龍翁余話(275)「京都・古刹巡り」(その1)(拡大版)
かつて、TV番組取材で頻繁に海外に出かけていた頃、出会った外国人から『古都・京都』について質問されることが多かった。「8世紀の末から明治に至るまでの1000年以上もの長きに亘って天皇が住んでおられた日本の首都であった」という中学生程度の説明では答えにならない。何故なら、翁に質問してくる外国人は多少とも『古都・京都』についての知識を持っている人が多かったからだ。したがって翁も、もう少し具体的な説明が出来なければ日本人の恥じと思って“俄か学習”を始めた。特に1994年に『古都・京都』が世界遺産に登録されてからは上賀茂神社、下鴨神社、清水寺、苔寺、高山寺、仁和寺、金閣寺、銀閣寺、天龍寺、龍安寺、西本願寺、東寺、醍醐寺、二条城(以上は京都市内)、平等院、宇治上神社(以上は宇治市)、延暦寺(大津市)についての“目学問(資料読み)”や“耳学問(知識人の話を聴く)”に努めた。
しかし、いくら目学問・耳学問をしても“実観”に勝る知識はない。“百聞は一見にしかず”を“実感”したのが今回の『京都・古刹巡り』であった。そしてその機会を与えてくれたのは、何と(以前にも『余話』で紹介したことのある)ハワイ本願寺クアイア”(聖歌隊)のグループ。メンバー(約50人)全員がシニア世代で、元大学教授、高校教師、法律家、政治家、ジャーナリスト、音楽プロデューサー、ピアニスト、映画・舞台俳優、軍人など多士済々。今回来日の18人は、西本願寺で日本側の聖歌隊と合同の“御堂演奏会”出演と『京都・古刹巡り』が主たる目的で、翁はそのツアーに誘われ便乗させて貰った次第。
翁、中学後半から高校卒業までの足掛け4年も神戸で過ごしたのに、その間、京都に行ったのは五山送り火(大文字焼き)と京都大学見学の2回、それに数年前、親友と約3時間の“駆け足バスツアー”で銀閣寺と清水寺を回っただけ。故に、新幹線で京都駅に降りた時から、そこは“異国”の観であった。
さて、本来のエッセイ構成であれば“西本願寺とは”から論じなければならないのだろうが“知らぬは翁ばかりなり”、それを無理して書こうとすれば所詮は資料頼りになってしまうので、今回は、翁がこの目で観た文化財の“実感”と既知識を中心に筆を進めることにする。まずは下京区堀川花屋町にある西本願寺正門をくぐった先の御影堂前の大銀杏(京都市天然記念物)に目が奪われる。同寺のHPによれば樹齢約400年、根っこを天に広げたような形から“逆さ銀杏”、あるいは昔、火災の際、この銀杏から水が噴き出して消火したという伝説から“水吹き銀杏”とも呼ばれているとか。御影堂(一般的には「みえいどう」、西本願寺では「ごえいどう」)とは、寺(宗)の開基(開祖)の御影を安置する堂(開山堂、祖師堂)のこと。幕末に京都市中を震え上がらせた武装集団・新撰組が(壬生郷・八木邸と前川邸のあと)第2の屯所としたのがここ西本願寺。御影堂前の広場で実弾射撃演習をしたからお寺としてはたまったものではない、新撰組を庇護していた京都守護職(会津藩)に申し出て屯所を他に移して貰った。その移転先が堀川道塩小路の“不動堂村”。偶然にも、このたび、ハワイ本願寺クアイアの人たちと翁が宿泊した京都駅近くの“リーガロイヤルホテル京都”が新撰組最後の屯所、同ホテル敷地内に“新撰組不動堂屯所跡”の石碑があり“誠”の文字と近藤勇の和歌が刻まれているとか(写真を撮りそこなった)。
西本願寺には、国宝としては白書院及び対面所、黒書院及び伝廊、北能舞台、飛雲閣、唐門、親鸞聖人像などの10点、重要文化財としては御影堂、阿弥陀堂(本堂)、南能舞台などの建造物のほか絵画、経本、詩歌など美術工芸品の25点。その他、名勝・史跡が多くある。撮影が許され、翁が特に印象的だった国宝の建造物をいくつか紹介しよう。
白書院の南北にある能舞台のうち『北能舞台』は江戸時代初期に建造されたもので、現存する能舞台としては最古のものとされている。『飛雲閣』は金閣・銀閣とともに京都三大閣の1つ。豊臣秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい)の一部で3層からなる楼閣建築。1階は池から舟で直接入れる“入舟の間”と“茶室“、上段・上々段に“主賓の間、『飛雲閣』は原則非公開だが、外観だけは期日を限って公開される。寛ぎと遊興(親睦)を主眼とする数奇屋風の趣が感じられた。建築年は定かではない。もう1つの国宝――華麗なる桃山文化の粋を伝える『唐門』は、唐獅子と牡丹、麒麟と雲、虎と竹林、鳳凰、龍などの見事な彫刻がズラリ。1日中眺めていても飽きないことから”日暮れ門“の俗称もある。そう言えば、昨年秋に参詣した日光東照宮の陽明門も同じような彫刻が施され”日暮れの門“と呼ばれている。
西本願寺に参観したら、当然、東本願寺にも・・・これから先は単独行動だ。西本願寺前の堀川通りを横切って向かい側の門前町を歩いていたら、和風の街中(まちなか)に突然、
レトロな西洋風レンガ建て(写真左)が現れた。入口の説明版に「『本願寺伝道院』1912年(明治45年)伊東忠太の設計による」
と書かれている。伊藤忠太(1867年〜1954年)は明治から昭和にかけての建築家(東京帝大教授、工学博士)、翁と多少の縁がある山形県米沢市の出身、これまた翁と因縁の深い靖国神社の神門や遊就館(博物館)をはじめ、築地本願寺、明治神宮、上杉神社(米沢市)などを手がけた神社仏閣建築(設計)の大御所・伊東忠太の作品(建築物)に出会うとは、前記の翁たちのホテルが新撰組最後の屯所跡であったことといい、嬉しい偶然があるものだ。これも西本願寺参詣のご利益か・・下京区烏丸七条にある東本願寺は現在工事中で正門は閉じられたまま(写真中)。臨時門から入って御影堂で参拝。ここは、西本願寺の派手さはないが、これはこれで重厚な趣を感じる。西も東も本願寺の開祖は親鸞だから基本的には同じだが分離の歴史は複雑なので省略。即座に翁が言える違いは≪南無阿弥陀仏≫をお東は「なむあみだぶ」お西は「なもあみだぶ」と唱えることぐらいかな?
南区九条町にある東寺(とうじ)も世界遺産の1つだ。八重桜が満開の北門から入る。比較的静かで落ち着いた雰囲気の境内だ。御影堂(弘法大師堂)と五重塔は国宝。五重塔の高さは54.8mで木造塔としては日本一だとか。かなり時間をかけて見学した。
地図を片手によく歩いた。“百聞は一見にしかず”――西本願寺も東本願寺も東寺も、翁の網膜(脳ライブラリー)へしっかりと収まった。今後、誰からか質問されても、この3箇所については“実感”として答えることが出来る。いや、『京都・古刹巡り』はまだ続く。次回は大原の古刹巡りだ。三千院や寂光院、宝泉院など、翁にとってはいずれも初めての“巡礼”である。ハワイ本願寺クアイアの面々との親睦がいっそう深まった。そればかりではない、行く先々の聖地で出会う人々(日本人、外国人)が皆“ともだち“に思える旅であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |