龍翁余話(286)「高幡のお不動さん」
今年になって、4月に京都・大原、5月に盛岡・平泉など歴史の深い仏縁の古跡を旅した。
そして今号もまた『高幡不動尊金剛寺』(東京・日野市)参詣記。高幡不動尊の歴史も古く寺伝によると奈良時代(710年〜784年)に行基(ぎょうき=668年〜749年)が開基した、
とされている。行基とは、聖武天皇(第45代天皇)の発願で着工された奈良の大仏(東大寺大仏殿)建立当初の実質的な責任者で、日本で最初に大僧正の称号が与えられた高僧。一方、別の資料では、平安時代の初期、第56代・清和天皇の勅願寺(ちょくがんじ=時の天皇の発願により国家鎮護・皇室繁栄を祈願する寺)として、慈覚大師円仁(じかくだいし えんじん=第3世天台座主)が、多摩丘陵(現在の東京都八王子市・日野市・多摩市・稲城市・町田市と神奈川県川崎市・横浜市の一部)の山中(日野市)に不動堂を建立し、不動明王を安置したのが始まり、とも伝えられている。
実は、今回の『高幡の不動さん』行きのきっかけは、翁のゴルフ仲間・M君のお薦めがあったからだ。先日、M君夫妻が高幡不動尊を参詣した帰路、わざわざ(同寺の)リーフレット(案内書)を届けてくれた。「本堂(大日堂)の“鳴り龍”に感動したから龍翁さんにも是非」と言うことだったが、本当は“『余話』のネタ提供”だったのだろう。M君の友情に感謝しての“思い立ち”だった。
ところで、また慈覚大師円仁が登場した(上記)。読者各位はご記憶だろうか?先々週号の『余話』(284)「世界の至宝・平泉」(その2 毛越寺)の中の1部を抜粋しよう。【・・・今から1160年ほど前、慈覚大師円仁がこの地にさしかかると、一面、霧に覆われ1歩も進めなくなった。ところが、ふと足元を見ると地面に白い毛が点々と落ちているので、大師がそれを辿って行くと、前方に白鹿がうずくまっていた。大師が近づくと白鹿の姿は霧の中に消え、代わって1人の白髪の老人が現われ「この地は聖地なり。堂宇(寺院)を建立せよ」と告げた。時は嘉祥3年、故に慈覚大師は、この場所に堂宇を開き『嘉祥寺』と名付けた・・・その後、藤原2代基衡は、父清衡の浄土思想を正しく継承して『毛越寺』を造営した。『毛越寺』は当初(慈覚大師が白鹿の毛を踏み越えて聖地に辿り着き嘉祥寺を開山したことから)“けごしでら”と呼ばれていたそうだ・・・】(追加説明:『越』は慣用音で“オツ”と読むところから、その後は“モウオツジ”と呼ばれ、更にそれが変化して、いつ頃からか“モウツウジ”になったそうだ)――
さて、京王線新宿駅から高幡不動駅へ(急行で40分)、同駅南口を出ると駅前ターミナルの右手に高幡不動尊の参道。店々に新撰組隊士の名が踊っている。そうか、近藤勇や土方歳三は、この(多摩)地方の出身だったのだ。約100mの参道を歩き川崎街道を渡ると、そこはもう高幡山の境内。まずは重要文化財の『仁王門』(写真中)に立つ。
門の左右には、室町時代の作と言われる寄木造りの仁王尊(金剛力士=仏教の守護神)の一対が安置されている。口を開けている方(写真左)が阿形像(あぎょうぞう)、口を閉じている方(写真右)が吽形像(うんぎょうぞう)。仏教では阿形は物事の始まりを意味し、吽形は物事の終りを表す。金網の隙間からカメラを向けてシャッターを切ったが、失礼ながらあまり長く見ていたくないお顔だ、と思ったら、フト“俺も無意識に仁王顔になる時があるのでは?”と、ちょっぴり反省させられた。
仁王門をくぐって左側の手水舎(てみずや・ちょうずや)で手を洗い『不動堂』(写真左)でご本尊の『丈六不動三尊』(重要文化財)(写真右)を参拝しようと思っていたら、現在はここではなく、もう一つ奥の『奥殿』(写真中)に安置されているとのこと。『丈六不動三尊』(じょうろくふどうさんそん)とは1丈6尺(約4.85m)の不動明王(総重量1100kg)と左右の(全身が黒い)2童子像のこと。『奥殿』は『丈六不動山尊』のほか沢山の文化財を収蔵・展示するための御堂である。(拝観料300円)
高幡山の総本堂(大日堂)への山門(写真左)をくぐり、いよいよ『大日堂』へ(写真中)。
拝観料200円を払って平安時代の大日如来(万物の慈母)像及び諸佛を安置する御堂に入る。『鳴り龍』の部屋(写真右)、光沢のある床に上がり、神聖な雰囲気の中で正面の大日如来像に、丁寧にお辞儀をして軽く手を叩くと「ビュ〜ン」という音が(手を叩いた人だけに)聞こえる。その音が“龍の鳴き声”だそうだ。M君、この場所で“龍翁”を思い出してくれたのだろう。正面の大日如来像に向かって(気持ちはM君に対して)もう一度、感謝の一礼を。なお『鳴き龍』の部屋の裏側には弘法大師坐像や釈迦像が安置されている。
『大日堂』を出て(東京新名所100選に選ばれている)『五重塔』(写真中)へ向かう。その途中に紫陽花に囲まれた、何とも優しいお顔の観音様に出会う(写真左)。高さ21尺(約7m)高貴なお姿だ。しばし見とれた後、『五重塔』の地下の無料休憩所へ。“休憩所”とされているが、ここには『釋迦三尊像』(写真右=中央が釈迦如来、左は普賢菩薩、右は文殊菩薩)のほか、背後に金色の千体仏が(ここを訪れる善男善女の)参拝客を見守ってくれる聖域だ。5分も休憩していたらスーッと汗が引いた。
さあ(翁にとって最大のクライマックスは)『山内(さんだい)八十八ケ所』の巡拝である。
これは、お遍路さんで知られる四国八十八ケ所を模したもので『五重塔』の裏山(紫陽花の丘)に巡拝入り口があり、6月から7月初旬にかけては紫陽花を楽しみながら巡拝出来る。
総距離は調べ損なったが、第1番札所(徳島・鳴門『竺和山霊山寺=じくわさんりょうせんじ』)のお地蔵さん(写真左)から高知、愛媛の各札所を回って第88札所(香川・さぬき『医王山大窪寺=いおうざんおおくぼじ』)のお地蔵さん(写真中)までの約1時間(かなりアップダウンはあったが)普段、ゴルフで鍛えた(?)足腰、さほどの疲れもなく巡拝を終えることが出来た。本場四国お遍路巡礼を経験した人からは「何を甘っちょろい」と怒られそうだが、それなりの達成感を味わうことが出来、大満足。なお、各札所のお地蔵さんは全て弘法大師(空海=平安時代初期の高僧、真言宗の開祖)であり、いずれも異なる88体の表情に“仏の88の諭(さとし)”があるように思えた。結願の第88番札所は『大師堂』(写真右)の前にある。翁、無事に巡拝を終えられたことに対して弘法大師へお礼の黙祷を捧げながら“88の諭(教え)とは何ぞや”を問うてみた。が、勿論、即答は無い。今後(生ある限り)己れ自身で答えを探さなければならない。また1つ大きな課題を背負うことになった。“まだまだ生きなければ”――
5月の“平泉の旅”に続いて7月も浄土(清浄な世界)の空気に触れることが出来た。今号(286)の執筆を終えるに当たり、今回の高幡山行きのきっかけを与えてくれた親友M君へ感謝再び・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |