龍翁余話(284)「世界の至宝・平泉」(その2 毛越寺)
平成23年6月に平泉が世界文化遺産に登録された構成資産(要素)は中尊寺(ちゅうそんじ)・毛越寺(もうつうじ)・観自在王院跡(かんじざいおういんあと)・無量光院跡(むりょうこういんあと)・金鶏山(きんけいざん)(いずれも国の特別史跡)の5か所である。
そして“世界文化遺産・平泉”を形容するに「争いのない平和と極楽の浄土」「黄金文化・平安の優美の結晶」などがあるが、毛越寺に関して言えば「奥州藤原氏の栄枯盛衰の歴史を伝える東北屈指の名庭園」が(翁の印象では)ピッタリだ。
寺伝(資料)によると、毛越寺は平泉の中心部に位置し、12世紀の中頃に藤原氏2代基衡(もとひら)が造営した寺院で当時は堂の建物が40、禅坊(僧の住居)が500もあったとのこと。山門(写真左)をくぐると真正面に威風堂々とした朱塗りの本堂(写真中)が参拝客を迎える。本尊は薬師如来(衆生の病苦を救う仏)(写真右)、脇侍は左に日光菩薩・右に月光菩薩。いずれも平安時代の作とされている。それでは時代を約9世紀さかのぼって、“奥州藤原氏の浄土庭園”を(急ぎ足で)散策することにしよう。
浄土庭園の入り口に『南大門跡』の碑がある。ここには偉容を誇る仁王像門が建っていたそうだ。傍に松尾芭蕉の歌碑がある(写真中)【夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡】“ここは、かつて義経主従や藤原一族が功名・栄華を夢見た所。夏草を眺めていると全てが一炊の夢と消えた哀れさが心に沁みる”それが(この地に立った)芭蕉の心情だったのではあるまいか。岩手(盛岡)出身の教育学者・哲学者で『武士道(Bushido)』(英文)の著者としても有名な新渡戸稲造(1862年〜1933年)が、この【夏草】を英訳して世界に紹介した、その英文句碑も建っている(写真右)。
“急ぎ足”とは言いながら『大泉が池』(下の写真)に立つと足が止まり息を呑む。あまりの神秘な光景に、いつしか“浄土”に誘い込まれる感じがして心の中で合掌。
もう少し、この場所に佇んで(芭蕉を真似て)1句詠みたいと思ったが、バスの時間が気になり、再び急ぎ足で東西180m、南北90mの『大泉が池』を時計回りで1周する。
この地に堂宇(寺院=嘉祥寺)を開いた第3代天台座主・慈覚大師円仁を祀る『開山堂』。(写真左)大師のほかに藤原3代(清衡・基衡・秀衡)の画像も安置されているとのこと。更に進むと『嘉祥寺跡』(写真中)や『金堂円隆寺跡』。今はただの広場で建物は何もない。『金堂円隆寺跡』の隣に『遣水(やりみず)』(写真右)がある。これは面白い。『大泉が池』に水を引き込むために造られたもので、曲がりくねった水路の途中に水切り、水越し、水分けなどの石組みが配置されている。全国的にも珍しい平安時代の唯一の遺構だそうだ。毎年、新緑の頃に『曲水(ごくすい)の宴』が催される。さぞや優雅な平安時代の情景が再現されることだろう。一度、観たいものだ。
『遣水』の隣の『常行堂(じょうぎょうどう)』(写真左)は12世紀の浄土思想に関係する宗教儀礼・民俗芸能が今もなお継承されている仏堂だ(国の重要文化財)。宝冠をいただき、黄金の仏座に鎮座する阿弥陀如来像は奥殿に安置されており、33年に1度のご開帳でしか見られない。次回は2033年だとか。パンフレットで写真を見たが、高貴な、いいお顔をしていらっしゃる。『常行堂』の前の池の畔に『鐘楼(鐘つき堂)跡』(写真中)と『地蔵菩薩像』(写真右)がある。地蔵菩薩は、常に我々の身近にいて人々の苦悩を救ってくれる慈悲深い“お地蔵様”。庶民的で親しみ易いお顔が気に入って1枚パチリ。
さて、冒頭で述べた通り「平泉・世界文化遺産」の要素は中尊寺・毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡・金鶏山の5か所であるが、残念ながら今回の急ぎ旅では、中尊寺と毛越寺しか回れなかった。中尊寺から毛越寺へ向かうバスの中で、新米のガイドさんが資料を棒読みしながら(おまけにトチリながら)説明する。何回か吹き出しそうになるのをこらえて聴き入る。(それをまとめると)金鶏山は中尊寺と毛越寺の中間に位置する標高98mの信仰の山、名前は山頂に雌雄一対の金の鶏を埋めたことにちなんで付けられたとのこと。毛越寺近くの『無量光院(跡)』は、藤原3代秀衡(ひでひら)が京都の平等院を模した建立した(平等院を上回る規模の煌びやかな)寺院。また、その近くの『観自在王院(跡)』は藤原2代基衡(もとひら)の妻が建立したと伝えられている。観自在王院とは阿弥陀堂のことで仏壇は銀、高欄(欄干)は磨き金で作ったというから、いかにも女性の持仏堂らしい華麗な造りであったことが想像できるが、バスの車窓から見る限り、その面影は無い。
急ぎ足で『大泉が池』の周りを動き回っている途中、『嘉祥寺跡』の所で15人程度の団体の案内をしているベテラン女性ガイドさんの“説明”を盗み聞きした――今から1160年ほど前、慈覚大師円仁がこの地にさしかかると、一面、霧に覆われ1歩も進めなくなった。ところが、ふと足元を見ると地面に白い毛が点々と落ちているので、大師がそれを辿って行くと、前方に白鹿がうずくまっていた。大師が近づくと白鹿の姿は霧の中に消え、代わって1人の白髪の老人が現われ「この地は聖地なり。堂宇(寺院)を建立せよ」と告げた。時は嘉祥3年、故に慈覚大師は、この場所に堂宇を開き『嘉祥寺』と名付けた。古来、幾多の合戦が繰り広げられた奥州を仏教によって浄め、陸奥辺境の地を仏国土にするという藤原初代清衡の掲げた理想は『中尊寺』となり、2代基衡は父・清衡の思想を正しく継承して『毛越寺』を造営した。『毛越寺』は当初(慈覚大師が白鹿の毛を踏み越えて聖地に辿り着き嘉祥寺を開山したことから)“けごしでら”と呼ばれていたそうだ、とは(前出の)ベテランガイドさんの話――
中尊寺や毛越寺で、確かな文化遺産を観た。藤原3代の“浄土思想”は今も確かに息衝いている。時間があれば翁、もう少し奥州藤原氏の歴史と、この地で儚く散った若き英雄、義経・弁慶主従の最期を追いたかった。それはまた、いずれかの機会を楽しみに――それにしても『啄木、賢治 盛岡の青春』に始まった今回の“みちのく紀行”、5回目の今号が最終回となるのだが、各号、拡大版にもかかわらず、読者各位には辛抱強くお読みいただき、また、過分の賞賛をいただいたことに翁、深甚なる謝意を表したい。
【みちのくで 南無の心を修めたり おのが冥府に おそるもの無し】・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |