龍翁余話(169)「馬込文士村」
かつて“東京・馬込村“に41人もの名立たる小説家、画家、歌人、詩人、俳人、版画家、彫刻家、劇作家、評論家、翻訳家、随筆家らが居住した。よほど住みやすい環境(静かな農村)だったか、仲間とつるんで暮らしたかったか、小説や詩の材料集めのためだったか理由は様々だろうが、資料によると大正12年に尾崎士郎が宇野千代と結婚して馬込村に新居を構えて以来、この二人が(当時、すでに名をなしている)文士や芸術家たちを呼び集めた、とある。よくもまあ、集まったものだ。その一帯を『馬込文士村』と言う。翁、今年の正月からメタボ予防のために『龍翁のご近所散歩』をこころみており、すでに『余話』で、これまで3回書いた(162号、164号、167号)。その一環で、という軽い気持ちで、某日『馬込文士村』の散策に出かけた。“馬込”と言うから大田区の馬込一帯かと思い込み、都営地下鉄浅草線で西馬込駅へ。確かに駅前に“馬込文士村案内”の掲示板がある。商店街のあちこちに“馬込文士村商店街”の標識が掲げられ雰囲気を盛り上げている。まずは大田区立郷土博物館を訪ねた。そこで学芸員に話を聴いたり、資料を見たりして“文士村の41人の住人”を知り、更に『馬込文士村』の広さに驚いた。簡単に言うと西馬込から南馬込、中馬込、東馬込、大森山王、JR大森駅周辺にまで及ぶ。それと馬込は坂の多い街。この地に住んでいた俳人・川端茅舎(かわばたぼうしゃ)は“鶯の こだまの九十九谷かな”と詠い、歌人・北原白秋も“馬込は谷多き里なり”と言っているほどだから、メタボ予防の散歩気分では、とても歩き廻れるものではない。
どんな文士・芸術家たちがこの“馬込文士村”に住んでいたか、大田区立郷土博物館発行の“馬込文士村ガイドブック”から(イロハ順に)紹介すると――石坂洋次郎(小説家1900〜1986)、稲垣足穂(いながきたるほ=小説家1900〜1977)、今井達夫(小説家1904〜1978)、宇野千代(小説家1897〜1996)、尾崎士郎(小説家、『余話』167号で詳しく紹介)、片山広子(歌人1878〜1957)、川瀬巴水(かわせはすい=版画家1883〜1957)、川端茅舎(俳人1897〜1941)、川端康成(小説家1899〜1971)、川端龍子(かわばたりゅうし=日本画家1885〜1966)、北原白秋(1885〜1942)、衣巻省三(きぬまきせいぞう=詩人1900〜1978)、倉田百三(くらたひゃくぞう=小説家1891〜1943)、小島政二郎(小説家1894〜1994)、小林古径(こばやしこけい=日本画家1883〜1957)、榊山 潤(さかきやまじゅん=小説家1900〜1980、彼が“馬込文士村”を執筆した)、佐多稲子(小説家1904〜1998)、佐藤朝山(さとうちょうざん=木彫家1888〜1963)、佐藤惣之助(詩人1890〜19429、下母澤 寛(しもざわかん=小説家1892〜1968)、城 左門(じょうさもん=詩人1904〜1976)、添田さつき(小説家1902〜1980)、高見 順(小説家1907〜1965)、竹村俊郎(詩人1896〜1944)、萩原朔太郎(詩人1886〜1942)、日夏耿之介(ひなつこうのすけ=詩人1890〜1971)、広津柳浪(ひろつりゅうろう=小説家1861〜1926)、広津和郎(ひろつかずお=小説家1891〜1968)、藤浦洸(ふじうらこう=作詞家1898〜1979)、牧野信一(小説家1896〜1936)、真船 豊(劇作家1902〜1977)、間宮茂輔(まみやもすけ=小説家1899〜1975)、三好達治(詩人・翻訳家1900〜1964)、村岡花子(翻訳家・童話作家1893〜1968)、室生犀星(詩人1889〜1962)、室伏高信(むろぶせこうしん=小説家1892〜1970)、山本周五郎(小説家1903〜1967)、山本有三(劇作家、馬込時代は参議院議員1887〜1974)、吉田甲子太郎(よしだきねたろう=児童文学者・翻訳家1894〜1957)、吉屋信子(小説家1896〜1973)、和辻哲郎(哲学者・文化史家1889〜1960)――以上の41人、居住年代、期間はそれぞれ異なるが・・・
JR大森駅前の天祖神社の石段に“馬込文士村住人たち”の交遊レリーフが展示されている。このレリーフを見るだけで“馬込文士村”の生々しい文化創造の息吹が感じられる。
次々と文士や芸術家を呼び集め(写真上段右)、常に中心的役割を演じた尾崎士郎と宇野千代(写真中段左)、宇野千代、佐多稲子、吉屋信子、村岡花子、片山広子らは“本格的な女性活動期”を発信し(写真中段中)、髪のショートカットを流行らせた(写真中段右)。定期的なダンスパーティやマージャン大会(写真下段左・中)、そして特筆すべきは相撲好きの尾崎士郎が中心となって“大森相撲協会”を設立、文士・芸術家たちによる“大森場所”を挙行したそうな(写真下段右)。これらレリーフ展示の石段を、翁、上ったり下ったりして見入っているうちに、馬込村の文士たちは交遊の中から“人間賛歌”(人間の尊厳と生命力の素晴らしさ)を感じ取り、それを作品に活かしたのでは、と思えた。同時に『余話』執筆の意義と意味を問い直す時間でもあった・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |