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NO.784               Ryo Onishi              5/22/2011  

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雑貨屋のひとり言

自分の体温は何度かご存知でしょうか?毎日体温を測っている人はあまりいないと思います。熱が出たときに病院で体温を測ることがあるくらいでしょうか。久しぶりに自分の体温を測ってみました。自分の平熱は37度くらいだとずっと思っていたのですが、測ってみると36度半ばくらいでした。日本人の体温はこの50年で1度以上、下がっているそうです。体温が下がると免疫力が落ちます。日本人に癌が多いのは体温が低くなっているからだといわれています。食生活など生活習慣が大きく変わったために体温が下がっているのです。国家予算の半分以上である35兆円の医療費を使っているこの国は異常です。平均寿命が世界一というけれど、実態は薬漬けで延命しているにすぎません。消費税を上げなくても、体温を上げることができれば無駄な医療費が抑えられると思います。≪R.O≫

 

手術入院体験記

 【筆者注:今回は連載中の『サウスベイ経営セミナー15年を振りかえる』シリーズを中断させていただき、表題のテーマとさせていただきます】

4月はじめのメディカル・ チェックの際、私の十二指腸周辺に癌が見つかり、Ampullary Tumor(膨大部がん)というのだそうです。そこで4月18日にロサンゼルス・ダウンタウンの病院で手術となりました。この病気の場合、胃袋の大部分、十二指腸、小腸の一部までを切除し、さらに十二指腸につながっている膵臓ほかの臓器をつなぎ合わせるのだそうで、現実には5時間以上もかかる大手術でした。

 執刀医のドクターによると、 腹の中で5箇所の臓器をつなぎ合わせたのだそうです。
おかげで私の下腹には30センチを超える手術跡が残り、今のところホチキスで縫いあわせたようになっています。

 これだけの大手術だったので、さすがに手術後の1週間ほどはICU(集中治療室)に入れられ、身体を動かすことも出来ず、喉に痰が詰まっても咳払いもかなわず、深呼吸すら出来ませんでしたが、その後徐々に状況は好転し、手術からほぼ1ヶ月たった今ではその種の苦痛は殆どなくなりました。

手術とは関係なく従来から受けている透析は1日おきに受けなければならず、少々たいへんでした。

ただ、手術の場所が場所だけに、手術当初は口からの食物は一切受け付けず、水一杯すら口にすると戻してしまい、だめでしたが、これも数日前から流動食なら少しずつ時間をかけることで、胃が受け入れてくれるところまできました。栄養不足は手術直後からチューブで栄養分を直接に点滴方式で腸内へ補填してきました。このチューブによる栄養補給は退院・帰宅した後もしばらく続くことになります。自分自身の消化器が充分に食料を受け付けてくれるようになれば、この点滴方式は終了すると思います。

 今回、私の手術を担当してくれたのはロサンゼルス・ダウンタウンの超一流病院のしかもこの種の手術のエキスパートのドクターなのだそうで、名医と評判の良いドクターです。しかも入院中は毎日、このドクターはもちろん、チームのドクター(各専門別に4人)が毎日全員個別に病室に来てくれ、何かとアフ ター・ケアーをしてくれ、しっかりした医療体制でした。

このドクター・チームは私に関する治療データ・ファイルを共有し、また担当看護師(RN:
Registered Nurse)が作成するデータ・ベースに一様に目を通し相互の連携・協力体制が見事だと感じました。

よく日本の病院システムでは一人の担当ドクターがデータを占有し、アシスタントに指示をする情景などがテレビ・ドラマで見られますが、少なくともこちらでの私の場合、そうではありませんでした。ひとつのデータを共有しながら各ドクターが自分の専門分野で治療にあたる体制です。とは言いながら肝心なところは執刀したメイン・ドクターの許可が絶対だったようです。各チーム・メンバーのドクターも「最終決定はメイン・ドクターの指示と許可次第だけれど・・」という言い方をしていました。

入院中は最初のICU(集中治療室)は当然ですが、その後も最後まで個室の病室で、その上、  
付き添いの夜間滞在もO.K.。妻も個人用ベッドを借りて私の脇で泊り込むことが出来、そういった意味では実に行き届いた病院施設だと感心しました。
 
メイン・ドクターを始めチーム・ドクター(計5人)は毎日私の病室に立ち寄って必要な診察と看護師からの聞き取りをしていましたが、普段は担当看護師が1,2時間ごとに来室しては面倒をみてくれました。病室内の壁には2フィート四方ほどのホワイトボードが用意され、そこには毎日、担当看護師の名前、それにチーフとアシスタント看護師の名前が書き込まれ、誰が私の部屋の面倒をみているのかを明示し、その上、担当看護師が今日の看護方針ともいえるコメントを書いていた心配りは見事でした。

4月18日の手術・入院いらいほぼひと月、5月16日にようやくチーフ・ドクターの退院許可が出、妻のドライブで久しぶりの我が家へ戻りました。退院といってもすべて完治したわけではなく、また、栄養補給用のチューブも腸に差し込まれたままです。さらに入院中毎日行っていた血液ほか各種の検査、退院後のケアーなどのため、病院側が手配してくれた訪問看護師が1日1回我が家へきます。これからは自宅で療養に専念 し、口からの食事だけで栄養が取れるように努め栄養補給用のチューブが取り外せるようにしたく思っています。

 こんな状況で、ほぼ1ヶ月間、口からは飲まず食わずに近い状態だったにもかかわらず、退院にあたってそれまでの病院内衣を1が月前の入院時に着てきた服に着替えてみたところ、ズボンのベルトの穴の位置は変わっていませんでした。また、自宅に戻って、改めて自分の顔を鏡に映してみましたが、殆どやつれた様子もありませんでした。チューブによる栄養補給のおかげです。        

この種の病気は精神力の闘いです。おかげさまで手術の経過は良いようですので、これからはあせらず時間をかけて療養に専念し、またもとのようになり、また皆さんにお会いできるようにしたいと思います。

河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言 陽の国

私の生まれ故郷・熊本のニックネームが“火(肥)の国”であることは有名。その名の由来は諸説ある。その昔、この地方に、土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれる、背が低く手足の長い穴居生活の(異民族的)部族がいた。彼らは天皇に恭順するどころか朝廷に逆らい続けていた。そこで崇神天皇(すじんてんのう=第10代)は、肥の国の国主・健緒組(たけおぐみ)に“土蜘蛛討伐”を命じた。健緒組が土蜘蛛を成敗し、今の八代郡宮原町辺りに差し掛かった時、大空に火が燃え上がる様(さま)を見た。そのことを天皇に報告したら、天皇は「火が燃ゆる国ならば“火の国”というべし」と仰せになった(肥前風土記)。一方、
第12代景行天皇(けいこうてんのう)が、葦北(あしきた=今の八代市日奈久?)から船出して日暮れになったので、どこかに着岸しようとしたら遠方に火の光を見つけ、そこに(今の宇城市松橋町豊福辺り)無事辿り着いた。天皇はその一帯を“火の国”と名づけられた(日本書紀)。そのほか、阿蘇山の火、八代海の不知火、などから名づけられた、という説もある。また、熊本の県民性を表す “肥後もっこす”も有名だ。“火の国”と併せて「燃える」、「熱い」、「爆発する」といった火山噴火やマグマを連想させるような性格や行動を意味するものとして使われているが、本来“肥後もっこす”は“津軽じょっぱり”“土佐いごっそう”と並んで、日本の三大頑固のひとつだという。この度、東京を離れ、この“火の国”で、ひと月余りを過ごした。熊本での長期滞在は、30年ぶり、そこで感じたことは、熊本は私にとって“火の国”ではなく“陽の国”だと実感した。

3月11日の大震災と福島原発事故以降、東京の空は異様に暗い。春霞でも曇りでもなく、灰色の雲に覆われている。だから晴れた日でさえ、太陽を直接肉眼視できないこともある。そういえば、3月11日の地震発生前後も、急に空が暗くなり、夕方でもないのにと不思議に思い時計を確認したのを覚えている。まるで米国で体験したトルネード(竜巻)来襲前の空模様に似ている。そんな東京の空をあとに、熊本へ飛んだ。昨年秋に転勤になった夫と共に熊本へ引っ越した娘が第二子出産、その育児と家事全般のサポートのためだ。熊本の空は、青く、広い。そして何よりも、太陽が燦々と輝いていた。思わず口をついて出た言葉“やっぱりここは陽の国だ!”。熊本に滞在した期間、海と山の大自然、その美味しい産物、情熱的で親切な住人たちのサービスなど、太陽の陽の恵みを感じさせるものが沢山あった。3月末に、無事に出産を終えた娘は広島生まれだが関東育ち、ゆえに関東での生活が懐かしく、主人を単身赴任とし、自分だけで2人の子どもをつれ、どうにかして関東へ戻りたいと切望している(あの原発事故による放射能の汚染で)。乳幼児や児童を持つ関東地方在住の家族が、いかにして関東脱出を図ることにトライしているか、その現実を知っている私には、今注がれている陽の恵みを知ろうとしない関東育ちの、そんな娘の“我が侭”が可哀想に思えてならない。そんな娘にも、熊本の陽はさんさんとふりそそいでくれているというのに。

ところで、熊本の娘家族宅での長期滞在中、毎週1日〜1日半は私だけの時間を持たせてもらった。独り車でブラっと、本を一冊だけ手に持って、素泊まりででかける。阿蘇山か天草方面へ、気ままに車を走らせる。産地直売の品々には、関東で食するどんな食材よりも、甘味と深み、素材の味そのものを堪能でき、これも陽の力による恵みだと感激した。陽の国という私なりの表現には、この豊かな大自然にふりそそぐ太陽と同時に、友人たちとの旧交を深めた時の暖かさも含まれている訳だ。最初に行った大学の同期生で、いまも教壇で現役として活躍している親友たちとの再会は、“現場”に生きている陽のエネルギーをいただくことができた。また、私が新任教師として赴任した地では、30年ぶりに会う教え子やその父母たちの変わらない(私への)信頼に、大自然が育んだであろう豊かな人間性のぬくもりを感じることができた。

さて、文頭で紹介した熊本県民性を表す“肥後もっこす”、私はまさにこの“肥後もっこす”そのもの。それは小さい頃から、そして今も、よく周りから言われたものだ。ちょっと気になってインターネットで調べてみると「明るくて陽気で人情があり、純粋で正義感が強く、一度決めたら梃子(てこ)でも動かないほど頑固で妥協しない男性的な性質を指す。それと相俟って、曲がったことを好まず駆け引きは苦手で、プライドや反骨精神も強いため、組織で活躍することは向いていないが、単に強情だけではなく、神経が細やかで細かな気配りができるとされる」(ウィキペディアより抜粋)。今回の熊本での長期滞在と旧交を通し、我ながら深〜く納得。そして今や、この“肥後もっこす”な自分の故郷を、誇りにさえ思う。いやはや、これも陽の恵みのひとつだよね、っと呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

フルム−ン泣いて笑って喧嘩して

フルム−ン丈夫取り柄がありがたい

納 豆にネギが入らぬ妻の留守

家計簿の黒字も妻の財務相

一徹に妻の手綱の伸び縮み


( ニュースやぶにらみ )

「東電社長引責辞任」
政治家にはなれないな −菅首相

「セシュウムを検出」
立たない −茶柱

「十九鳴浜、九九鳴浜が天然記念物に」
ー今日は鳴きっぷりがいいね
ー嬉し鳴きだって


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺散歩(48)
*太田ヶ原
 以前にも書きましたが、江戸時代、現向丘の一部と千駄木一丁目のほとんどは、太田道灌の子孫ある太田摂津守の下屋敷でした。
谷根千93号(終刊号)から、太田家19代資業氏に佐賀鍋島から嫁いで来られた、太田松子さんのお話を引用させてもらいます。
「この千駄木の地は三代の家光公から賜りました。上屋敷は神田練塀町、秋葉原あたりにあり、代々老中職ですから(略)千駄木は下屋敷というか〜」「千駄木町と呼んでいた藪下から上、団子坂から根津裏門坂までの三万坪ほどで、その多くはうっそうとした森だったそうです。ここは椎(スダジイ)がそれはそれは多くありましてね、それを刈っては薪として江戸城持っていく、それから茶畑がずっとありまして、お茶もここから江戸城へお届けしたようです」
明治になって敷地も縮小され、一帯は太田ヶ原と呼ばれるようになり、日清戦争の折には軍馬の操錬場にも使われました。
またこの近くに小山正太郎が画塾不同舎(太平洋画会の前身)を開き、当時16歳の青木繁や坂本繁二郎も学んでいて、この太田ヶ原をよく描いたそうです。明治40年の東京博覧会に石井柏亭は『廃園』と題して、太田ケ原の絵を出品しています。
 森鴎外の長男、森於莵の『鴎外の母』に、こんなエピソードが書かれています。「学校は午前八時に始まり、歩いて二十分位の行程であるのに性急な曾祖母が七時前から私を追いたてた。学校へ行っても未だ門が開かぬので、よく私は近所の友達と太田の原で遊んだ(略)そのうち、あとから馬で役所へ行く父が見つけて「今朝おれが三十分もあとで行くと、太田の原の藪の中からうちの小僧が高安小僧と一緒に這い出して来た。あんな早く出してはいかん」と祖母に言ってくれたので〜」

龍翁余話

龍翁余話(181)「あしかがフラワーパーク」

GW中は家に籠っていた翁、連休あけの5月9日、栃木県足利市に行った。3回目の訪問だ。最初は30数年も前のこと、論語(孔子)を学びたくて史跡・足利学校(鎌倉時代に創設された日本最古の最高学府)を訪ねた。同校編纂の小冊子『論語抄』は今でも翁の“導き本”として大切にしている。その時、足利将軍家の菩提寺・鑁阿寺(ばんなじ)にも参詣した。本堂、多宝塔、鐘楼、一切経堂など国指定重要文化財も見事だが、1336年に室町幕府を興した足利尊氏から第15代将軍義昭が1573年に織田信長に追放されるまでの237年間に及ぶ“足利一族の栄枯盛衰の歴史”をこの寺で学んだことが思い出される。                           

2度目は7年前に栗田美術館見学。この美術館は、同市出身の政治家で伊万里焼研究家(蒐集家)だった黒田英男(1912年〜1996年)が数百億円の私財を投じて1975年に設立した伊万里陶器専門(1万点所蔵)の美術館である。翁は伊万里焼について特別に深い知識や興味を持っていた訳ではないが、翁の(今は亡き)兄が伊万里焼(有田焼)に関するかなりの造詣の持ち主だった。いつだったか兄夫婦と佐賀県有田市へドライブした時のこと、兄と親交のあった窯元(作家)が特別に2セットの“兄弟雀”を製作してくれた。その1組が(今や兄の形見として)現在、我が家の飾り棚に(兄の遺影と一緒に)飾ってある。そんな理由で栗田美術館行きは“兄を偲ぶドライブ”でもあった。有田焼と伊万里焼は同義語で17世紀初頭、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、武将たちが多くの陶工を連れ帰り、肥前(有田)焼を興したこと、江戸時代、製品が伊万里港から積み出されたので伊万里焼とも呼ばれるようになったということなど、兄の教えを再学習する機会でもあった。

そして3度目の今回は足利学校や栗田美術館に近い『あしかがフラワーパーク』。連休中、家でブラブラしていたので心身がなまって“どこかドライブにでも”と思っていた矢先、タイミングよく友人のH君(かつての翁の同業、足利市隣接の桐生市在住)のお誘いだ。関越自動車道の高崎ジャンクションから北関東自動車道で足利インターへ。H君の「そこからフラワーパークまで約15分」の言葉通り(連休あけのせいか)車もスイスイ。途中“足利学校”や“黒田美術館”の看板が目に飛び込んで懐かしい。ところが“この先800メートル”の看板辺りから突然、大渋滞にはまった。連休あけだというのに6000台の大駐車場が満杯になるほどの入園者数だろう。“この先800メートル”から30分もかかって、ようやく“田んぼ駐車場”へ辿り着く。H君がチケット(1200円)を買って入園口で翁を待ってくれていた。

樹齢145年の大藤と八重黒龍藤(いずれも県指定天然記念物) 80mの白藤の回廊
水上の囲いツツジ 迫間藤と(5,000本の)久留米ツツジの競演 

東京ドーム約7個分(92,000平方メートル)の広大な園内に、圧巻の大藤と八重黒龍の藤(いずれも樹齢145年以上、600畳の広さ、栃木県指定天然記念物)、80メートル続く神秘的な白藤の回廊のほか、黄色藤、薄紅藤などが4月、5月の2ヶ月間“魅惑の藤花物語”を展開する。加えてその主役たちに勝るとも劣らない彩り鮮やかな久留米ツツジ(5,000本)の競演も見もの。ここで気の利いた感動形容詞を並べてパンフレットの片棒を担ぐのは簡単だが、薄っぺらな印象記になりそうなので、読者には上の写真をご覧いただき、各位のご自由なご感想にお任せすることにしよう。水上の囲いツツジの脇のウッドハウスでH君が用意してくれた幕の内弁当に舌鼓を打ちながら、H君に、翁の亡き兄との思い出話(久留米森林ツツジ公園の話)を押し付けた。

九州自動車道の久留米インターから20分くらいの所に高良山(こうらさん=312m)の登山口があり、そこから大分県日田市方面に通じる耳納(みのう)スカイラインが始まる。左手に穀倉の筑後平野と九州最大の1級河川・筑後川を見下ろす絶好のドライブコース。久留米森林ツツジ公園はスカイラインに入って直ぐ、高良山の北斜面にあり、100種6万株のツツジが植栽されている。翁が帰省の時は、兄が必ず福岡空港まで車で迎えに来てくれて、ツツジの時期は(何回か)この耳納スカイラインを走った、その思い出が今『あしかがフラワーパーク』の久留米ツツジによって鮮明に蘇る。「その久留米ツツジが、どうして足利へ?」とH君の素朴な質問。「うろ覚えだが江戸時代19世紀の半ば、久留米藩士が開発した久留米ツツジが京都や江戸、関東へと運ばれたそうだ」翁の知ったかぶり講釈に彼頷きながら「それにしても、今日は奇しくも、足利でお兄さんにお逢い出来ましたね」H君のこの思いやり言葉に一瞬、翁の胸が熱くなる。そこでH君の友情に感謝を込めて即席一句、“友と来て ツツジの海に 兄偲ぶ”・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

TSUTAYAのJAZZコーナーに行くと、メモを持ってアルバムを探している方がいます。はじめのうちは探しているアルバムが見つかりますが、そのうち、見つからなくなります。一方、BGMでJAZZを聴いてみようかなと思って、なにか適当なアルバムがないか探している方がいます。そういう方のために聴きやすく親しみやすいアルバムがたくさん用意されています。特定のアーティストではなくいろんなアーティストの演奏が入っているアルバムです。こういうアルバムを聴いて好きなアーティストが見つかったら次はそのアーティストのアルバムを探すことができます。
今日はSmooth Jazz Fusionを集めたアルバムをご紹介します。
さわやかで聴きやすいアルバムだと思います。

Smooth Jazz Fusion

1.CASIOPEA「Dazzling」
2.笠井紀美子「Use Me」
3.MONDO GROSSO「1974-Way Home-」
4.エリック・ミヤシロ「Crystal Eyes」
5.越智順子「Jesse」
6.大村憲司「春がいっぱい」(Spring Is Nearly Here)
7.WILL&RAINBOW「Don't Let Me Be Lonely Tonight」
8.THE SQUARE「It's Magic」
9.安藤まさひろ&みくりや裕二「Kapiolani」
10.和泉宏隆「The Winter Of '97」
11.伊東たけし「After The Love Has Gone」
12.マリーン「Deja Vu」
13.島健「Cavatina」
14.MARLENA SHAW「Feel Like Makin' Love」

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

 

編集後記

最近、面白い本に出会いました。「やましたひでこ」さんの「断捨離」です。
ヨガの哲学から生み出した片づけ術です。
名前だけは知っていたのですが、初めてこの本を手にしました。
「断」とは入ってくるいらないモノを断つ。
「捨」とは家にはびこるガラクタを捨てる。
「離」とはモノへの執着から離れる。
ということです。
モノであっても情報であっても、多すぎると片づかないといいます。
「主役はモノではなく私」で考えることです。
「重要軸は私」そして「時間軸は今」で判断することです。
私もモノやココロのガラクタを片づけることにします。
この本に出会ったことに感謝です!

≪iPad≫
SEGCLIP mobile
カバンの中にこのチューナーを入れてiPadに接続せずに無線LANでテレビを観ることができます。画面が大きいので見やすいのが魅力 だと思います。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.784

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com