前々回のこの欄で、「青柿が熟柿弔う(あおがきがじゅくしとむらう)」という諺を引用しました。まだ熟していない元気な青い柿が、遠からず自分も同じ運命にあることに気付かずに、熟して先に木から落ちた赤い柿を見て同情することを喩えたものです。
ここロサンゼルス周辺では『柿』は今が旬であり、特に日系のスーパー・マーケットでは店頭によく見られます。当地では今年は柿が豊作のようです。我が家の庭には植えていませんが、数軒の知人宅に柿の木があり、特にそのうちの一軒の裏庭には見事な柿の木があり、今年は枝も折れんばかりに実がつきました。おかげでそこから沢山の柿をいただき、毎日おいしくデザートとしていただき、堪能しています。
日本では、「ほし柿」も古くは『延喜式』に祭礼用の菓子として記載されており、また飢饉の折などには非常食として用いられていたのだそうです。乾燥によって表面にしみ出て乾いた白い粉の成分は果糖とブドウ糖で、中国ではこの白い果粉が砂糖代わりにかき集められて「柿霜」と呼ばれ、貴重品だったと知りました。
「青柿が熟柿弔う」のほかに以前、この欄で、柿に関する諺として、「柿が赤くなれば、医者が青くなる」という表現をご紹介しましたが、今回も、また『柿』に関する諺を取り上げます。
『渋柿の長持ち(しぶがきのながもち)』という表現があります。渋柿は、枝に実っていても、渋いから人にも採られず、熟しても崩れにくいので長く枝に残ります。このことから、なんの取り柄もない人のほうが長生きすることの喩えとして、また、欠点が必ずしも不幸とは限らないということの意味に使われたりします。佳人薄命(かじんはくめい:美人は病弱だったりして早死にすることが多いということ。また、不幸せな場合が多いということ。)とは意味が同じで逆の使われ方といえるでしょう。また「憎まれっ子世に憚る」にも相通じるところがありそうです。
『渋柿の長持ち』という諺から、なんの取り柄もない、ダメな人間でも、生きていること自体に意味があり、どんな人生にも決して無駄はないのだと教えられます。凡庸な私に対する応援エールであると感じ、とても身近で親しみを感じさせてくれるこの表現を私はいつも身近に置いています。
また、『渋柿が熟柿に成り上る』とは、どんなものでも時間と共に変化するということの喩えとして使われますが、これも今は凡庸でも頑張れば、時間とともに変化し、渋みがとれて熟柿になれるのだという意味に解釈して大切にしています。
河合 将介( skawai@earthlink.net ) |