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NO.739               Ryo Onishi              7/11/2010  

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雑貨屋のひとり言

今日は参議院選挙の投票日、FIFAワールドカップの決勝戦、そして問題の大相撲名古屋場所の初日と三つ重なっているのですね。誰に投票したらいいかわからないですが選挙にだけは行こうと思います。それにしても雨がよく降ります。安心しきっている都会の異常な降雨量は怖いです。ナメたらいかんぜよ、ですね。≪R.O≫

アメリカの弁護士(3)

 ――― 前号から続く ―――
 訴訟社会アメリカと言われますが、確かにアメリカ社会では訴訟事件は日常的に聞くことです。最近でも私の知人宅で飼っていた犬が、たまたま遊びに来た彼の友人に噛みついた事件があったそうです。そうしたら犬の飼い主である知人は、噛みつかれた彼の友人に訴えられたそうです。普段から仲の良い友人同士であっても、被害に遭えば先ずは訴えるというのがこちらの常識のようで、日本ではとうてい考えられないことでしょう。

 私は日本企業の駐在員として勤務していた会社を13年前に定年退社することになった時、聞きつけた複数の米人弁護士が私に接触してきました。彼らの目的は、私に自分の会社を訴えろ、ということでした。私は日本人駐在員でしたので、日本の就業規則上の定年制度にのっとり、退職することになったのですが、彼ら(米人弁護士)にいわせれば、「アメリカには年齢を理由とした解雇は差別であり、法的に無効とすることが出来る。お前がその気になれば、私がお前の会社から最低でも1ミリオンドル(日本円換算;約1億円)くらいは勝ち取ってやるが、どうか」といった提案でした。

 アメリカでは雇用において年齢、性別などによる差別は一部例外を除き、厳しく法律で禁じられています。したがって日本的な定年制度は原則としてありえません。私の勤務していた会社も、日本企業の現地法人といえ、アメリカ・カリフォルニア法人であり、米国法のもとで設立された会社である以上、たしかに彼ら米人弁護士の言い分は正しいのです。

しかし、私はやはり日本人でした。昨日まで在籍し、お世話になった会社を訴えるなどとても考えられません。私は「会社を訴えろ」と誘われるたび「ノー・サンキュウ」と答えました。そうすると彼らからは「ホワイ(なぜ)?」と聞いてきます。私は答えました。「ビコーズ・アイ・ラブ・マイ・カンパニー」・・・。これまた、いかにも日本人らしい答えです。退職した会社を「マイ・カンパニー」と呼んでいること。その会社を「アイ・ラブ・・・」と金銭的損得を感情論で処理していること。――― 私にしてみれば、たとえ1ミリオンドル獲得したとしても、自身のプライドが傷つくだろうし、周囲の日本人仲間からの顰蹙(ひんしゅく)に耐え、割り切って生きられるか、とうてい自信がないのでした。

 これまた、私がビジネス現役時代、あるビジネス関係のパーティに参加し、たまたま米人弁護士(男性)知り合いになりました。雑談会話の中で彼の夫人も弁護士であることを知りました。弁護士同士で結婚したのだそうです。そこで、私はかねてから秘めていたひとつの疑問を彼にぶつけてみました。

 「アメリカでは、結婚するとき、お互いに結婚に関する契約書を作成し、取り交わすことがあると聞きますが、弁護士同士の結婚であるあなた方ご夫妻は、その種の契約書を作成しましたか?」それに対し、「私たちは職業弁護士です。当然、契約書を作成しました」「因みにその内容、項目はは?」これに対し、彼はこと細かく項目を教えてくれました。そして驚いたことに、項目の中には、将来、万一離婚したときの手続きまで入っているのです。

 「あなた方は、愛し合って結婚されたのではないのですか? なぜ離婚のことまで書かなければならないのです?」――― 私の質問に対し、彼は平然と答えました。「あなたもご存知かもしれませんが、ここカリフォルニア州では夫婦の離婚率は50パーセントを超えているのが現実です。現実の社会全体がこのような状況である以上、弁護士を職業とする私たちは契約書から離婚条項を外すわけにはゆかないのです。多分私達には必要ないでしょうが・・・」――― 「多分私達には必要ないでしょうが・・・」とつけ加えたのは少々ご愛嬌に聞こえました。
        ――― 次号へ続く ―――
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「終(つい)の住まい」その3

“お薬手帳”

「“お薬手帳”はお持ちでしょうか?」と、調剤薬局で薬を受け取る際に訊ねられる。私は大きな声で「はい、お願します」と差出し、薬剤師に処方記録シールを貼ってもらう。それはまるで、幼い頃、ピアノの先生や学校の先生からもらう“よくできました・ニコニコ”シールを貰って喜んだ子どもみたいで、心のどこかで『ちょっといいこと(正しいこと)をしている』という自負と安心感がある。私は2005年から始めたこのお薬手帳、今年1月から義両親にもそれぞれに記録・管理を始めてもらった。

昨年の2009年12月24日、40度を超す発熱などで、救急車に乗るも千葉西総合病院から受け入れを断られ、おおたかの森病院へ搬送・入院した義母は、抗生物質入りの点滴を打っても、解熱せず、また体内の炎症を示すCRPや多機能の不全を示す値もかなり高く、一向に好転は見られなかった。それらの原因がどうしても明確にならない日々が続きヤキモキしていたが、丁度入院5日目を迎えた時、大きな突破口が見つかり、状況は急遽好転できた。それは義父がおおたかの森病院の担当医へ手渡した、ひとつの大きなビニール袋いっぱいにつめこまれた、約1カ月分の薬。まさに救急車での受け入れを拒否したあの千葉西総合病院から処方されたもので、18年前からずっと、母が服用し続けている薬なのだ。しかし、どうも薬の残数が合わない。そこで母に確認すると、千葉西総合病院の循環器の医者から「もう服用しなくていいよ」と言われたので今はもう薬はのんでいないという。その薬を調べたところ、内科及び循環器科から処方された約7種類の内服薬と1種類の頓服があり、中でもおおたかの森病院の医師が注目したのは、プレドニン7ミリグラム、ステロイド薬だった。

ところで、このプレドニンは、プレドニゾロンという成分をもつ製品名で、炎症や免疫を抑える作用があり、アレルギーや喘息、リュウマチや膠原病、結膜炎や角膜炎、白内障や緑内障等をはじめとする病気に効果があると言われている。このような作用や効果については、薬剤師でなくても、ある程度の病院にお世話になった経験のある人、私みたいなものはだいたい知っているほど、ステロイド系としてはよく耳にする製品である。問題は、作用や効果、そして副作用について知っていても、服用を急にやめた時の反発症状とその危険性について知っている人は少ない。これが、大きな落とし穴。プレドニンを長期服用していた母、7年ほど前は15ミリグラムのプレドニンを処方され服用し、つい数年前から減量したというものの、毎日7ミリグラムを服用していた。それが突然、服用を止めてしまったものだから、血液検査による白血球とCRPの値が異常値を示し、全身の筋肉や血管痛、40度超の発熱、心室頻拍、そして意識・認知度の低下及び混乱が反発症状として出てしまった。それは心臓ショックを起こす寸前だったと推測された。これはまさに、『プレドニンの長期服用者が突然服用を停止することから起こる拒否症状で、極めて危険な事態を引き起こす』そのものだった。抗生物質投薬でも全くの回復効果が見られなかった母は、幸い、プレドニン服用を再開したことで見る間に回復できた。皮肉にも、受け入れ拒否をした病院から処方され続けていた薬こそが、母の回復へのヒントとなり、回復薬となった。遠回りをした感はぬぐえなかったが、母が退院した1月3日は「やっと我が家にも新年の喜びの挨拶を交わせる日が来たね」と、遅ればせながらの正月を祝ったものだ。

さて、そんなこんながあってから、薬についての基本的な知識や理解と同時に、今まで以上に自分、そして家族の薬歴と管理について、真剣に把握するようにした。そのひとつが、2005年から始めていた“お薬手帳”の活用を義両親にも勧めることだった。幸い、今年2010年になってから、義両親の調剤薬局や病院で薬を受け取りに行くのは私だったので、薬手帳にシールをもらう作業のスタートはスムースだった。義母が救急車へ乗り込む時に持たせてさえいればと悔やまれる“お薬手帳”、今では義両親がお世話になっているホームの健康管理部の看護師さんが私の後を引き継ぎ、活用・管理してくれており、転院や通院に役立ててもらっている。“お薬手帳”へのシールは、少ないに限る。しかし、備えあれば憂いなしと、呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

雨降って固まる前に地が崩れ

酸性雨悔しさ倍のテル坊主

酸性雨河童ますます人嫌い

梅雨空もなんの元気な万歩計

雨滴にしばしショパンの耳を借り


( ニュースやぶにらみ )

「最後のお願い」
投票が済んだら忘れてください −マニフェスト

「人の噂も75日」
来場所の相撲中継は? ーNHK

「遅配への苦情」
ぜひお手紙で −郵便事業会社

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

森田さんから

お茶飲み友だち( 3 )
 森田のりえ
毎日のように熊に出遭っていたというお茶飲み友だちがいる。一九六〇年代の五年にわたる毎夏の二、三ケ月間。場所はカナダ西部にあるバンクーバー島北部。人里離れた森林にテントを張り、地質学に若き日の情熱を注いだ人の話である。
山のなかでの一人暮らしは、時たまパルプ材の伐採業者に出会う他は熊や鹿、エルクなどの野生動物のみ。夜になると、トランジスター・ラジオにしがみつき、時々聞えたり聞えなかったりするNHKの短波放送に聞耳を立てる。昼間はリュックを背負って山を歩き、地質図を作り、石を集める。原生林は空間があるので歩き易いが、伐採された地域は若木が密集しているので歩き難い。見通しがきかず、雑木をかき分けて進んでいると、突然、熊に出遭う。その間隔十メートル余り。熊も驚いてこっちを見る。お互いに怖いので睨めっこになる。この辺りに生息する熊は、果実などの食糧が豊富なため、ヒグマほど凶暴ではなく、比較的大人しい黒熊である。
「危害を加えないことが分かれば、熊の方から逃げていきます」
何事もなかったような口ぶりに、
「本当ですか? 襲われそうになったことは一度もないのですか」
と、疑わしそうに問い返すと、
「不思議と怖いと感じたことはありませんねぇ。毎日熊と遭っていましたから、対処のしかたを知っていました」
 だが、小熊をつれた熊はこうはいかない。危険を察知した小熊はすばやく木に登る。しかし、親熊は重いので登れず、小熊を守ろうと木の周りをうろつく。その場合は絶対に威嚇せず、そっと近くの切り株に登り、熊が遠ざかっていくまで一時間でも二時間でも静観するしかない。チェンソーのない時代は木に穴を開けて足場を組み高い位置から二、三メートル長さの鋸を使い、二人がかりで切っていた。その足場跡の穴に足をかけて登る。
時には、尾根伝いに遠くまで行き野宿をする。ビニール・シートの端を木に括りつけ、屋根型にテントを張り、木の葉を敷き詰めて寝る。食糧が尽きると湖で魚を釣る。釣り糸を垂れるとどんな餌でも喰らいついてくる。野生のウズラは人間を見ても逃げず、のらりくらりと歩いている。小石投げて撃ちとめ、食べていたなどと、ユニークな体験話を聞かせてくれるのである。
「リッュクに石を詰めると、重かったでしょう? どのように持ち帰ったのですか。その石は何のために集めたのですか?」
 などと、矢継ぎ早に尋ねる。
「博士論文を書くためのデータ集めでした」
大学の研究室へ持って帰り、薄片にし、または粉にして、どのような鉱物が含まれているか顕微鏡で調べる。そして、海底火山で生まれた火山岩の変性過程を調べ、プレート移動理論を裏付ける証拠にもなったという。
交換留学生のJ-1ビザだったため、卒業後は二年間、国外に出る条件がついていた。だが、アメリカ女性と結婚をしていたためにアメリカに留まりたいと思い、カリフォルニア州の上院議員に歎願の手紙を書いた。すると例外的な条件で、滞在が可能になった。
「政治家としては当然の行為でしょうが、議員は選挙区の住民のために働くのが務めですから、大いに利用すべきです」
かざり気のない話し方だけれども、非常に興味をそそられる話題である。
専門知識を活かした政府機関に長い間勤め、三年前からリタイヤ生活に入った。
仕事柄、国立公園などの雄大な自然を眺めるが大好きで、行く時は声がかかる。私は、ウィドウ仲間を誘って同行する。下調べをした地質学者の説明付きは、最高である。
山へ行く時、彼はいつも腰にハンマーをぶら下げて出かける。ハンマーとコンパス、ルーペは地質屋の三種の神器だそうだ。
ハンマーで岩を割り、破片を眺め、唾をペッと吐きかけ思慮深そうな顔をしてポケットからルーペを取り出して見ている。
「フゥーン、ウン、ウン」と、呟く。
「なにが見えるのですか。どうして唾を吐きかけるのですか」
分からない専門用語は、私の頭のなかを素通りする。覚えられない。同じ質問を何回しても、飽きもせず丁寧に教えてもらえる。
「自然を眺めると、悠久な時の流れに見事な景観を作り出した人間以上の何者かを感じます。そして、謙虚な気持ちになります」
 と、お茶飲み友だちはいう。
これまで無味乾燥だと思っていた荒涼とした大地にも壮大な躍動のドラマがある。聞けばきくほど、面白くなってきた。
               おわり

龍翁余話

龍翁余話(138)「むらさきの郷を往く」(その1・ハーレムの思い出)

国内にいると、殆んど気づいたり思いを巡らせたりすることがなくても、外国に行くと、ふと、日本人であることを意識させられたり、日本人であることの喜びを感じたりすることが、けっこう多い。以前“日本人に生まれてよかった”というコマーシャルがあったが、特に、外国で日本の伝統的食文化(例えば、ホクホクご飯、味噌汁、漬け物、お茶漬け、醤油など)に出会った時、本当に“日本人に生まれてよかった”を実感する。

翁が(テレビ番組取材で)海外を多く飛び回っていたのは1980年から2000年にかけての20年間だった。海外と言っても取材先の多くは皆さんが出かける観光地ではなく、ジャングルなどの秘境、山岳(少数)民族の集落、忘れ去られた古代遺跡、麻薬栽培などの無法地帯、反政府軍(ゲリラ)駐屯地など、どちらかと言うと“危ない地帯”。1983年の夏、翁、1人でニューヨークのハーレム(黒人の街)を60日間うろついたことがある。当時、この地は観光ルートからはずされていた“危険地域”であった。ある日の昼下がり、おなかを空かして、とある小さなレストランに飛び込んだ。ビールを飲んでいた、プロレスかボクシングの選手くずれのような黒人の大男たち4、5人のギョロ目が、一斉に翁を射る。ランチタイムを過ぎているから、そこにたむろしているギョロ目たち以外、客はいない。そのギョロ目たちに背を向ける位置のテーブルの椅子に座った。ウエイトレスもウエイターもいない。黒人の女主人が巨体を揺すって注文を聞きに来た。が、翁、メニューが分からない。「何でもいい、とにかく空腹だ」と言ったら、その女主人、コーヒーを注ぎながら突然「あんたは日本人か?」と訊く。翁「そうだ」と答えた。質問は続く「ザマを知っているか?」「ザマ?東京の隣、神奈川県の座間市のことか」と訊き直したら「そうだ」と言う。この女主人(ベッティ)の父親が朝鮮戦争(1950年6月25日〜1953年7月27日)の時、座間キャンプに短期間、駐留したことがあるそうだ。

やがてベッティ、厨房からコーンブレッド5枚入りのバスケットとバターケース、それにサニーレタス、キュウリ、トマトなどを無造作に放り込んだサラダボウルを運んだ。翁、早速、コーンブレッドをほおばった。驚いた、空腹時とは言え、こんなに美味いパンは初めてだ。立て続けに3枚平らげた。その様子を見ていたベッティ、奥から(草鞋のような)大きなチキンのテリヤキと一緒に、またコーンブレッドが5枚入ったバスケットを持ってきた。翁、以後、コーンブレッドの虜になるのだが、それはさておき・・・

ベッティが唐突に、翁に「ジャパニーズ・ピクルス(日本の漬け物)を食べるか」と訊いた。ニューヨークの、しかも黒人の街で”日本の漬け物“と言われても、ピンとこないし、訳の分からない物は口にしたくない。しかし、大男たちのギョロ目も気になる。仕方なく「漬け物は好きだよ」と言ってしまった。するとベッティ、ニコニコしながら、奥からナスとキュウリの漬け物を、小皿に入れて持ってきた。更に驚いたことに、小瓶の醤油瓶も運ばれた。ラベルには「All Purpose Seasoning(万能調味料)Kikkoman(キッコーマン)と印刷されている。翁、思わず「おう、ショウユ」と日本語を発した。「イエス、キッコーマン、美味しいよ」・・・今でこそKikkomanは世界的に知られるようになっているが、当時は(日系アメリカ人以外の)一般家庭で、醤油を常備する習慣は、まだ無かったように記憶する。ベッティの漬け物は、いわゆる”浅漬け“、それに醤油を少しかけて、恐る恐る口に入れた。ン?これはいける!どころか、実に美味い!「感動した!」は、小泉首相より翁の方が早い。翁の顔がほころんでベッティに親指を突き出した。彼女も嬉しそうに微笑を返した。それにしても漬け物と醤油に感動し”日本人に生まれてよかった“を(大袈裟でなく)実感したのは、多分、その時が初めてだったろう。何十年と馴染んで来た(日本人としては)ごく当たり前の食文化なのに・・・

ベッティの父親が、漬け物と醤油の味を”ザマ“から持ち帰り、こうしてベッティまでが(黒人の街・ハーレムで)日本の食文化を受け継いでいる。嬉しいではないか!翁とベッティのやりとりを観ていたギョロ目の大男たちの顔にも笑みが浮かび、1人、2人と翁に話しかけるようになった。気づかなかったが、男たちのテーブルにも”浅漬け“と醤油瓶が置かれ、ビールのつまみにしていたようだ。翁の下手くそな英語で知ったかぶり醤油談義が始まる。日本の醤油は300年の歴史があること、日本各地に醤油メーカーがあること、東京の隣、千葉県に、キッコーマンやキノエネ(野田市)、ヤマサ、ヒゲタ(銚子市)という有名醸造会社があること、日本の食卓に醤油は欠かせない調味料であること・・・

ハーレムでの思い出に耽っている翁を乗せて、熊坂良雄さん夫妻(前号でもご紹介した音楽家)の車は、流山街道を野田に向かって快調に走る。27年前“知ったかぶり醤油談義”をした翁だが、実は、『むらさきの郷・野田』を訪れるのは初めてだ。運転は夫人・牧子さん(ソプラノ・オペラ歌手)。各地のステージに立ち、磨かれた歌唱力と人間的魅力で多くのファンを持つ歌姫・熊坂牧子が今、ジーパン姿で、翁のためにハンドルを握る、何とも申し訳ない気分だったが、それも束の間、野田市に着くや牧子さんの親切なガイドに甘えてしまう。夫の良雄さんも、どうやら野田市についてはあまり詳しくなかったようで、翁と同様、“牧子先生引率の見学生徒”の態だった。その“見学記”は次号にて。

翁がニューヨーク滞在中は、ハーレムの“ベッティ・レストラン”が食事処兼休憩処になった。ギョロ目の若者たちとも仲良くなり、翁の取材の手伝いもして貰った。黒人たちの血の流れに、日本人と同じ義理・人情の深さがあることを知る。思いがけなくも、熊坂夫妻のお蔭で昔の思い出を手繰ることが出来た。ベッティやギョロ目たちは元気だろうか?“ジャパニーズ・ピクルス”は健在だろうか?いつかまた、ハーレムを訪ねたい、そしてあのコーンブレッドを食べたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

私の週末はジャズ探しから始まります。
候補のアルバムをリストしてあるのですが、その日の気分や、直近に聴いたアルバムが良ければそれをご紹介しています。
今日はリストしてあったアルバムの一つをご紹介します。
私の好きなピアニストの一人、Bill EvansのAloneというアルバムです。
このアルバムはその名(Alone)の通りソロのピアノ演奏でBill Evansの素晴らしいピアノ演奏を楽しめます。Bill Evansはこのアルバムを録音する前に恋人と別れたらしく、ピアノの音がすこしさみしく聞こえます。Aloneの意味はこちらのほうなんでしょうか。
Never Let Me Goは14分40秒のとても長い曲で、聴きごたえのあるピアノです。

Bill Evans / Bill Evans Alone
1.Here's That Rainy Day
2.Time for Love
3.Midnight Mood
4.On a Clear Day (You Can See Forever)
5.Never Let Me Go
6.Medley: All the Things You Are/Midnight Mood
7.Time for Love

雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

執筆者のみなさんいつも原稿を送っていただき本当にありがとうございます。今週はフルメンバーの原稿が揃いました。うれしいです!

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.739

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com