先生がいっていましたが、人が歳をとって歯が弱くなり、硬いものを噛み砕くことが出来なくなったからといって、歯だけを丈夫にしても意味がない。なぜなら年齢相応に顎が弱まり、関係する筋肉が弱くなり、さらにはその他すべてが弱くなるからなのだそうです。全体がバランスよく、その年齢にふさわしい状態に保つことこそ最善ということなのでしょう。
米国の医療の分業システムは、それぞれが専門分野について集中して責任を担ってくれ、これはこれでたいへん合理的だとは思うのですが、なんだか自分の身体をひとりの人間として扱うのではなく、細分化された部品の寄せ集めとして扱われているかの如く印象が否めません。
私のような日本人的メンタリティからいえば、まず一人の人間がいて、その人間の身体全体のバランスを重んじるやり方が欠けているように思います。
世の中は複雑であり、単純に割り切れるものではありません。デジタル時代の今、すべての現象を0(ゼロ)と1(イチ)に分割し、イエス/ノーで決めつける論理がもてはやされています。最近では日本人も、若い人はびっくりするほど単純明快に割り切る人もいますが、本来、日本的な発想とは、ものごとを明確に「分類・細分化」するのではなく、その逆で全体のバランスや相互関係、整合性を重んじるものであったはずです。
ものごとを徹底的に細分化し、分類し、体系化する欧米的発想のおかげで、近代の学問と科学が大きく進展し、人類文化の進歩に貢献したことは確かですが、その反面これは妥協を許さぬ対決型思考であるため、物・心のバランスに欠けるという弊害を生み出していないでしょうか。
全体としての調和と、そこに見える全体像の体系化により、人間が人間らしく生きる道と真理を求める――。そこでは、必ずしもイエス/ノーで全てを割り切るのではなく、人と人との関係をもっと重視した、相手を思いやる発想が必要になってくると思います。
物と心と自然のバランスを通して人間が人間らしく生き、人間関係においては相手にレッテルをはり、一方的に決め付けることではなく、互いの立場を尊重しあう心を持ち合ったうえで、自然と共生する心を育てたいものです。――――― 年の初めにこんなことを考えました。
河合 将介( skawai@earthlink.net ) |