龍翁余話(165)「和歌雑感・・・俳句・川柳・狂歌」
最近、翁の周辺で、俳句や川柳を楽しむ人が増えてきているようだ。俳句は、NHKの3年にわたる超大型シリーズ(司馬遼太郎原作の)『坂の上の雲』(第1部は2009年12月に、第2部は昨年12月に放送終了、第3部は今年12月に放送予定)の主人公、日露戦争で日本に奇跡的勝利をもたらした秋山好古(陸軍大将)、秋山真之(海軍中将)兄弟と親交の深かった正岡子規(俳人・詩人・評論家・随筆家)、第2部で34年の壮絶な生涯を閉じたのだが、その子規の影響だろうか、放送が終了したあと(今年に入って)旧友のM氏(元新聞記者)から「地元(杉並区)の中高年の皆さんからのご要望で、このたび俳句同好会を結成することになりました。つきましては龍翁さんにも是非ご参加いただきたい」とのお誘いがあった。現在会員は12人とのこと。俳句は翁も多少の心得はある。M氏はそのことを知っての勧誘だっただろうと思うが、まあ、月に1回ていどなら、ということで来月からM氏主宰の句会に参加することにした。ちなみに翁自身、『坂の上の雲』(1969年〜1972年、文芸春秋連載)によって秋山兄弟、正岡子規の大ファンとなり、そのことは『龍翁余話』(89)「根岸界隈ぶらり旅」<その1>(2009年7月12日)にも書いた。
古い話だが、学生時代お世話になった(下宿屋でないのに、無理矢理下宿させて貰った)お宅、所は世田谷区松原町の、歴史を感じさせる立派な日本家屋、玄関の横にはシャンデリアが輝く洋館(50畳ほどの応接間)がある豪邸、翁は(かつて書斎に使われていたという)6畳間に住まわせて貰った。そのお屋敷の主(あるじ)は、いつも和服姿で長い白髪を束ね髪(たばねかみ=後ろで無造作に束ねた髪)にしている上品な初老のおばさん。そのお屋敷に転がり込んで数日後に分かったことだが、このお宅は、何と、信濃小諸藩の第10代藩主・牧野康済(まきの やすまさ=明治17年の華族令で子爵)の縁戚にあたるお家柄、しかも、このおばさん(牧野芳子さん)は大正から昭和にかけてのアララギ派の中心人物・斉藤茂吉(歌人・精神科医)の直弟子、つまり、昭和アララギ派の歌人であった。毎週定例句会には大勢の(牧野さんの)お弟子さんたちが集まった。まるで俗世間とは別世界の、古典日本語(文語=書き言葉)が飛び交う空間は、当時学生の翁にとっては肩が凝るほどの緊張感が漂う雰囲気であったが、実は翁も牧野芳子門下生の末席に加えていただき、俳句・短歌を勉強させていただいた。そんなことで爾来、時折、俳句・短歌に親しんできたのだが、思えば後年、翁が筆と映像でメシを食う職業に就けたのは、ここ“牧野芳子教室”が出発点であったのかもしれない。 一方、川柳は、というと(某生命保険会社が主催する)“サラリーマン川柳”が有名だが、企業や団体、小単位グループなどの“○○川柳”の多いのに驚く。川柳も俳句と同じく短歌(和歌=やまとうた)の一種であり、俳句と同じように五・七・五の形態をとる。しかし“季語を1つ入れ、わび・さびを効かせて風情を重んじる”俳句と異なり、川柳は“風情より風刺やユーモアを重視している”から、ほとんどの作品が笑いと納得を誘う。昨年末に鏡餅を購入した際、その箱の中に“日本鏡餅組合事務局「川柳大募集」”のチラシが入っていた。入賞商品、JCBギフトカード5,000円分(50作品)を狙って“よし、俺も”と構えてみたが、ウイット(機知・頓知のセンス)に乏しい翁、まったく手も足も出ない。ところが翁の身近に筋金入りの川柳作家がいる。その人の名は河合成近さん。『龍翁余話』を毎週掲載して貰っている『雑貨屋ウイークリー』(配信元は大阪、主宰は大西良衛さん)執筆者集団の(翁の)先輩だ。他の作家たちの作品(エッセイ)も必ず拝読するが、成近さんの川柳と一口時評“ニュースやぶにらみ”はことさら楽しみ。今年に入ってからの作品の一部を紹介すると、『元旦の朝も回転皿で来る』、『めでたさも切手のシートのほどの運』、『一年の計にダルマの苦笑い』、『歳なりに元気と喜寿の年賀状』、『父母の歳越えてまだまだある迷い』、『百歳の句集が夢という励み』・・・同世代の翁にとって、これらの心情描写は、笑いより納得がズシンと胸に響く。さらに『女房の負けるが勝ちに操られ』、『70点これでいいねと凡夫婦』、『下一桁当たり程度の亭主運』、『赤い糸いつしか紐に綱になり』などは、新年に際し(照れながらも)改めて奥さんへの感謝の気持ちを表した“女房賛歌”、愛妻家の成近さんらしい微笑ましい作品だ。川柳とは、このように自分の生活感情の中から自然にこみ上げるものを(何の制約も受けずに)素直に五・七・五に纏めればいいのだが前述のようにウイットに富んでいなければ、なかなか・・・ さて、俳句も川柳も“短歌(和歌=(やまとうた)の一種”と述べた。短歌は俳句や川柳より、やや字数が多い(五・七・五・七・七=字余り可)分、ボキャブラリー(語彙)の豊富さが求められるので、とっつきにくい。国歌『君が代』(古今和歌集=題知らず、詠み人知らず)が、身近な和歌だが、同じ和歌(短歌)の中に狂歌というのがある。狂歌とは(川柳と同じように)社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み五・七・五・七・七で構成する諧謔形式の短歌のこと。その昔、戦国時代に細川幽斎という武将で歌人がいた。彼は信長、秀吉、家康に仕え、子孫は肥後熊本藩54万石の藩主となる。秀吉がある時「世の中で一番小さい物を狂歌にせよ。勝者には余の印籠を授ける」ということで“狂歌合戦”が始まった。その席には片桐且元、福島正則、加藤清正などの武将のほか、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう=話し相手)の1人“頓知の新左“と呼ばれていた曽呂利新左衛門(そろり しんざえもん=落語の祖)もいた。幾つかの”小さい物“が詠まれたが結局は幽斎の「蚊のこぼす 涙の海の 浮島に 砂子拾ふて 千々砕くなり」が一番になったとか・・・ さて、翁が学生時代、人並みに“我が人生、先が見えず”で苦しんでいた時、下宿のおばさんこと短歌の大先生・牧野芳子さんが翁に手渡してくれた1枚の色紙(1句)が半世紀を越えた今も翁の座右の銘として(翁の心の中に)生き続けている、そして悩める後輩たちにも伝えてきた。「君に問う 何思はめや 明日の日の 全(まっと)き運命(さだめ) 誰(た)が誓ふべき」(あなたは、何をそんなに思い悩んでいるのですか? 明日の運命を、誰が決めることが出来ますか? 運命は、あなた自身が切り拓くしかないのですよ)「春寒し いまだ迷いし 翁道(おきなみち」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |