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NO.908            Ryo Onishi              10/6/2013

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雑貨屋のひとり言

JR大阪駅から奈良方面に向かう途中の加美駅を過ぎたところでビルの屋上に大きなアンテナ群が見えてきます。そこはアマチュア無線家(ハム)なら誰でも知っている無線機メーカー"iCOM"の本社です。45年前、私はこの会社の前身である株式会社井上電機製作所が製造販売していた50MHz帯のトランシーバーを使っていました。その小さな会社が成長を続け、会社名が"iCOM"と変わり世界トップクラスの無線機メーカーになりました。トロント在住時以来、アマチュア無線を休止していますが、あの大きなアンテナを見ると毎日ワクワクしながら世界中のハム局と交信したことを思い出します。≪R.O≫

 

述懐、伊藤博文作

私たちの詩吟の会は年2回、春季と秋季の吟詠大会を開催しています。会場はロサンゼルスの隣、ロングビーチ市のハーバー日系人会館です。今年の秋季大会は9月29日(日)正午から盛大に賑やかにおこなわれました。

私たちの流派である国峯流、尚道会は北加(北カリフォルニア)と南加(南カリフォルニア)の2地区に大別され、私たちの属する南加地区はさらに7つの支部に別れています。普段はそれぞれが別々に担当師範のもとで週一回クラスがあり、詩吟の研鑽に励んでいますが、南加地区は春と秋の年2回、上記の合同吟詠大会を開催しています。このとき北加地区メンバーからも希望者をゲストとして受け入れています。大会当日は地元の日系新聞「羅府新報」からも記者が取材に訪れ、新聞でも大きく記事として取り上げてもらっています。今回も取材記者が来て写真をと撮ったり会員へのインタービューをしてくれていました。

この大会では南加地区メンバー(及び北加からのゲスト)全員がそれまでの成果を全員の前で発表するわけです。今回の秋季大会では私は『伊藤博文作の述懐』を吟じました。

☆述懐 伊藤博文作

活識(かつしき)独り応(まさ)に、変遷を知るべし。
平凡、何(なん)ぞ、虚玄(きょげん)を語るに足らん。
名を万世(ばんせい)に沽(う)るは、吾が志に非(あら)ず。
眼(まなこ)を千秋(せんしゅう)に注いで、宜しく先(せん)を察すべし。
夷険(いけん)を往来して、坦道(たんどう)を知る。
死生に抛着(ほうちゃく)して、皇天(こうてん)に任す。
我が徒(と)須(すべか)らく盡(つく)すべし、勤王(きんのう)の事。
一身の為に、瓦全(がぜん)を図る勿(なか)れ。

【大意】
一国を治めるものは、物事の真理を究め、100年後の見通しをつけるくらいの見識を持たなければならない。
 平凡な常識しか持たない者は、所詮大事を語り合えるような資格はない。
 みだりに売名行為をして、後世に名前を残すことは私の志ではない。
 常時自分の眼を1000年先の隅々にまで注いで、国家の大計を樹立しなければなら
ない。
平地や険路、その両方を辿ってみて、初めて平坦な道のありがたさがわかるように、死か生か、重大なときに出くわしてこそ、始めてこの身を天に任せることができるのだ。
 我々が尽くそうと考えるのは、ただただ勤王の事あるのみだ。
 諸君! 我が身を可愛がるあまり、つまらぬものとなりはて命を永らえるより、大義の為に自分の命を投げ出す覚悟が必要である。

 明治の立役者であり、元勲のひとりである伊藤博文公は女ぐせの悪さなど、毀誉褒貶の激しい政治家ですが、日本の立憲体制の生みの親であり、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草の中心者といわれています。また、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任しています。

 明治維新にあたって、当時の元勲には伊藤博文公だけでなく、若いうちから天下国家について意見を持ち、また実行した偉人が多くみられます。これら偉人が詠んだ漢詩が多く残っています。尊王思想、攘夷思想ほか方法論は違っていても国の将来を憂い、身を挺して天下国家のために尽くす心構えが伝わってきます。私はこれらの漢詩を現代への警告・教訓として改めて見直すべきではないかと痛感しています。
河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )


ドングリの背伸びが夢を追っている

自分史の真ん中酒の染みだらけ

コマ一つ足りぬジグゾー組んでいる

禅組んでみてもやっぱり凡夫です

生前葬からが元気になりました


( ニュースやぶにらみ )


「2プラス2」

答えはそう簡単じゃない ―日米4閣僚

「物価値上がりの10月」

神無月はウソです −貧乏神

「藤村前官房長官引退」

慰労会はどじょう鍋で −野田前首


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(299)(300号プレ記念号)「置かれた場所で咲きなさい」(その1)

早いもので、翁が2004年にブログ・エッセイを書き始めてから9年経つ。初期のエッセイ・タイトルは『龍翁の独り言』だった。歳をとり、我が人生の足跡(自分史)、ついでに我が信念(思想)に基づく世の動きへの独断批評(翁自身は“憂士の叫び”と呼ぶ)を試みるべく、月に2〜3回、書きたい時に書く“気まぐれエッセイ“としてスタート、ごく身近な友人にだけ配信していた。50編ほど書いただろうか、3年後の2007年8月、友人のSさんから(週刊ウエブ・エッセイ集)『雑貨屋ウイークリー』(1996年当時、アメリカに駐在、居住する日本人同士の交流網として発足=主宰:大西良衛氏)を紹介された。Sさんご自身が『雑貨屋ウイークリー』のレギュラー執筆者だったから。大西氏も歓迎してくれ、翁も執筆グループの1員に加えて貰うことになった。それを機に、翁のエッセイ・タイトルを『龍翁余話』に替えた。『余話』とは、“巷説・こぼればなし・余聞“(紀行・趣味・自然・人間・政治・芸術・芸能・スポーツなど、さまざまなジャンル)すなわち、何でもありだ。それに加え(前述のように)翁は“憂士の叫び”と自称して(国際を含め)世の中の好ましからざる動きや人物に対して<言いたい放題、斬り捨て御免>で吼えてきた。この翁の“吼え”に対して厳しい批判・反論、優しい激励を沢山頂戴した。どちらも感謝である。その『龍翁余話』が丸6年を過ぎて、次号で早や300号となる・・・

2007年8月、『雑貨屋ウイークリー』に掲載された第1号『龍翁余話』(「いざ、12秒」)の巻頭に《龍翁命名の由来》を記述した。一部を抜粋する。【・・・2代目市川猿之助が昭和37年に孫・団子に3代目猿之助を譲り、自らは「猿翁」を名乗った。その時、彼は「翁の文字、まだ身に添はず、衣がへ」と詠った。74歳だったと記憶する。龍翁は68歳で翁を名乗った。その時、猿翁さんの詩をもじって詠んだのが「翁とは、まだ10年先の、呼び名かな」だった。だが、古希を過ぎた今、「翁とは、わが身に添えし、呼び名かな」を実感する。しかし長年、映像制作(特にドキュメンタリー番組)を手がけてきた翁、老域に達したとは言え、いまだに野次馬根性は衰えず、興味関心事には“見たり聞いたり試したり”と飛び回ってビデオカメラを回すのが好きだ(現在はデジカメをぶら下げて)・・・】

さて、幼少の頃に父親を亡くした翁の“父親代わり”は母だった。母は明治末期の生まれ、祖父(翁の曽祖父)が西南戦争で西郷軍に加わり西郷隆盛と共に戦った(と伝えられる)ことを誇りとする男勝りの“明治の女傑”だった。その母に翁は厳しく育てられた。翁の人間形成に大きく影響した(と思える)“母の口癖”が2つあった。先頃、高視聴率を挙げたテレビドラマで“倍返し”という言葉が使われ、流行語になりそうだが、実は、我が母の口癖の1つに「仇(あだ)は2倍返し、恩は3倍返し」があった。但し、誤解のないように注釈しておくが、母が言う“仇”は一時的感情的恨みつらみによる“仇討”ではなく、理不尽な攻撃(受難)に対する反撃である。「大人(たいじん)たる者、大義をもって物事を計るべし」それが母の教えであった――おとなになってからその意味が理解され、忍耐と爆発のバランスを体得することが出来るようになったが、子どもの頃は、そんな難しいことが解る訳がない、腕白坊主はあちこちで癇癪を起こし喧嘩して、傷だらけで帰宅しても見て見ぬふりをした母だったが、翁が年下の相手に怪我をさせた、と知るや(翁は)長尺の物差しで背中や尻をイヤというほど引っ叩かれたものだ。その痛い思いこそが(どれだけ)その後の翁の“大義を計る物差し”になってくれたことか・・・母が(翁に)怪我をさせられた子の家に菓子折り持参で謝りに行った回数は数回どころではなかったと思う。

もう1つの母の口癖は「その時その時の、自分が置かれた場所や状況の中で絵を描きなさい」(見上げ過ぎず、見下さず、虚勢を張らず、卑下せず、身の丈の生活設計を立てなさい)だった。驚いたことに、この母の口癖にそっくりのブックタイトルに出会った。その本は『置かれた場所で咲きなさい』。著者はノートルダム清心学園理事長の渡辺和子先生。ノートルダム清心学園とは、カトリック系の学園で、欧米をはじめ世界各国に姉妹校を持ち、日本では岡山、倉敷、広島に幼稚園から大学までの学校を経営している(1886年=明治19年創立の)歴史ある学園である。

渡辺和子先生は1927年(昭和2年)北海道旭川市に生まれる。お父様は当時、旭川第7師団長だった渡辺錠太郎陸軍中将。和子先生は錠太郎氏53歳の時のお子である(4人兄姉の末っ子)。1931年に渡辺中将一家は東京に転居、閣下は大将に昇進して航空本部長に就任、更に1935年に陸軍教育総監となる。“教育総監”とは陸軍大臣・参謀総長と並んで“陸軍3長官”と呼ばれる要職であった。そして翌年1936年(昭和11年)2月26日に“2・26事件”が起きる。和子先生が成蹊小学校(東京・吉祥寺)3年生の時だった。渡辺閣下は杉並区上荻窪の自宅で青年将校に襲撃され、43発の銃弾を浴びて落命、9歳の和子先生の目の前で起きた惨劇で「恐怖のあまり、涙1つ流せなかった」と(先生は)述懐している。18歳でキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大学・上智大学(いずれも東京)、米国ボストンカレッジ大学院(博士号取得)で学び、36歳という若さで岡山・ノートルダム清心女子大学の学長に就任(以上は『置かれた場所で咲きなさい』から抜粋)という輝かしい経歴(学歴)を持つ渡辺和子先生と学歴の無い我が母を比ぶべくもないが、人間社会の倫理(道徳・規範)、人間の生きざまに関しての“教養”を(我が母も)体得していたことに、翁、改めて驚きと誇りを感じ、渡辺和子先生と著書『置かれた場所で咲きなさい』を紹介するための呼び水に、自慢話(母の口癖)を書かせていただいた次第。

『置かれた場所で咲きなさい』は、翁の現在の“立ち位置”や“余生の心構え”を再確認する上で、まさに『龍翁余話』(300)記念号にふさわしいテーマであると思う。今号(299)は“プレ記念号”として導入だけに留めるが、次号の本番(300記念号)で“置かれた場所で私はどう咲けばいいのか”を考えたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

酢橘(すだち)

最近米国でも “柚子” の存在が知られるようになってきてアメリカ人のシェフの間でも使われている。酢橘は、この柚子のファミリーのミカン属で秋ごろに青い果実が実る。オックスナードで農業を営むN社長から今年もたくさん、この酢橘を頂いた。その都度、ポットラックパーティーでだいぶ活躍してくれた。昨年彼のオックスナードにある畑を友人と訪れた時にもたくさん酢橘を頂いた。その酢橘の香りに感動した友人は頂いた酢橘を冷凍庫に入れて大事に少しずつ使っていた。“ 今日は新鮮なイカが入ったから” とその料理にすだちの皮を薬味としてすり下ろし出してくれた時もその芳しい香りは一年近く経っても衰えていなかった。スパイス辞典を見てみると、酢橘も植物で調味料としてのスパイスのカテゴリーに入る。この日本を代表する薬味として使われる酢橘の歴史を見てみると古くは万葉の時代からあったようだ。貝原益軒の “大和本草”という1709年に書かれた本の中にリマン(檸檬)の中にも酢橘が出てくるらしい。この大和本草には薬用植物から薬用につかわれる動物や抗物も書かれているそうなので面白そうだ。
 
スパイス精油 Tecate すだちビール

酢橘の生産は徳島が有名所で殆どの酢橘はここから生産されるようだ。他の生産地から比べると香りが強く清々しい香りだそうだ。この香り成分 “リモネン”は心を落ち着かせるリラックス効果がありアロマセラピーとして使われているオレンジやレモン、ライム、ベルガモットにもその香り成分は含まれているので今回スパイスセミナーの材料として購入してきた。その他、酢橘に含まれる香り成分の ”スダチン” ”デメトキシスダチチン”といったスダチには抗酸化作用がありカルシウム吸収促進もあり糖尿病への効果もあり研究開発もされていいて今後、酢橘の活躍の場も増えていきそうだ。
先日、この酢橘をビールに入れて飲んでみたら美味しかった。ちょうどメキシコのテカテビールにライムを絞って飲むような感じだ。以前、酢橘入りの焼酎を薦められて飲んだ事があるけれどカクテルにも合いそうだ。
日本にいる時はスダチもカボスもユズの違いも良く分からなかった。レモンは使っても料理に使う事も殆ど無かったと思う。ちょうど今、日本はサンマやマツタケの季節だ。この酢橘を数滴たらしただけで味がより引き立ち美味しくなる。今年の秋は大いに酢橘を使った料理を試してみよう。

茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

このアルバムは紹介予定リストにだいぶ前から入れていてようやく今週の出番となりました。トランペッター、ブルー・ミッチェルの代表作です。出番待ちのアルバムは聴く回数が多くなります。何度も聴いていると耳に馴染んできます。1曲目のI'll Close My Eyes、少し哀愁を帯びた彼のトランペットが魅力的です。Blueというのは高校生時代についたニックネームだそうです。Richard Allen (Blue) Mitchellは、フロリダのマイアミ出身です。

"Blue's Moods" Blue Mitchell
01-I'll Close My Eyes
02-Avars
03-Scrapple From The Apple
04-Kinda Vague
05-Sir John
06-When I Fall In Love
07-Sweet Pumpkin
08-I Wish I Knew

1960年8月24日〜25日録音
Richard "Blue" Mitchell (tp)
Winton Kelly (p)
Sam Jones (b)
Roy Brooks (ds)

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

3年前にオープンした家の前の大型ショッピングセンターの名称が突然今月から変わりました。慣れ親しんだ名称だったのでちょっと残念です。それに併せて中のお店もガラッと入れ替わりました。大型商業施設の資本会社がめまぐるしく変わります。供給過剰の小売の業界は厳しい価格競争にさらされていますが、さらに来年4月から上がる消費税がどう影響するのでしょうか。ショッピングセンターが活気を失わないように発展してもらいたいと願っています。

関西加洲会に参加されていた酒井多英子さんからチャリティイベントのお知らせを掲載してほしいと依頼がありました。このお知らせはイベント開催日まで掲載します。

「がん患者さんとご家族のために」「旅立った仲間のために」「今元気な人のために」
リレー・フォー・ライフ・ジャパン奈良は、がん啓発・がん患者支援のチャリティイベントです。グラウンドを24時間リレーしながら歩く事で絆を深め、地域全体でがんと向き合い、がんを理解し、がんになっても困らない社会を目指します。
2013/10/19(土)12:00〜2013/10/20(日)12:00
於:県立橿原公苑陸上競技場
http://relayforlife.jp/    http://rflnara.jimdo.com/

雑貨屋ニュースウィークリーの配信をご希望される方は遠慮なく雑貨屋にアドレスを送ってくだされば対応させていただきます。

《R.O.》

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.908

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com