weekly

NO.835             Ryo Onishi              5/13/2012  

 weekly
LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
 
雑貨屋のひとり言

真夏日の陽気だった先週初めに、銀行に行きました。銀行に入った瞬間、もやっとした生温い空気で、しばらくしたら汗がでるほどの蒸し暑さでした。銀行員も、うちわで扇いでいたくらいの暑さでした。これまで銀行でこんな経験をしたことはなかったように思います。夏の電力不足に備えて、今から節電モードに入っているのだと思いました。この夏、原発停止で電力不足が懸念される関西エリアはもっとひどいことになるのではないかと心配します。≪R.O≫

 

ロサンゼルス暴動20年(2)

前号のこの欄『ロサンゼルス暴動20年』を読んでくださった、暴動体験者だった数人の雑貨屋読者からコメントをいただきました。あの暴動は体験者だけでなく、現場周辺にいて見聞きした人々のとっても衝撃は強く、一生忘れられない記憶として残ってゆくことでしょう。

1992年4月に発生したロサンゼルス暴動では、前号に記述したとおり、私も一部とはいえ目撃者の一人になってしまいました。あんな恐ろしいことは二度と起きて欲しくないことです。

暴動が発生した当時、私の勤務先は比較的安全だったロサンゼルス郊外のトーランス市だったのでよかったのですが、一時的に警察力の及ばなくなった暴動の中心地などに生活していた人々は、命を賭して身を護らねばなりませんでした。

ロサンゼルス・ダウンタウンの高層ビルの中にオフィスを構えていた多くの企業はビルの中の警備こそ比較的安全に保たれていたとはいえ、それでもいつ暴徒に襲われるか不安要素が多かったようです。

以下は、当時、ロサンゼルス・ダウンタウンの高層ビルのオフィスに勤務していた私の友人(日本人Nさん)が暴動事件の後日談として話してくれたことです。

暴動発生に伴い、Nさんたちの高層ビルでも昼間、窓から見下ろす地上の様子は恐ろしいばかりの光景だったそうです。そこで夜の間は自分たちのビルを暴徒から護ろうということで自発的な自警団を組織することになったそうです。多くの企業が入居していたビルなので、各社の代表者が集まり相談の結果、日時の割り当て、人数などを一覧表にまとめ、各社から一名、毎日10人単位の自警団が結成されたそうです。Nさんの会社からは若手のNさんが選ばれました。

さて、割り当てられた夜の時間にNさんはビル・ロビーの自警団集合場所へ出頭しました。事前にもらってあったリストによれば、この時のメンバーで日本人はNさんのみ、ほかはアメリカ人、スペイン人、メキシコ人、韓国人、ベトナム人などだったそうです。

Nさんが集合場所に到着して驚いたのは、自分以外のメンバーは一人残らず何らかの“飛び道具(銃器)”を持参していたのです。最低でも拳銃(ピストル)、中にはライフル銃を肩にかついでいる男までいたそうです。

自分(Nさん)はどうだろう。実は、持参したのは懐中電灯だけだったのです。自警団という認識について、日本人である自分と自分以外の人との差の大きさに慄然としたそうです。日本人である自分には、この非常時に自らを護るために懐中電灯一本の発想しか浮かばなかったのです。日本人にとって“自警団”とは“火の用心、マッチ1本火事のもと”と拍子木を鳴らしながら“夜回り”する発想しかなかったのです。今の日本が安全面で恵まれているとはいえ、いかに日本人の自分が“安全ボケ”になっているかを知らされた思いだったそうです。

当時、ロサンゼルスでは殆どの家庭では拳銃を常備するのは当りまえといわれましたし、乗用車の半数は護身用の拳銃がダッシュボードに入っているといわれました。アメリカ人だけでなく、韓国、ベトナム人の中にもベトナム戦争の帰還兵が多く、実戦経験者も多くいました。

さて、ロサンゼルス暴動は鎮圧のために州兵はもとより、4,000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)部隊までが投入され、さらには司法省が、ロドニー・キング事件について、公民権法違反(第7篇。人種差別行為禁止)容疑でのFBIによる再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間にわたった暴動はようやく収束を見ました。

参考までに、この事件はその後、FBIが公民権法違反で再捜査を行い、暴行に直接関与した2人の巡査が逆転有罪評決(残りの2人は無罪評決)を受け、陪審団は市に対し、キング氏に約382 万ドル(当時レートで約3億9700万円)の賠償金を支払うよう評決を下し、一応の決着をみました。

日本国内には基本的に人種、宗教、民族、言語などに関するトラブルはありません。これらのトラブルが少ないのは日本人にとって当りまえのことですが、世界レベルで見ると異常であり、私たちはその点でも幸せな民族です。

アメリカではこの暴動から20年が経った今でも人種差別にもとづくとされる事件が起こっています。今年2月にはフロリダ州で、トレイボン・マーティンさんという黒人の若者が自警団員に射殺される事件が発生しました。マーティンさんが銃を所持していなかったことから、黒人であることを理由に射殺されたのではないかと、全米各地に抗議活動が広がっています。
河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

さくらの独り 言 「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )


鬼の目の涙を嗤う奴がいる

闘将の涙花粉に負けている

も一人の自分が楽に勝ちたがる

勲章が欲しくて偽善積み上げる

人間が忙しすぎる牛の視野

( ニュースやぶにらみ )

「東電実質国営化」
国電になるのかな −JR

「ギリシャ発」
今度は通貨危機ではありません −聖火

「フランスでも政権交代」
これからが大変だな −民主党


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

龍翁余話

龍翁余話(230)「根津・千駄木を往く」

年齢を重ねるごとに人混みや車の渋滞を避ける傾向が強くなり、近年は“連休=お宅族”になっている翁である。先頃のゴールデン・ウイークもまた自宅でごろごろ、と決め込んでいたが、某紙のコラム欄に紹介された“根津神社のツツジが満開”の記事に誘われて、雨切れの5月4日の朝、急に思い立って“ツツジ見物”に出かけることにした。実は翁、かねてより(根津に隣接する)“千駄木散策”の機会を狙っていた。千駄木には、夏目漱石、林芙美子、川端康成、永井荷風ら文人の居住の跡がある。昨年3月配信の『龍翁余話』(169)「馬込文士村」にも書いたが、東京には“文士村”と呼ばれる地域があちこちにある。例えば(馬込をはじめ)早稲田、新宿、田端、本郷など。千駄木を文士村と呼ぶ記録(記述)はどこにも見当たらないが、著名文士たちが千駄木に居住していたのは確かだから、翁は敢えて“千駄木文士村”と呼びたい。翁が千駄木散策の機会を狙っていた理由(わけ)は、“千駄木文士村散策”そのことであった。翁は早稲田、新宿、田端、本郷、そして馬込の文士村については比較的知っているほうだが千駄木にはまだ一度も行ったことがなかった。そこで“根津神社のツツジ”見物のあと千駄木を歩くことにしたのだが、果たして・・・
  
台東区上野の谷中、文京区根津、千駄木を総称して『谷根千(やねせん)』と呼ぶそうだ。
いずれも山手線の内側にありながら、あまり戦災を受けず、また大規模開発を免れたため、
ひと昔前の街並み(大正・昭和のレトロの雰囲気)が残っていることと政治・経済・文芸の歴史を偲ぶことが出来る点が共通しているとのこと。谷中については、かつて『余話』で散策記事を記したことがあり、谷中霊園には徳川慶喜(15代将軍)、横山大観(日本画家)、渋沢栄一(実業家)、長谷川一夫(俳優)、鳩山一郎(第52〜54代内閣総理大臣)らが眠っていることを紹介した。新しくは森繁久弥(俳優)も。 

さて、根津の地名の由来を調べると、何と、その昔(いつ頃か知らないが)この近くまで海が入り込んでいて(入り海)、その根っこに津(船着場)があったことから“根津”と命名された、とある。その歴史を偲ぶ面影は見当たらないが、根津と言えば根津神社、ここには確かな歴史が今も大勢の人々に親しまれている。社殿は宝永3年(1706年)、徳川5代将軍・綱吉が養子の6代将軍・家宣(3代将軍・家光の孫)のために屋敷地を献納して天下普請したと伝えられている。社殿7棟が国の重要文化財に指定されており、東京十社(明治天皇によって鎮護と万民の平安を祈願する勅祭神社として指定された王子神社、氷川神社、白山神社、亀戸天神社、根津神社、富岡八幡宮、神田神社、芝大神宮、日枝神社、品川神社」)の1つ。翁、拝殿で“国家繁栄”、“我が身、我が社、家族、友人知人の安泰”など盛り沢山の願い事をして、すでに盛りを過ぎようとしている(境内の)ツツジ路を歩いた後、神社で貰った地図を頼りに、神社の裏門(千駄木口)を出て“根津裏門坂”から千駄木エリアに入る。

“文士村”と呼ばれる場所は不思議と共通するムードがある。坂道が多く、高台と下町の混成地、あちこちに自然が残る佳境に包まれ、明治・大正・昭和を駆け抜けた文士や芸術家たちが燃え、輝き、慟哭した場所・・・“馬込文士村”を思い出しながら“藪下通り”を往くと左右に森鴎外、夏目漱石(この地で『我輩は猫である』が執筆された)、林芙美子らの居住跡があるはずなのだが、いっこうに見当たらない。この地の住人らしき年配の男性に訊いてみたら「立て札はあるようですが、どの場所か定かではありません」との返事、いささかガッカリ。でもまあ、“団子坂”を越えると佐藤春夫、江戸川乱歩、川端康成、高村光雲・高村光太郎(いずれも彫刻家・詩人)親子の宅跡がある(と、地図に書かれてあるので)それを期待して歩き回った。が、結局は住人が言ったように「立て札だけ」。ああ、これなら“文士村”とは言い難いだろう。だが、前述の文士たちが居住したことは事実。ならば行政よ、地元民よ、これだけの“文化財(歴史)”を埋める(放置しておく)ことはもったいない、この際、かの文士・芸術家たちの遺徳を偲ぶ“千駄木文士村”を立ち上げてはいかがだろう、そんなことを考えながら最後の目的地『旧安田楠雄邸』に向かう。 

『旧安田楠雄邸』というのは、日本四大財閥の1つ、安田財閥の創始者・安田善次郎(1838年〜1921年、東大“安田講堂”生みの親)の孫にあたる安田楠雄(安田財閥3代目)の旧邸だ。1919年(大正8年)の建築。趣のある玄関、クラッシックな応接間、市松模様(格子模様)の格天井、長い廊下と縁側、特殊加工のガラス戸、眺望のいい2階の和室、家族の生活空間(茶の間・台所・洗面所・風呂場)など、どこもかしこも見ごたえはあるが、翁が一番興味をもったのは、江戸時代の御所や将軍家の御用人形司の流れをくむ永徳齋(えいとくさい)3代目・山川保次郎作の“五月飾り”(写真中央)。“3代目永徳齋”の研究者である圓佛(えんぶつ)須美子さんの判りやすく説明で、翁、その豪華で精巧な、そして雅な一つひとつの作品に魅せられた。これぞ日本の美術工芸・伝統文化の粋と言うべきか。機会があれば『人形司四代の技と美の世界』を追求したみたいという新たな意欲を掻き立てられた『旧安田楠雄邸』見学であった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

ハミングバード(2)

″夕日が山に赤く染まる様がまるでスイカのような色なので、あの山はスイカの山と呼ばれているのよ ″アルバカーキに住む友人はサンディアマウンテンを指してそう説明してくれた。
サンディアマウンテンはスペイン語でスイカの山という意味なのだそうだ。

アルバカーキ在住の彼女は数年前にLAの友人とアルバカーキのバルーンフェスティバルとネイティブインディアンの遺跡やペトログラフ(岩絵)を見に行った時に紹介された人で偶然彼女が持っていた本と私が持っていたペトログラフの本が同じだった事からいくつも共通する好きなものがあってすぐに意気投合してしまった。

その後私がアルバカーキ経由でコロラドに行くことを伝えると是非サンディアマウンテンにも登ろうと誘ってくれた。その時は、ゆっくり下から登って頂上からはロープウェイで降りるコースにした。片道約7マイルのサンディアマウンテンの頂上は10678ft(3255m)トレイルはメインテナンスされた歩きやすいトレイルだった。

サンディアマウンテンを歩いている途中のトレイルでヤギの捜索願いのポスターを見かけて微笑ましくなった。今頃どこをこのヤギ君は、さ迷っているのだろうと想像が膨らんだ。きっと毎日運びたくもない重い荷物を背負わされヤギ君も嫌だったのだろうなと思った。脱走ヤギ君、もし、この先、貴方を見かけても私はけして通報などしないから…せっかく掴んだ自由、捕まらないで元気にたくましく生き延びて…そう願った。

サンディアマウンテンの頂上に近くなるにつれて空は益々深い青にそして群青色に変わっていった。頂上の方は、まだあちこちに雪が残っていて風が吹くと寒かった。それでも澄んだ冷たい空気が心地良かった。
あと、もう少し…あの木の所まで行ったら頂上だ…そう思ったら足取りが軽く早くなった。
そしてその木にたどり着いて見上げるとその木のてっぺんにとまっているハミングバードと目が合った。まるでハミングバードが待っていてくれたような、お出迎えされたようなそんな気分で、また
一層、嬉しくなってしまった。
それにしても、こんな高い所にもハミングバードがいるとは驚きだった。カメラを向けた途端ハミングバードは鈴のなるような声をたててブーンと瞬く間に空高く飛び去っていった。

その数日後に訪れたニューメキシコのビジターセンターではズーニーインディアン〔そのあたりに住むネイティブインディアン〕の神聖なシンボルの絵が壁一面に描かれてあった。その中の一つにハミングバードの絵もあった。

行く先々でハミングバードと出くわす事が多くなった。そのうちハミングバードは私のラッキーバードかもしれないと勝手に思うようになった。お呼ばれした家のドアベルがハミングバードだった時も1人喜んだ。立ち寄ったお店でハミングバードを見つけると今日はラッキーと思った。そのうち行った先で目についたハミングバードの小物を買うようになってだんだんその数が増えていった。
 


アルバカーキにしばらく滞在した後はサンタフェからコロラドに向って早朝出発した。25番をひたすら北に7時間ほど走れば友達の住むコロラドのキャッスルロックへ到着する。道は走りやすくお天気も良かったので、まっしぐらに目的地まで車を走らせた。

コロラドに入る直前 ″ウェルカム カラフルコロラド ″ と書いてある看板が目に飛び込んだ。
ここからがいよいよコロラドだと思うとワクワクした。そのあたりから急に緑がみずみずしい明るい緑に変わっていった。

夕方、友達の家に無事たどり着くと早速2人でコロラドトレイルファンデーションのボランティアワークの準備にとりかかった。
私たちの滞在場所は10000Ft以上の山の中だった。そこでテントを張りキャンプ生活をしながら約一週間滞在するのだが川がないので友達が簡易シャワーを購入してくれていた。後は個々にシャワーを浴びる時にぶら下げる水のビニール袋の容器を購入した。それは実に便利なもの

で水を入れて太陽が当たる場所に数時間置いておくだけでシャワーに充分使える熱いお湯になるものだ。初めはちゃんとシャンプーまで出来るのだろうかと思ったが手際よくシャワーを浴びれば充分その容器でお湯は使えた。汗をかいて誇りだらけになった後に浴びる熱いシャワーはこの上なく気持ちが良かった。これが私の最初のアウトドアーのシャワー体験になった。

私たちのボランティアワークの主な仕事は大きな石や草を取り除いて平らな歩きやすい道を作っていく作業だった。その後私たちの作った道の次回のメインテナンスは20年後になるとリーダーが説明してくれた。当初、重くて扱いにくかったツルハシやシャベルも段々慣れて2−3日後には使いこなせるようになっていた。″だんだん上手になってきたね ″リーダーに誉められて有頂天になった私は、これで土方作業や畑仕事も出来るかもしれないと少しは自信がついた。

食事は順番に皆で手分けして作った。毎日の日課は朝食をとった後に其々にその日のランチを作って作業に出かけ夕方に戻ったら毎晩キャンプファイアーを囲みながら夕食を共にする。そんなシンプルな山の静かな生活がとても楽しかった。参加者は高校生から成人まで、体力に自信があり健康な人であれば誰でも参加出来る。特に学生は年間決められているボランティアワーク30時間の単位を取る事が出来るし最後の日は皆コロラドトレイルファンデーションから感謝状を頂けるというなかなかいいプログラムだ。

ところで初日のキャンプ設営の準備をしていた時にリーダーの人が持ってきた赤いハミングバードフィーダーが目に付いた。聞くとリーダーもハミングバードが好きなのだと言う。2人で場所を選び近くの木にハミングバードフィーダーを取り付けた。その日ハミングバードは私たちの吊り下げたハミングバードフィーダーを見つけてくれなかった。少しがっかりしながら明日に期待して寝た。その翌朝目が覚めるとあの鈴の鳴るような声が聞こえた。そっとテントから出てお湯を沸かしながらハミングバードフィーダーの木をぼんやり見つめていたらハミングバードがやって来た。その日以来どんどんハミングバードが増えて7−8匹のハミングバードが来るようになった。そのうち、もっと近くで見たくて集合テントに吊るしてみたら警戒もせずにハミングバードは蜜を飲みきた。そして私たちは朝に夕に色とりどりの綺麗なハミングバードを近くで鑑賞することが出来た。
最後の日の朝そのテントをかたす時はしのびない気持ちで最後の最後までハミングバードフィーダーを木に吊り下げておいた。
私たちのテントも車に積み込んでリーダーに挨拶に行った時、彼が私に赤いバンダナをくれた。
″ハミングバードは赤い花が好きだから、これを身に付けたらハミングバードが来るよ ″と。

コロラドにもたくさんのハミングバードがいた。コロラドで最初に日帰りハイキングをした時に目の前をシューッと横切って行ったハミングバードのダイナミックな飛び方には驚かされた。
ブーンではなく、まさに風を切ってブーンメランが飛んでいったような感じだった。
ここコロラドでもハミングバードは私の行く先々で現れた。

コロラド滞在中のある日いくつかある図書館で今日はあっちの図書館に行ってみようと出かけてみた。受付でスパイスやフードサイエンスの本の場所を聞いたらテーブルの上にハミングバードのポストカードが置かれていたのに気が付いた。興味深げに見ていたら受け付けの女性が ″それはアートフェスティバルの宣伝なので良かったらお持ち帰りください ″と言ってくれた。またハミングバード登場だ。きっとこの図書館に私が探している本があるに違いない…そんな予感で胸がときめいた。

そして、やっぱりその本に出合える事が出来た。大きくて分厚い上下2冊の辞典のようなその本の表紙はレオナルドダビンチの肖像画とモナリザの微笑みの絵、人体図そして果物と野菜の挿絵が描かれていた。その本を見つけた時は何だかドキドキしてしまった。それからその本が私にとってバイブルのような本になった。
人もそうだけれど本もまた、その人の人生に大きな影響を及ぼす事がある。そんな本に出合えたことをハミングバードにも感謝したくなるような気持ちになった。

のんびりとコロラドの生活を満喫していたが9月には日本に帰ってやらなければならない事がたくさんあった。日本に帰る少し前の8月頃、日本にいる母から電話があった。私の帰る日の確認と日本の家のリフォームの件であるTV番組のプロデューサーがインタビューしたいので自宅に訪問したいとの事だった。

実は会社を辞める少し前に日本の家のリフォーム番組があってそこに私がこっそり申し込んだメールが番組の担当者の目にとまったらしい。母は何のことがさっぱりわからないようで戸惑っていた。
9月の初めには日本に帰る予定だったので今度はコロラドからユタ州そしてラスベガス経由でLAに戻りその後すぐに日本に帰ることにした。

LAまでの帰路は友人の旦那様が付き合ってくれる事になった。友人の旦那様もアウトドアー
バリバリの人で早朝1時間半かけて自転車で仕事に行くのだ。それに海のスポーツも好きでサーフィンにもはまっていると言う。でもコロラドは海がないので機会があればいつでもLAに行ってサーフィンがしたいらしい。サーフィン仲間の友人にも会いたいとの事で彼は休みをとって私のお供に喜んで付き合ってくれた。早朝4時半にコロラドを出発し交代で運転をしながら殆ど休みも取らずLAにむけて直行しその日の夕方9時には彼の友人が住むパロスバーデスにたどり着く事が出来た。
こうしてLAを出発してニューメキシコ、コロラド、ユタ、ネバダと一回りした旅はハミングバードに見守られて無事にまたLAに戻り日本へと帰ることが出来た。
そんなわけで日本にもコロラドで購入したハミングバードのウィンドチャイムが私の家のキッチンに飾られているのだ。

茶子 スパイス研究家

 

 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

ジャズアルバムのデータベースをアルファベット順で見るとAで始まるアーティストが一番多く10.5%を占めます。そしてSが8.2%、EとMとJが6.5%と続きます。今日はSから選ぶことにします。

今週ご紹介するのはオーストリア出身のジャズシンガーSimone Kopmajerのアルバム"Romantic"です。
あまくささやくような歌声は耳に優しく入ってきます。Romantic Jazz Trioの心地いい音も楽しめます。リラックスして聴けるジャズだと思います。

"Romantic" Simone with Romantic Jazz Trio

1 How Do You Keep the Music Playing
2 Blossom Fell
3 We Kiss In A Shadow See All 2
4 Calling You
5 Whatever Happens
6 Exactly Like You
7 Someone to Light up My Life (Se Todos Fossem Iguais a Voce) 8 Time for Love
9 Where Or When
10 Just Squeeze Me (But Don't Tease Me)
11 Whatever Happens (Reprise)

 
ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

 

編集後記

家電量販店のコジマがビッグカメラに買収されると報道がありました。週末の新聞広告を見ると家電量販店の広告がいっぱい入っています。他店より安いと強調して激しい値段競争を繰り広げています。消費者にとってはありがたいことなのですが、こんな安売り合戦をいつまでも続けていたらいずれ共倒れになるのではないかと思います。メーカーも新製品を次から次に出すので、現行品がすぐに値崩れをおこすという悪循環になっているようです。行きつくところまで行くしかないのでしょうか。

iPad

今週はありません。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.835

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com