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NO.872             Ryo Onishi              1/27/2013  

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雑貨屋のひとり言

スマホ依存症の方が増えているようです。電車を待つプラットホームでも、電車の中でも、歩いていても、ひどいのは自転車に乗っていてもスマホを見ています。あの小さな画面に集中していて周りが見えていないのは恐ろしいことだと思います。最新のスマホはPCと同じでなんでもできるとは言え、使っているのはほとんどメール、ゲーム、ちょっとした情報検索などだと思います。(勝手にそう思っています。)チャット用に"Line"というアプリを多くの人が使っています。(私も使っています。)チャットなら特定の相手とのコミュニケーションなので、まるで普通の会話と同じような調子でやれるのが特徴です。これはこれで便利なのですが、きちんとした文章を書かなくても通じるので、こればっかりやっていると文章力が低下するのではないかと心配します。そして返事がすぐ来るので、待つということができなくなるようです。自分の気持ちを手紙に書いて、相手からの返事を待つという人はもう数少ないのでしょうか?≪R.O≫

 

体罰について

昨年10月、滋賀県 大津市の中学校で同級生のいじめに起因したとされる生徒の自殺事件が起き、文科省、市、教育委員会、学校、家庭まで巻き込んだ大騒動になりました。この問題はその後、全容解明のため、市が設置した第三者委員会の最終報告書提出がおくれ、解明はなお時間を要しそうです。

今年に入って今度は大阪市立の高校で、バスケットボール部主将の男子生徒が顧問の男性教諭から体罰を受けた翌日に自殺するという痛ましい出来事が起きてしまいました。ニュース報道では「体罰の是非」、「学校側の隠蔽体質」、「行き過ぎた勝利至上主義の弊害」、「体罰と自殺の因果関係」、「家庭でのしつけの問題」等々、多面的に語られ、背景がいまいち明確でない私には、現時点でこの問題に対する最終的な意見をまとめるまでに到っていません。

ただ、今回の問題を受けて私にいまいえることは、どんな事情があっても将来ある若い命をこんなことで散らすなんて絶対にあってはならないということです。

学校で教師による体罰といっても、何をもって、またどの程度のものをもって体罰と称するか、議論のあるところだと思います。今回の大阪市立高校バスケットボール部主将が受けた体罰に関していえば、ニュースや新聞報道で知るかぎり、当該生徒を何度も平手打ちにし、それも日常的に行われていたということです。体罰を加えた教師は市教委に「発奮させようと思った」などと説明しているということですが、もし、これが事実であるならば、あきらかに指導の一線を越えた一方的な暴力行為といわざるを得ないのではないでしょうか。

成人する前の人間は一人前でないから、親や教師は力(ちから、腕力)でもって強制的にしつけをすることも必要といわれます。しかしその背景には相手をひとりの人間として認識する必要があるはずです。

私が中学生時代は戦後間もない昭和20年代でした。当時は学校の教師の多くは復員軍人で占められ、軍隊での体験を学校教育に持ち込み、先生が児童生徒たちに暴力を振るうことがしばしばありました。また、親たちも教師のしごきを是認する風潮が一般的でした。

私自身にも教師にビンタ(両頬を平手打ち)された経験があります。学級担任教師から一回、図工担当教師から一回の計2回でした。自分からいうのは気がひけますが、中学時代の私は教師に逆らった記憶はただの一度もありません。どちらかというとおとなしい静かな生徒だったのです。

そんな私がなぜ体罰を受けたのか、それは二度とも私が学級委員長だったからです。どこのクラスにも周囲の手に負えない性格の生徒が数人はいるもので、彼らの行動が教師の勘に障ったりすると学級委員長が連帯責任を負わされ、しかも生徒全員の前で叩かれたのでした。こんなとき、私の感情としては、「何で私が叩かれなければならないんだ!」という教師に対する反感のみであり、反省の心は芽生えなかったことを覚えています。

河北新報のコラム欄「河北春秋」に興味あることが載っていました。それによると、明治維新以前の武家社会では人を殴るなど、ほとんどなかったのだそうです。各人が自分の名誉を大事にしていたから、殴ったりしたら大変なことになったからです。

「河北春秋」はさらに次のように続きます。――― 作家の故丸谷才一さんによると、今も残る教育界の体罰は明治の日本軍が淵源(えんげん)で、師範学校の卒業生は入隊後、さんざん殴られたとのこと。なぜなら彼らは兵役期間が短い特権があったため、古参兵から目の敵にされたから。そして除隊して帰ると、今度は体験を生かして自分たちが学童を殴った。この伝統が学校の運動部に入り込み、プロ野球にまで広がった。殴ってものを教えるなんて「知恵がない」と丸谷さんは切り捨てる。ビンタだの鉄拳制裁などの、ざっとした歴史を知れば、恥ずかしくて、教え子に手を上げるなど、できはしまい。殴って運動が上手になるのなら、こんな安直な話はない。指導者など要らない。と・・

児童生徒に対する体罰の是非については必ずしも明確なきまりが存在するわけではありません。現に、今回の大阪市立の高校での体罰問題に対してすら、体罰を加えた部活顧問の講師に対する援護の声も聞こえます。

ただ、今回に限っていえば、ひとつの若い命を失う結果となり、このことは社会も、教育界も、家庭も、重く受け止めなければならないことです。事実関係の徹底解明、それにもとづく再発防止策の実行が求められます。

河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )


なるようになるさに明日も暴風雨

カウント9明日のジョーが立ち上がる

徳利の底に明日の力水

夫婦喧嘩しても明日の米を研ぐ

飽食を明日の地球が懸念する

( ニュースやぶにらみ )


[車取得税廃止へ]

関係ないや −火の車

「駆け込み退職」

先ず生きる ―先生

「のこった のこった」

のこれなかった −幕下陥落の高見盛


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(263)「名横綱・大鵬さんを偲ぶ」

最近、次々と“昭和の灯”が消えて行く。時の流れとは言え寂しい限りだ。今月19日、あの名横綱・大鵬さん(以下、敬称略)が亡くなった。昭和になって大横綱は沢山出ているが、翁が思うに“名横綱”と称される横綱は2人だろう。戦前は角聖・双葉山、戦後は最強の横綱・大鵬。2人とも『心技体』の三位一体を具現させた “昭和の名横綱”である。

大鵬は、翁が若い頃は“巨人・大鵬・タマゴ焼き”の流行語が生まれたほどの国民的スターだった。巨人は長島、王の活躍で第3次黄金時代を築いた。相撲界では容姿端麗、色白の一見優男(やさおとこ)、それでいて“強い男”が颯爽と登場した。それが大鵬である。新入幕から引退までの10年余、優勝しなかった年は一度もなく圧倒的な強さで優勝32回、全勝8回、6場所連続優勝2回、45連勝などの記録を樹立した。1956年(昭和31年)に初土俵、1960年(昭和35年)の新入幕からわずか1年、1961年(昭和36年、大鵬21歳の時)に第48代横綱になるや『大鵬相撲』(型のない自然体相撲、日本精神と礼儀を重んじる相撲)を確立した。1952年に始まったラジオドラマ『君の名は』と同じように大鵬が土俵に上がる時間帯は女風呂が空っぽになった、というエピソードが生まれたほどの人気がぶりだった。いや、女性に限らず、多くの日本人(特に若者)にどれほど強烈なインパクト(夢と勇気)を与えてくれたことだろう。では、何で“タマゴ焼き”がくっついたのか?多分、タマゴ焼きが自由に食べられるほど豊かになった戦後日本の高度成長期を象徴したのかもしれない。が、それはさておき・・・

双葉山が69連勝(1936年1月場所7日目〜1939年1月場所3日目まで)の偉業を成し遂げた翌年1940年(昭和15年)5月29日に大鵬(本名:納谷幸喜)は樺太(サハリン=当時は日本領)で生まれた。父親はウクライナ人(当時はソ連)のコサック騎兵隊将校、母親は納谷キヨ(日本人)。“幸喜”の名は、生まれた年が紀元(皇紀=こうき)2600年だったことから母親キヨが名付けたそうだ。1945年(昭和20年)8月15日の“玉音放送”をもって日本が戦争終結を告げたにもかかわらず、ソ連は国際法を無視して樺太をはじめ北方の島々を侵攻、日本固有の領土・北方4島(歯舞、色丹、国後、択捉)を不法占拠した。納谷母子は最後の引揚船“小笠原丸”で北海道へ、幸喜は叔父(キヨの兄)が住む弟子屈(てしかが)で少年期を過ごす。今で言うハーフではあるが、典型的なヤマトナデシコの母キヨに厳しく日本精神を叩き込まれたので、幸喜少年もまた典型的な日本男児に成長した。中学卒業後、定時制高校に通いながら営林署でアルバイトをしていたが、1956年(昭和31年)に地方巡業に来た二所ノ関親方(8代目=元大関佐賀ノ花)に見込まれ入門した。母キヨは初め反対したが相撲部屋を見学した時、所属力士の礼儀正しさを見て「これなら幸喜も人間的に成長するだろう」と(入門を)許したそうだ・・・以上は、翁が若い頃、道東(根室)で北方領土関連取材を終えての帰路、摩周湖が見たくて弟子屈を訪ねた折、案内をしてくれた町役場の広報課長の話から(以前『余話』にも書いた)。

四股名の『大鵬』とは、荘子(紀元前370年〜紀元前280年、中国の戦国時代の思想家)の言葉“1つ羽ばたけば十万里を飛ぶ、その巨大鳥を大鵬と言う”に由来、漢書好きだった8代二所ノ関親方が命名したそうだ。そう言えば双葉山の名言「我、いまだ木鶏(もっけい)たりえず」(鍛えられた闘鶏の木彫りは堂々たる雄姿、自分はまだその力量・風格に及ばず)も実は荘子の言葉。名横綱同士、奇しくも“荘子思想”(無為自然=作為を用いず自然体を重んじる)で繋がっているように思うのは翁だけだろうか?

2009年の秋の叙勲で大鵬は相撲界から初めて『文化勲章』を受章した。現役時代からの社会貢献が評価されたのだ。老人ホームや養護施設にテレビを、(1969年から毎年)日本赤十字社に血液運搬車『大鵬号』を贈り続けた。その数、70台を超える。

雪ケ谷八幡神社 出世石 (左下に)大鵬の手形

さて、東急池上線・石川台駅の直ぐ傍の雪ケ谷八幡神社の境内に大鵬が奉納した『出世石』がある。大鵬がまだ本名の納谷の四股名であった序二段の頃、この地に後援者(雪ケ谷八幡神社の氏子)がいた関係で、時々、境内で子供たちに相撲の稽古をつけていたそうだ。
1961年(昭和36年)横綱昇進まで、当神社の節分祭には毎年参加していたという。異例の出世で横綱になった大鵬は「これも雪ケ谷八幡神社のご加護の賜物である」と感謝して『出世石』と書いた書を神社に奉納した。この書を氏子たちが石に刻み1966年(昭和41年)に境内(広場)に建立した。石左側の“横綱大鵬幸喜”の下に手形も彫られている。翁、訃報の3日後、当神社に参詣『出世石』の前で“名横綱”のご冥福を祈り合掌した。

大鵬語録「人は私のことを天才と言う。しかし天才は努力しなくても、それなりの成績を残せるが、私はそうではない、人一倍、稽古、稽古を重ねて来た。観る人に感動を与える真剣勝負は、真剣な稽古からしか生まれない」大相撲初場所は今日(27日)千秋楽、今場所もまた日本人力士たちは沈没した。「次期横綱は稀勢の里だ」と大鵬から期待されていた稀勢の里よ、褌を締め直して大鵬精神を学べ・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

ボルサチカ

日本は昨年クリスマス寒波や爆弾低気圧という呼び名の低気圧に襲われて東京も雪国のように雪が積もり都内の交通網はあっという間に麻痺状態になってしまった。そのおかげで私の成田行きのスーツケースも前日に突然配送がキャンセルになり15日は家から駅までかなり大きなスーツケースをまだ雪が残る道をズルズルと引きずって行かなくてはならない羽目になってしまった。
この数日LAも15日前までは珍しく寒い日が続いていたそうだが16日の翌日からは急激に温度が上昇して初夏並みに暑くなった。昼間は夏の装いに近い半袖姿の人も見かけまるで日本のあの寒さと雪が幻のように思えた。通常南カリフォルニアは気候も温暖なので冬でも平気で半袖で過ごす人を見かけるが流石に日本人は半袖姿の人はいない。日本人の皮膚の体感温度と欧米人は、やはりだいぶ開きがあるようだ。
しばらく日本の寒さで体が緊張していたのでリラックスも兼ねて先週は友達とボルサチカという自然保護地区でバードウォッチングが出来る所に出かけてみた。
しらさぎ

毎年ここを訪れている友人は毎年同じ場所に同じ頃、鳥の巣がいくつもあったのに今年は、だいぶ減ってきているし場所も移動していると言っていた。自然の中で生息している生き物たちは、私たちがまだ気がつかない自然の変化をいち早く彼らのアンテナで感じ取っているからなのだろう。
シールビーチから見たPV ハイキングトレイル付近のサギ

トレイルは起伏の無い平らな所ばかりなので初心者でものんびり水鳥を観察しながら30分もあれば一回り出来てしまう。駐車場も入場も無料なのでぶらりと訪れて散歩するには手軽な場所だ。
以前この近くに会社があった時は素通りだけで訪れるチャンスが無かった。シェラハイキングのグループもバードウォッチングとハイキングを兼ねて週末にイベントをやっていたのも知っていたがタイミングが合わなく残念ながら参加出来ないでいた。
サウスベイからでも、ちょっと車を走らせれば、また違った自然の空間が広がる。
この雑貨屋ホームページで河合さんがお書きになっている あまり知られていないLAの観光スポットのような場所は探せば身近な所にいくつも、あるのだな〜と思う。 
春の花のシーズンには早かったのだが確実にこの大地からまだ見ぬ草や花の芽吹きだすエネルギーを感じながらボルサチカを後にした。
ブルーヘロンと鴨

茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

今回は「ピアノの魔術師」と呼ばれているピアノマスターの中のマスター、Roland Hanna Trioのアルバム"Milano, Paris, New York Finding John Lewis"です。
このアルバムはRoland Hannaが尊敬していたModern Jazz Quartet (MJQ) のJohn Lewisに捧げた一枚です。
じっくり落ち着いて聴けるピアノトリオジャズです。こういうジャズに出会うとワクワクして嬉しくなります。
彼は一流のピアニストであると同時に、教育者でもあり、クイーンズ大学、ニューヨーク市立大学やアーロン・コープランド音楽院でも教鞭をとりました。
60年代の末、Hannaは、ソロイストとして、ヨーロッパやアフリカを旅して回り、アフリカの青少年たちの教育資金集めに無料でコンサート活動を行い、その功績を認められ、リベリアの大統領ウィリアム・タゴマンから「Sir」の称号を授与されました。このアルバムにはSir Roland Hanna Trioとなっています。
Roland Hannaは1932年にデトロイトシカゴに生まれ、2002年にこの世を去りましたが、素晴らしいピアノジャズは永遠に残ります。
ジャケットの美脚の女性の後ろ姿の意味がよくわからないのですが、ジャズのアルバムにはこういうのが多いですね。

"Milano, Paris, New York Finding John Lewis"
Sir Roland Hanna Trio


01-Django
02-Skating In Central Park
03-Afternoon In Paris
04-Milano
05-Bag's Groove
06-New York 19
07-Portrait Of John Lewis
08-The Clarion Bells Of Zurich
09-Perugia

Sir Roland Hanna - piano
George Mraz - bass
Lewis Nash - drumss

録音:2002年4月1日 ニューヨーク

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

気温が下がりおまけに風も吹いて寒いです。
まだまだ厳しい寒さが続きそうですが皆さんお元気でしょうか?
一月ももう終わりで来週号は2月の発行です。
雑貨屋を編集するたびに月日の経つのは早いものだと思います。
田渕さんから関西加洲会が3月に開催されるとのお知らせがありました。これもあっという間に当日になるのでしょうね。皆さんにお会いするのを楽しみにしています。《R.O.》

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.872

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com