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NO.740               Ryo Onishi              7/18/2010  

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雑貨屋のひとり言

今年の梅雨はものすごい集中豪雨が降りましたね。被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。読者のみなさんのところの被害は無かったでしょうか?先週の 金曜日からセミが 鳴き出していたので梅雨明けが近いと思いました。セミはちゃんとわかるんですね。またセミの鳴き声のやかましい季節がやって来ました。セミはいつの間に木に登っているのかいつも不思議に思います。 でもこれからも夏になるとセミが鳴く日本であってほしいと思います。≪R.O≫

アメリカの弁護士(4)

 ――― 前号から続く ―――
 アメリカのジョーク話にこんなのがあります。――― アメリカ人の幼児は生まれて最初に覚える単語は「マミー(お母さん)」、「ダデイ(お父さん)」ですが、その次に覚えるのは、「I’ll Sue You!(君を訴えるぞ!)」なのだそうです。訴訟社会アメリカを表現するジョークといえましょう。

 もちろん例外も多いですが、なにか揉め事があったら、まず訴えをおこし、それから話し合いがはじめる社会だからです。日本のように“調和”を重んじる社会では考えられないことです。尤も日本も少しずつアメリカナイズされ、すぐ「訴えてやる!!」と騒ぎ出す人も増えてきたそうですが・・・。

 会社の業績報告の場である株主総会で、会社側の報告事項の中に、会社がその時点で抱える訴訟件数があります。「当社はこの営業期間中の訴訟事件は○○件、期末現在残っているのは××件です」といった具合です。これがもし日本だったら、訴訟事件を抱えていること自体が不名誉なことですが、こちらでは「前記は二桁だった案件が、今期末には1桁にすることが出来ました」と会社は胸を張って報告したりします。そういえば、私の勤務していた企業も人事問題などで、時々訴訟案件を抱えていました。

 企業は業績の悪化、業務の変更、個別従業員の素行不良などに伴なって部門の閉鎖、従業員の解雇などのリストラを行うことがあります。以前、親しい米人の友人から聞いた話ですが、こちらではこれらリストラを実施する場合、必ず金曜日の朝に発表し、リストラ対象の従業員に通知するのだそうです。彼の会社では解雇の場合、2ヶ月の予告、または2か月分の給与を支払うことになっていました。そこで会社は対象従業員に2ヶ月分の給料を渡し、その日の午前中に会社から退去するように求めます。同時に退職に伴なう諸手続き、書類へのサインを求めます。

突然の解雇を通告されて喜ぶ従業員はいません。“Why me ? (なぜ、私がクビなのだ?)”と対象従業員は必ず聞くそうです。そこで、会社は彼(彼女)に理由を説明します。服務規程違反による場合は普段から従業員の個人ファイルを常備し、問題があればこと細かく記載し、上司と本人に都度確認しているので、それにもとづき説明をするそうです。

そこまでしても本人の納得を得るのは困難ですが、そこで「金曜日に通告する」が生きてくるのだそうで、金曜日の昼過ぎから土・日の2日の休日という冷却期間を経て、本人達も「クビになってもしょうがないや」とあきらめてくれるのだそうです。それでも中には土・日の冷却期間が過ぎても納得せずカッカする者もおり、これらの人が「訴えてやる!」となるので、彼の会社はいつも数件の人事訴訟問題を抱えることになるのだそうです。「でも、金曜日以外の日に通告していたら、訴訟案件はもっと多いでしょう」とかれは笑っていました。

日本にくらべてアメリカの社会ではなぜ、訴訟事件が多く発生するかというと、上記のような会社の人事に関しては、比較的安易に従業員の解雇があるために労使問題での訴訟が多いことが挙げられますが、一般論としては、この国の圧倒的多数の人が狩猟民族特有の対決を厭わない民族性があること、多民族移民国家であるので、よって来たる民族の習慣や常識が異なるため、当事者間の話し合いがむつかしく、法律に秩序を求める必要があること、などがあるのではないでしょうか。その結果、これらの問題を取り扱う弁護士が求められ、多くの弁護士が生まれてくるのでしょう。弁護士の数が増えれば、顧客獲得のため相互の競争が熾烈になり、前に記したような「救急車追跡者(Ambulance Chaser)」となるような弁護士も出現するのではないでしょうか。
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「終(つい)の住まい」その4

<ほう・れん・そう>

社会人一年目、耳にたこができるほど聞かされた言葉、それは“ほう・れん・そう”だった。その後、アメリカで、また日本で、プロジェクトチームメンバーたちと共に仕事をした時や研修講師として受講生にスピーチした時、口を酸っぱくして言い続けた言葉、それも“ほう・れん・そう”だった。社会人なら誰だって知っているこの言葉、“ほう・れん・そう”――『報告し合う、連絡し合う、そして相談し合う』こと。 私たちプロフェッショナルは常に、合理的仕事の流れ、価値ある成果物の実現、クライアントの価値創出と納得・満足・信頼の獲得に、この“ほう・れん・そう”がどれほど重要なファクターを占めてきたかを学び体験した。そして今、高齢の義両親がお世話になった(なっている)病院や施設に、その“ほう・れん・そう”のかけらも見られない部署や人々もあれば、“ほう・れん・そう”が日本一だと思える医療機関(の医師や看護師)もあることも体験し、驚かされた。今回は疑問を抱いた“ほう・れん・そう”なし、の体験を呟いてみる。

前号で触れた『おおたかの森病院』で年を越した義母が、無事退院をし、普通の生活に戻って間もない頃、ひと月に1度の定期診察がやってきた。定期診察を受ける病院は、18年近く通っている『千葉西総合病院』の循環器科と内科だった。今までは、義両親が共に予約時間を合わせて、二人一緒にタクシーで通っていた。でも年末のような問題(母の救急車での受け入れ拒否)が発生したこともあり、今回の定期診察から私の車で同行し、医師との問診も同席することとした。朝の7時半に両親の自宅へ迎えに行き、10分余りで到着する近場の『千葉西総合病院』で、前述した2つの科の定期診察や薬剤受け取りが終わったのは、なんと午後4時半だった。早朝というのに、自動受付は長蛇の列、診察前の血液検査を受けるだけの待ち時間が2時間近く、待合室はいっぱいで椅子も空いていない。席が空いたらラッキー、高齢の義両親はバラバラに座るしかない。診察前の心電図やレントゲン等の検査も同様で、待ち時間が長い。そして、自動血圧・脈拍測定器で患者自身が測定し(手を差し込むだけの簡易的な袋穴のついた機械)、レシート大の測定結果が印字された小さな紙を手に持って診察室に呼ばれるまでじっと待つ。予約は8時半だが、実際内科の診察室に入ったのは、正午を過ぎていた。医者は患者が差し出す血圧・脈拍の値の小さな紙を受け取ると、そのままカルテに貼った。脈をとることもなく、簡単な話しで同じ薬と追加の薬の処方がなされて終わり。ものの3分もない。内科の後に行った循環器科でも全く同じ。強いて違いを言えば、循環器科の医師は、聴診器を患者に当てたことぐらいだろうか。

ところで、こんな通院先に同席した私は、この機会にと、12月に起こった義母の入院及び反発症状などの状況を説明したり、また逆にこの18年間の投薬の目的や効果、今後の方針や注意事項などを、矢継ぎ早に質問したりした。義母が受け入れ拒否されたことには一切触れず、低姿勢で臨んだが、義両親が今まで夫婦だけで通院していたのに、急に息子の嫁がしゃしゃり出てきたものだから、内科・循環器科両医師達は、それなりに慌てていた。この時、内科の医師から言われたことは3つ。「老夫婦が今まで自分たちだけで出来たからといっても、今からは違う(出来ない)のだと認識し(認知症かもしれない事実を家族が認めること)、特に薬の正しい服用を含む管理については、誰かが責任をもってやらねばならない。服用及び停止についても管理を誰かがする」こと、「プレドニン長期服用者が急にやめた場合は、大変なことになり、今は服用の減量もできない。したがってプレドニンの服用をやめてもいいとは言ってない」こと、この二つは私も納得。ところが「自分はまだ数回しか患者(義母)を診ていないので、過去に担当した数人の医師たちが、何故プレドニンを処方したかについては不明である」・・・これには驚いた。医師が交代する場合は、患者の病歴、つまり病因・診察経緯・治療経緯・現在症状・投薬内容・今後の治療方針(診立て)などを報告・連絡する義務がある。“ほう・れん・そう”の重要性を知らない、では済まされない、恐るべき“ずさん”さに愕然とした。さらに、義両親の循環器科での診察は両親二人と私の3人が揃って入室、内科の時と同じように私が同席し、両親二人分の説明をしたりきいたりした。時は、午後3時近くになっていた。義両親の診察はほんの数分で終わり、待合室で待っていると、再び循環器科の担当医の診察室へと看護師が呼びにきた。しかも義母だけ、私も一緒にという。診察室に戻って最初に聞いた言葉、「申し訳ありません、こちらの手違いで、私が薬を一種類出し忘れていました。また、前回、服用しなくてもいいかもと申した薬の件は、内科の薬ではなく、循環器の薬のみで、言い方が悪くすみませんでした」と。私はこの言葉に耳を疑った。この時、薬を飲まなくてもいいと医師に言われたことは勘違いではなく事実だと、ずっと主張し続けた母への疑いは晴れた。どんな形であれ、これも“ほう・れん・そう”の成果だと思わざるをえなかった。そして、義両親の通院のお伴を始めたことに、心から、心の底から、よかったと思えた日だった。

さて、このように、“ほう・れん・そう”によって、いいこともそうでないことも明確になった。でも、それは結果的にとてもよかったと思っている。ビジネスの世界を退いて2年が経ったが、“ほう・れん・そう”は、こうした日常生活の中にも生きていることを実感させられた。だから、今後はもっともっと、義両親に関わることでは、家庭内外問わず、この“ほう・れん・そう”を増やしていこうと思った。ホウレンソウで有名なポパイは、愛するオリーブのために、パワーのために、ホウレンソウを食べた。私たちは、身近な人のために、もっともっと、“ほう・れん・そう”を美味しく食べられるようになるといいな、っと、呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

ジグゾーが埋まらぬままに喜寿米寿

平均寿命世界一だという不幸

老老介護人の字が崩れそう

神の手に任す私の砂時計

寺巡り最後ポックリ寺に寄り


( ニュースやぶにらみ )

「目の上の瘤」
小沢が   −菅首相
検察審が −小沢一郎

「菅首相の続投賛成が62%」
みっともなくて変えられない −国民

「選挙結果」
顔で笑って  −福島候補
心で泣いて −福島党首 

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺散歩(39)
*石井柏亭―明治15年(1882)〜昭和38年(1958)
柏亭の略歴です。父は日本画家石井鼎湖。弟は彫刻家の石井鶴三。明治30年15歳の時浅井忠に入門し、同40年、同人誌『方寸』を創刊。同11年木下杢太郎、北原白秋ら文学者とパンの会を結成。大正3年二科会を結成。昭和3年レジオン・ドヌール勲章受章、同11年一水会創立会員。同12年日本芸術院会員。
 柏亭は明治38年から12年間千駄木の地に住まいし、その間4度転居をしています。2番目の住いは千駄木林町8番地で、そこで山本鼎、森田恒友の青年美術家と、美術文芸誌として一時代を画した「方寸」を発行しました。その4年後に隣りの9番地で、平塚雷鳥による「青踏」が誕生しています。
森まゆみ『千駄木の漱石』より。「『ようやくの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある』 (注:漱石の「吾輩は猫である」の中の猫のセリフ) これが太田備中守の下屋敷にあった池である。 明治になると旧大名屋敷は衰微して、立ち入り自由であったらしい。この近くに小山正太郎の画塾不同舎があって青木繁や坂本繁二郎も学んでいたが、彼らはよくこの廃園を描いた。石井柏亭「太田ケ原」などは残されている。」
和田光子(注:柏亭の妹)『鴎外についての思い出』より
「明治40年頃私共の住いは鴎外先生のお宅とはすぐそばの大観音通りにありました。先生は毎日家の前を馬でお通りになりましたが、或る朝突然お馬をとめひらりとお下りになって私共の玄関にお立ちになりました。先生ぢきぢきのご訪問にびっくり恐縮した兄に(略)『僕もゆうべ徹夜でこれをやったんだから君も大急ぎでひとつ描いてくれ給え』それはドイツの有名なお医者様がご来朝になったのを歌舞伎に招待するので其の解説をお書きになった、それに何か絵を描けとの事でした」

森田さんから

今週はお休みです。

龍翁余話

龍翁余話(139)「むらさきの郷を往く」(その2・歴史と人情と教育と・・・)

読者のTさんから「醤油を、何故、むらさき、と言うのでしょう?」とのご質問をいただいた。さっそく調べてみた。醤油のルーツは中国の“醤(じゃん)”、奈良時代に日本に伝来し“醤(ひしお)と呼ばれた。鎌倉時代に醤油の元となる調味料”たまり“が出現、室町時代に”醤油“の文字が登場、室町時代の宮中に仕える女房(女官)たちは、やたら『女房詞(にょうぼうことば)』、つまり、上品な言葉(時には隠語)を創り出した。女房詞は100を超えるそうだが、その中に”むらさき“(醤油)が出てくる。どうやら醤油の色(紫)から”むらさき“と呼ぶようになったのでは?それがストレートで分かり易い。念のため『しょうゆ情報センター』(東京・日本橋)に問い合わせたら「昔から紫は高貴な色、醤油の色が紫に近いところから粋な江戸っ子が粋言葉(おしゃれ言葉)で女房詞”むらさき“を使うようになったのでは」という説明に翁も納得。Tさん、それでよろしいですか?

さて、その『むらさきの郷を往く』のだが、“野田醤油”の歴史を辿るほどに、この地の醤油産業がいかに地の利を得て繁栄し、地域と共に生きて来たか、つまり近年はやりの“CSR”(企業の社会的責任=社会貢献)に根ざしてきたかがよく分かる。野田は、関東平野のほぼ中央部に位置し、東の利根川、西の江戸川に挟まれ、大消費地・江戸に運ぶには絶好の交通の便(水運)に恵まれた。そればかりではない、醤油の原料である大豆は常陸の国(茨城県)、小麦は下総台地(千葉県北部)や上州(群馬県)、相模(神奈川県北東部)、塩は当初、行徳の塩(千葉県市川市の南部、江戸川方水路以南に行徳塩田があった)を使っていたが、やがて播磨国(兵庫県南西部)『忠臣蔵―赤穂浪士』で有名な赤穂の塩を使うようになった。更に、江戸川の水質の良さが醤油に適していた、など、何もかもが醤油作りに幸いした。伝承によると、野田醤油の発祥(起源)は永禄年間(1560年頃)というから今から450年前ということになる。江戸時代に入って本格的な醤油醸造が行なわれ、寛政年間(1800年頃)高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油に指定される。明治20年(1887年)に『野田醤油醸造組合』を結成、大正6年(1917年)には茂木一族と高梨一族の8家合同による『野田醤油株式会社』が設立され日本一の“むらさきの郷”となる。これが後の『キッコーマン株式会社』。この時、数社あった野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、もう1つの醤油の名門『キノエネ醤油』は独自の道を選んで今日に至っている。 

大正末年に建てられた旧茂木佐平治家の邸宅(写真左)(平成9年に建物全てが登録有形文化財に、また庭園(写真右)は県内初の登録記念物に指定されている)は、昭和31年(1956年)に野田市へ寄贈され、以後、『野田市市民会館』として市民の文化活動や地域活動、いわゆる生涯学習の実践拠点として無料で貸し出している。まさに“CSR”の具現例だ。早速、学芸員の田尻さんのご案内で建物内を見学させていただいた。松・竹・梅・桃・月・雪・柳・楓・藤・菊などの座敷に純日本風の伝統美が守られている一方、当時としては珍しいタイル張りの洗面所、様式のバスタブとシャワー、浴室の壁はベンガラ塗り(ベンガラとはインドのベンガル地方に産する赤色の顔料)、天井は網代貼り(斜め45度に長方形の石を貼った形)、玄関や廊下の照明に近代的なほどこしが見られ、まさに明治・大正・昭和のモダンなロマンが漂う雰囲気だ。庭を背景に廊下(写真中)にテレビを置き、座敷に座る吉永小百合の“アクオス”(シャープ)のCM撮影が、ここで行なわれたそうだ。この廊下、半間は畳、半間は板の間、来客が多いので座敷に入りきれず、1間廊下に拡張したとのこと。このほか勝手・台所・かまどなども見せて貰った。土間の一画が下台所、上の板の間が上台所。そこにはまな板と飯台が兼用となっている大きな調理台、床板の1つを外すと地下への階段があり、床下は広い貯蔵庫となっている。一床、一柱、一窓のそこかしこから茂木佐平治家の往年の栄華と格式が偲ばれる見学であった。

キッコーマン本社(写真左)の隣に、ロマネスク(ローマ風)建築の『興風会館』(国指定登録文化財)(写真中)がある。昭和4年(1929年)の竣工時は、千葉県庁庁舎に次ぐ大建築だったそうだ。茂木・高梨一族は「これまでの会社の発展は地域社会のおかげ、会社は地域社会の恩に報いなければならない」という考えに立ち、「愛する野田の街に新しい風を興していこう」ということで昭和3年(1928年)に財団法人興風会を設立した。前記『旧茂木佐邸』開放以前の“CSR”(企業の社会貢献)の実践である。庶務主任の大高さんにご案内とご説明をいただいた。興風会の主な事業テーマは3つ――奨学金(無利子貸付)の育英事業、市教育委員会との連携で優秀教員・勇退校長、優良児童生徒、体育功労者、優秀選手等の表彰を行なうほか、青少年の健全育成を地域ぐるみで推進する義務教育振興事業、建物の中の施設・ホール(652席)(写真右)、小講堂、会議室、和室、地下ギャラリーなどを開放し、教育委員会や社会教育・社会福祉団体等と協力してさまざまな生涯学習(社会強化事業)を推進している。その日、たまたま地下のギャラリーで“野田美術会小品展”
が開かれていた。そこに集う人たち、皆、明るい笑顔に満ちていた。翁も署名に応じた。

 油の街・野田を代表するもう1つの名門・天保元年(1830年)創業の『キノエネ醤油』。
正門脇の伝統的木造建築の本社屋は明治30年(1897年)築。正面1階に事務所(写真左)、主屋は2階建て切妻造(写真中)、道沿いに続く黒塀に醤油の街の歴史の重みを感じる。敷地総面積33,700平方m、建物面積18,000平方m、それだけでも野球場のグラウンド(平均13,000平方m)よりはるかに広い。正面の工場(写真右)は大正10年(1921年)竣工で鉄筋コンクリート造りとしては野田市では最古のものではないだろうか。主屋といい工場の建物といい、黒塀といい、どれもが有形文化財に値する重要な歴史建造物、ということで2007年に『キノエネ醤油工場群』が国から“近代化産業遺産(館)”に認定された。

実は今回“野田訪問”の楽しみの1つに『キノエネ醤油』の山下和子会長にお会いすることがあった。ご案内いただいた友人・熊坂良雄さんの奥さん(牧子さん)と山下会長とは親しい間柄。数年前、山下さんが野田市のロータリークラブ(国際的な社会奉仕連合団体)の会長、同じ時期に牧子さんが流山市の同会長で、それ以来のお付き合いだそうだ。その牧子さんから「山下会長は、映画監督・小津安二郎さんの姪御さん」ということを耳にしていた。だから山下さんにお目にかかりたかった。

翁の映像製作はドキュメンタリーが主だったから被写体は役者ではない。相手は人間の時もあるが動物や自然が多かったから演出家(翁)の指示には従わないし、いついなくなるかも分からない、だから撮影は極めて忙しく構図決めも荒っぽくなる。ジャーナリスティック映像ではあっても芸術とは程遠い映像だった。しかし翁は本来、小津監督の落ち着いた画面づくり(ローポジションとフィックスの基本)を範としていた。小津映像のような深みのある作品を創りたかった。その憧れの小津監督と山下さんが叔父・姪の関係・・・「叔父は相手の身になって話をされる温か味のある人でした。母(小津監督の妹)も兄(小津監督)を慕っていました」・・・“誠実・責任・具体的行動目標“の社訓を掲げ、ご子息(山下博之社長)と共に創業180年の重い歴史を背負いながら社業の指揮をとるトップ経営者とは思えない温厚で物静かな山下さん、いつかこの人と伝統について、もの造りについて、人創りについて、そして小津安二郎監督についてゆっくり語り合いたい。ともあれ、熊坂夫妻にお世話になった『むらさきの郷』は、歴史の町、人情の町、教育の町、CSRの町、そして再び訪れたい町であった・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

今日ご紹介するのはウェストコーストを代表するピアニスト、Claude WilliamsonのRound Midnightです。このアルバムは彼の初期の作品で”名盤”です。
Bud Powell(1924/9/27-1966/7/31)とちょっと似ているところがあると思いました。
”白いパウエル"と異名をとるClaude Williamsonのこのアルバムはどの曲も文句のつけようのない素晴らしいスタンダードジャズアルバムです。バラードあり、アップテンポありと、何度聴いても飽きないアルバムです。
Claude Williamson "Round Midnight"
1. Stella By Starlight (Washington-Young)
2. Somebody Loves Me (Gershwin-DeSylva-MacDonald)
3. I'll Know (Loesser)
4. The Surrey With The Fringe On Top (Rodgers-Hammerstein II)
5. Polka Dots And Moonbeams (Burke-VanHeusen)
6. Hippy (H.Silver)
7. Tea For Two (Youmans-Caesar)
8. Stompin' At The Savoy (B.Goodman-Sampson-Webb-Razaf)
9. 'Round Midnight (Williams-T.Monk-Hanighen)
10. Just One Of Those Things (Porter)
11. Our Love Is Here To Stay (Gershwin)
12. The Song Is You (Kern-Hammerstein II)

Claude Williamson Trio
Claude Williamson (p) Red Mitchell (b) Mel Lewis (ds)
Recorded in Dec 1956

雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

三日連休だということをちょっと前に知りました。なんとなく得した気分です。毎日が日曜日になるとそんなことどうでもよくなるのかなあと思います。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.740

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com