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NO.774               Ryo Onishi              3/13/2011  

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雑貨屋のひとり言

金曜日に発生した東日本巨大地震とその影響による大津波は想像をはるかに超えた大きさで、街を飲み込んでしまいました。これまでも津波の怖さは知らされていましたが、テレビであれほどすごいシーンを何度も観てとても大きなショックを受けています。陸地が60−70センチも沈下してしまうという自然の驚異を思い知らされました。こ地震と津波でで多くの方が犠牲になり、行方不明の方も多数おられます。行方不明の方が一刻も早く、救助されることを祈ります。犠牲になられた方々に対し、心からご冥福をお祈りします。この災害は他人事ではなく、日本人全員が助け合ってこの困難を克服しなければならないと思います。私たちもできることからやっていきたいと思います。≪R.O≫

 

サウスベイ経営セミナー15年を振りかえる(2)

  ――― 前号からの続き ―――
この会はもともとはJBA(現在の「南カリフォルニア日系企業協会」)サウスベイ地域部会が 10数年間(計144回)行ってきた月例勉強会でした。1990年代はじめまで、所謂日本がバブル時代であったころ、日本からの海外進出は目覚しく、JBAの会員(企業)も700社近だったのが、バブルの崩壊に伴い1995年頃には500社ほどまでに減少しました。

会費収入に頼るJBAとしては、収入減への対策として組織の再編に迫られ、当時の会長だった天野氏(米国デンソー社長)の大号令のもと、JBAの役割のひとつだった「日本人会的役割」はとりやめ、「商工会議所的役割」に絞る方針が打ち出されました。国や州政府に対するロビー活動、ビジネス支援などの方向に重点を絞って難局を乗り切ろうということでした。そのため、いくつかの親睦行事的な活動がJBAは切り捨てることになったのです。サウスベイ地域部会の月例勉強会も切り捨て対象になってしまったのでした。

そのこと自体は当時のJBAとしてはやむを得ないことでしたが、前記のとおり、この月例勉強会は10年以上の実績があり、日本からの進出企業やその駐在員、地元で起業している日本人や日系人のために大いに貢献しており、また原則としてメンバーのボランティア・ベースで運営していたので、私たち実際に勉強会を運営していたものとしてはJBAから外されることに得心できず、当時のJBAサウスベイ地域部会役員の皆さんにも理解していただき、本部に対してその存続を強力に訴えたのでしたが、本部と地域部会という力の差はいかんともし難く、まさに“多勢に無勢”で訴えは退けられてしまいました。この月例勉強会(SBMS)とほぼ同じ運命を辿ったのが、のちにJERC(Japanese Educational Resource Center) として独立し、いまだに素晴らしい活動を続けている教育ボランティア・グループです。

JBA本体から捨てられてしまった私たちは、毎月参加してくれるメンバーからの強い要請もあり、それでは自分達だけでこの勉強会を続けようということになり、カーソン市の米国パイオニア社において同社の山田社長を発起人の長とし、新勉強会の立ち上げのためのミーティングを重ねました。1995年の初めのことでした。その結果、会の名前はこれまでの「JBAサウスベイ地域部会、経営セミナー」からJBAの冠をはずし「サウスベイ経営セミナー(South Bay Management Seminar、略称:SBMS)」とし、初年度会長に山田氏(米国パイオニア社長)、副会長にゲルマン・喜子氏(Holiday Inn)、世話人に若尾龍彦氏(Wakao & Associates社長)を選出して新たな出発をしました。

私はこの新組織について発起人、準備委員、第2年度会長、幹事、そしてその後はセミナー委員として設立当初からかかわりをもてたことを誇りにしています。設立当初は30数社の会員でスタートしたものが現在は100を超える法人、個人会員を要するグループにまで育ち、私も生みの親の一人として感無量の心境です。
――― 次号へ続く ――― 

河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言 終(つい)の棲家(すみか)・・・その18」

<備えられて・・・>

♪〜遥かに仰ぎ見る 輝けるみくにに 父の備えましし 楽しき住みかあり われらついに 輝く御国にて きよきたみと ともにみまえにあわん〜♪、“永住・天国”のテーマとして、昇天行事の際によく用いられる讃美歌488番。偶然にも、これが、私が最初で最後、義父に歌って聴かせた讃美歌になってしまった。東京に、なごり雪が降った3月7日(月)の朝、イルカの歌『なごり雪』♪〜君の唇がさようならと動くことが怖くて下を向いてた・・・東京で観る雪は最後ね、と寂しそうに君が呟く〜♪をまず歌い、続けて「じゃあ、ついでに讃美歌も歌っていい?!」と聞くと、瞼は開けられないが首を縦や横に振って意思表示ができる状態の義父が、縦にしっかりと頷いた。手にした讃美歌集を開いたら、たまたまそれがこの488番だった。何気なく歌った。義父は聴きながら右手を挙げて、私に応えていた。そして翌日(3月8日)の朝4時過ぎ、義父は逝った。静かで安らかな旅立ちだった。振り返ると、1つひとつの出来ごとに、目に見えぬ神様の導きや備えがあったなと、つくづく感謝する今である。

このシリーズで紹介してきた88歳の義父は、癌の末期ステージにあって対応治療に挑み、全身の痛み及び死への恐怖と闘ってきた。しかし昨年11月辺りから採血結果は勿論、症状に急な悪化が見られ始めた。昨夏先立った最愛の妻の悲しみも一因だろうと、当時医者は口にしたが、明らかに対応治療から緩和ケア(ターミナルケア)への移行を示唆するものだった。今年2月初旬から鴨川の亀田病院に緊急入院、2週間を経た2月25日、聖路加国際病院緩和ケア科病棟へ転院し、12日目の3月8日明け方、次男である夫と私に看取られながらの最期だった。まさにこの聖路加国際病院緩和ケア科病棟が、義父の“終の棲みか”となった。今回から数回に亘り、“終の棲みか”後半シリーズとして、高齢化社会における介護施設問題や医療問題、緩和ケア、人の絆や命について、小さな私の体験だがシェアーしてみたい。

ところで、義両親との関わりの中でも、特にこの最後の2年間は、介護と看護の実体験をさせてもらったことになる。仕事一途に突っ走って生きてきた私の、思いもよらなかった世界や生活が現実となった。明確に決められた目的、ゴール、予算、期間内で終了するプロジェクトとは違い、予見・予知できないこと(ばかり)が次々に発生したり展開したりする中では、ITを駆使したリサーチやサーチ、経験や学習による判断や選択も役に立ったが、何より義両親の夫婦愛と家族愛、地域や友人の励ましなど、人的ネットワークが大きな支えだった。さらに、人の計画や想いを超えた形で備えられたような、時や場所や人とのできごとが、偶然というにはあまりにも不釣り合いな、やはり、この世に神様っているんだなぁっと、確信させられた歳月だった。それは、自分の力で何かやってきたんだという自負や傲慢ではなく、人と神に助けられたからこそここまで来ることが出来たという感謝と、(今まであまり気付かなかった)意外な大胆さが自分にあった、という思いがある。1つひとつが、その時々に叶って美しいと思える日々だった。

さて、義父の通夜を3月9日、告別式を10日に済ませた翌日から、いつもの一日がいつものように始まり、過ぎていくと思われた。その時だった。東北地方太平洋沖地震が発生、40階建の31階に位置する佃の我が家は、ドーンドーンと音がして縦に揺れたあと、立っていられないほど横に大揺れ。ガラス張りのリビングからは、隣のマンションが大きく左右に揺れて振り子の様、私たちのビルも部屋も台風時の桟橋のように揺れている。まるで映画の中に居るような風景で、身体が震えた。私は、10日に佃に持ち帰った義父の遺骨を支えるため震える手を伸ばそうとした。しかし、義父の遺骨を置いているサイドボードも、その上の遺骨も、微動だにせず、どっしりと構えていた。大惨事の日をさけて別れを告げさせた亡き義父の備えを感じた。体調がいい時は「佃に来たい来たい」と言っていた父は、まるでこの家の主(あるじ)のように、今もリビングの真ん中に坐している。私たち夫婦の愛を備えにして・・・っと、呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

 
ぼろぼろの地図一瞬の震度7

文明の積み木マグマに見透かされ

原発に安全という崩し文字

未来図にどう描かれる原子の火

ガン エイズ 続く何かの怖い夢


( ニュースやぶにらみ )

「ミセスで」
ミスった −ミスター年金

「二郎さん死去」
憎まれっ子世にはばかる −一郎

「345mからの展望」
国会周辺に暗雲が −スカイツリー

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

龍翁余話

龍翁余話(171)「足が竦んだ震度5強」

翁、15年くらい前までは、ドキュメンタリー番組取材で海外の危険地帯に潜り込み、ほどほどに度胸を身につけ、肝が据わっていたはずなのに、現役を退き平穏な日々に慣れると、
咄嗟のアクシデントに遭遇した時、“恐怖”が先に来て“瞬時の適切反応(判断・行動)”が鈍っていることを自覚させられることがある。その典型的な例が、先日の三陸沖を震源とするM8.8の東日本巨大地震。宮城県北部をはじめ東北一帯は震度7、震度6(強弱)を観測、東京23区でも5強の激震が走った。その時だ、翁の足が竦んだのは・・・

“竦む(すくむ)”とは、ひるむ、おじける、縮み上がる、立ち竦む(恐怖や驚きのために、立ったまま動けなくなる)の意。翁が、一瞬、その全部に襲われたのが3月11日午後2時46分。その少し前(2時半頃)、会社のミーティングが終わり、冷めたコーヒーを飲み干して「お先に失礼するよ」と他の役員に声をかけ、コートを手にとって帰り支度をした途端、グラグラ、ミシミシ(こんな生易しい形容では、とうてい表現し難い恐怖の瞬間)が来た。
オフィスのあちこちの壁際に備え付けてある収納棚の戸が開いて、取材テープやDVD,CDなどが飛び散った。役員の一人が叫んだ「これはデカイぞ!みんな早く机の下にもぐれ」に翁も反射的に会議机の下に頭を突っ込んだのだが、正直、ゴーっと来た瞬間、「何だ、これは?!」と立ち竦み、自分が何をなすべきか(5秒くらい)瞬間的判断力を失った。
会議机の下に潜り込み、けっこう長い時間(に思えたほど)震動が続く中、先ほどの己れの“竦み”が可笑しくなったが、同時に、何故か、翁の友人で翁も所属しているNPO法人日本災害情報サポートネットワーク理事長・渡辺実氏(防災・危機管理ジャーナリスト)が書いた『大地震発生!!生死を分ける3秒・3分・3時間後』を思い出した。

この本は、地震発生から3秒後、3分後、3時間後にマトを絞り、人が生き延びるための、ごく基本的なノウハウを著したものである。<第1章『激震3秒後:激震』>――阪神淡路大震災の調査報告によると、この震災で死亡した約8割が窒息、圧死だった。ほんの一瞬、その一瞬で人は生死を分ける。具体的には『むやみに逃げ回ることなく、しゃがんで頭を守る』、『海から避難する』(津波は数分後、数時間後に押し寄せる場合があり、一端寄せてくるとそのスピードは時速600キロ、新幹線の倍の速さ。2004年12月のM9のスマトラ沖地震は高さ数10メートルの津波がインドネシア・アチェ州、タイ南部、スリランカなどのインド洋沿岸を襲い、あっという間に死者約22万人、行方不明7.7万人、負傷者13万人を出した。『地下街や雑居ビルから避難する』(ほか)。<第2章『発生3分後:避難』>――激震が治まり落下物は全て落下。周囲はガラスその他の破片が散乱、足回りを確保しながら避難方法を知る。例えば『火に近づかない』、『低い姿勢で逃げる』、『(駅など公的場所では)係員の指示に従う』、『音や声を出す』、『携帯電話のONを確認』、『情報を共有する』(ほか)。<第3章『発生3時間後:持久戦』>――激震、津波・火災などを乗り越えた後は身近な人の安否確認、救援物資や助けが来るまでの持久戦。例えば『携帯電話やメール、声、音、布や物を振って自分の位置を知らせる』、『デマに惑わされない』、『ケガで出血した場合は、ハンカチや衣服を破いて素早く血止めをする』(ほか)。

その日はあいにく車ではなく電車出勤だった。激震が治まってから「さあ、電車が止まらないうちに早く帰ろう」と代々木駅に向かった。時すでに遅く駅構内は人だかり。駅員がスピーカーで、電車ストップ、回復時間不明を告げている。と、その時、大きな余震が起きた。あちこちから悲鳴が上がる。路上に立っていた翁、道路のうねりを初めて経験した。この気味の悪さは例えようがない、まさに“立ち竦む”しかなかった。余震が治まってから一端、会社に戻り、他の役員やスタッフたちと久しぶりに雑談しながらテレビニュースに見入った。“会社泊まり”を決め込んだスタッフ数人が近くのコンビニへ買出しに・・・オニギリや弁当などご飯物は早々に売り切れだったそうで、菓子パン、スナック、飲み物などを大量に仕入れてきた。それでも少しは安心出来た。

夜遅く、地下鉄(数線)の一部が開通、乗り継いで何とか(深夜に)帰宅出来たが、10階のマンションの玄関ドアを開けた途端、あ〜あ、無残!(覚悟はしていたものの)書斎(仕事部屋)の惨憺たる有り様に暫し呆然、再び“足が竦む”。奥のリビングも同様、飾り棚の飾り物は殆んど飛び出し、ガラス物は割れ、長年可愛がってきた植木鉢3個とも、鉢と植木と土がバラバラに床に転がっていた。手の施しようがない。寝室が難をのがれ、パソコンとテレビも無傷だったことが、せめてもの慰めだった。その夜はさっさと寝たが、夢の中で4、5回、余震を感じたような気がした。翌日(土曜日)は定例のゴルフデーだが、当然のことながら中止、朝から大掃除。

2008年のデータだが、中央防災会議の『首都直下地震避難対策』によると、東京湾北部を震源とするM7強の地震が平日に発生した場合、交通機関は殆んどマヒ状態。職場、学校、買い物などで外出している人は約1400万人、徒歩で帰宅を目指す人は約1200万人、仮に都心から横浜まで歩くとしたら通常6時間くらいだが、地震時は“満員道路”、路上の障害物などで倍以上(15時間)はかかるとの調査結果を出した。今回の東京23区の震度5で翁の友人は銀座から横浜市港北区日吉まで(車で通常1時間のところ)7時間かかったそうだ。震度6以上の巨大地震が東京に起きたら都市機能の半分は壊滅、100万人近い死傷者を出すかもしれない。11日以後も福島沖、栃木、神奈川、長野、新潟、茨城沖に発生した緊急地震速報が気象庁から翁の携帯電話に続々と送られる。こうして今(13日)執筆している間でも大小の揺れが続く。連日報道されている東日本巨大地震(『平成23年東北地方太平洋沖地震』気象庁が命名)の被害実数はまだ明確ではないが被災地の映像は実に痛ましい。犠牲者のご冥福、被災者へのお見舞いと被災地の早期復興への祈念、そのため与野党一丸となって被災者・被災地救済に全力を傾けよ・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

こんなときにジャズの紹介はどうかと思いましたが、音楽は心を落ち着かせてくれます。これからの日本を考えるとモヤモヤしたものがありますが、SAYAさんのメリハリのあるピアノを聴くと気持ちが落ち着きます。

"Dance Your Heart"  SAYA

01-Summertime
02-Fragile
03-My One And Only Love
04-Dance Your Heart
05-Norwegian Wood
06-Chan's Song
07-How My Heart Sings
08-Believe
09-Chicken
10-Waiting In Vain

ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

ニュージーランドのクライストチャーチの地震で行方不明になっている日本人がまだほとんど確認されていないところに今度は日本でマグニチュード9.0という信じられない大きさの地震が起こってしまいました。金曜日、私は神戸にある会社で15時前になんとも気持ちの悪い揺れを一定時間感じました。神戸や大阪でも揺れたわけですから。関東以北は大変な揺れであったと想像できます。この大きなプレートの動きがこれから先、また大きな地震につながる可能性もあるので心配です。
≪iPad≫
今回の紹介はやめます。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.774

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com